第149話 パラディア王国城と村の様子
プロキシア帝国でニドルと戦った日の晩から数えて二日目の午後、リオはパラディア王国の王都を訪れていた。湖畔に広がる城下町の様相はありていに言えば平凡で、大国の地方都市程度の賑わいを見せている。商業区域の道端には、声を張り上げる商人や買い物客の姿があちこちで見受けられた。
(普通……だな)
それがリオの抱いたこの国の王都に対する第一印象である。プロキシア帝国城での戦いの後にニドルから得た情報によれば、このパラディア王国が今のルシウスの仕事先であり、第一王子とも繋がりを持っている、とのことだが――。
情報の出所が出所なだけに罠の危険性はあるし、話半分にしか信用はしていないが、他に目立った情報がない以上は、調べないわけにもいかない。
(日が暮れたら、早速、城に潜り込んでみよう)
リオは湖畔の小高い丘にそびえる王城を見据えた。高く堅牢な城壁に囲まれたその佇まいは城というより砦に近く、ベルトラム王国やガルアーク王国といった大国の王城と比べるとだいぶこじんまりとしている。
もしかしたら今この時、あの城の中に、母の仇であるルシウスがいるのかもしれないと思うと名状しがたい気持ちが胸にこみ上げてくるが、リオは小さく深呼吸をして自らを落ちつけた。
◇ ◇ ◇
そして、日が暮れた
パラディア王国城は侵入者を拒むように、堅牢な城門と城壁によって堅く閉ざされた。城内には随所に篝火が焚かれ、昼間以上に多くの番兵が徘徊するようになり、厳めしい警備体制が敷かれている。
リオは地上からの侵入は骨が折れると判断すると、闇に紛れて空を飛び、パラディア王国城の屋根に降り立った。黒い覆面と装束を着用し、気配と物音を消すことで見事に暗闇と一体化し、ひっそりと移動を試みる。とりあえず屋根伝いに城の庭の様子を観察しつつ、侵入できそうな窓を探すことにした。
基本的にお城は防衛の観点から低層に窓を作らないように設計されているものだが、パラディア王国城は要塞的な造りであるせいか、高層であっても侵入できそうな窓は少ない。時折、良さそうな窓を見つけるが、内鍵で閉められているものばかりだった。
とはいえ、探せば侵入経路はあるもので――、
(この見張り台から入り込むか)
リオは見張り台として使用されている尖塔から城の中に入り込むことにした。ただ、見張り台の中には二人の番兵が見張りに立っているし、城内の通路に巡回の兵士がいる可能性もあるので、不用意に侵入するわけにもいかない。
そこで、リオは周囲の空気に自身の魔力を浸透させ、風の精霊術を行使して周囲から不可視になる特殊な空間を形成した。ただし、物音や放出している魔力は誤魔化すことはできないし、急速に動くとほころびが生じてしまうため、慎重に進む必要がある。
とっかかりを掴んで壁を伝い、そっと見張り台の中に忍び込むと――、
「ん?」
侵入時のわずかな着地音を捉えたのか、近くの番兵がぴくりと反応した。しかし、開けた見張り台の中に自分達以外の誰も見えないことを確認すると、すぐに意識を逸らしてしまう。
リオは着地したまま数秒間そのままうずくまると、おもむろに立ち上がり、番兵の隙間を縫うように見張り台の中を歩いて、城内へ忍び込んだ。そして――、
(ここからが勝負所だ。とりあえず第一王子の部屋か所在を探ろう)
と、気を引き締める。
兵士が徘徊する城内を姿をさらしたまま堂々と歩き回るわけにはいかないが、王城の中となれば魔力に対する感度が高い魔道士が勤めているかもしれないし、場所によっては魔力反応を探知する魔道具や結界が仕掛けられている危険もあるだろう。人の気配を探り、不審な魔力反応を探知して、時には姿を消したり、姿を現したりと、警備の目を上手く掻い潜って情報を収集するのが腕の見せ所だ。
何度か他国の王城に忍び込んだ経験もあるので、リオも慣れたものである。こういった潜入時にはある程度の思いきりも必要であると割り切っているのか、過度に臆することなく足を動かし始めた。
尖塔の階段を下りて、本城へとたどり着く。途中、巡回している兵士とすれ違う時は精霊術で姿を消したり、物陰や天井に潜んだりと、臨機応変に対応した。
(大国の王城ほど広くない分、見張りの配置に無駄がないな)
と、リオはそんなことを考えながら、城内を闊歩する。まずは城内の構造と警備の様子を把握するため、あちこち歩き回ってみることにした。見張りの兵士が多い区画を記憶し、建物の造りなども踏まえて、位の高そうな人物がいそうな場所に目星をつけていく。
そうして、一通り城内を歩き回ると、リオはその後の行動を決めるべく、いったん人気のない場所で作戦を立てることにした。
(王族が住まうのはおそらく本城の高層階だけど……、問題はどうやって部屋の中に入り込むかだな)
流石のリオも見張りの兵士が立っている閉ざされた扉の中へ入ることは難しい。もちろん多少の異変を察知されても構わない覚悟で透明化して扉を開けることはできるが、誰もいないのに勝手に扉が開けば確実に騒ぎになるだろう。リオとしては騒ぎになるのはあまり面白くない。
(一度外に出て、窓を調べてみるか?)
