「合田さんがきずな事務所で働くのは困るので、雇用関係を認めた上で、どこか出向先をお互いに努力しながら探していこう」
というものでした。このような非現実的な和解案ではなく、具体的な出向先を示すよう要求すると、次に「きずな」は
「在宅で勤務してほしい」
と、その場の思いつきのような和解案を出し、きずな側の不誠実な態度が露見される協議となりました。
一週三日の勤務のうち、一日在宅勤務・二日事務所勤務を提案すると、きずな側はそのような案は受け入れられないとして和解は残念ながら決裂しました。
これにより、審理が再開されることになり、次回公判で「きずな」は大竹信彦さんの陳述書を提出します。
次回公判、2006年1月16日(月)16:30 名古屋地裁(部屋は未定)です。
傍聴にぜひお越し下さい! お待ちしています。
また、提出された「きずな」陳述書は当ブログで公開致します。ぜひご覧下さい。
「きずな」の裁判でも、同じ理想をもった仲間である女子パート職員を幹部が根拠のない理由で解雇しようとしています。
学校の臨時教員が過半数をしめる、執行部がなぜこのような「労働法」に無理解な行動をとれるのでしょうか?
学校の先生は、親といっしょに、生徒に「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、なぜ苦しくとも生きねばならないのか」という「生きる目的」を教える立場なのではないでしょうか?
悲しいかな、労働組合に解雇される人の心境は私の感じでは、「生きよう」とする心の高まりというものがなくなってしまった状態が続いているのだと推測されます。生命の充実感というものを、失ったような感じだと思います。
校長先生が何人も自殺する時代なのだから、臨時の教員執行部がパートを解雇しても不思議でない時世なのかもしれませんが、生徒がそんな「いきる力」のない先生の指導で育ったらその生徒は将来、また自分の子供に虐待をする可能性はないのでようか。
「生徒を、命懸けでしかるという先生は少ない。」・・「親や先生の厳しさに愛情を感じれば、反抗的な生徒も素直になるだろう。」という声が聞こえてきそうです。
その指導力が、「きずな」の臨時教員(執行部)におありですか?
「――助けて。――だれか、助けて!! 」 、生徒からの、そのような叫びを、聞いてあげる先生せあれば、合田パート職員の手紙を封も切らずに送り返したりしなかったのではないでしょうか?
声をなくした生徒や解雇されようとしている女子パートの「さけび」は執行部の先生がたや「きずな幹部」には届かないのでしょうか。
涙と雨にほおをぬ らして、ふるえながら、やみの中に立ちつくしたままでいいのか。この裁判が反響を呼んでいるのは、そんな悩みに、共感を覚える人が多いからだと思います。
愛労連においてもそれを憂慮する良心的な人士がおり、どこまで踏み込めるかの配慮から、当事者まかせの経過が続いているのだと思います。
だからこそ、他の組織でも裁判を通じても、個別の問題でも公開しながら専門家や市民の意見もいただいて総合的に分析していく方向で、暗中模索していると思います。
ですから、共済決算書などが幹部の専決による不透明な運営が存在するという疑問があるのであれば、公開してほしいと思います。
《残念》だというのは、僕自身の中の気分の表現で、
この期に及んでも「きずな執行部」側がコトの本質を理解できていないことが断然判ってしまったことや、「愛労連」主要関係者たちの(半分以上 意図的な?)無策・無力ぶり(理不尽・非正義ぶり?)への失望感……といった気分、という意味です。
《労働組合による一方的に不当なパート解雇》という この異常な事例の「裁判」が進行するということによる、労働組合運動全体への歴史的な打撃・損失などをどう考えているのでしょうかねぇ。(あ、考えてないのか?)
そうですか…、週に《2日事務所勤務》でさえ拒否されるわけですか。
O専従とやらの わがままに振り回されているのか、
それとも執行部全体の意思なのか、
いずれにせよ、なめきった「和解」案ですね。
「出向先」云々とは言うものの、
つまりは「(とにかく)出勤するな!」というわけでしょう?
どこかの企業の「ガラスの檻」や「個室隔離」でさえ、《出勤》は させますものね。
これは、その提案自体がニュース性を持つほどのひどい発想だと思います。
こうなると、「一人の解雇も許さない」臨時・パートのための「きずな」労組の再生を本気で願う方々は、できるだけ早く、O専従に代わるべき、まともな人物をこそ「お互いに努力しながら探していこう」とすべきでしょう。
この項でコメントをなさっている「希望の星」さんを始めとして、合田さんを支持するすべての皆さんへのお願いがあります。
確かに「きずな」執行部関係者「個人」の責任は大きい。その責任の大きさについては僕も全く同感です。
しかし、だからといって、(間接的にせよ)その個人から《職を奪いかねない》ような表記、表現は、もっともっと《自粛》できないものでしょうか?
