2008年01月07日

愛知地域労働組合きずな裁判<専従書記長を名乗る大竹信彦さんの陳述書>

 昨年2007年の世相は「偽」。
偽装、偽造が日本列島を覆いました。労働界でも偽装請負や二重派遣が今年も働く人々を苦しめています。

「愛知地域労働組合きずな」=労働者を助けるはずのこの地域労組も、やはり「偽」の労働組合でした。

ばれなければいいという浅ましさで、自組合ときずな共済会の決算書を偽造し裁判所に出す、多額の保険料水増し払いや消えた97万円は知らぬ存ぜぬで虚偽決算を隠蔽し、挙句に疑惑を一般の組合員になすりつける醜さ。

 専従書記長を名乗る人物はうその陳述書を書きつらね、組織の暗部があぶり出されても、いまだ裁判総括も謝罪もない「愛知地域労働組合きずな」役員執行部。
 不正やゆがみを正して、この労働組合執行部の「偽」を「真」に変えるため、本年もご支援ご協力をどうぞお願いいたします。


 きずな陳述書
 愛知地域労働組合きずな裁判では、組合専従・書記長を名乗る大竹信彦さんから陳述書が出されましたが、その内容が、①作り話やでっち上げなど虚偽に満ちたものであること、②裁判とは無関係な方々のプライベートな内容記載がある、などの理由でインターネット配信は控えてきました。
 しかし、被告「愛知地域労働組合きずな」執行部が、どのような虚偽を書きつらねていたかを検証し、どのようにして「きずな」職員の不当解雇が企てられたのか、事件再発防止のためにはどうするべきか確認したい、との電話やメールを多数いただいています。
 そこで、被告大竹信彦さんの陳述書、そのあとに原告合田氏の反論陳述書を並べて掲載することにしました。原告合田氏の反論陳述書の真実性は、この三ヶ月後に被告「きずな」が合田氏の要求を全て認める=認諾を行ったことで、きっぱりと証明され、愛知地域労働組合きずな執行部は裁判に完全敗訴しました。


ごらん下さい。→きずな大竹陳述書.pdf

<ご注意>
 大竹信彦さん陳述書には相当数のまちがいがあります。
1. 表紙右上の「乙21号証」は「乙24号証」のまちがいです。
2. P14下部に意味不明の星マーク(★)が出ています。
3. P5 タイトル番号がだぶっています。
4. 文中に意味不明の語句が散見されます。例)P13 下から6行目の「上記の三点」等。 
 原告合田氏の反論陳述書です。この提出直後に、被告「愛知地域労働組合きずな」が合田氏の請求を全て認める=認諾を行ってきたことで、その真実性がきっぱりと証明されました。

 また、合田さん側は、和解協議に応ずる用意があることを示したのに、「きずな」は何の返事もせず、証人尋問の直前に裁判を取り下げ(=認諾)ました。愛知地域労働組合「きずな」は完全敗訴した後、沈黙を続ける一方、勝訴し復職した合田さんに、卑怯にも嫌がらせを続けています。


陳 述 書
                           平成18年4月15日
名古屋地方裁判所 御中

                      住所  

                      氏名  合田 亨子       

 
被告「愛知地域労働組合きずな」書記長大竹信彦さん(以下、大竹さん)名の陳述書(乙23号証) に反論し、真実を陳述します。

第1 大竹陳述書第2項「2003年7月以前の合田享子さんについて」(1P以降)の反論
1  「(1) 合田さんの採用経緯」への反論
   1995年、当時の副執行委員長加藤健二さんから言われたのは、「きずなの活動に協力してほしい」ではありません。「きずなの事務所で働いてほしい」と言われ、同年4月から被告組合の事務所で働き始めました。履歴書を提出し、労災保険に加入し、雇用条件書を交付されるなど、一般企業が労働者を雇い入れるときと同様の手続きをとりました。保険加入の前に、加藤さんから「社会保険は希望しますか」と尋ねられたので、夫の扶養に入っているため厚生年金と医療保険は不要であったので、雇用と労災の労働保険だけへの加入を希望しました。就労時間が足りないため、雇用保険の方は入れませんでしたが、1996年1月に、組合執行委員長石川悟さんを事業主として、私は労災保険の被保険者となりました。(甲7) 
   この加入は、同年同月に開催された組合の本部執行委員会で報告され、その議事録にも記載されました。被告組合の機関会議において、労働保険加入という労働者を雇い入れるときの義務と手続きが承認されています。このことからも私と被告組合との間で雇用契約が成立しているのは間違いがありません。

2 「(2) 合田さんの就労実態について」反論
(1) 中央委員会への出席について
   勤務してまもなく、加藤健二さんから「時間給を払うので、都合がつけば本部執行委員会と中央委員会、両方に出席して下さい。」と言われ、両方出席していました。しばらくして、当時の専従の河井さんから、二つの会議の内容は大体同じなので、中央委員会だけの出席でいいよ、と言われ、それから中央委員会だけに出席するようになりました。河井さんから、「会議中に私語が多いから出席を遠慮せよ」と言われたことなどありません。
その後、妊娠を繰り返し、中央委員会のある日曜日などは家で過ごすようになり、遠ざかるように中央委員会に出席しなくなりましたが、誰からも何も言われませんでした。
  むしろ、産休明けに出勤してきた私に、加藤さんは「育児、大変でしょう。大会とかも無理して出なくていいから」とねぎらってくれたくらいです。当時は私が会議に出席しないことを問題視するどころか、状況を理解していただいていたと感謝していました。

(2) 1999年の昇給について
  1999年、執行委員長石川さんに、勤めて5年になるので、時給を5円でも10円でもいいから上げてほしいことを告げましたら、電話があり、名鉄国府宮駅前の喫茶店モンシュエルで会いました。石川さんは、「いつも事務所で働いてくれてありがとう、助かっているんだ、ぜひ賃上げできるよう努力するから待っていて下さい」と言い、同年秋の定期大会の日の夜、「昇給が今日の大会で承認された、いつもありがとうございます、これからもよろしくお願いします」と電話があり、その年の10月から、時間当たり5円や10円ではなく50円もの昇給が実施されました。

第2 大竹陳述書第3項「2003年7月以降の合田さんについて(2P以降)」の反論
1 「(1) 加藤副執行委員長による意向聴取」の反論
 (1) 2003年5月、加藤さんから退職勧奨を受けたとき、大竹さんが陳述書で書いているような「個人の判断で電話をしている、くれぐれもこの場だけの話にして下さいね」というような前置きや念押しはありませんでした。むしろ、「来年度の予算を立てているんだけど、合田さんの給料分がたてられない、このことは言いにくいことなので誰も言いたがらなくて、結局僕が話すことになったんだけど」というような前置きがあり、「きずなを辞めて愛知共済会で一年契約のアルバイトで働きませんか」と聞かれ、私はお断りしました。
  後日、加藤さんから「これからも合田さんに働いてもらえるよう、委員会で決定しましたから、よろしくお願いします。」という機関会議の決定による返答をもらったので、この退職勧奨は加藤さんの個人的な意向聴取ではありません。
  また、①組合員が年々減少し、組合費収入も減り続けている、②河井さんの退職に伴い愛知共済会からの専務理事手当も入らなくなる、③組合員のカンパで積み立ててきた闘争資金やきずな共済からの借り入れも限界である、ということは言われたことはありません。

 (2) 大竹陳述書P3の11行目に「闘争資金を取り崩したりで何とか経常財政をやりくりしてきました」とありますが、闘争資金を取り崩してきずな共済会に借入れの返済をしたのが事実であり(乙8)、経常財政をやりくりするための取り崩しではありません。
  きずな共済会からの借入れについても、これを経常財政のやりくりのためだとするのは疑問があります。2004年4月30日時点の借入れ額は1,395,712円となっていますが(乙19)、私の陳述書(甲9)でも述べましたが、このうち、99万円が専従者への一時金支払いに充当されたのであって、経常財政のやりくりのためだという説明はやはりつきません。
 「2002年度当時の経常財政は不確定な収入に頼らざるを得ないという苦しい状態」(P3、9行目)だったからこそ、この2002年に、組合員が真剣に考え討議を尽くし、合意の上、どんなときでも専従者の賃金を保証できるようにと専従者生活補償基金を創設したのです。(乙17)

2 「(2) 合田さんによる「解雇」という宣伝」の反論 
(1) 2003年5月、加藤さんから退職勧奨をされ、雇用不安を感じた私は、心安い組合員たちに事実を知らせ、相談しました。彼らは「大変だね、財政の事は全組合員が考えていかなければならないね。」、「心配だろうけれど力を落とさず頑張って」等励ましをいただき、お礼を言った事を覚えています。ただそれだけのことで、組合に混乱をもたらしたというのは事実ではありません。
  しかし、まもなく加藤さんから強い口調で叱責の電話がありました。このとき、私が「解雇すると言ったも同じこと、私の組合員としての活動を邪魔しないで下さい」と激しい口調でまくしたて、一方的に電話を切ってしまったと大竹さんの陳述書では言っていますが、これは事実ではありません。私は、突然の加藤さんからの電話に驚きましたが、私の雇用や財政の問題は組合員全員のものであるから、多くの組合員さんに事実を知らせ、共に考えてほしいと願っている、と説明すると加藤さんは「そうですかね」と静かに電話を切りました。
  後日、尾西支部役員の長坂昌彦さんから、本部執行委員会で合田さんの雇用継続を強く訴えておいた、と報告してくれたので、私の退職勧奨撤回に関して長坂さんの尽力があったと認識しています。

 (2) 退職勧奨の後、加藤さんから「雇用を2004年4月30日までの1年間として下さい。2004年以降も雇用が継続できるよう組合の総力をあげて大幅な組合員純増をめざして努力しますから、合田さんも組合前進のために協力して下さい」(P5、2行目)、と電話で伝えられたことはありませんし、「私は期限の定めのない労働者です。今、この場で2004年度以降の雇用も約束して下さい。」と詰め寄ったこともありません。ましてや「2004年度以降の雇用については約束できません。そうできるよう努力はします。」と伝えられもしませんでした。
加藤さんが言ったのは、「何とか予算を組み、これからも合田さんに働いてもらえるよう委員会で決定しましたから、よろしくお願いします。」というだけでした。
  雇用期間については、同年8月の尾西支部会議で雑談の折、加藤さんから「一年契約にするのはどうですか」と聞かれ、その場でお断りしています。