だが、内鍵で閉ざされている可能性は高いし、貴人の部屋には人が出入りできるほど大きい窓がないこともある。下手に開けようとしたり、精霊術で中を探ろうとしたりして、中にいる者に気取られても面倒である。
(それか誰かが適当な部屋に出入りするのを待つか)
それが最も無難だが、どれだけ時間がかかるかはわからないし、どの部屋に目当ての第一王子がいるかもわからないので、効率は悪い。霊体化できるアイシアがいればだいぶ潜入は楽になるのだろうが、今はロダン侯爵領でセリアと一緒にいる以上、ないものねだりはできない。結局――、
(……もう少し城内を歩いて、第一王子の情報を探ってみるか。会話を盗み聞きすれば、部屋の位置もわかるかもしれない)
急がば回れ。リオはゆっくりと、確実に情報を収集するべく、第三の選択肢を選んだ。
今まで歩き回った範囲で人が多く集まっている区画へ移動するべく、いったん本城の下層へ向かう。本城の下層は城に仕える使用人や兵士達の待機場にもなっているので、色々な話を聞きだすことができるだろう。
すると案の定、下層では色んな噂話を聞くことができた。空き時間を持て余している使用人達はゴシップに花を咲かせる以外に娯楽などないのか、暇つぶしにあれこれ喋っている。
例えば、リオからすればどうでもいい同僚内のネガティブな噂話をしていたり、城内に住まう王侯貴族達のやんごとなき噂話などをしていたり。話題を誘導できないのが難点だが、城内の世情を知るのにはだいぶ都合がよかった。
小一時間も話を聞いているうちに、リオは第一王子の名がデュランだと知る。今いる兵士達の休憩所では、ちょうどデュランに関する噂話が繰り広げられていた。リオはようやく掴めそうな第一王子の手がかりに、そっと耳を傾ける。すると――、
「デュラン様が連れていた新しい女を見たか? 城下で有名な宿屋の看板娘らしいぜ」
ある兵士が好奇心を滲ませて、他の兵士達に話題を振った。
「あー、またか。いいよなあ。とっかえひっかえ女を変えられてよ」
と、別の兵士は羨ましそうに言う。また――、
「まったくだな。俺も権力者になりてえよ。浮気も公認なんだろ?」
「浮気も何もお前はそもそも独身だろ。浮気を夢見る前に嫁さんを見つけろよ」
「う、うるせえな。仮にの話だよ、仮にの話」
などと、他の兵士達も話に加わって、談笑する。
「まあ、英雄色を好むというからな。デュラン様の戦働きは凄まじいし、周りも滅多なことは言えないんだろう」
「後腐れないよう、基本的には飽きたら解放するって話だしな。今度の女はどれくらいで飽きられるか、賭けるか?」
と、一人の兵士が賭け事を提案すると――、
(だいぶ女癖が悪い王子らしいな)
リオはそう思った。
「でも、デュラン様、懇意の傭兵と手勢を連れて外出されたって話だぜ。いつ帰って来るんだか」
兵士が「懇意の傭兵」と言うと、リオはぴくりと反応する。
「ふーん。何かあったのかね? 今は特に大きな争いもないって聞いたけど。デュラン様が出張るような問題が起きたのか?」
一人の兵士が世間話のつもりで話題を振ると――、
「知るかよ。西の街道へ向かったとか聞いたが……」
訊かれた兵士はひょいと肩をすくめ、かぶりを振った。リオはそんな兵士達の会話を受けて――、
(懇意の傭兵と一緒に西の街道へ向かった……。ということは、今、この城に第一王子はいないのか?)