実は僕は、以前、合田さんご本人に対しても、次のようなトゲのある「意見メール」を個人的に送ったことがあります。
・・・・↓↓以下、合田さん宛ての個人メール 引用・・・・・・・・・・・・・・・
> (※合田さんからの個人メールからの引用 →)もしも勝利判決をいただいて、復職できたら、堂々と、前と同じように働こうという気でいます。
> 先月の支える会例会で、みなさんと、
> 私の復職が気に入らずに組合脱退する人はしたら良い、
> 残った組合員できずなを良くして行こう !と気勢を上げてきました。(笑)
> そして誰もいなくなった、では困りますけどね(涙)。
↑↑ はい、はい、その意気その意気。
(でも、必要以上の脱退者は出さないように、ね。)
(いやな言い方でごめんなさい。↓↓)
> 臨時がパートを首にする。(← ※某掲示板への匿名投稿記事)
その、首にされかかっているパートのHPが、臨時の再任用をストップさせる……??
第一、この「臨時教職員の組織状況の暴露」攻撃?に《「場」を提供するもの》に対しては、
中立的で真面目にものを考える愛高教の正式メンバーでさえ、身を引き、身構えるでしょうね。
多分、ぼくなら、『もしかして組合潰しの裁判なのか?』と疑いますね。
(僕は、●●さんという方の「掲示板」管理責任に疑問を感じましたし、感じています。)
ましてや、きずなの中にいる臨時教員たちは合田さんを応援する気になるでしょうか?
> もしも勝利判決をいただいて、復職できたら、堂々と、前と同じように働こうという気でいます。
↑↑ 今度は細心の注意を払って臨時教員達を守りながら?
・・・・↑↑↑ 以上で引用終わり。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆ この「以前のメール」で訴えたかったのは、
《合田さんのためのHP》が、
合田さん同様に不安定な身分に置かれている執行委員「個人」の未来を「必要以上に脅かす」のは慎みたいですね、といった気持ちでした。
そもそも、執行委員個人の《職業》が何であるのかを暴露する必要など無いのではありませんか?「必要」ですか?
それなのに、その職業と「身分」を暴露したり、
晒し者にでもするように、わざわざ個人名まで表記したり、
ましてや揶揄的に「先生がた」呼ばわりしたり、(「臨時」「臨時」と連呼したり、)
> そんな「いきる力」のない先生の指導で育ったら
> その生徒は将来、また自分の子供に虐待をする可能性はないのでしょうか。
……とまで(「希望の星」さん、たまたま例に挙げてしまいました、ごめんなさい)
書き付けてある(「合田さんを支える会」はそれを善しとしている?)となっては、
《「きずな」の中にいる普通の臨時教員たちは合田さんを応援する気になるでしょうか?》
ちなみに、
「きずな」本来のスローガンが《一人の解雇も許さない!》という素敵なものなのと同様に、
臨時教員運動のスローガンは、《教育に臨時はない!》」という深く重く素敵なものです。
「若いから、未熟だから だめだ、なんてことはない!」
「どんなに未熟な教員もきっと成長できる!」
……というような意味も込められているように、僕には思えます。
いろいろ未熟な教員でも、みんなで育てていく、という懐の深さを持てないものでしょうか。
教員を「臨時」採用することで物言わぬ(言えぬ)教員に仕立てあげることの不当で恐ろしい事態の《全責任》は、各教育委員会にあります。
その教育委員会を「攻撃しない」だけなら まだしも
『コイツらは教育界から去れ!』という思わくで、(「思う」のは自由ですが)
「こういう二面性のある人物が、臨時教員を《組織》していますよ。
こういう「人格」者が 教壇に立つのはいかがなものでしょうか?」と
正義の仮面をかぶって 名指しで 当の教育委員会に投書しているような状況だけは避けたいものだと思うのです。
◆ 執行委員たちは 確かに 解雇事件以来、無責任な酷い行為を続けているとは 僕も思いますけれど、
少なくとも、(せめて!)彼らを呼ぶ時に(「臨時」教員と) わざわざ「臨時」を付けて呼ばないでやっていただけないでしょうか。
それは、将来 復職した合田さんを呼ぶときに、わざわざ「臨時雇用の合田さん」「臨時雇用の合田さん」などと呼ぶべきでないのと同じことだと、僕は思います。
言うまでもなく、このコメントの全責任は、僕「個人」の責任に属します。
「希望の星」さん始め、これを読んで不快になられる方が もしもあったとしても、
合田さんへのご支持とは全く別の問題として整理してくださるよう、切に希望いたします。
失礼いたしました。
その根底には「きずな」は教員で維持しているという自負があると思います。
つまり、教員に「臨時も正規もない」という目標があるから、臨時団結組織や教員組合の臨時部会があると思います。それでもなお、「きずな」という地域労組を不安定な教員が支えている理由は、地域住民や教育という仕事以外の労働者と連帯して運動しようという高い志があったからだと推測します。
教員組合の感情や臨時という立場をいったん忘れて、真っ白な目で教育運動をしたかったからなのでしょう?
