◇
アインズ・ウール・ゴウン魔道国、フラットフット通り──
首都ナザリックの中心部から商業地区へ向かって南西に伸びるその通りの一角に、アインズは転移で現れた。
「うわっ…‼」
馬のいななきが聞こえ、轍の乱れる音がした。
顔を上げかけたアインズのすぐそばをかすめて、かしいだ荷馬車がとおり過ぎる。アインズの豪奢なローブの裾が、遅れてやってきた風圧にわずかにはためいた。
「いきなり出てくんな、莫迦や──」
ふりかえって罵声を上げた馭者の顔つきが、さっと蒼ざめるのを見た。
「わわわわっ…、ま、魔道王様‼」
御者の男が慌てふためいて馬車から飛び降り、積み荷にも馬にも構わず駆け寄ってくるのもずっと見ていたが、アインズは何も感じていなかった。
「も、申し訳ございません‼ 大変ご無礼を、どうかお許しください‼」
まだ少年といっていいほどの年齢かもしれない。土を突き固めただけの車道に膝をつき、額をこすりつけて土下座をする姿が意識をかすかに引っ掻いた。
アインズ様、どうか……! どうかお慈悲を!
懇願が、心にキツい。
猫毛が渦を巻く少年の頭頂部をぼんやりと見下ろしながら、許しを請わなければいけないのは自分のほうだったのに、と感じていた。
震えながら非礼を詫びる少年の言葉はなおも続いている。
まだ朝も早い時刻とあって、辺りには住人の姿もそう多くはなかった。
だがそれゆえに、ひとりひとりの気配はかえってよくわかる。
青果店の周りを掃除していた下働きの者や、その日使う荷馬車の点検をしていたと思しき者たちが異変に手を止め、固唾を飲んでこちらを見ていた。
「ああ、……もうよい。お前に罪はない」
驚いたように顔を上げる少年に、内心でこっそりとため息をついていた。
こんなものにいちいち関わっていたくない。
「これから仕事があるのだろ? 構わぬから、もう行け」
「は……はいっ! ありがとうございます‼」
おっかなびっくり、何度かこちらをふり返りながら少年は馬車に戻る。
御者台に飛び上がり、手綱をふるいながらもう一度ふり返って頭を下げてくるのに、投げやりな動作で「行け」と手をふった。
(…………)
方向を確かめるまでもない。
けぶるようにふり返れば遙か遠く、朝の光を照り返すナザリックの地上部分がわずかに見える。そこはゆうべデミウルゴスに会うために、レイスが
もう一度、どうか、レイスに……‼
よみがえる声に耳を覆うこともできない。
ただ逃げ出したい一心で、『ナザリックの外へ』と願った転移だった。
ここはレイスになって出かけるときの、お決まりの始点だ。無意識のうちに、ほとんど習慣になっていたこの場所を思い描いていたのだろうか?
辺りがざわつくのにふと気づくと、周辺には住人たちの姿が増えていた。
遠巻きにこちらを窺っている彼らの様子に恐怖は感じられない。
アインズに声をかけようか、お引き止めしては失礼だろうか──そわそわと浮つくような戸惑いの気配が大半を占めていた。
(……この格好じゃ目立つか)
アインズが腕をひと振りすると、おおおっ、と住人たちからどよめく声があがる。
豪奢なローブ姿から、粗末で地味な灰茶色のローブ姿に一瞬で変わっていた。
(とにかく、どこかで少し落ち着きたい)
──ひとりで。
しかしアインズが無視していても、物見高い住人たちの視線はしつこくまとわりついてくる。仕方がないと思うものの、魔法で薙ぎ払ってしまいたくなるほど今はそれらがわずらわしくもあった。
あてもなく歩きだしながら、アインズは一般メイドたちが走り回っていた廊下の様子を思い浮かべていた。自分を探していたのかと思っていたが、もしかすると担ぎ込まれたデミウルゴスの様子に騒然としていた、というのもあったのかもしれない。
街道の最初の分岐点にさしかかる。
いつもの道を進みかけて、ふとアインズは立ち止まった。夜明け前、空から見下ろしたクレーターを思い出して自嘲の笑いがこぼれ出た。
こっちに行っても、もう何もない。
(どこに行こうか……)
そう考えてみても、特に行きたい場所など思いつかなかった。
ただなんとなく
危ないでしょ、何やってんですかもう。
懐かしい声とともに、ゴージャスな黄金色の羽毛が一瞬ひらめく。
ここであの人に仕掛けられたらひとたまりもないだろうな、と心の奥底でちらりと思った。実際にはそんなことなど起きるはずもないのに。
360度、果てしなく続いているかのように見える異世界の景色。顔を少し上へ向ければ、視界は一面の蒼天に覆いつくされる。
誰も、いない世界。
雲ひとつない快晴の空に一点。
灰茶色のローブをまとったアインズの姿がぽつんと浮かんでいた。
◇
(アルベド様、アインズ様です‼)
アインズ発見の第1報は、ユリ・アルファからもたらされた。
首都の中でもナザリック地下大墳墓の敷地を含む、魔道王直轄区からの
だがアルベドがほっとしたのも束の間、上空に浮かんでいたアインズの姿はユリが発見した瞬間にかき消えてしまったという。
「ユリ、方角とだいたいの距離はわかるかしら? ……結構。あなたたちは引き続き直轄区内の巡回を続けて頂戴。くれぐれも気をつけて」
(かしこまりました)
樫材の巨大なテーブルに向かうと、アルベドはペンを執って地図に×印を書き込んだ。
商業地区の手前……ユリの目測が正しければフラットフット通りの上空。
ふり返ればナーベラルが、もう十数回めになる
ナーベラルから報告を受けたアルベドは、すぐさま行動を起こしていた。