と、思案顔を浮かべる。
気になるのは会話の中で語られた「懇意の傭兵」という存在だ。もしかしたらその傭兵がルシウスなのではないかと、リオはそんなことを思った。
◇ ◇ ◇
一方、フローラが滞在している王国西部のとある農村で。時刻は夕方。リオがパラディア王国城へ忍び込む少し前のことだ。
フローラが熱を出してしばらく村に滞在することが決まった日の晩から、既に四日が経過している。だが、フローラの熱は一向に下がる気配を見せず、それどころかだいぶ症状が悪化していた。
「はぁ、はぁ……」
と、フローラの息遣いは荒く、高熱と筋肉痛と関節炎に身体を蝕まれ、まともに動くことすら一苦労の状態である。当然のように寝たきりの生活が続いているが、慢性的な身体の痛みによって熟睡することもままならない。
村長の息子であるウィルはそんなフローラの部屋に病人食を運び、少し強めに扉をノックして――、
「フローラ様、食事をお持ちしましたが……、入ってもいいですか?」
と、扉越しに室内を窺うように声をかけた。
「……あ、はい。ありがとうございます」
フローラは痛みを堪えつつベッドの上で半身を起こし、苦しそうな声でウィルに応じる。すると、扉が開いて、トレイを持ったウィルが姿を現した。
「どうも、おはようございます、ですかね?」
「はい、おはようございます。先ほどまで眠っていたので」
首を傾げたウィルに、フローラは精一杯の笑みを取り繕って答える。まだ他人に心配をかけないよう振る舞う程度の気力と余力はあるようだ。もっとも、顔色があまり優れないため、空元気なのは丸わかりだが。
「熱、下がりませんね?」
ウィルはフローラの顔をいたたまれない面持ちで見やると、己の不甲斐なさを押し殺すように問いかけた。
「……はい。ごめんなさい、ご迷惑をおかけして」
フローラは申し訳なさそうに、弱々しく謝罪する。
「い、いえいえ、迷惑だなんてとんでもない!」
ウィルは慌ててかぶりを振ると――、
「ただ、あまり具合が悪いようでしたら、薬師もいないこの村ではどうしようもないのではないかと、親父がうるさくてですね。領主の貴族様を頼った方がいいんじゃないかと言っていまして……」
どこか言い訳がましく、そんなことを言った。すると、フローラはただでさえ悪い顔色をさらに青ざめさせて――、
「す、すみません、今はこの国の貴族の方を頼るわけにもいかなくて……」
と、後ろめたそうに言った。
「も、もちろんフローラ様が望むならという話なんで、そんな顔をしないでください! 親父には上手く言っておくんで、こんな家でよければいくらでも滞在してくださいよ。フローラ様なら大歓迎なので!」
ウィルはフローラを気負わせないよう、泡を食って訴えかける。
「……ありがとございます」
フローラはどこかホッとしたように、頭を下げた。すると――、
「ああ、そうそう。そういえばフローラ様が家に泊まった次の日から、村の野郎共がフローラ様に会いたがって仕方がないんですよ」
ウィルは気まずくなった空気を払拭しようと、明るく振る舞って思い出したように話題を振る。
「そうなのですか。では、私も元気になったら、皆様にお会いしたいです」
フローラは熱っぽい顔で、なんとか明るい笑みを浮かべた。
「はは、でも下品な野郎ばかりなんで、止めた方がいいかもしれません。特にドンナーって覚えてますか? 最初にフローラ様を家へ案内した不細工な野郎です」
「あ、えっと、この家に案内してくださった方のことなら。体格の大きな方ですよね?」
ウィルが軽い調子でドンナーを貶めるようなことを言うと、フローラはどこか困った様子で応じる。
「そう、そいつです。そいつなんかフローラ様の見舞いに行くって言いだして聞かないんですよ。普段は村の女が病気になってもそんなことを言わないような奴なのに。他の連中もそれに感化されて、悪乗りしちゃいまして」
「あの、風邪を移すわけにはいかないので、あまり長くお話をするわけにはいきませんが、それほど心配してくださっているのなら、少しだけなら……」
人がいいフローラは無理を押してそんなことを言った。
「え? あー、まあ、そのお気持ちだけで大丈夫ですよ。お身体が悪いんですから、無理をしないで休んでください。連中には言っておくんで、喜ぶと思います」
まさか村の男達に見舞いに来てもいいと許可するとは思っていなかったのか、ウィルは苦笑して軽く流してしまう。
「……では、よろしくお伝えください。ご心配くださり、ありがとうございますと」