 (3) 当時、私は組合の決算がこれほどずさんだとは知らなかったため、組合員数が減り、多額の専務理事手当がなくなることが組合の財政に重大な事態を招くことは(P5、11行目) 組合の問題と捉えていました。組合全体がその問題を考え、話し合い、解決を見出す努力をしながら、他方で、組合から給料を受けている大竹さんと私の二人の専従者が財政難を分かち合う努力もするべきだと考え、愛知共済会専務理事手当がなくなることを心配した私は、2003年8月に石川委員長、同年12月頃に財政部長安井さんに一時金の返上を申し出ましたが、「来年から大竹君はやるから、気を使わなくていいから」と断られました。
組合全体の問題として財政問題を考えることなく、そこのところから視点をそらせ、パート専従者の私だけを退職勧奨し、この度の整理解雇を強行することは短時間労働者へのまぎれもない差別であって、そのような差別をまさに否定している被告組合がするというのは自己否定ではないでしょうか。

第3 大竹陳述書第3項「 2003年7月以降の合田さんについて(P5以降)の反論
1「(1) 一緒に仕事をし始めた当初について」の反論
  2003年7月に入り、私が出勤していて最初に大竹さんが事務所に来た7月2日、大竹さんは朝の挨拶だけで自分がこれからこの事務所で働くということを私には言いませんでしたが、加藤さんから、そのことを聞いて知っていましたから、早速彼にこれからの新しい仕事の割り振りについて尋ねました。大竹さんは、「あなたの新しい仕事の割り振りについては三役とあなたとで決定するから、今僕が言うことは出来ない」と言いました。そこで正式に仕事が決定するまでは自分のルーティンワークをしていようと思い、そうしていました。大竹さんは私のする仕事に何も言いませんでした。
ある日、仕事中に大竹さんは突然、私が今の夫とどこで知り合ったのか尋ね始めましたが、大竹さんが専従になるずっと以前に大竹さんが一人で事務所に来て、仕事中の私に対し、私の容貌や個性について感想を述べたことがあったので、仕事中は個人的なことは聞かないでほしいと言ったことはありました。
  大竹さんは、私が前専従の河井さんのことを「あんなに高額な一時金をもらっている専従者はこの労働会館にはいない。労働会館では河井さんのことを良く思っていない人もいる」などと悪口を言ったといいますが、全くの事実無根です。また、この年、7月初旬に私の父が亡くなり、葬儀や法事で多忙でしたが、子供の保育園をあまり多く休ませるわけにもいかず、私の7月の「きずな」への出勤は2、3日ではなく(P5、下から4行目)、6、7日はあったと思います。

2 「(2) 合田さんの組合提訴発言について」の反論
  2003年7月27日の尾西支部大会会場で、大竹さんの顔を見るなり「なぜ大竹さんが来ているの。好きなことが言えないじゃないの。」(P6、上段)と言ったと言いますが、これも嘘です。「6月になって、また同じ本部の役員から電話があり、一年契約にしてくれないか、と言われました。有期の雇用契約を結んだつもりはなく、無期の雇用契約できました。弁護士にも相談しましたが」と言ったと大竹さんは言いますが、この時点で、私は誰からも「一年契約にしてくれないか」と言われたことはないので、この様な発言をしたことはありません。
当日は、大会での私の発言を組合員も来賓の方も静かに聞いてくれ、会が混乱することは全くありませんでした。大竹さん自身も黙って聞いていました。当日の大会の休憩時間や終了時においても誰からも非難を受けたり、注意をされたりしたこともありませんでした。
 
3 「(3) 合田さんとの関係悪化の経緯」の反論
(1) 支部大会の翌日、事務所で、大竹さんは朝から私の顔をニヤニヤして見るだけで一言も口をきこうとしない意味不明の態度をとっていましたが、私はいつもと同様に自分の仕事をしていました。頻繁に席を立つなどして大竹さんを避ける態度などとっていません。(P6、下段) 午後4時を過ぎて、軽く掃除をし、ポットやコップなどを洗って自分の机に着席し、机回りを片付けていたところ、突然大竹さんが席を立って、私の前の机の椅子にドスンと大きな音をたてて座り、座るやいなや、大声で怒鳴りはじめました。いきなりのことで、よく覚えていないのですが、最初の一声は、「昨日の発言は何だ、どういうつもりだ」という内容だったと思います。ガンガンとがなりたてるように、大竹さんは大声を上げ続けました。事務所は二人きりだったので怖くなり、大竹さんが怒鳴りつけた内容や、こちらが何を話したのか、よく覚えていませんが、終わりのほうで大竹さんが「ぼかぁ、きずなを愛してるんだぁ」と叫んだことを覚えています。大竹さんの顔と頭頂部は赤く変色し、その形相は異様でした。両手に拳を握っていたのが目に入り、つかみかかられるのではないかという恐怖を感じていました。
  終業時刻の4時15分を待って、飛んで逃げるように帰りました。当然、帰り際に「以前、私と主人の馴れ初めを聞いてきたけど、すごく気分が悪かったので、これからはそういう話は二度としないで下さい」と吐き捨てるように言ったりしていません。そんなことを話す余裕はありませんでした。帰るときには、夏でしたからその日はコートや上着を羽織らず、立ち上がって身支度をしないで、着席のまま、隣の椅子においてあるハンドバックを手を伸ばして取り、そのまま部屋を出ました。(P7、11行目) 「席を立ち帰りの身支度にとりかかりました」という大竹さんの記述は偽りです。

(2) 翌出勤日の7月30日(水)は父の月命日準備のため休む予定にしており、予め事務所内にある予定表に記入していました。勤務の休み・遅刻・早退などについて予め分かっている場合は、前専従の河井さんと私は、口頭やメモ、留守電、予定表記入などで事前報告だけするという原則になっていました。大竹さんも同様に予定表に記入して休みをとっていましたから無断欠勤ではありません。怒鳴りつけた後、大竹さんは私と口をきこうとせず、事務所にいるときは私と目を合わそうとせず、黙々とワープロを打っている事が多かったように思います。

(3) 事務所のエアコンとドアについて
  電気代の節約のため、エアコンのスィッチはつけたり消したりしていました。ドアは、大竹さんが来るずっと以前から、ほぼ通年、開けていました。大竹さんはエアコンやドアについて何も言いませんでした。

4 「(4) 合田さんの就労実態について
(1) 前述のように、大竹さんに仕事の割り振りについて尋ねたのは、大竹さんと事務所で最初に顔を合わせた2003年7月2日です。そのとき、大竹さんは「あなたに行ってもらう業務については、まだ決まっていない。今、三役と各担当者で協議をしているから」ではなく「それはあなたと三役とで決めることです。僕が今どうこう言えない。」というようなことを答えました。
  大竹さんが専従になる前、加藤健二さんから「今度、専従が代わるし、石川悟委員長、大竹君と僕とあなたと会って、あなたの仕事の内容や割り振りを決め直そう」と言われていましたので大竹さんがいうのも理解できましたので、私と三役とが話し合って仕事内容を決めるのだと思っていました。
  7月20日の本部執行委員会で私の業務について今後、明確にしていくことが決まったとか、大竹さんの指示に従って業務を行うように言われたことはありません。この部分の大竹さんの陳述は信用できません。

(2) 私の陳述書(甲9)で挙げた仕事のやり方は、ほとんど河井さんから教えてもらったものです。河井さんは事務所の仕事やパソコン操作を把握し、その多くを一人で切り盛りしていました。「河井さんが多忙であったため、本部で事務を手伝う人がいることが望まれたから」(答弁書、P4、上段)、私が採用され、そして事務を手伝われる河井さんが、手伝う私にそのやり方を教えたのは当然のことでした。河井さん以外の役員たちは、平日の昼間、仕事があり、平日の昼間が勤務時間である私に仕事を教えることはほとんどありませんでした。大竹さんから機関紙読者の更新データの打ち込みを依頼されたこと(P8、下段)はなく、従って「加藤さんに聞くからいいです。」と言ったこともありません。更新データの打ち込みは河井さんから教えられた私のルーティンワークの一つであり、データの件数がある程度たまってきたら、自分で判断して、まとめて入力していました。
  約9年間の勤務中に、役員に業務の問い合わせで電話をかけたのはわずかな回数で、「困るから遠慮してくれ」と苦情を言われたことも、業務を混乱させたと注意を受けたこともありません。むしろ役員から「○○時頃、○○○へ電話を下さい」とメモ書きで指示されたり、勤務先から事務所に電話をかけてきて、今からFAXを送って下さい、と依頼されたこともありました。夜、自宅に「明日、○○をやっておいて下さい」と電話で業務依頼されたこともありました。

(3) 石川悟さんから、会いたいと電話があったので、2003年8月下旬に名鉄国府宮駅前の喫茶店モンシュエルで会いました。石川さんは平日は仕事があり、私も子供を見る夫が在宅している曜日が都合がいいので、日曜日に会うことになりました。喫茶店で石川さんは「お昼、まだなんですわ」と言ってスパゲティを注文したのを覚えているので、会ったのは午後です。8月31日は尾西支部会議があったので、石川さんと会ったのは8月24日だと思います。
その日、石川さんから、亡父へのおくやみとねぎらいの言葉をもらい、ふたりで親の病気、死、そしてそれに続く法事の大変さを語り合いました。
  続いて石川さんは、
① いつも「きずな」事務所で働いてくれてありがとう、というお礼
② 尾西支部大会(7/27)での私の発言は問題はない
③ 9月の連休あたりに、きずな共済会専務理事の伊藤信広さんからきずな共済会の仕事を教えてもらって、今後やっていってほしい、
と言い、私が人件費節約のため私の減給と一時金の返上を申し出ると、
④ 予算は組んであるから、気を使わなくていい、来年からは大竹君が「専務理事やらないかん」って言っていた、そうすれば、きずなの財政が潤うからよい、
という内容のことを話しました。
 汚れた湯飲み茶碗が事務所に放置されていることがあることに話題が及ぶと、石川さんは「自分が飲んだ湯飲みくらい自分で洗うもんだ」とあきれていました。
 7月末(7/28)に大竹さんに怒鳴りつけられ、ショックを受けたこと、それ以来、大竹さんが真向かいの机に座って大声で電話するたびに、状況を思い出して不快になること、を話したところ、石川さんは、自分も大竹さんによく大声で怒られていて、合田さんだけが被害者ではないから、大変だろうが我慢してほしいということを言いました。
 それから、突然、石川さんはコーヒーテーブルに両手をついたかと思うと、真剣な顔つきになって、「合田さん、お願いだ、さ、裁判だけは何とか勘弁して下さい。頼みます、お願い、このとおりだ。」と頭を下げ始めました。店内のお客さんの視線を感じ、あわてて石川さんを制止したことを記憶しています。

