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2007年05月30日(水) 活発な「交易の民」アイヌの歴史(網野善彦著/「日本社会の歴史」上中下)

活発な「交易の民」アイヌの歴史

「日本社会の歴史」上中下(網野善彦著/岩波新書)参照

 「日本」は部族名でも地名でもなく、日の出るところつまり東のほうを意味し、中国大陸を強く意識した国号でした。六八九年、「倭」にかわる国号「日本」、大王にかわる王の称号「天皇」が初めて制度的に定められ、日本国がここに初めて誕生しました。翌六九〇年、天皇持統が即位しました。
 北海道では、八世紀はじめは続縄文文化が終末期にさしかかっており、まもなく擦文文化といわれる文化は海を越えて東北北部に及び、本州からは土師器(はじき)を使う文化が北進し、オホーツク海沿岸にひろがるオホーツク文化も北海道東部に及びつつあり、北海道の社会も新しい文化段階に入ろうとしていました。
 一二世紀になると、アジアのバイキングなどといわれ海獣の狩猟に巧みなオホーツク文化人は、熊を祀るなどののちのアイヌ文化の精神面に強く影響を及ぼしたのであるが、擦文文化人たちとも関係を持ちつつ北海道東部に定着していました。
 北海道南部と東北北部の間には、津軽海峡を通じて人とモノとの交流が非常に活発であり、この頃、この地域の人びとを本州側から「蝦夷(えぞ)」と呼ぶようになっています。
 一三世紀には、夷島(えぞがしま)ともいわれた北海道南部から日本海を通じての海上交通、交易により、北方の産物ー昆布・鮭などが本州・四国・九州にもたらされ、逆に中国大陸の陶磁器や銀貨などが北海道にも大量に流れ込みました。こうしたミナミからの文物の流入の中で、北海道では、北東アジアから道東に入ったオホーツク文化が他の全域を覆う擦文文化に吸収され、サハリン、北東アジアなどとの交流の中で、しだいにアイヌ文化が形成されていきました。

 新たな文化を創り出したアイヌは、土器を用いず、農耕も行わず、狩猟、特に漁労・採集を営みつつ南北に活発な交易を行い、日常用具・食料を入手し、一三世紀後半までにはサハリンに入り、さらに北東アジアのアムール川流域で交易を展開するようになっていきました。

 アイヌの中には、本州人とも言語が通じ、相互に交流を活発に行っている渡島半島の「渡党(わたりとう)」といわれた集団に対し、農耕も知らず、毒矢を使い、狩猟・漁労で生活する日本党(ひのもととう)、唐子党(からことう)などの集団があり、北海道やサハリンの全域にアイヌの独自な社会が形成されつつありました。
 
 そのころ草原の遊牧民モンゴルの王者となったチンギス・ハンは、ユーラシア大陸全域に及ぶ巨大な勢力を形成し、中国大陸はその重圧下に置かれ、その波動に列島社会にも及びました。交易のためにアムール川に入ったアイヌとモンゴルの摩擦から、北方の海の領主安藤氏の中心人物がアイヌと見られる「蝦夷」に殺されました。

 一三世紀後半に入ると、中国大陸からの宋銭が本格的に流通し、陸海交通・交易が活況化し、アイヌも交易の民として、サハリン、アムール川、北東アジアまで活動を展開していました。
 
 一四世紀に入ると、北東アジア、サハリン、北海道、東北北部におけるアイヌの交易活動、および北海道南部、東北北部の海の領主安藤氏を中心とする本州人の会場交易と、北条氏による専制的な海上交通支配の激突である「アイヌの放棄」が起こり、本州の出羽にまで広がりを見せました。列島諸地域がこのような独自な動きを見せ始めたのに対し、鎌倉幕府や東国の王権は弾圧するのみで柔軟な対応ができないまま、次第に行き詰っていったのです。
 
 一五世紀に入ると、北東アジアでは明の力がアムール川下流にまで及ぶ中、アイヌの動きも活発化しました。アイヌは農耕を充実させる方向を捨て、主として交易に従事する道を選択し、その中で新たに「民族」としてみずからを形成する道に進み始めました。そして、東北北部の、北の博多と言い得る有力港であった十三湊(とさみなと)で繁栄していた安藤氏を、北奥羽で勢力を振るう南部氏が攻撃し、この動きは、北東アジアとの交易を活発に行っていたアイヌも巻き込み、一四五七年コシャマインを指導者とするアイヌとのあいだに戦闘が行われました。戦争はコシャマインの戦死によっておさまり、アイヌと本州との間に交易の縄張りについての協定が成立しました。中国製青磁・白磁が膨大に流入した勝山館(かつやまだて)にはアイヌも混住していたと見られ、この時期にはアイヌと本州人、安藤氏との関係は円滑な一面がありました。まさしく列島社会の文明史的・民族史的転換が進行していましたが、それとともに日本国の国制下におかれた社会の中には、さまざまな差別の根が下ろし始めていました。