フローラは微かに逡巡したようだが、確かに自分の体調がかなりよくないことは自覚しているので大人しく頷いた。本当はこうしてウィルと話をしているだけでも辛いのだが、生来の気質で、自分のためを思って親切にしてくれている相手を無下にすることはできずにいたりする。
「わかりました。……あっ、そうそう。病人食を持ってきたんで、どうぞ食べてください。あまり美味くはないと思いますが」
「そんなことはありません。美味しいですよ。せっかくお母様が作ってくださったのですから」
本当は既に味覚もだいぶ麻痺しているが、フローラはゆっくりとかぶりを振った。
「……はは、フローラ様は本当にお優しいなあ。あっ、食事はここに置いておきますので」
ウィルはフローラに見惚れたように瞠目すると、気恥ずかしそうに食事が乗ったトレイをベッドの傍の机に置いた。
「はい、ありがとうございます。早速、頂ますね」
と、フローラは淑やかに頷く。そして、食事をとるため、汗ばんだ髪をそっと束ねた。片側で髪をまとめると、フローラのうなじが露わになる。
ウィルはそんなフローラの仕草をごくりと唾を飲んで見つめていたが――、
「……じゃ、じゃあ、俺はこれで。何かあったら……ん?」
ハッと我に返り、サッと視線を逸らそうとする。だが、名残惜しそうに視線を向けたフローラのうなじに痣のようなどす黒い跡があることに気づくと、スッと目を細めた。
「……あの、何か?」
フローラはじっと見つめられていることに気づくと、恐る恐るウィルに尋ねる。
「ああ、いえ。何でもないです! 何かあったら呼んでください。すぐに駆けつけますので! それじゃあ」
ウィルはびくりと身体を震わせ、慌ててかぶりを振った。そのまま踵を返すと、退室際にフローラのうなじを凝視して――、
(……何の跡だ? フローラ様は気づいていない、のか? 火傷か、古傷みたいなもんか)
ぱたんと、部屋の扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
それから、ウィルが階段を下りて、一階の居間へ戻ると――、
「おい、ウィル。貴族様の様子はどうなんだ?」
ウィルの父である村長が待ち構えていて、質問をしてきた。
「ん? ああ、まだ熱は下がっていないみたいだけど、特に変わらねえよ」
またかと、ウィルは半ばうんざりとした心境でおざなりに答える。
面倒事の種になりかねないと思っているのか、ウィルの父親はフローラが村に滞在することをあまり快く思っていない。それに、フローラが得体の知れない病気を患っているものだから移されることを恐れているのか、「お前の発言で長期滞在することになったのだから、お前が責任を取って世話をしろ」とフローラの看護を押し付けて、母や兄妹達にはなるべく接触させない徹底ぶりだ。
それでいて事あるごとにフローラの様子を尋ねてくる小心者な父親のことを、ウィルは煩わしく思っていた。
「……まだ熱が下がらないのか。何か妙な病気にでもかかっているんじゃないだろうな?」
と、ウィルの父親は疑わしそうに問いかける。
「知るかよ。だが、俺は熱を出してないぜ?」
「……そのようだな。まあいい。それで、ここの領主様を頼ってはどうかとちゃんと伝えたんだろうな?」
「伝えたけど、体調が回復するまで待ってほしいだとよ」
ウィルは眉をひそめ、ぶっきらぼうな口調で言う。すると――、
「それはおかしいだろう」
と、村長は語気を強めて断言した。
「何がだよ?」
「どうして同じ貴族様を頼るのを嫌がる? 何か隠しているんじゃないだろうな?」
「はあ? 嫌がる、隠している? 何をだよ?」
ウィルは憤りを露わにして訊き返す。
「こんな村で療養するより、同じ貴族様を頼った方がいいに決まっている。お抱えの薬師もいるだろうしな」
「そりゃ……熱が下がらなきゃ、移動もままならないからだろ」
「とはいえ、こちらから貴族様の屋敷に出向いて、助けを求めることはできる。そうすれば薬師をよこしてくれるかもしれんぞ? そこら辺のこともきちんと説明したのだろうな?」
「してねえよ。失礼になるから、貴族様に異を唱えるような真似だけはするなって親父が最初に言ったんだろ。そこら辺を深く追求するのは失礼じゃねえのかよ? それに、そこまで気になるんなら、親父が自分で訊いたらどうだ、え?」
と、そんなウィルの挑発的な物言いに――、
「……ぐっ、訊けないから何か隠しているのではないかとお前に訊いているのだ。何かそういった節はないのか?」