(4) この様に、2003年8月下旬に石川悟さんと会ったときに、石川さんから「大竹さんの指示に従って業務をしてほしい」と伝えられたことはありません。このとき、石川さんから「きずな共済会の伊藤信広さんから仕事を教えてもらって、やって下さい」と言われ、私は承諾しました。「大竹さん以外の役員から仕事を下さい」と言ったこともありません。

 同年11月に加藤健二さんと自宅近くの喫茶店コロナで会いましたが、やはり、このときも「大竹さんの指示に従って業務をして下さい」との要請はされませんでした。子供連れでしたが、顔馴染みのマスターの側でテレビを見ておとなしくしており、加藤さんとは終始、静かにゆっくりと話しが出来ました。

 加藤さんの話の内容は、主に大竹さんに関することとこれからの私の新しい仕事についての二つでした。記憶している内容は下記のとおりです。

① 河井さんの後任が決まらず、困っているときに大竹さんが「次は僕がやる」と立候補したが、そのとき加藤さんは「うわぁ、またイヤな奴がなるもんだな….」と思ったが、他にいないので仕方なく専従をやってもらうことにした
② 大竹さんはいろいろ問題のある人物である
③ 労働組合は専従の人柄に惹かれて人が集まってくるものだが、大竹さんはそのような人柄ではないこと、むしろ人が離れていく人柄なので組合員拡大をめざす「きずな」にとっては困ること
④ 大竹さんは以前、高校の臨時教員をやっていたが、よくあれで生徒指導ができたものだと不思議で仕方がない
⑤ 「きずな」内の大きい支部から、大竹さんは来ないでほしいと言われており、組合の中心的な支部に専従が拒絶されているという異様な状態になっていること
⑥ 大竹さんは普段の言葉使いがきついだけでなく、常任執行委員会などでも自分の意見が通らなければ、よく大声を出す
⑦ 深夜、疲れて帰宅したら玄関で携帯が鳴り、彼から急用だからすぐ事務所に戻れ、と言われ、勘弁してくれーと泣きたくなったことがあった
⑧ 別の日、組合の会議がやっと終わって、駅下りのホームから電車に乗って家路につき、駅に着いたとたん彼から「事務所に戻って来い」と携帯が鳴り、仕方なく駅改札を出ずに、今度は上りのホームから、ため息まじりに又電車に乗って事務所に戻ったこと
⑨ 大竹さんと一緒にいるのはとても疲れるけれど、僕らは会議のときだけ。合田さんは一日中だから、大変だと思う。体に気をつけて頑張ってほしい
⑩ 大竹さんは専従になったばかりで緊張しているのだと思う。大型支部から来るなと言われて、悔しくて実績を上げたいともがいているようだ
⑪ あいつしか専従をやる人がいないから、我慢して、あいつを育てていくしかない、僕はあいつと心中するつもりなんだ

(5) 大竹さんの話題が終了すると、加藤さんは仕事のことを話し始めました。今の私の仕事に財政・機関紙・共済会の仕事を新しく追加してほしいと頼まれましたので快諾しました。加藤さんの話を簡単にメモにとっていたので提出します。(甲11-1、甲11-2)

  加藤さんは、財政の仕事を財政部長の安井秀子さんやパソコン担当の深谷修さんに教えてもらって、やってほしい、そして、組合費の滞納をできるだけ解消していきたいから、対策として現在の手集金や郵便局口座からの自動引き落とし以外に銀行引き落としを加えたいと考えていること、その手続きを合田さんにも協力してほしい、後日、安井さんから連絡が行くからよろしく頼む、ということを言われました。メモ(甲11-1)に「十六」や「UFJ」という銀行名があるのは、その話を聞いたときに記したものです。
  機関紙の新たな仕事は「おたよりコーナー」のページを編集してほしい、と言われました。加藤さんは持参したペンを見せ、このペンを使って方眼になっている専用用紙に手書きで書き込んでいくように、と具体的に編集方法を教えてくれました。合田さんが勤務時間内に完成出来なかったら、僕たち編集委員が仕上げる、来月12月号から、おたよりコーナーの編集をお願いします、と依頼され、早速私は12月号から編集作業を開始しました。出来上がった原稿を見た加藤さんから電話があり、「あれでいいです、あんな感じで以後、よろしくお願いします」と言われ、12月号と続く1月号、3月号(甲13,14,15)は私の編集となっています。11月号(甲12)は指示される前なので私の編集ではありません。加えて、クイズに当選した読者に賞品の図書券を発送することも依頼されました。

  共済会に関しては、私がもっと仕事をやりたい、と言うと、自分は担当ではなく実務に詳しくないので、今ここで教えられないから、きずな共済会専務理事の伊藤信広さん頼んでおくから、彼に教えてもらってやって下さい、ありがとうございます、と言って頭を下げてお礼を言いました。
  そこで、私は伊藤さんからの指示があるまで、自分なりに共済会関係の書類を見て、勉強したいと思うから、いくつか見せてほしいと頼みました。加藤さんは「それでは合田さんが出勤する日に共済会書棚(ロッカー)の鍵を開けておくから、自由に中の書類を見ておいて下さい」と言ったのですが、「ロッカーの中には金庫のようなものがあるから気がひけます。本当に自由に中を見てもいいのですか」と尋ねると、加藤さんは「そんなこと気にしなくていいから、自由に中を見ておいて下さい。」と言いました。
  翌出勤日には早速共済会書棚(ロッカー)の鍵が開けられていたので、私はすぐに引き出しをひとつひとつ開け、総勘定元帳や試算表、振替伝票のつづりなどを丹念に探しました。しかし共済会書棚(ロッカー)の中には、そのような書類はありませんでした。
  加藤さんから「担当者から大竹副委員長に依頼するので大竹副委員長の指示に従って業務して下さい」という要請をされたことはありませんし、「私は河井さんからも指示など受けたことはない」と拒否をしたことなどありません。
だから「一般でも労働者は少しくらい気にいらなくても上司の指示に従って仕事をしたいます。(ママ)労働者が上司の指示に従って業務に従事するのは当たり前のことじゃありませんか。」と説得をされることもありません。「私には私の仕事があるんです。私は大竹さんの秘書ではありません。大竹さんとうまくやっていく必要はありりません(ママ)」ということも言いませんでした。加藤さんが「普通の労働者のように上司の指示に従って普通に業務をおこなって欲しいと言っているだけです」と言ったこともなく、口論にもなりませんでした。

(6) この2003年11月23日、加藤さんは、機関紙編集方法を私に直接教え、財政や共済会の仕事は、安井さんや深谷さん、そして伊藤信広さんにやり方を聞いてやって下さい、指示があるときは電話やメモで僕たちがします、と言いました。河井さんが専従の頃から、機関紙の印刷などに関しての指示メモはありましたが、この加藤さんの言葉どおり、新しいメモ(甲16-1,16-2,16-3)や電話指示を受けるようになり、従っていました。
  2003月12月頃、財政部長の安井さんから、組合費を銀行からの引き落としも出来るようにしたいから、金山駅周辺の銀行を回って、情報を得てきてほしい、と電話指示がありました。私はその指示に従って、UFJ銀行と名古屋銀行を訪れて行員から説明を聞き、安井さんに報告しました。また十六銀行が自動引き落とし業務をアウトソーシングしている子会社の資料を手にいれ、安井さんに渡しておきました。安井さんは、ご苦労様でした、検討しますね、と言いました。

(7) 大竹さんの視界を遮てる位置に机上の花瓶を動かすなど、大竹さんを嫌悪する態度をとったことなどありません。きずな事務所のお隣の部屋の方が私にペン立てを作って下さり、それを置くために花瓶をずらしたような記憶がありますが、よく覚えていません。
  事務所のドアは河井さんが専従であった頃から、通年ほとんど開けていました。節約しなきゃいけない、という気持ちがあったので、夏も冬もエアコンのスイッチはつけたり消したりしていました。大竹さんは何も言いませんでした。冬場は自宅から持参した小さい電気ストーブを、足元に置いて、やはり、つけたり消したりしていました。大竹さんが、そのストーブを見たので、「大竹さんも持ってきたら」と言うと、「いらない」と言っていました。
  部屋の掃除のとき、窓を開けたのは埃を外に出すためで、冷たい外気を事務所内に入れるためではありません。すぐ傍を走る電車の音が大きく、風のあるときはブラインドがガサガサ鳴るので、窓を広く開け放つことはあまりしませんでした。(以上P10中段)
(8) 大竹陳述書P10下段以降①について
勤務時間中に事務所の電話で河井さんのことについて「また来ているの。きっと運賃の安いバスで来て交通費の請求は電車代でおこなって、その分の差額を浮かしているんだわ」などということを話したことなどありませんでした。
(9) 同②について
愛知共済会の事務所で大竹さんに向かって「あなたの声は通るのよ。こんな小さな部屋
でそんなに大きな声を出さなくてもいいでしょ」と怒鳴って出て行た(ママ)ことはありません。ある日、廊下の方から、大きな怒鳴り声が聞こえてきたので、様子をうかがいに行くと、愛知共済会の事務所で、女性事務員に頭ごなしに怒鳴っている大竹さんを発見しました。「またか」と思い、怖かったのですが、大竹さんに「部屋の中なんだから、普通の声量で話せばどうですか」と言ったことがありました。