 一六世紀になると、北海道ではチャシという聖地、砦が、海や川沿い、それを見下ろす丘陵、岬に構築されるようになりました。同じ頃、アイヌの英雄叙事詩『ユーカラ』が成立し、アイヌの「民族的意識」は明らかに強くなりつつありました。背景には、だいぶん以前からアイヌが北東アジア、北海道南部、東北と「交易をする民族」といわれるほどになっていたことがありました。

 しかし一七世紀になると、徳川家康は、松前氏が自らの支配地をなお「日本ではない」と主張していた北海道のアイヌを、「日本国」の支配下に誘引しようとしました。松前氏は日本国の境界の特異な性格を持つ大名という立場を、幕府によって保障されていくことになりました。
 アイヌは一部は松前氏に属した者もありましたが、その後もなお独自な生活秩序を北海道全体で保っており、山丹交易(日本国と北東アジアを結ぶ交易)に積極的にたずさわる活発な商業交易民であったとみられます。ヨーロッパと同じような馬を持っていたことも知られています。

 一七世紀後半になると、公益と漁労の縄張りをめぐる争いを契機に蜂起した、主張シャクシャインに率いられるアイヌ2千人余が、松前氏に鎮圧され、これ以後、アイヌの首長たちはなお独自な地位を保ちつつも、日本国の大名に貢納物を献上することによって、立場を保障されるようになっていきました。
 権力の安定のもと、社会・経済の発展はめざましく、近江や能登の商人は松前領のアイヌとの交易の場、商い場を請け負い、北の産物(昆布、いりこなど)を入手するとともに、アイヌを雇用して大規模な鰊(にしん)漁を行ったりしました。北の産物はこれらの商人により、大坂、薩摩、琉球国、中国大陸にまで大量に運ばれ、こうした商人の北海道進出に伴い、アイヌに対する収奪、圧迫は次第に厳しさを増していきました。

 一八世紀後半に入り、ロシアがカムチャッカを押さえてアイヌと交易を始め、ロシアと日本の間の緊張関係の板ばさみとなったアイヌの立場は次第に低下していきました。一九七八年に起こった日本人に対するクナシリ・メシリのアイヌ放棄で、幕府はアイヌがロシアと結びつくのを警戒して、「蝦夷地」の厳重な防備を実施しました。

 一九世紀後半には、明治政府はロシアと樺太・千島交換条約を結び、千島・北海道のアイヌを日本国の支配化に置きました。しかし、政府はアイヌの独自な縄張り的な土地支配権を私有権として認めず、農業を強制されたアイヌの「民族生活」は決定的に破壊されて行きました。
明治期以降、神話を事実とした荒唐無稽な天皇中心の歴史観の中で、日本人を「血統」の上で天皇につながる優れた「大和民族」であると徹底的に教育で刷り込み、長い歴史と独自の文化を持つアイヌの人びとの固有の言語を否定して日本語の使用を強調し、日本風の姓名を名のらせて戸籍にのせた上で、皇民化を強要したという無神経なやり方は、アイヌの人たちに、はかりしれない苦痛を与えました。 







参考)

・・・昭和三七年一二月、ウレしゅう長の妻でムカワアイヌの最年長者だった板野エサンさんが・・・この”チセゴモリ”を守って死んだ。おそらくコタンでこの奇習を守って死んだのは、これが最後だろう・・・北海道各地から大勢のウタリたちが集まって エサンばあさんの家を焼き払う行事が行われた。・・・テレビや新聞の報道陣が大勢やってきて・・・
「アイヌの伝統とか アイヌ文化だといってお祭り騒ぎをするのです。つまらぬ因習だ。やめてくれればいいのに。あのときはやりきれない気持ちだった・・・」

「・・・コタンのチセがぽつりぽつり消えていったのは こうしたアイヌコタンに悪い因習のようなものがあったことも一つの原因だと思う・・・」
(一八頁)