村長は苛立たしそうに尋ね返した。
「さあな」
「おい、ちゃんと答えろ。何か問題が起きてからでは遅いのだぞ」
おざなりに答えたウィルに、村長はきつい口調で念を押す。すると――、
「……ちっ、貴族様だから、病気を移されるのが怖いから。親父は少し気が小さすぎるんじゃないのか? 疑り深すぎだろ」
ウィルは侮蔑の念を隠さずに語った。
「お前が能天気すぎるのだ。鼻の下を伸ばしおって、この馬鹿者が」
「なんだと!?」
村長が負けじと言い返すと、ウィルも熱くなって息巻く。
「大きな声を出すな。落ち着け。貴族様に聞かれるだろうが」
村長は厳しい声色で戒めた。
「ぐっ……」
「いいか。俺には村長としての責任があるんだ。変な病気を移されて村に蔓延らせるわけにはいかないし、何か問題を起こして村に目をつけられるわけにもいかん」
「はん、村長の親父が病気になるわけにはいかねえってか?」
「そうだ。単純に我が身が可愛いからではない」
ウィルが見下すように訊くと、村長は即答する。
「ちっ、じゃあ問題って何だよ? フローラ様はお優しいぜ。村人のちょっとした粗相くらいで目くじらを立てる子じゃねえよ。どんな問題が起きるってんだ?」
「例えばあの貴族様が突然に死んだらどうする? 誰が責任を取る?」
「うっ……」
村長が答えると、ウィルは思わず言葉に詰まった。
「それに、病気の件は一先ず置いておくとしても、他にもあの貴族様には不審な点がある。下手に追及すると失礼だから追及はしておらんがな。お前はそうは思わんのか? まあ、思っていないのだろうな」
そう言って、村長は呆れたようにウィルを見つめる。
「……何がどう不審だってんだ?」
ウィルはムッとして訊き返す。
「他国の貴族様がこんな田舎の村で遭難していること自体がだ。仮にも貴族様が失踪すれば大問題になるはずだろう。それこそ捜索隊が編成されてもおかしくはない。だというのに、この村へ捜索隊が現れる様子はない。あの貴族様が村へ来てからもう五日目だぞ? 領主様に頼るのを先延ばししている節があるし、何か問題を抱えているのではないか?」
「それは…………」
村長が己の腹の内を打ち明けると、ウィルはまたしても言葉に詰まってしまう。心ではそんなことはないと強く思ったが、理屈で言い返すことはできなかった。
「確かにあの貴族様はお優しいのだろう。学のない村人がちょっとした粗相を働いた程度で打ち首にするような方ではないと思っているさ。だがな、あの貴族様が何か問題を抱えていて、この村がそれに巻き込まれたらどうする? 厄介事の種はなるべく抱えておきたくないのだ」
「……じゃあ、どうするってんだよ?」
ウィルは苦々しい顔つきで質問する。
「どうしようもないから困っているのだ。表面上は優しそうとはいえ、痛いところを追及されれば流石に怒りを買うかもしれんからな。正直、領主様を頼るしかないと思っている」
村長は深くため息をついて答えた。すると――、
「おいおい、まさかフローラ様に無断で領主様を頼ろうってんじゃないだろうな?」
ウィルはハッと顔色を変える。
「……もちろんその時は俺から確認を入れるつもりだ。このまま熱が下がらないようならな」
村長は微妙に間をあけて、どこか含みのある物言いで告げた。
「な、なら数日。せめてあと数日くらいは待ってあげてくれよ」
と、ウィルが焦ったように懇願すると――、
「……なら、約束しろ。あの貴族様に惚れるなとは言わんが、間違っても下手なすけべ心を出して恋仲になろうなどとは考えないとな。深入りはするな」
村長はスッと目を細めて、警告するように語りかけた。
「は、はあ、突然、何を言ってんだよ!?」
ウィルは面食らい、思わず顔を赤くするが――、
「真面目な話だ。約束できるというのなら、あと数日は熱が下がるのを待ってやると言っている。それと、何かおかしな兆候があればすぐ俺に伝えること。どうなんだ?」
村長はいたって真面目な顔つきで問いかけた。
「う……、わ、わかったよ」
ウィルは気恥ずかしそうに頷く。
「約束したからな? あと、この際だから浮足立っている他の若い男共にも同じことをよく言い聞かせておけ。お前達と貴族様とでは住む世界が違うのだとな」
と、村長は戒めるように語る。
「……ああ」
ウィルは住む世界が違うと断言されたことに眉を顰めながらも、しぶしぶと頷く。失念しているのか、連想するに至っていないのか、フローラの首筋にできていた痣に言及することはなかった。