(10) 同③について
○○の△△部長と折衝中に、大竹さんに向かって「お茶くらい出したらどうな
の」と強い口調で言ったことなどはありません。私は○○の△△部長という方を存知上げていません。また、来客中にお客様の前でそんなことを言うわけがありません
(11) 同④について
河井さんと私は、互いに休みや遅刻・早退のときは口頭報告や事務所内にある予定表へ
の記入、留守電メッセージなどで知らせることになっていました。特別、申告や許可制などはとっていませんでした。大竹さんが事務所で働くようになって、休み・早退・遅刻に関して何も言われませんでしたので、河井さんと取り決めたのと同じ方法を続けていました。そして、大竹さんも自分が休むときは私に申告や許可を得ることなく、黙って予定表に記入していました。さらに、大竹さんを事務所に入れさせないために、施錠し、わざと鍵をキーボックスに入れなかったことなどありません。午後3時頃、大体私はお茶のため事務所を留守にし、鍵はキーボックスに入れず持って出ること、行き先は309号室か402号室であることを大竹さんに知らせてありましたから、大竹さんが3時頃、外出から戻ったときには、当然のように「鍵、ちょうだい」と309号室や402号室でお茶を飲んでいる私の所に寄っていました。
(12) 同⑤について
きずな共済会の入力業務について、「脳死」状態の組合員さんを「死亡」とパソコン入力したという記憶はありません。伊藤信広さんから、その件に関して注意を受けたこともありません。
  2003年の年末、共済会書棚(ロッカー)のキーを定位置の横の引き出しにしまってしまいましたが、その年は大晦日午前中まで名古屋にいましたが、問い合わせの電話などは全くなく、年が明けて出勤したら、キーは必ず定位置になおすように、という指示メモが伊藤さんからありました。私はそれに対し、自分の行動を正当化せず、お詫びのメモを伊藤さんに書きました。

(13) 大竹陳述書P11の下段に「合田さんは、河井さんが役員専従であった頃は事務所内のパソコンなどはほとんどさわることがなく、決まった実務はしていませんでした。」と記してありますが、そうではありません。陳述書(甲9)で列挙した仕事に加え、事務所の掃除、古新聞の運び出し、当初は労働会館のトイレ掃除もしていました。好きなことではなく、河井さんから教えてもらった仕事をしながら、他の役員からも業務を依頼され、不明な点は指示を受けて仕事をし、働いた時間に応じて賃金を受けて来ました。
私は決まった時刻に出勤し退所していました。(甲5) 1995年に就職して以来、好きなときに事務所に来て好きなことをしている、と誰からも注意されたことはありませんし、ふてくされて反抗し、専断的な言動におよんで組織を混乱させるような行動をとったこともありません。

5 「(5) 雇い止め決定に至る経緯」の反論
(1) 2004年1月21日夜、加藤健二さんから電話があり、仕事のことで話があるから1月31日、14:00に事務所に来てほしいと言われました。てっきり、新しい仕事の割り振りを話し合って決めるものだと思い、1月31日に出かけていくと、大竹さんたちが怖い顔をして私を囲むようにして座り、加藤さんが「これ以上、大竹君の指示に従って仕事をしないなら、我々はあなたを雇えません。」と切り出しました。「あなたを雇えません」と「大竹君の指示」という口上に驚きました。仕事の指示は加藤さんたちからあるものだと決まっていましたし、7月に大竹さんから怒鳴りつけられてから、大竹さんは私と口をきこうともしなかったので、大竹さんの指示とは何なのか奇怪千万でした。とりあえず、以前の約束どおり仕事の割り振りを決めてもらって、その範囲で指示をしてほしい旨を要望しました。しかし、加藤さんは、指示に従えないのなら辞めてもらう、と言い続け、隣に座っていた石川委員長も「指示に従うか、従わないか、どちらかだ」と言っています。私は仕事の範囲を決めた上で指示をしてもらわないと何が何だか分からなくなる事態になるかも知れないと思い、「仕事の割り振りを決めて、その上で指示してほしい、でないと大竹さんの私設秘書や便利屋みたいになるのは困るので」という内容のことを言いました。大竹さんは口を挟むように、「何言っとるんだっ」と怒鳴りましたが、(P12、上段) 「私はこの人の便利屋ではない。この人は労働会館に入居する他団体の事務所には挨拶に行ったのに、私には何の挨拶もなかった。声を聞くだけで蕁麻疹が出る」とは言っていません。だから、加藤さんが、「専従役員は言うなれば組合の看板だ。そういう言い方は」と言ったことはありませんし、それに私が「私はこの労働会館の顔です」と言い返すこともありませんでした。
  この日は石川実さん(副委員長)はいませんでしたが、この機会に、と思い、同席している役員たちに自分の気持ちを吐露しました。
○ 7月に大竹さんに怒鳴りつけられ、父の急死による心労と重なったのか、身体の一部に蕁麻疹が出ていること
○ 何かあれば、また怒鳴られるのではないかとビクビクしながら仕事をしていること
○ 大竹さんは事務所の来訪者に対しても喧嘩をしたり、大声を出すことがあり、その度に自分が怒鳴られたときのことを思い出すこと
などを語りました。その間でも大竹さんは「何言っとんの。(役員たちに向かって)名誉毀損しとるんだよ、これ」などと私を睨みつけて叫んでいましたが、今回は部屋に二人きりではなかったので、話し続け、「所属する組合の支部会議で自分の雇用問題について発言することは組合員として当然の行為である、それについて勤務中に役員の立場で非難し、更には怒鳴りつける、という行為は不当であるので、二度としないでほしい」と要請しました。
  しかし、私のこの要請は聞き入られませんでした。加藤さんは「あなたが尾西支部大会で発言したことは組合の団結を乱すものだ。去年(2003年) 5月、解雇されそうだと言って組合員に電話がけをし、組合の歩調をゆがめた。あなたは組合員に自分の思いを一方的にしゃべった。そうされれば誰だって合田さんに同情するのは当然だ。我々は組合の団結を乱す行為は容認しない。」等、私を非難し続けました。次第に居たたまれなくなり、気分も悪くなってきたので、「大竹さんの指示については明確にして下さい。よくわからないので、今日は結論を出せません。こちらから電話するので、後日また会って下さい。」と言うと、加藤さんは「わかりました。時間をかけてゆっくり考えておいて下さい」と答えた後、その日の呼び出しは終わりました。
  加藤さんの「ゆっくり考えておいて下さい」という言葉を反古にでもするかのように、その日からわずか5日後の2月5日の本部執行委員会で私の解雇が決定されたことをずっと後の4月19日に受け取った「解雇理由について」(甲2)を読んで知りました。
(2) 勤務時間について
  1月31日に呼び出されたとき、私の勤務条件に話しがおよんだことはありませんから大竹さんが陳述書で書いているような私と大竹さんとのやりとりなど全くありません。
  大竹さんは、この日(1/31) 以降、合田さんは午後4時ではなく、4時30分で帰るようになった、と陳述していますが、事実ではありません。私はこのころは、4時30分ではなく、もっと早く、3時45分に終業し帰宅していました。(甲5-3)
  私の勤務の開始と終了の時刻は幾度か変更しましたが、5時間30分の実労働時間については変動がありません。木曜日だけは勤務開始時刻を遅らせてもらっていたので、実働時間は5時間30分より少ないです。そのことは河井さんは了承していたので、予定表には特別に記入はしませんでしたが、出勤簿には正確な実働時間を記入しています。
  勤務開始時刻は10時、終了時刻は16時30分が原則でしたが、1999年1月から2004年4月初旬まで、お昼休みを15分短縮して45分にし、短縮した時間を繰り上げて、終業を16時15分にしました。出勤簿に終業時刻を16時30分と記入していたのは、「実働時間は5時間30分で変化がないのだし、深谷君(当時の給与計算係)も計算しやすいだろうから、16時30分と記入しておいもいいよ」という河井さんの言葉があったからです。2004年4月12日から子供の就学に合わせて、開始時刻を9時30分、お昼休み45分、終了時刻を15時45分に変更しましたが、実働時間は5時間30分で一定です。なお、この変更は2004年4月11日に加藤さんの承諾を得ています。
  就職してから、勤務の開始と終了時刻は変更がありましたが、大竹さんの陳述のように、1/31から4時ではなく4時30分で帰るようになったようなことはありません。それは大竹さんもよく知っていたはずです。就労証明書(甲8)の記入押印を大竹さんに頼んだ2004年3月8日、大竹さんは「合田享子さんの「享」は享保の改革の「享」だったな、就労形態はパートで」と言って記入し、「就労時間は朝の10時から16時15分で、えっと1日5.5時間ですよね。」と言いながら、自分で全部記入し、組合印を押しました。2004年3月8日は、私は16時15分(4時15分)が終業時刻でした。大竹さんはそう認識していたから16時15分と自分で記入したのです。陳述のように、「合田さんが16時ではなく16時30分で帰るようになったのは、この日(1/31) 以降のことでした」(P12、下段)ならば、就労時間のところに「16時30分まで」と記入するはずです。大竹さんの陳述は矛盾しています。
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(3) 「それとあわせて1月31日の合田さんと本部役員との話し合いの結果も報告されました」としていますが、「話し合い」の結果はまだ決まっていませんでした。「結論を出せないので、後日また会って下さい」との私の要請に加藤さんたちは「わかりました。ゆっくり考えてください」と答えています。また、「この間の合田さんの役員に対する態度と専断的な行動で組合を混乱させたこと」が具体的にどのようなことなのか、不明ですので、私には覚えがありません。
(4) 「河井さんと合田さんが一緒に事務所にいたときの空気は非常に険悪だった」、「本を読んでいるだけで仕事をしていない」、「合田さんが出勤している日に事務所に電話をしたが留守電になっていた」、「合田さんから河井さんの悪口をさんざん聞かされた」、「事務所がいつも雑然として湯飲みも洗っていない」、「仕事もしない人をみんなの組合費でなぜ雇わなくてはならないのか」、などのことを9年以上の勤務の間、誰からも言われたり、注意をされたりしたことはありません。(P13、中段)
  昼間、急用で事務所に電話をしてきた組合員さんに応対した後、その方から「合田さんが事務所にいてくれてよかった」と言われたことがあります。事務所にみえた床ワックス塗りの業者の方に「きれいなお部屋ですね。ワックスを塗らなくてもいいくらいだ。」ですとか、お向かいの部屋の方から「あなたの所っていつもきれいに片付けてあるわね。」などと褒められたこともあります。
  土曜日、日曜日は人の出入りが多く、事務所がかなり汚れることがありました。タバコの吸殻、床に転がった空き缶、食べ散らかしたお菓子のくず、冷蔵庫内の賞味期限のきれたお弁当・サンドイッチの処分など、週明け月曜日に出勤してきた私がその掃除をさせていただいておりました。
(5) 大竹陳述書P13の下から6行目の「上記の三点」が何を指すのか不明です。
(6) 財政検討委員会は2004年2月5日の第八回本部執行委員会で発足したのではありません。(P14上段)  2ヶ月後の2004年4月11日の本部執行委員会で財政検討委員会を設置することの提案がなされています。(甲18) 解雇を決定後に財政問題を検討するための委員会を設置することを提案したことが解雇を回避するための努力とはいえません。
(7) 大竹陳述書P14の上段の 2004年2月29日のできごとについて
稲沢勤労福祉会館の貸会議室で行われた尾西支部会議に来ていた加藤さんは、会議終了後、まだ組合員が残っている部屋で、「財政悪化でもう、あなたに給料が払えない。この4月30日までとして下さい。」と私に言いました。いつの間にか、加藤さんの隣に伊藤信広常任執行委員も座っていました。組合員たちは黙って聞いていました。私が「財政難の原因は、愛知共済会の専務理事手当がなくなったからですか」と尋ねると、加藤さんは、「それもあります。」と答えました。私は組合員たちがやりとりの意味がわからないのか不可解な顔が見てとれたので、部屋に設置してあったボードに要点を書きながら愛知共済会や専務理事手当のことなどを説明しました。私が突然立ち上がって、専務理事を引き受けない大竹が悪いと一方的にまくしたてたりなどしません。所々で、加藤さんに、「そうですね」と確認をとりながら、よく知らない組合員たちに事情を話したのです。伊藤信広さんは、口を挟むように「それは違う! 」と大声を出していましたが、組合員たちは、じっと耳を傾けてくれていました。
  話しが終わると、加藤さんは、「確かに河井さんは、専務理事手当の約90万円をきずな会計に入れていた。それがなくなったことは大きいけれど、大竹君に専務理事をやれって言ったって、本人がやらないって言ってるんだから、仕方ないよ。」と静かに言いました。 「専務理事は愛知共済会が決めることで、きずなが決められることではない」と反論しませんでした。2004年2月、愛知共済会は大竹さんに次期専務理事の受任を要請しましたが、2004年2月、「きずなは」組合として正式に断っています。愛知共済会事務局職員の○さんの話しによると、拒否の理由は、「きずなの仕事が忙しいし、きずな事務所内の事務作業を処理しきれていないので」というものだったそうです。○さんが「きずなの事務処理は合田さんにやってもらえばいいじゃないの」と言うと、大竹さんは、「組織内のことに口を出さないで下さい」と言ったことを○さんから聞きました。「解雇理由について」(甲2) においても、組合は「今年度の専務理事派遣は不可能と伝えている」(左項、中段) と述べられおり、加藤さんの「(大竹君)本人がやらないと言っているから仕方ないよ」という発言を裏付けています。
 「よければ、私に専務理事をやらせてもらえませんか」と提案すると、加藤さんは「事務員ではできない」と拒絶しました。
  私の月給は5万円前後ですが、なぜ私の給料だけを支払えないのか、数字は正直だから、数字を使って具体的に説明してほしいと要求しましたが、「今までの決算書を見ればわかるはずだ、とにかく赤字で給料を払えない」ということでした。納得がいかなかったので、解雇はお断りしました。加藤さんは黙っていました。
  勤労福祉会館の事務所から、部屋の利用時間の終了を知らせる電話が鳴り、伊藤信広さんが「それでは、また今度話し合いましょう」と言ってその日は終わりました。私が話しも聞かず途中退席をしたことなどありません。だから、私が帰るさいに、会館の駐車場で私より先に帰る伊藤信広さんの姿を見ています。
  加藤さんが「財政状況の説明に何度でも応じる」とこの日に答えた、と記してありますが、そうではありません。その様に答えたのは2004年8月の尾西支部大会で、私が財政難についての具体的説明を求めたときです。加藤さんは、「中谷代理人に対して、財政状況の説明に何度でも応じると言ってあるのに、事務所に来ない。私達は何度でも説明に応じますよ。」と言っていました。
  解雇の通告をしたら、あるいは、それより以前に、速やかに十分な説明をするべきではないでしょうか。2004年2月29日の解雇通告の日から今まで、組合はまともな説明をしていません。こちらの財政に関する疑問にも答えていません。提訴した後も、です。
(8) 毎日のように大竹さんと顔を合わせているのに、解雇の条件を正確に知ったのは、2004年4月19日に受け取った「解雇理由について」(甲2)を読んだときです。解雇を強行された日のわずか10日ほど前でした。その日までは、3月10日に、大竹さんから「あなたには、もう「きずな」のお仕事をしていただかないと常任執行委員会で決定しました」と言って、共済会書棚のキーを渡さなかったので、不思議に思い、その日のうちに、石川委員長に電話で確認すると、「うーん、よくわからないけど、大竹君がそう言うのなら、そうでしょう」という曖昧な返事でした。翌日、3月11日、共済会の仕事をしようとしたら、大竹さんに、「言ったでしょ。あなたには仕事を依頼しないと。3月2日の常任執行委員会と3月7日の本部執行委員会でそう決定したんですよ」と怒ったように言いました。そのような決定があったのなら、文書にして下さい、と言うと、大竹さんは、「そんな杓子定規なことはしないと決定しました」と返答したので、では、その決定した本部執行委員会の議事録を見せて下さい、とお願いすると、大竹さんは、「合田さんのことは問題が問題なので、議事録には記載してません」と、実に大人気ない態度をとられました。3月21日、尾西支部の会議で本部執行委員会の西川卓さんに会ったおり、西川さんは「3月7日の本部執行委員会に、僕、初めから終わりまで、出とったけど、合田さんに仕事を依頼しないなんていう決定などなかったで」と言っています。なお、組合が交付した「解雇理由について」(甲2)では2004年2月5日の本部執行委員会で3月1日以降は出勤に及びません、等解雇に関する諸条件が決定されています。

