第147話 フローラの受難 その2
フローラは丘陵地帯に広がる村へとのろのろとした足取りで向かった。そうして二十分ほどかけてようやく村の領域にたどり着く。
村の中は実に物静かで、淡々と農作業をしている村民の姿がちらほらと視界に入る。村人の顔つきにあまり活気はなく、
フローラが村のあぜ道を進んで居住区域に近づいていくと、次第に農作業をしている村民達からじっと窺うような視線を向けられた。
(声……かけにくい)
フローラは排他的な村の雰囲気を感じとり、ついつい物怖じしてしまう。だが、ここで引き返すわけにはいかなかった。勇気を出して自分から村人達へと近づいていく。
「あ、あの、すみません」
と、緊張した声色で二十歳くらいの村人男性に声をかけるフローラ。
「…………ああ、いや。どなたで?」
村人は挙動不審に周囲を見回してから、じろりとフローラの容貌を見据えると、続けて視線を外してぼそりと呟いた。
「え……? あ、あの、えっと実は従者と離れ離れになってしまいまして、ここがどこか教えてもらえないでしょうか?」
フローラは男の声がよく聞き取れなかったのか、一瞬きょとんとした顔になる。だが、すぐに顔つきを変えると、精一杯の社交的な振る舞いで用向きを明らかにした。そして、男の小さな声を聴き取るため、微かに距離を詰める。
「……じゅ、従者? もしかして貴族様で?」
男は相も変わらず小さな声で呟くと、訝しそうにフローラの外見を見やる。すっかり薄汚れているが、フローラが着ているのは高そうなドレスである。それに、フローラは男が今までに目にしたことがないほどに美しく可愛らしかった。村に住まうガサツな女達とは大違いだ、と男は密かに思う。
「あ……、はい。えっと、そのようなものです」
正確には王族だが、フローラは曖昧に濁して頷いた。
「へえ、なるほど……」
村人の男は改めてフローラをまじまじと見やる。
「それで、その、ここがどこなのか教えていただけないでしょうか?」
フローラは男の無遠慮な視線に気が引けたものの、笑顔を取り繕って尋ね直した。
「パラディア王国のどこか……、王都が東にあるそうですが。外のことはよくわからんです」
「パラディア王国……ですか? えっと、確か……」
男が漠然とした現在地を告げると、フローラは唖然と目を丸くする。パラディア王国といえばベルトラム王国から見て遥か北東に位置する小国だ。フローラも国名を聞いたことくらいはあるが、あまり詳しいことを知らない。とはいえ――、
(どうやって帰ればいいんだろう……)
ベルトラム王国からの漠然とした距離を知っているだけに、フローラは途方に暮れてしまう。少なくとも着の身着のままの彼女が一人で歩いて帰れるような距離ではない。
「…………どうかしたんで?」
男は呆然自失としているフローラを訝しく思ったのか、小さく低い声で呼びかけた。
「あ、いえ、その……どうやって帰ろうかなと思いまして」
「どこに行きたいんで?」
「……ベルトラム王国です」
「ベルトラム王国……知らねえ」
目の前にいる二十歳くらいの青年は国名すら知らないようだ。シュトラール地方有数の大国も、田舎の小国に住まう農民にとっては蚊帳の外の存在なのだろう。すなわち、ベルトラム王国では第二王女の地位にいるフローラの影響力も、この場では何の役にも立たないことを意味する。
「村長なら何か知っているかもしれねえ。案内します」
男はそう言うと、
「あ、その……お願いします」
フローラはやや呆気に取られると、男の背中に向けてぺこりとお辞儀をして、足早に後を追いかける。そして数分後、フローラは村の最奥部にある村長宅へと案内された。
「村長に事情を説明する。少し待っててくだせえ」
村人の男性はそう言い残すと、一人でさっさと家屋に入っていく。フローラは言われるがままその場に待機することにした。
村長宅は木造の二階建て家屋で、村の中では最も立派な建物だが、王女として城で育ったフローラからすれば他の家とさして違いがあるようには見えないのかもしれない。とはいえ、初めて目にする農民の暮らしぶりを、フローラは物珍しそうに眺めていた。
