関 庵

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関 庵
@2XLIspYylpomDDt
長い。そして短い。時間を共有した我が弟である力造に捧げる。関庵としてのアカウント。別れの言葉は言わぬ。しばし、獄卒共と卓を囲んでいろ。余がそちらに着く時は、直々にマスターをしてやろう。だが、昔を思い出すのは許せ。ただの思い出語りだ。
2020年11月からTwitterを利用しています

関 庵さんのツイート

卒業後、あいつは技術を持つことを考えた。ベルセルクを後輩に譲り己の行きたい道を進む事にしたようだ。余が心配する事は、何もなかった。杞憂とはこの事か。
散々に悩んだ。卒業までわずかになった。余は、この毒は排除すべきかどうかを。ヤマオカゴロウ氏に相談もしたが、面白い事に力造自身で解決しやがった。
人との関係は、薬にもなり毒にもなる。余と力造の関係は、どうだったのであろう。少なくとも、当時は毒であった。二期目のベルセルクメンバーは良薬になったのであろうが、あるメンバーが毒以上に毒過ぎた。
輪をかけて悲惨だったのは、ゲームを楽しむメンバーとの乖離は、容赦無く余と力造の身に振りかかった。サークルベルセルクの新メンバーは、ゲームより現実を見る事の方が確かだった。
時が全てを解決してくれる事もある。勘違いした馬鹿達は、馬鹿たちなりの答えを導くことになった。傍から見れば、傷の舐め合い。その言葉にすら失礼で、実際の答えは馬鹿げていた。
言い訳になるが、だからこそ余は、力造から離れた。高校二年の師走は慌ただしく過ぎていった。普遍ではなく移りゆく。理解するにはまだ人生経験は不足していて、事を図るには尺度は一切合っていなかった。
やがて、全ては離れ、ヤマオカゴロウ氏も「放置するしかない。」そう考えるしかなかった。悪い事は重なるもので、力造の求めた優しさとやすらぎは得られることはなかった。いや、力造の考えていた現実とはかけ離れていたのだろう。
求めたのは、自分への無償の愛であり。決して力造の全てではなかった。だからこそ余は告げた。「その女はお前に相応しくない」ゲームを優先するか自分を優先してくれるかどうか?それが無償の代償だったからだ。
愛を捧げた相手が、ただの構ってちゃんだったら、あんたならどうする。その相手が原因でメンバーが離反して、サークルが徐々に崩れていく。未練たらしくもメンバーはチョッカイを出す。
力造のミリキが勝っていたのか、紅一点の争奪戦に勝利する。しかし、同時に悲劇の幕開けでもあった。メンバーの一部の離反もあり。サークルは崩壊した。
残念ながら、余は女性経験に不足はない。数多の女性とは、ベットや個室のお風呂場で戦っていたからだ。本当に残念だったのは、ヲタは女性に幻想を勝手に抱く。その真実はメンバーにほぼ共通していた。
高校生活なら当然。恋バナもある。余からの忠告を先にしておく、恋バナは深入りしないほうが良い。カノジョが出来て浮かれていたのかやたらとマウントを取り出した。かわいらしい力造である。
震災から一年。人生もまた変わりゆく。余も力造も進級し、流行り物も趣向も個性として育つ。力造はバイク免許証の取得とバイクを購入。見事な校則違反をやりおった。余が免許証を取得していたのは黙っておこう。
師走のヲタ界隈は、コミケに向けてまたボルテージを高めている。だが、我々には、ゲームをする場所を探す必要であった。その場所が力造の実家。通称リキハウスと呼ばれる。
キャンペーンシナリオも終わりに近づき、新たなメンバーを迎えたサークルベルセルク。順風満帆とはいかなかった。人生なんてものは、上手く行かない。そんなものだ。アンバーハウスの退去である。
夏休みを越えた力造と余は、青森座談会主催のヤマオカゴロウ氏にも助けられてテーブルトーク無くしては、もはやイカれない体になっていた。学校にバイトにゲーム。ある意味で薔薇色。悪い言い方ならクソな高校生活を送っていた。
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夏休みの高校生はだいたいがメーターの針を振り切る。そう。45日連続テーブルトーク大会。毎週日曜日の青森座談会とベルセルクコンベンション。プラス知り合い主催のコンベンション。想像とは違う方向に振り切ってしまった。
力造の考えたキャラは、なんか不死身な設定がありそうな無限っぽい剣士の住人。同じ世界観で別々のキャラを演じるとか、やはりクレイジーだぜ!力造!!
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サークルベルセルクの活動と並行して、毎週水曜日と土曜日の徹夜TRPG。大阪府吹田市の知人宅で開催される狂喜の宴。
運命的。その言葉がまさに合う。6月より正式にサークルベルセルクの会員になる。当時のメンバーはお手伝いさん。「えっ?コイツ実質一人でやったの!」成立卓は7卓。ガープス、ソードワールド3つ、スペオペ、ブルーフォレスト2つ。クレイジーな奴と仲良しになっちゃったな
廃校となった神戸市立御影工業。余の席の前が力造であった。余は同人ヲタ。力造はTRPGヲタ。互いに必要だったのか、やっちゃいけない化学反応がおきた。時に、1995年。阪神淡路大震災の傷跡も癒えぬ4月。翌月。第一回ベルセルクコンベンションが始まった。
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