(9) 大竹陳述書P14の★について
 3月初めに、きずなが入居する会館で働く人たちに対して、「きずなが私を首にしようとしている。「守る会」を作って徹底的に闘うつもりです。私には組合員名簿があるので、組合員に直接手紙を書き、支援を訴えるつもりです。」と言ったことなどありません。解雇通告を受けたことを知人には告げましたが、組合の情報を個人的な目的に使ったことも使おうとしたこともありません。(P15、上段) そのように思い込み、尾西支部の会議中に突然乗り込み、会議を中断させ、組合員に混乱をもたらすような行為に実際に及んだのは大竹さんです。
  3月6日の夜、解雇問題を考えるため、尾西支部の組合員たちが集まって、急きょ、対策会議を開いてくれました。場所は稲沢市内の喫茶店でした。会議中、21時30分頃、突然、委員長の石川さん、大竹さん、常任執行委員の伊藤信広さんがテーブルにやってきました。こんばんは、の挨拶もなく、伊藤さんが開口一番、みんなの前で「合田さんは事務所から組合員名簿を盗み出した。返してもらわないかん。なぜなら臨時教員のリストも含まれていて、外に持ち出されると非常に困るんです」と発言し、続いて大竹さんが「組合員リストを使って支援共闘会議のようなものを作られたら困るから、盗んだものを返して下さい」と私に迫りました。突然の出来事で尾西支部の組合員たちは唖然としていました。大竹さんは、大勢の人の前で私を泥棒呼ばわりをして名誉を毀損し、持ってもいない組合員名簿を返せと迫りました。陳述書のように、「組合名簿を持っているんだったら、返してほしい」とお願いしたなどというのではありません。(P15、上段)
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なお、伊藤信広常任執行委員は同年4月3日、尾西支部と本部役員との交渉の席上、尾西支部組合員の証言で私に泥棒扱いをしたことを認め、謝罪をしています。
(10) 決算書のコピーについて
  解雇通告のとき、(雇用がなぜ不可能なのか)過去の決算書を見ればわかるはずだ、と言われましたが、過去の決算書を揃って持っていませんでした。加藤さんの言うとおり、過去の決算書を通して見て、自分で検討してみようとの思いから、2004年3月4日、加藤さんに過去10年位の決算書のコピーを頼んだところ、加藤さんから「すぐにはお見せできない。3月7日の本部執行委員会でお見せするかどうか決定します」と言われましたが、そのとき、「見てどうするんですか。何かに使うんですか。誰かに見せるんですか」としつこく尋ねられ、自宅でゆっくり見たいので、と答えました。
  3月7日の本部執行委員会の翌日、(3月8日)大竹さんは事務所で、「昨日の本部執行委員会で決算書の外部持ち出しやコピーは不可と決定されました。ここの事務所内で見るだけならいいです」とだけ言い、メモはとっても良いとは言いませんでした。私はなぜ急にそのように決定されるのか不可解だったので、「会計の決算書や予算書は大会の度に組合員に配布してきたもの。一旦配布したものをコピーをさせないというのはおかしい」と言いましたが、「決定は決定。何に使うんですか」と大竹さんはコピーを強く拒否しました。仕方なく、お昼休みに見ていましたが、量が多く落ち着いて検討できませんでした。
  そのような決定があったのなら、文書にしてもらおうと加藤さんに頼み、3月11日にいただくことになっていましたが、お父さんの鉄工所が忙しいからと断られ、結局もらえませんでした。