そうして、フローラが興味深そうに村の家屋を眺めながら待機していると――、
「村長が会うそうです。中へ」
フローラを案内した男が出てきて、中に入るよう招き入れる。フローラは「はい」と頷き、恐る恐る家屋の中へと入っていった。すると、入ってすぐの居間で、村長と思しき中年の男性が腰を低くして出迎える。
「これは……ようこそ。この村の村長を務めさせていただいております。貴族様だそうで、大まかな話はドンナーから聞きました」
村長は薄汚れたドレス姿のフローラを視界に収めると、微かに硬直して目をみはった。とはいえ、伊達に村長をしていないのか、すぐに笑みを取り繕ってフローラを歓迎する。
ドンナーとはフローラを案内した若い男性のことだろう。フローラを村長のもとへ案内した今も、この場に留まっている。すると――、
「おい、ドンナー。後は私が引き受ける。お前はもう仕事場に戻っていいぞ」
長老がドンナーに語りかけた。
「いや、俺は……」
ドンナーはぼそりと呟き、何か言おうとする。その視線は窺うようにフローラに向けられていた。
「なんだ、貴族様に何か言いたいことがあるのか?」
長老がドンナーに訊く。だが、ドンナーはさっと視線を逸らすと、そのまま黙って家の外へと出ていってしまった。
「すみませんな。寡黙な男で。体つきもでかいので、村の若い女達も不気味がってあまり近寄らんのです。っと、貴族様に申しても詮無い話でしたな。では、早速ですが、詳しい話を聞かせていただいてもよろしいですかな? どうもドンナーの話は要領を得ていなかったもので」
そう言って、村長は苦笑する。
「あの、私はフローラといいます。ベルトラム王国へ向かいたいのですが……」
フローラは何をどう説明すればいいのかわからず、自らの名を告げると、漠然と目的を打ち明けた。
「……ベルトラム王国ですか。名前は聞いたことがありますが、どちらにある国でしたかな?」
「確かここから南西の方角だと記憶しています」
「なるほど。南西、南西ですか。そっちには確かルビア王国がありましたが……、うちの国とは慢性的に戦争状態にあるらしいですからなあ。街道が閉鎖されている可能性もありますぞ? まあ、貴族様なら通れるのかもしれませんが」
と、窺うようにフローラへ視線を向ける村長。ちなみに、ルビア王国はかねてよりベルトラム王国とガルアーク王国が共同して支援している小国である。
「戦争……、この国はルビア王国と戦争をしているのですか?」
フローラは物知り顔で取り繕うことはせず、世情に疎い一面を覗かせた。すると――、
「……ええ。戦争といっても小競り合いばかりらしいですがな。今は他の近隣の国と大きな戦争をしているそうで。まあ、我が国では当たり前の話なのですが」
村長は観察するようにフローラを見据えて説明する。
「あ、その、私はこの国の貴族ではないもので……」
流石に自分が怪しまれていることを察したのか、フローラは焦ったように弁明した。
「なるほど……道理で。失礼ながら少し不審に見えました。疑問に思っていることもあるのですが、お尋ねしてもよろしいですかな?」
村長はどこか納得した様子を見せると、じっとフローラを見据えて問いかける。
「……何でしょう?」
「我が国の貴族でない貴方が、どうして我が国のこんな田舎に一人でいらっしゃるので?」
「それは、その、旅の途中で遭難してしまいまして……」
フローラは緊張した面持ちを浮かべると、後ろめたそうに視線を逸らして答えた。正直に説明しても話がややこしくなりそうで、というより信じてもらえそうになくて、気が引けてしまったから。それに、何より――、
(ルビア王国はベルトラムの友好国だったはず。そのルビア王国と交戦中のこの国で私がベルトラム王国の王女だと知られるのはどうなんだろう? もうベルトラム王国に向かっているという話はしちゃったけど……)
と、フローラはそんな危惧を抱いた。すべてを素直に説明するとなれば、フローラがベルトラム王国のやんごとなき身分に属する人間だと説明せざるをえなくなるだろう。果たしてそれでいいものか、フローラには正確な判断がつかなかった。