もし、私や,ほかの方のご意見が教員全体の感情を害し、教組の支持が得られないと思われるなら、なぜ、不安定な教員は地域労組「きずな」を支えているのですか?
私が合田さんを支持するのは、不安定な教員と共感するために、「きずな」があるのではないと思うからです。
こういう「市民」の意見や議論は某執行委員が「何か」を感じてほしいからです。けっして攻撃ではありません。この点だけは「はっきり」しておきます。
個人の就職を困難にするという結果論を考えるのであれば、なぜ、和解案があんなものにおわったのですか。
執行委員みずからが、自らの首をしめているのではありませんか?犯人さがしをしても見つからないと思います。いまは市民の感情を自由に「だして」いい段階じゃありませんか。そこから、連帯が生まれると思います。
和解が不調に終わった以上、裁判は歴史的な「市民や各職種の労働者を巻き込んだ」教育運動の挑戦だと思います。
主人公は教員だけではありません、地と血を這うように生きている不安定雇用の労働者の感情も大切にかんがえましょう。
そこから議論しないと、この問題は解けないと思います。愛高教のメンバーのご意見を伺いたいです。まさか知らん顔しないでしょう?
ご返事がないのであれば、合田さんへのご支持とは全く別の問題として整理する気持ちにはなれません。
愛労連は集合体ですから、集合の平均値が出るものです。健さんに失礼かと思いましたが、整理以前の問題があると考えています。すみません。
労働組合がパート職員を解雇しようとしているのに、「解雇はいけない」と本気で思っているのに解雇を止められなかった市民や組合員がいるとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。
では、なぜ、労働者の権利が憲法で保証されているのか、それを考えていくことが必要だと思います。
まず、労働組合が理由なく職員を解雇できる社会を考えてみるとよいのではないでしょうか。
これでは、労働者の人権も守れない、こんな不安な社会では毎日が不安で仕方ない。そんな状態から逃れるために労働法を作った。
この結果、労働組合は、理由なく職員を解雇する自由を放棄する代わりに、安心して組合費を納めてもらえ、加入者も増え、組合を健全に運営できるようになった。
こうしたことを丁寧にわかりやすく議論したり「労働者の権利」とただ一方的に言うより、じっくりと市民と一緒になって考えていけば、組合員は、建前や押し付けではなく、事実にちゃんと向き合って考える組合員、信頼できる組合員、だと市民から尊敬されるに違いないと思うのです。
そうすれば、建前だけを言う執行部は、やっぱり見抜かれると思います。市民からの問いに、真正面からぶつかり、真剣に地域と一緒にこの問いを考えていくことこそ重要ではないでしょうか。
人権という概念を導入して、個々を尊重する社会を作ってきたこと、自分が尊重されるためには、相手も尊重する必要があるのだ、といったことを本質的に理解していくことはとても意義深いことではないでしょうか。
市民たちを甘く見るべきではないと思います。筋道を立てて論理的に考える力を育てるような社会になってこそ「きずな」の目的も達成できるのですから。
最も罪深いのは、「きずな」の大竹さんや執行委員長の石川さんではないでしょうか。隠していた名前が表に出るのは、想定内だったはず。それを承知の上で、不当解雇をたくらみ、やり遂げ、提訴された。わかっていたのに、やってのけた。彼らは臨時教員さんたちに謝るべきですよ。
でも、きっと「実名が出たのは合田さんのせいだ」くらい、吹き込んでいるのでしょうけれどね。なにせ、「合田さんは愛労連を脱退しろと言った」というとんでもないデマを流布する人たちですからね。
きずなの組合員さん、ひとりひとりがご自分で事実を調べ、ご自分で考えてほしいなと、それから愛労連や全労連が、この解雇問題を引き起こした「きずな」の体質について真剣に調査するべきです。裁判所だけにまかせていいはずはありません。
火に油を注ぐような結果にだけはしたくないな思いつつ、恐る恐る再コメントしておきます。
◆ 合田さんと我々支持者が【一人の解雇も許さない!】という「きずな」本来の理念を正しい理念だと掲げる限りは、仮に(現に)この件でどんなに許し難い行為を為した者に対してであっても、《その者への【解雇】の可能性》が予見できるような状況下では(感情的な衝動をぐっと抑えていただいて)ギリギリ最大限の注意を払っても良いのではないかと、やっぱり思うのです。