① 2004年3月21日、3月7日の本部執行委員会に出ていた西川卓さんは、「3月7日の本部執行委員会で、過去の予決算書の事務所外持ち出しやコピーを禁止するという決定はなかった」と私に言っています。
② 2004年5月30日名鉄金山駅で同じく本部執行委員の神 勝幸さんは同様のことを私に言いました。
③ 2004年8月29日、同じく本部執行委員の丸地雅夫さんは私との電話で、そのような決定は知らない、と言いました。
④ 2004年9月頃、同じく本部執行委員の吉田知子さんは、私との電話で、そのような決定は知らない、と言いました。
  以上のことから、大竹さんが言うように3月7日の本部執行委員会で過去の決算書を持ち出したりコピーをとることを禁ずるという決定があったかどうかは非常に疑問です。
  過去の決算書のコピーをもらったのは、代理人弁護士と組合との交渉がスタートすることが決まってからの、5月も10日のことでした。5月10日、12時20分ころ、大竹さんは決算書の束をどこからか取り出して、「はい、これ、決算書。コピーしたいんでしょ、どうぞ、やっていいよ」と投げやりな態度で私に手渡そうとしましたが、あれだけ強くコピーを拒否していた大竹さんの豹変ぶりにしばらく言葉が出ませんでした。「本部執行委員会でコピーは禁止と決定したんじゃないのですか」と聞くと、「誰か何か言ってきたら僕が言うからいい」と言っていました。合田さんがコピーを強く希望したので、コピーを認めたという陳述は事実ではありません。(P15中段)
(11) マイナス975,134円の未払い金について
  2001年度の決算書中(乙7)の未払い金マイナス975,134円が何を意味するのか、私の問いかけに大竹さんは、そっけなく「借りて返したんだよ」と意味不明に答えるだけでした。次に、何故、専従者基金を使えないのか聞くと、顔をそむけて答えませんでした。 
  大竹さんの陳述は、2001年度の未払い金について合理的に説明されていません。真正な決算書をもとにお金の流れをまともに説明できずに労働者を解雇することは許されないと思います。そして、このような解雇強行から3年も前に発生した未払い金のまちがった説明だけで、整理解雇の必要性を十分に説明したことには決してなりません。
(12) 大竹陳述書P16の雇用証明書について 
就労証明書については、子供が学童保育所に入所するために要請したもので、その結果、子供は学童保育所に入所できたのであり、裁判所に提出するために要請したのではありません。
(13) 解雇理由証明書 
  使用者は求めがあれば、解雇の理由を文書にして交付する義務があります。私は2004年2月29日に解雇通告をされたので、3月3日に加藤さんに文書を要求しましたら、4日後の3月7日に本部執行委員会があるので、そこで委員会決定をし、週明けに渡す、と言われました。
  3月10日、14時30分頃、週明けに渡す予定だったが、いまだ協議中なので待って下さい、と加藤さんから電話があり、同日19時20分頃、「おやじの鉄工所が忙しくて、事務所にも行けない。文書を出すといっても、みんな集まらないといかんし、石川委員長が足を悪くしてね、もう少し待ってもらえませんか」と再度、電話がありました。しかし、実際は、その日から1ヶ月以上も前の2月5日の本部執行委員会で解雇について判断され(答弁書、P8)、確認されていました。(解雇理由について、甲2)
  幾度とない請求の末、やっと文書をもらったのは、4月19日の朝でした。解雇の決定から二ヶ月以上経過し、解雇強行の日のわずか、約10日前のことでした。労働組合である被告は、ここにおいても誠実さに欠ける対応をとりました。

第4 大竹陳述書第5項「代理人との交渉経過(17P以降)」の反論
1  「(1) 2003年5月から7月20日までの経緯」の反論
「4月になっても合田さんはこれまで以上に休むことなく出勤しましたが」(P17上
段)2004年4月は子供の入学行事などで早退や有給をとりました。(甲5-3) メモは努めてとるようにしていました。

  2004年6月3日は、部屋を閉め出され、大変な思いをしました。午後3時20分頃、お茶休憩の後、労働会館の4階からきずな事務所に戻ってきたら、施錠してあり、入室できませんでした。キィボックスを開けるためのキィカードや財布の入ったカバンが部屋の中にある状態を知っていて、大竹さんは施錠し行き先も告げずに、姿をくらましたのです。4階にいることは大竹さんに知らせてあったから、外出するときに知らせてくれれば良いのに、大竹さんはそうしませんでした。「後で説明」しても無意味で、大竹さんの行為に悪意を感じました。(P17、中段) この6月3日は、代理人との交渉が続行中なのに、14時頃に大竹さんから「パソコンに触るな、あなたの仕事はもうない、組合員だからこの部屋におれるんだよ」などと怒鳴り、あくまでも解雇を強行する姿勢を見せていました。 
  2004年4月28日付で被告に対し通知文を送付し(甲3)、代理人弁護士と被告組合との交渉がスタートしました。大竹さんは第一回目の交渉に来ただけで、どうした訳か後は来なくなりました。2004年5月13日の第一回交渉で被告は、「本部事務員 合田亨子さんの解雇について」(甲4)という書面と、被告組合の決算書の写しを持参しましたが、中谷弁護士がこれは検討させてもらいますと言い、交渉の期間中は、合田さんに仕事をさせ、賃金を支払うように要請し、石川さんと加藤さんが、「はい、そのようにします」と答えかけるや否や、大竹さんが、「それは断る、そんなことを認めるんだったら、私はいつ専従を辞めてもいいんですよっ」と遮るように怒鳴ったそうです。石川さんと加藤さんはただ黙るだけでした。財政状況の説明のさいに「こんな状況になって、専従を辞めたいくらいです」と思わず愚痴のように発言したという記述は偽りです。このときの大竹さんの脅しのような発言を加藤さんは2004年6月20日の名鉄国府宮駅前での立ち話のときに私に認めています。
  交渉が始まって、5月19日、いつものように出勤した私に、大竹さんは「合田さん、本部の見解としては、3月以降はあなたに仕事を依頼しないことになりました。」と大声を出し始めました。「その件に関しては、代理人さんに言って下さい」と言うと、大竹さんは「だからさぁ、代理人さんには、もう言ってあるけど、あなたにも言っときますがぁ」と遮るように言うので、代理制度について簡単に説明すると、ニヤニヤして聞いたあと、「合田さん、自分が何言っとるのか、録音しときゃあよ」と一喝されてしまいました。あとで労働会館で働いている人たちから「大竹さんて、よく大声を出しているけど、大丈夫なの ? 」とか「危険を感じたら、うちの部屋にかくまってあげるからね」などと言われました。代理人弁護士との交渉が始まってから、大竹さんは大声を出す回数が増えました。
  2004年6月20日夕刻、加藤さんと私はかなり長い時間、立ち話をしました。加藤さんは終始おだやかな物腰で、自分の気持ちを吐露していたようにみえました。私は「大竹さんは自分に対して威圧的な態度をとる。あの人が専従をやっていたらきずなはダメになる。辞めてもらった方がいいんじゃないですか。加藤さんも前に専従なしでもいいって言ったじゃないですか。専従がいなくても私が事務所を守りますから。」と言ったことはありません。
 
加藤さんの話した内容は、次のとおりです。
前専従の河井さんは2003年5月の合田さんへの退職勧奨を反対していた、大竹さんが次の専従になることも反対していた、組合の役員間でも大竹さんに強い嫌悪感があるが彼しか専従をやる人がいないので、仕方がなく耐え続けている、けれどその我慢も時に限界に達するときがある、彼に専従を辞めてほしいが、こちらからは言い出せない、自分から辞めるのを待っている、彼も組合員の信頼が得られないと感じたら辞職するだろう、それまでは彼を専従として認め育てていかなければならない、彼と心中するつもり、中谷さん(代理人弁護士)のことをボロクソに言って話しにならないから、交渉の中身を全部、彼に知らせていない、
  交渉中に私の代理人の前で「専従を辞めてもいいんですよっ」と脅すように発言したのかどうか聞くと、加藤さんは大きく頷きながら、「あれには、僕もびっくりしたわ、まさかあの席で彼があんな事を言うとは思わなかった。」と認めた後、そのときに何かを言えば火に油を注ぐような大騒ぎになると思い、黙っていたと言いました。大竹さんが、「こんな財政状況になって専従を辞めたいくらいです」と思わず発言した(P17下段)というのは偽りです。交渉期間中は私を職場に戻すという提案を、専従を降りることを脅しに使って阻止しようとしたのです。
  大竹さんは私だけでなく、事務所の来訪者にも怒鳴ったり、喧嘩をする、大竹さんのあの大声に慣れることが困難である、という内容のことを言うと、加藤さんは「あいつとうまくやっていく人なんかいないわ。怒り狂ったと思ったら急にやさしくなって気持ち悪いときがある」と吐くように言い、僕らは夜、たまの会議のときだけ会うだけど、合田さんはあいつと終日一緒にいて大丈夫か? そっちの方が心配だわ、ということも話していました。
  組合が、解雇の財政的な理由を私に説明する、というので、2004年7月20日に組合側と交渉を持ちました。過去の組合やきずな共済会の決算書が杜撰であったので、その決算書作成の元になる帳簿類も交渉時に持参するよう依頼をしました。
  大竹さんに必ずきてほしいと要請したのに、大竹さんはこの日も来ませんでした。出席者は石川委員長、加藤副委員長、石川実副委員長、安井秀子財政部長、伊藤信広きずな共済会専務理事兼きずな常任執行委員です。加藤さんが、大竹に代わって責任を持って応対すると言ったので、私は早速、解雇の理由である財政難について、約5万円の月給が払えなくなっている状況説明を求めました。誰からも応答がなかったので、再度、約5万円の給料が払えない状況を数字を使って具体的に説明をしてほしい、と求めると、加藤さんが、小声で「具体的といっても…..」とつぶやき、あとは沈黙してしまいました。他の役員からも発言はなく、しばらく沈黙が続きました。
  安井財政部長に、去年一年間で専従者基金はいくら集まったか尋ねると、やっと「約87万円です」と口を開きました。賃金を保障するための専従者基金が一年間に87万円も集まり、繰越しを含め、大幅な黒字となっているのだから、専従者の賃金に使ってほしい、従来どおり活用していけば、それだけで解雇の必要性はなくなる、と提案しましたが、安井さんや他の役員たちは黙り続けていました。
きずな共済会からの借入金について、疑問点を述べると、安井さんは書類を確認し、「あら、ほんとだ、調べておきます」と言ったきりでした。2001年度決算(乙7)のマイナスの未払い金の意味を確かめても、誰からも答えはなく、黙ったままで、時間だけがどんどん過ぎていきました。