「遭難……、それでそのような格好をされているというわけですか。なら、今頃は貴方様がいなくなったことで騒ぎになっているのでは?」
「……はい、おそらくは」
「貴方様の従者は近くにおられないので?」
などと、村長はフローラの状況に探りを入れていく。フローラの話を完全に信じるか、半信半疑といったところか。
「……わかりません」
フローラは弱々しくかぶりを振った。
「ははあ、なるほど。大変ですなあ」
村長は呑気に頷いてみせて、フローラの現状に同情する。
「……はい」
フローラは意気消沈して
「まあ、一番無難な選択肢はここらを治める貴族様に相談することですかね。あいにくと一介の村長にすぎん私の力が及ぶところではありません」
村長はパラディア王国の貴族の世話になるよう、フローラに勧めた。
「…………考えてみます」
と、フローラは結論を濁して頷く。その顔色は優れない。パラディア王国の貴族に助けを求めれば政治的に利用される恐れがあると、流石のフローラにも予想がつくのだろう。
「まあ、今日の所は我が家に泊まっていかれるとよろしい。貴族様に満足していただけるようなもてなしはできませんが、温かい食事くらいはお出ししましょう。その間にどうなさるかご決断を」
村長は小さく嘆息すると、とりあえずはフローラをもてなす意思を表明した。真偽不明な点があるとはいえ、一応は相手が貴族らしい身なりをしている以上、無下に扱うわけにもいかないと思ったのだろう。どのような交友関係を持っているのかはわからないのだから、後で手痛いしっぺ返しを喰らう恐れだってある。
「……あ、ありがとうございます!」
フローラは微かに呆けた顔を浮かべると、嬉しそうに頭を下げた。昨日からずっと何も食べずに歩き回っていたのだ。生まれて初めて野宿を体験した今、屋根のある場所で寝られるだけで僥倖だった。
すると、フローラと村長が話をしている居間に面した玄関の向こうから、ガタンと大きく物音が鳴り響く。
「っ!?」
フローラは物音に反応し、びくりと身体を震わせた。慌てて玄関に視線を向けると、ボロくなっている扉が外れていて、村人と思しき若い男達が群がっていた。
「やべっ!」
と、村の男達は揃って顔を引きつらせる。かと思えば、薄汚れているとはいえドレス姿のフローラと視線が重なると、それぞれが「おお」と瞠目した。
「な、何をしておる、貴様ら! 仕事へ戻らんか!」
村長は慌てて男達を怒鳴りつける。すると、男達は一目散に駆け出して、仕事場へと逃げ出した。その中にはドンナーの姿もある。
村長は深く溜息をつくと――、
「も、申し訳ございません。とんだ無礼を」
やや委縮した様子でフローラに頭を下げた。男達が好奇心でフローラの姿を一目でも見ようとやって来たのは一目瞭然である。今の騒ぎでフローラの不興を買ったのではないかと恐れたのだろう。
「いえ、特に気にしていませんが、それより彼らは何か用があったのでは?」
フローラは男達が自分を見に来たとは微塵も思っておらず、不思議そうに村長に尋ねた。
「はあ……いえ、そういうわけではないと思うのですが。気にされていないようでしたら、大丈夫です。少々時間はズレておりますが、お食事になさいますかな?」
浮世離れしたフローラの反応に困惑した村長だが、藪蛇にならないようさっさと話題を変えてしまう。今はまだ午前中だが、朝食というには少しばかり遅く、昼食というにはいささか早すぎる時間帯である。
「あの、お腹は減っているのですが、少し休ませていただいてもよろしいですか? あまりゆっくりと眠れなかったもので、まだ疲れが残っていて……」
「確かに、少し顔色が悪いようですな。畏まりました。家内に部屋を用意させますので、休まれるとよろしいでしょう」
その後、長老の妻に寝床を整えてもらい、フローラは深い眠りへと就いた。
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追伸:さらに活動報告を更新しました(6月3日)。「精霊幻想記 外伝 セリア先生編」の連載がスタートしたので、よろしければご覧くださいませ。