”チセゴモリ”
「役にたたなくなった老人はひとり山小屋にこもって余生を送り静かに死期を待つ。死後は小屋もろとも焼き払って病魔を退散させる」アイヌコタンの風習

コタンの一部の老人たちは「アイヌがシャモとの生存競争に負けた結果だ。やはりむかしの生活がなつかしい」とあまり喜ばない人もいた。


「コタンの青少年を本州の大工場に送り込もう」運動
酒折久男さん(三五歳)らの青年グループ

「・・・アイヌという言葉に苦しまなくなるためには、自分に勝つことだと思う。・・・アイヌのことを書いた『森と湖の祭り』(武田泰淳著)を読んだことがありますか。あの小説の中の一節でアイヌ学者が女画家に言う言葉があるんです。『アイヌは悲惨な過去をすっかり忘れ、日本の労働者、農民としてしっかり生活を築いてゆく。その前進に融け込むなら、いまさらアイヌだ、ウタリだとか、セクトにかたよらずに未来の幸福を切り開く路へ進軍した方がいい』とあります。あそこが好きで、何回も読みました。ボクの考えていることをそのままに表現しているのです・・・」


貝沢正さん(五二歳)
昭和一二年頃・・・アイヌの苦悩から逃れるために「アイヌ民族の大陸移動」を実行した。
当時 満蒙開拓青年義勇軍、日本農民の満州移民団が 続々と大陸目指して移動していた。
「・・・満州にはおれたちを差別扱いするシャモがいない・・・」
・・・文字通りの「自由な天地」でのびのびした気持ちでクワを振るうことができた。
「・・・終戦で駄目になり 生きて帰るのがやっとでした」
・・・満州での経験を生かして新しい農業経営に取り組んだ・・・

「将来日本のアイヌはどう生きるべきかを検討するため、・・・近いうちにアメリカに旅行してみたい。そしてインディアン(本文のまま)や黒人問題をじっくり調査し、アイヌの進むべき方向をみつけたいものです」


・・・このひとたちはアイヌの団体にも近寄らず ウタリの人たちが訪ねていっても冷たく、素知らぬ顔をする。それでいてやはり「アイヌである」という宿命からは抜け切れず、ひそかにアイヌ厚生事業に資金を贈ったり、ウタリの動向には非常に気を配る。そうしたアイヌの成功者たちは人知れず陰で苦悩を抱えた生活を送っているのである。
「アイヌを意識して前進するのがいいのか、アイヌを忘れて進むのがいいのか。成功者たちもやはり悩みはあるのです」


アイヌ彫刻家 床ヌプリ君(二七歳)
「トンコリをひく女」
「・・・アイヌに伝わってきた彫刻は 抽象と偶像をごっちゃにしたような作品が特徴です。
ボクはそうした昔の彫刻技術と美しさを現代のセンスで磨き上げたい。
アイヌのユーカラや歌、踊りを木彫りの中に表現していきたいのです。
将来、いや現代の社会にはアイヌ民族は存在しないことになっている。
ボクは実在しないアイヌ民族を彫刻の中に求めていこうと思うのです。
ボクの彫った彫り物の中でアイヌたちはユーからを語り、べカンベ祭り(ヒシの実祭り)を踊る。
そして彫刻の中のアイヌが静かにボクたちに話しかけてくる。
ボクはそんな作品をたくさん生んでいきたいと思っている」(一八五頁)
「アイヌの民芸品はアイヌの悲惨な姿を売り物にするのではない。
芸術を売るものだから みんなでアイヌ彫刻を真剣に勉強しよう」

・・・こう呼びかけたヌプリ君に阿寒湖畔のウタリ(同族)たちは・・・さっそく三五人のクマ彫り職人が「工芸品工業組合」を結成して・・・

お弟子さん「ボクたちはアイヌから逃げ出し 日本人として生きるために努力してきたが アイヌを逃げ出すことができないことを悟った。それならアイヌを看板にして生きてみよう。それも滅亡していく哀れなアイヌでなく、アイヌ芸術を身につけた 優れたアイヌとして生きていこうと考えたのです。」



萱野茂さん(三七歳)

「アイヌ、アイヌとバカにしながら 古い先祖のことを掘り返して調べ、どうするのか」
彼は東北大学の教授とやりあった。教授は苦笑しながら受け流して 毎日コタンを歩き回った。萱野さんは夜になると教授の部屋にでかけていって議論した。
「君は若いからそう思うのも無理はない。
しかしアイヌ文化はいまにして完全に調査しておかないと、
君たちのような若い人たちによってアイヌの文化は消えてしまう。
アイヌ文化といっても、これは日本の古い文化の一部だ。
私はアイヌを他民族だとは考えていない。
大和民族のつまり北方文化を調べているのだ」
・・・彼は教授といっしょにアイヌの生活文化を探求することになった。
アイヌは和人(本州人)とどしどし同化してゆくのが当然の道だ。
しかしアイヌをきらうあまり アイヌ自身が自分たちの文化まで忘れ去ろうとするのは正しくない。
母国語のアイヌ語は失ってしまった。
せめて資料として保存することぐらいはアイヌ自身の手でやるべきだ・・・


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