  きずな共済会専務理事の伊藤信広さんが同席していたので、きずな共済会の2003年度の決算報告書(甲18)を机上に広げ、 
① 収入の部、で貸付金の返済が回収できずに欠損で処理した10万円をなぜ、収入にあげているのか、これは雑損か貸倒損失であるはず、
② 「解雇理由について」(甲2)では、このままでいくと、きずな共済会も高額給付には対応できなくなる可能性がある、と記述されているが、資産が614万円もあり、事故死亡70万円という最高額給付に対応できなくなるという可能性などないのではないか、
③ 支出の部、適用欄の次期繰越の内訳は何か、
④ 貸借対照表の資本負債の部に本部への貸付金1,395,712円が計上してあるが、貸付金は資産に属する科目ではないのか、
⑤ きずな本部への貸付として、同じ金額1,395,712が左右に並んで記載されているが、これ 
では貸借が対照になっていないのではないか、
  等、質問をしましたが、伊藤さんは「調べておきます」と言うだけで何一つ答えませんでした。伊藤さんは、このとき、私が「信ちゃん」と呼びかけたのに怒り、持っていたタオルを振り回して大声でどなりました。私はびっくりしましたが、組織の決定に従わないことだけでこんなに怒っているのだと驚きました。
加藤さんに、「私を愛知共済会専務理事に推薦しなかったのは不誠実だ。今からでも私を専務理事に推薦しなさい」などという主張はしていません。私が加藤さんに聞いたのは、専務理事は事務員では出来ない、というのは、愛知共済会の意向であるのかどうか、ということです。それにも加藤さんは答えませんでした。
  安井さんに組合員の平均賃金はどれくらいかを尋ねましたが無言でした。仕方なく私が電卓をたたいて組合員の月平均賃金を算出し、額を見せて、専従の人件費も組合員の水準を考慮して決めなおしてはいかがかと提案し、私の一時金返上や時間給のダウンも申し出ましたが、やはり無言でした。
 (P20、下段)「大竹さんの給料を20~22万円にしてボーナスをゼロにしなさい、私の時給は800円にしてもいい」と言っていません。自分の時給を800円に下げる提案は2004年4月11日に既に行っており、4月15日に加藤さんから、「800円に下げても今の財政困窮を打開できないので、辞めてもらいます」と言われています。このときも一つの財政改善策を述べただけです。
 事務所経費の節減として、ダスキン、NHK、新聞購読を止めてはどうかと提案しましたが、きずなの上部団体である愛労連を脱退することは絶対、提案していません。それは、今までの準備書面や陳述書で何度も述べてきたとおりです。
 健康センターや原水協などの団体については、会費を滞納し続けて相手先に迷惑をかけないためにも、財政が健全化するまで、見直したらどうか、と言いました。実は、被告組合は健康センターの会費を入会してから12年もの間、一度も払いませんでした。請求が来るたび、安井さんに知らせましたが、安井さんには「健康センター? あそこは会費なんて払わなくていいんだよ、一度も払ったことないんだから」と言われ、困ったことがありました。結局、河井さんが辞めた後、2003年度に2年間分だけ遡って支払いました。
  組合が全額負担している大竹さんの雇用保険料を世間並みに労使折半にしてはどうかと提案しましたが、誰からも返事はありませんでした。
  このときの7月20日の組合役員との交渉は何の成果もありませんでした。大竹さんは私にどんな指示を出し、私はどんな指示に従わなかったのかと質問したときも、役員たちは黙っていました。交渉の冒頭、不在の大竹さんに代わって責任を持って答える、と約束した加藤さんも回答しませんでした。この日に出した財政に関する疑問点と提案への回答は、7月26日に資料を持参して行う、と取り決めて「交渉」を終わりました。
  約束の7月26日、代理人弁護士事務所に石川さんから、「合田さんの提案は来年度にいかす、予算は大会で承認されたので変更できないから、解雇は撤回しない」という内容の電話がありました。

2 「(2) 提訴までの経緯について」の反論
  2004年8月8日にあった尾西支部の大会には多くの組合員が集まりました。役員の加藤さんが来ていたので、解雇問題について組合員の前で説明するように求めました。加藤さんは、組合の意思決定に関わる副委員長という役員です。しかし、この場でも、加藤さんは代理人を通しているので、と言い、明確な説明はしませんでした。組合員からは、解雇について次々に意見が出されました。「労働組合が解雇するなんて、おかしい、自己否定につながる」、「昔から財政難だったのに、なぜ急に合田さんを雇えなくなったのかわからない」、「解雇について機関紙に一行も書かれていない、問題を意図的に隠してきたのではないか、組合は民主的でなくなっている」、「財政健全化をみんなで考えたいからチャンスを作ってほしい」、「今までのことをリセットしてもっと話し合いを深めてほしい」などです。私が、みなさんの前で、何故に約5万円程度の月給が払えないのか、具体的に示してほしい、と要求したのですが、加藤さんは、中谷弁護士に説明するから、事務所に来てくれと言ったのに何も言ってこない、代理人を通して要請して下さい、いつでも説明に伺います から、と言って、こちらの要求を聞き入れませんでした。
  尾西支部以外にひとつだけ、集まりを持ってくれた支部がありました。2004年10月のことです。私の訴えを真剣に聞いてくれ、この様な事態になって悲しい、全然知らなかったと涙を流す組合員さんもいました。同席していた複数の本部執行委員らは、「今日、合田さんから聞いた話と本部役員から聞いている話とは違う、もっと話し合いを続けてほしい」と発言しました。
 一連の尾西支部や代理人弁護士との交渉など、話し合いの席には着くには着くが、誠実な態度をとらず、まともに話し合おうとしない本部役員の問題のある姿勢を残念に思うことを訴えました。
  他にも本部役員への疑問や不満の声は組合員から少なからず発せられてきました。
「一人の解雇も許さないと企業相手にやってきたのに、自分が解雇してしまえば、もう闘えなくなる」、「合田さんの給料だけが払えないというのは奇異だ」、「大竹さんの賃金の方が絶対高いのだから、大竹さんに辞めてもらって、退職者の人などに安い賃金で専従をやってもらえばいいしゃないか」、「専従者基金を使えばいい」、「河井さんは、愛知共済会の専務理事手当がなくなったときのために専従者基金を作ろう、と言っていた」、「きずなの組合費は愛労連で一番安い、合田さんを雇うために、少しくらい値上げしたって組合を辞める人はいないと思う」、「組合員の一月200円ほどの負担で合田さんが雇える、缶コーヒー2杯分の値段だ」、「本部はセット共済の加入を促進しているが、一名の加入で毎月150円の利益があがるしくみになっている。300人の組合員が加入すれば、150円×300人×12ヶ月=54万円にもなって合田さんの給料が作り出せるじゃないか」、「役員のボーナスが高すぎる、前から言っているのに聞いてくれない」 などの意見が私に寄せられていましたが、役員は考慮することがなく解雇を強行しました。
役員は全組合員に公平に事実を知らせないので、やむを得ず、一部の組合員に窮状を訴え、私と組合役員の両方の主張を載せた準備書面などを送付しました。それは、組合事務所から組合員名簿を持ち出したのではなく、以前からの年賀状のやりとりなどで知っていた住所に、勤務先ではなく、自宅に送付したのです。私が組合名簿を持ち出していたら、組合員全員に送付していたでしょう。
そして、裁判が始まって一年半近く経つのに、解雇事件のことを全く知らない組合員もいます。事件の内容を積極的に知らせ、解決を組合員の意思に委ねようという態度はここにはありません。役員は、組合のことは組合員が決めるという民主的労働組合の理念を投げ捨てています。

第5 大竹陳述書第6項「 組合財政について(22P以降) 」の反論
1 「(1) 提出した決算書について」の反論
   P22、下段で大竹さんは、裁判所に証拠として提出した決算書は、大会で承認された決算書に相違ありません、と陳述していますが、被告組合が決算書の原本だとして裁判所に提出してきたのは、会計監査署名押印の部分が別紙で切り貼りしてある代物でした。このような「決算書」では、大会で組合員に承認された後、いつでも数字などの内容を恣意的に変えることができることを意味し、大会で組合に承認された決算書と同じであることを信用しろという方が無理です。

2 「(2) 組合の財政活動の実情について」の反論
  組合費回収について地域労組であるが故の困難性が常にあった(P23、上段)と陳述されているように、被告組合の地域労組としての問題点は今に始まったことではなく、組合の発足時から存在していたことを大竹さんは認めています。
  滞納額の多さを整理解雇の理由にあげる前に、滞納を減少する努力、解雇を回避する努力はされたのでしょぅか。2003年11月23日、加藤さんは喫茶店コロナで、組合費の銀行引落とし導入を本格的に進めたいから、私に仕事を頼み、12月に財政部長の安井さんから、金山駅周辺の銀行を回って、資料を集めるようにという指示を受けました。その指示に従って、銀行関係の資料を手に入れ、安井さんに渡しました。地域に点在する組合員からの組合費をできるだけ完全に徴収するための努力のひとつだとして、私は安井さんが指示したことを遂行し、次の指示を待っていましたが、以後、安井さんを始め、組合役員からは銀行引落とし実現のための何ら具体的指示はありませんでした。安定的な組合費の徴収のための方策を見つけ、実行していくことが財政健全化の道であると加藤さんは言い、解雇回避の努力にもつながると思われるのに、銀行引落としの件は、その理由も知らされずに頓挫した状態で解雇通告をされました。

3 「(4) 争議資金・闘争資金について」の反論
  今は、2004年4月30日に解雇を強行されたことの不当性を争い、地位確認の裁判を行っていますので、解雇強行後の組合の財政状態について、しかも何の証拠も提出せずに陳述することは無意味であると考えます。しかし、事実誤認が明白なところがあるので、その点を以下に述べます。

  組合資産である争議・闘争資金の残高は解雇強行時の2004年4月30日時点で、2,586,264円もの額を誇っています。毎年、各資金に約30万円以上積み立てられ続けています。残高額がピーク時より減少しているからといって解雇を正当化するのは無茶だと思います。ピーク時からの減少は争議が増えたことが大きな原因です。1999年から2003年4月30日までの間、争議資金からは2001年度に20万円の裁判着手金を支払っただけで(庄司建設裁判)、支出がない状態が続きました。(乙13,14,15,16) 大竹さんが専従になった2003年に丸三食品やホームセンターナカイの争議事件が発生し、支出が増加しました。争議への支出が目的の争議資金の残高が、争議の支出のために減った減ったと主張するのは本末転倒ではないでしょうか。
  2003年度闘争資金から支出されたインターネット費用は80,328円でしたが、2004年から被告組合は入居している労働会館の共通ルーターを使用することになり、年間1万2千円程度に抑えられるようになっています。
 