合田さんへの解雇に荷担してしまった者が近い将来、【明確な理由もなく「解雇」】の憂き目に遭ったとした場合、今回の件でのはっきりとした自己批判書でも提出しない限り「きずな」では、(あるいはどこの労組でも?)彼らを支えて戦うわけにはいかない……のでしょうか……。もしもそういうものだとしたら、少し恐くて、少し残念な気持ちがこみ上げてきてしまいます。
晒し者にでもするように、わざわざ個人名まで表記したり・・・
私の意見です。
きづなの「執行委員」は、いわば社会通念上において公にされても致し方ない立場にあると考えています。それだけの「責任と義務」を負っていることを肝に銘じて行動して頂きたいと願っています。
合田さんはT弁護士さんがいなければ、とっくに非常識な労働組合幹部によって、お払い箱になって、自殺していたかもしれません。
「きずな」組合員も、幹部に情報を隠蔽され、不当解雇とは知らされず、財政難が原因だと思い込まされていたでしょうね。
下記は臨時教員の実情を訴えるHPの一部です。
http://www.wao.or.jp/user/kishi/yamaguchi.txt
http://www.wao.or.jp/user/kishi/asannnouttae.txt
>おかしいことをおかしいと言える、そんな人間らしい人間に私はなりたいです。
>この中にも同じ思いをもっている人がたくさんいると思います。・・・
と結ばれています。
虐げられて働いている不安定な労働者同志が裁判であらそっているのに、組合員が援助らしい援助もできない理由は、組合員への「情報」不足です。
情報が不足しているから身内の争いを大岡裁きで助けられないのです。
足元に火がついているのに、共済財政などの情報が不足しているから、弱いもの同志が傷つけあうのです。なんとか情報を請求してください。「きずな」組合員のみなさま!
まず、班長や分会長が「自ら学び、自ら考える力」を習得するには「組合員とともに学ぶ」しかありませんが、どのようにその力を磨くのか?組合員の自主性と分会執行部の指導とのバランスが必要だと思います。
つまり、政治経済や業界情勢のサイクルが早くなり方針の伝達が陳腐化したとしても新しい情勢や方針を理解するには最低限の基礎的な知識が必要です。 にもかかわらずそれに対応した組合員支援学習システムが構築されていないのではないのでしょうか?
すなわち、「自ら学び、自ら考える力」の活動をめざす組合員の「主体的」な学習の中核に従来の「理解させる」班会議ではなく、自分の問題の相談などを、組合員同士でおこないながら学習の力点とするとよいと思います。そうすれば「組合知識」や「班運営」の定着に対する個人差(社会階層→生活環境→組合活動時間→意欲)が生まれるを防げるのではないでしょうか。
そういう、組合員が主体的に参加する分会・班運営への転換があれば、パート解雇という事態もなかったと思います。具体的には組合員10~15人に1人の班長の班が確立されていれば理想的なカタチだと思います。その理由は、望ましい分会として組合員が自分で考え、座って聞くだけでない班会議、知識の詰め込みでない論議などが可能だからです。
情報化社会という観点からどんな思想攻撃にも対応できる根源的な考え方を議論しあえる班会議ができていれば解雇問題も深く議論できたのではないでしょうか。そういう「自ら学び、自ら考える力」の育成がこれからの労働組合では重要であると思います。うまくいくかどうかは現場の支部や分会の創意工夫にゆだねられているのです。
たとえば、班運営マニュアルができつつありますが、それらをもとにしても、その場その場での組合員一人ひとりへの適切な対応が鍵となる以上、執行部は、それぞれの状況に応じて手探りでやるしかないのです。しかし今回のパート解雇の問題のように執行部がデタラメな場合は班長や組合員の洞察力・判断力にたよらざるをえないというコトなのではないでしょうか?
1/16、16:00からの「きずな」裁判に出てきて下さい。あなたは解雇実行者であり責任者ですから。
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