ちょうど玉座の間でコンソールを開いていたところだ。画面を切り替え、ナザリック内部にアインズがいないことを確認すると、守護者たちへ一斉に
シャルティアと麾下の
ペストーニャのもとで治療と回復を済ませたデミウルゴスが合流した時点で、すでにここまでの手配が稼働していた。
玉座の間の奥、急遽管制室へと変貌したアルベドの自室。現れたデミウルゴスを見た瞬間、彼女の全身からゆらりとどす黒いオーラが立ち昇る。
「アインズ様は──⁉」
「まだ見つかっていないわ」
すっと怒気をおさめたアルベドは、何十枚もの地図が散らばったテーブルに向き直った。まるで航空路線図のように線の引かれたそれらをデミウルゴスも覗き込む。
まずはアインズの所在をつき止めなければならないが、防衛上『無敵の魔道王』に影響を与えうる呪いが存在する、などと他国に知られるわけにはいかなかった。
最も警戒すべきは、そうと隠して国内で活動しているアークランド評議国出身の冒険者たち。そのほかにも他国の諜報部隊と思われる組織を、ナザリックは国内にいくつか把握している。
捜索はなるべく秘密裡に、しかし大々的に。
セバスは「探索に長けたシモベを」と提案したがアルベドが重視したのは不可視化・不可知化が使用できるかどうかという1点だった。
アルベドとデミウルゴスの後ろでは、ナーベラルがアインズへ向けて繰り返し
「旧聖王国方面への手配はどうなったかしら?」
「条件に合致するするシモベたちを送り出したと、今しがたプルチネッラから報告があったよ。アルベド、この印は?」
「ユリからの情報。上空よ。その地点以来、まだお姿は──」
アルベドが顔を上げると同時に、開け放たれたドアの前に人影が立った。
豪奢なローブに身を包んだアインズが、軽く頭を下げて部屋の中に入ってくる。
「アルベド、そろそろ表敬訪問が始まるぞ」
「わかってるわ、上手くやって頂戴。ほかの
各領地の有力者、他国の貴族や大商人……今日アインズが謁見するはずだった者たちについての情報はセバスからパンドラに伝えられている。いま定例の謁見を中止するのは得策ではない、というのが
手筈の最終確認を行なっている二人から視線をはずし、デミウルゴスはテーブルの上の地図にあらためて目をやる。
世界はこんなにも広かったのか、と今さらのように感じていた。
この広大な版図、アインズはその気になりさえすれば一瞬でどこへでも行くことができるのだ。そしておそらく、シモベの誰もがあずかり知らぬような地へも。
(アインズ様……いま、一体どちらに──)
もうレイスには会わせない、と。
冷たく背を向けて消えてしまった光景が浮かんでデミウルゴスの胸が痛んだ。
セバスの見解を聞くまでもなく、彼との交戦にアインズが心を傷めたのだろうことはよくわかる。自分の戯れが招いた結果だと、ご自身を責められているかもしれない。
(アインズ様……!)
牢獄で見たその背中に、いつか見た夢の光景が重なった。
暗闇の中、どんなに手を伸ばしても届かない──
懸命にもがく目の前で、ドットが崩れるように溶けていくアインズの姿。
己をむしばむ『プログラム』が、最愛の主を壊してしまう……
◇
「デミウルゴス、聞いているの?」
はっと意識が引き戻された。
パンドラズ・アクターの姿はすでになく、アルベドの説明は次の段階に移りつつあった。このまま新たな情報が入らない場合、捜索の範囲をどこまで拡大すべきか──という話だ。
「ああ、もちろん聞いているよ」
目撃情報が入り次第、周辺の重点的な捜索を?
御身の所在が確認できたら、転移で自分がお迎えに上がり……
「ですが、私もここでじっとしているわけにはいきません」
「──⁉」
「情報は随時
「何を馬鹿なことを……無駄足だわ。呪いの受け手はあなたしかいないのよ? それでなくともただでさえ減っている魔力、あなたには温存しておく義務がある」
「ああ、その心配なら必要ありません。削られるのはあくまでも最大魔力……いわば魔力の器なのですから。中身が減ろうが増えようが関係はない」
「…………」
アルベドが、不審そうに眉をひそめる。
デミウルゴスは笑みを浮かべた。
「私は、この身で何度も呪いをうけましたからね。よくわかっています」
「ああ……、そう、だったわね」
「念のため回復アイテムと
アルベドがまだ何か言いかけるのをさえぎって、デミウルゴスは早々に出て行った。
呪いをもたらすアイテムがもとは宝物殿から出てきたものだということは、既にパンドラから聞かされている。
もやもやとする感覚に、アルベドはもう一度眉をひそめた。
パンドラはおろかアインズ様ですら、呪いについては知らなかったというのに──と彼女は思う。もしも知っていたのなら、あの御方がそれをシモベに肩代わりさせて黙っているはずなどない、という確信があった。
今回の一件はデミウルゴスがそれを御身に黙っていたせいで引き起こされた事態だと認識しているが──では、どうしてデミウルゴスは呪いの効果を知り得たのだろうか、と。
何度も受けたから、ではない。そもそもの最初はどうだったのかということだ。
この点に、セバスが疑問を感じているような様子はなかったけれど。
(……偶発的に呪いを受けて、それでわかったということかしら)
肩をすくめたアルベドは、それきりこの点について考えることをやめた。
何よりも優先すべきはアインズの発見。ほかに気を取られている場合ではない。
たとえ魔力を完全に失って消滅することになろうと、デミウルゴスは絶対に同じ過ちを犯したりはしないだろう。──ならば好きにさせておけばいいい、と──。