4 「(5) 専従基金について」の反論
  P26、上段、「だいたい専従基金を私の退職金にまわすなどということを、きずなの役員の誰が言ったのか教えてほしいです」という陳述は裁判で組合が自ら訴えたことを否定する無責任なものです。被告第2準備書面において、「専従基金は退職金制度を確立することなどを目的として設立された」と明記されています。また、2004年8月29日、本部執行委員の丸地雅夫さんは、私との電話で「専従基金は打出の小槌ではない。河井さんが辞めるときは退職金も払えなかった、退職金を払えないようでは困るのだ」と言っています。
  第26回定期大会議案(P2) によると、2005年度は専従基金は831,050円もの金額が集まり、前年の繰越し分を合わせると、2005年4月30日時点で、1,294,550円、期中の繰り入れ分を差し引いて511,850円になり、前期残高よりも増加する、黒字となっています。専従基金が底をつく可能性があるというのは根拠がありません。
  2号議案P4、上段に「共済会、争議・闘争資金も月々きちんと払い戻せる健全な財政にするため、専従基金から5月、6月の給与で48万繰り入れます」という記載がありますが、専従基金から必要もないのに繰り入れて給与支払いをし、余った経常財政のお金を取り崩しや借金返済に充てようとすることであり、専従基金の本来の目的から逸脱したお金の使い方です。これは、どんなときでも専従者へ確実に賃金を支払うことが第一の目的である基金の制度への背信的行為です。
  2004年7月20日の交渉時、役員たちは、「なぜ専従基金から私の給料を払えないのか」という質問に全く答えませんでしたが、解雇を強行した後、賃金保障ではなく、実質的には取り崩し分の穴埋めや借金返済のために専従基金を利用している組合役員の行為は許されないと思います。

5 まとめにかえて
  P27、上段、「これらの資金(争議・闘争)や基金の現状は限定した使用目的のほかに経常財政をささえる恒常的な財源として使わざるを得ない不正常な状態」にはありません。第26回大会議案では、どれも目的に合った用途で使われており、経常財政を支えるための取り崩しには使われていません。
  また、2004年4月に「財政検討委員会」を立ち上げたのは、私の解雇を強行した時期です。解雇を避けようという意思があるのならば、もっと以前に会を立ち上げ、組合員に呼びかけ、議論を深めていくはずですが、組合はそうはしませんでした。
  それから、「2005年度予算において、新聞購読も中止し、ダスキンとの契約を解除して固定費の削減を実施しています」と陳述されていますが、これらのことは、まさに私が解雇を回避するための方策として、組合役員に提案し続け、拒絶されていたものと同じです。
  日経新聞4,383円/月、赤旗新聞2,900円/月、ダスキン840円/月、で年間9万7千円の節約になるというのに、組合役員は、合田さんの提案は次年度(解雇後)に役立てる、解雇は撤回しない、と合理的な理由など全くなく提案を拒否されていたものと同じ内容です。(原告準備書面(2) P8、中段) 2005年度ではなく、なぜ解雇強行前に実施しなかったのでしょうか。
  また、被告組合の組合員数は、私を解雇したときよりも増加しています。(答弁書P3、約320名、陳述書P23中段、2005年8月現在、約336名) その結果、組合費収入も増える見込みであるのにもかかわらず、大竹さんの賃金を前専従の河井さんと比べ、年間54万円を削減しています。(陳述書P27、中段) この賃金削減額54万円と前述の事務所経費(新聞やダスキン代) 削減額9万7千円を合算すると、年間63万円にのぼり、この額は私の年間賃金総額に匹敵します。
  もし、これらの削減をもう一年早く実施していたら、私の賃金は支払うことができ、整理解雇を回避することができたと思います。争議資金からの取り崩しも不要でした。しかし、被告組合はそのような節約や削減をせず、まず解雇を強行しました。

第6  最後に
 1 被告組合の不誠実な態度
  「合田さんの問題は組合全体の問題であり、すべての組合員がこの問題を考えてきました」(P27、下段) という陳述は偽りです。
  P28、上段、「財政逼迫のもと、専従役員とパート事務員の両方を雇用することが極めて難しくなった現状」であるから、私を雇い止めすることを判断した、と陳述していますが、被告組合が開示してきた会計資料では、そのような現状を証明することは不可能です。監査署名の部分が別紙で貼り付けてある決算書、数字整合のない決算書、未払い金や繰越金のマイナス処理、そして組合関連組織であるきずな共済会からの借入金の不明朗な流れなど、どれを見ても合理的な説明がつかないばかりか、説明する意思さえも組合にはみられません。
  原告準備書面(3)で、私たちはきずな共済会からの借入金についての疑問点を明らかにするため、組合と事実上一体となっている、きずな共済会の決算書を最初から最後まで開示するよう要求しましたが、それから10ヶ月以上経た今も開示されていません。開示できない理由があるのかどうかはわかりませんが、裁判というものに対して、被告組合は非常に不誠実であるといわざるを得ません。

2 きずな共済会の財政について
  被告組合は「解雇理由について」(甲2)で、組合自体だけでなく、きずな共済会の財政についても危機感を持ち、その建て直しの重要性を解雇理由の正当化に編みこんでいます。
  が、共済会の決算書を開示せず、開示した一部の貸借対照表はデタラメな表記で、借入金の状況も把握できない、となっては被告組合の主張を信用することは不可能です。
  第26回大会議案中には、失業見舞いの給付金を7千円から1万円に引き上げる決定をし、愛知共済会の発展のため、として45万円もの出資をしています。(大会議案書P19中段) このような事実からは、パート職員の整理解雇を行うほどの財政危機は全く見られないと思います。

  組合の役員は長年に渡って、組合や共済会の財政管理について真剣に取り組んで来なかったことが、この裁判で明らかになりました。財政管理の杜撰さが白日にさらされているのに、組合役員は過去の決算を洗い直し、不透明な部分を解明しようとはせずに、専従基金や組合資産からの例外的な取り崩しを借金にすり替え決算報告を粉飾し、債務超過状態に見せかけて組合員をだまし、不当な整理解雇を正当化しています。
  組合財政は、(月給約5万円程度の)パート職員を雇用できないほど逼迫している、という大竹さんの陳述は、数字的に裏づけの無い、誤魔化しを重ねた主張であって、到底同意できるものではありません。

  「一人の解雇も許さない」という合言葉で整理解雇に強く反対してきた被告組合の、自身の足元では正当な理由なくパート労働者の首を切るという背信的行為を認めることはできません。
以上




posted by 支える会 at 14:35 | Comment(8) | TrackBack(0) | 裁判ニュース
この記事へのコメント
 大竹氏陳述書を読むと、合田さんの憤りや悔しさがよく解ります。
 労働争議をした人は皆、使用者側が争議が始まった途端に態度を急変させ、争議労働者の勤務態度について嘘を並べたて、人格権を侵害される、といったことを経験したことでしょう。
 裁判制度で不思議なのは、このような使用者側の「偽証」や「人権侵害」が全く罰せられず、野放しになり、裁判官や弁護士がそれを当然と思っていることです。争議労働者の精神的な負担を見るたびに、「これはどうにかできないのか」といつも思っていました。
 「きずな」はいやしくも労働組合であり、大竹さんはその専従です。「きずな」関係者の皆さん、どうか、合田さんが争議の「傷」を癒し、普通に職場に戻れるよう、裁判での主張を謝罪し、職場復帰のための心ある措置をとるようにお願いします。
Posted by sato at 2008年01月11日 08:14
 昨今、子供の奴隷になる親が増えたせいで、自分の思いどうりにならないと、親でも兄弟でも殺してしまう事件が起きてる。
 これと同じように集団的なつるしあげが役員と合田さんの間で起きてるのだろうか?
 育てるという名目で大竹さんの奴隷になってしまった役員という構図が見えているのではないか?
Posted by 希望の星 at 2008年01月12日 07:28
 きずな元本部執行委員です。
大竹さんの陳述書P8、この年(2003年)7月20日の本部執行委員会で、「合田さんの具体的業務について・・・・」という記述内容の事実はありません。会に出ていたので、まちがいないです。この次裁判になれば、証言していいです。

 そして、決算書の事務所外持ち出しやコピーの禁止、などという決定もまったくありませんでした。
 本部執行委員の神さん、丸地さん、臨時教員の本部執行委員の吉田知子さんのおっしゃるとおりだと思います。

大竹さんは、自分に都合よく、事実をねじ曲げ、うそを言っています。以上です。  
 
Posted by 匿名 at 2008年01月12日 09:36
P27下から12行目、ここも偽証ですね。

「合田さんの問題は組合全体の問題であり、すべての組合員がこの問題を考えてきました」

であるならば、中村組合員が質問状をだすことはしないはずです。大会で「この問題」を取り上げることはおろか、すべての組合員は、この事実さえ知らされていなかったことは、はっきりしています。

 これだけ偽証にあふれた大竹さんの陳述書は問題です。「きずな」労組の専従にしがみついて、給料をもらっているなんて許せないですね。再提訴を検討してはいかがですか。
Posted by 野田 at 2008年01月12日 12:34
きずなの執行部
 中村組合員の質問に早く回答しなさい
Posted by 市民 at 2008年01月20日 04:54
 きずな事務所パソコンキィロックは組合員情報の安全のためと言っているが、合田さんに組合員のことを知られたくないというのが、組合きずなの本音です。
 だが、合田さんは、きずな職員として組合員や共済会会員名簿を持っているので、ロックをしても無駄むだ無駄。ただし、誰かさんが専従になったもんで、組合員は大幅に減っちゃってるけれど。
 なぜにキィロックを続けるか?答えは簡単。それは自分より、パソコン能力のある合田さんに嫉妬した、「おお○け」の稚拙な思いつきなのです。そんなことを思いつくひまがあれば、専従として、きずなのホームページでも作って組合員拡大すれば?
Posted by 市民その2 at 2008年02月04日 14:53
コメントに実名を載せると影響が心配ではあります。たとえば、臨時教員支部執行委員の吉田知子さんに臨時の仕事が来なくなったり、などなど。
 一方、裁判書面は公開が保障されており、問題はないのです。
 結局、きずな執行部は合田さんを支える会や中村さんたちの要求や質問に誠実に対応しなければ、自身の組合員にまで悪影響が及びかねないのです。
Posted by 東西南北 at 2008年02月04日 15:13
ここまで堕落した組織も珍しいですね。合田さんが復職することが、大竹やきずな役員連中に対する最大で最高の復讐だと思います。頑張れ!合田さん、年内に必ず復職してくださいね!
Posted by 元きずな組合員A at 2008年03月21日 09:33

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