第146話 フローラの受難
リオがアマンドを出発してプロキシア帝国へ向かった日の午後。パラディア王国のとある森の中に、フローラが転移していた。
「えっ!?」
フローラは一瞬で景色が変わったことに愕然とすると、びくりと身体を震わせる。きょろきょろと視線をさまよわせるが、鬱蒼と茂った草木が視界に映るだけだ。
(ど、どこ? どこなのですか、ここは? あの人が魔力結晶らしき石を私に放り投げて……、何か強力な空間魔術が込められた魔道具だったのでしょうか?)
と、フローラは混乱しながらも、状況の整理を試みる。彼女の常識で真っ先に思い当たったのが、何かしらの超常的な空間魔術が込められた魔道具を使ったということだった。
(でも、人を転移させる空間魔術は失われた古代魔術のはず。そんな魔術が込められた魔力結晶型の魔道具をあっさりと使うなんて……)
魔力結晶に魔術を込めて魔道具として用いる場合、消費した魔力を新たに注ぎ足すことは難しいし、内包した魔力を使い切った時点でその魔力結晶は消滅してしまうことから、その魔道具は魔力を使い果たした時点で使い捨てが前提となる。無理に魔力を込めようとすれば魔力結晶に込められた魔術が消滅してしまうのだ。
(そもそもどうしてあの人は私をあの場で殺さなかったの? 私を殺しにきたと言っていたのに……、なぜ私をこんな場所に?)
フローラは改めて周囲を見回してみるが、近くにあの男達の姿は見当たらない。自分のもとに現れた男達の目的はいったい何なのか。まるでわからなかった。混乱した頭でしばし呆然と立ち尽くす。
とはいえ、いつまでもこの場にじっとしているわけにもいかなかった。行動の自由が与えられているのならば、思い浮かぶ選択肢は一つしかない。
(とにかく、ここがどこなのかを調べて、レストラシオンの拠点に戻らないと……)
フローラは焦るように帰還を決意した。そして、あてもなく、自信もなく、根拠もなく、この薄暗い森の中から脱出することを目指して歩きだす。
そうして歩くこと、およそ数十分――、フローラはただでさえ歩き慣れぬ森の地面を、歩行には適さないヒールのついたおしゃれな靴で踏みしめていく。その身体を覆う高価なドレスの裾はすっかり土色に汚れていた。
(……森の出口が全然見えない。どれくらい歩いたんだろう? まさか森の奥に向かっているわけじゃない……よね?)
不安にさいなまれ、呆然と途方に暮れるフローラ。しかし、時間が経ったことで少しは冷静に思考する精神的な余裕も生まれていた。というより、何かを考えて気を紛らわせていないと、不安で仕方がない。
(今頃は大騒ぎになっているんだろうな。……あの人は約束を守ってくれたのでしょうか?)
と、フローラは残された魔道船団の乗組員達のことを考える。
現れた男の一人はフローラが抵抗しなければ乗組員達の命を救うと約束したが、本当に約束を守ってくれるのかどうかはわからない。だが、それを確認する術がない以上、今はその言葉を信じるしかなかった。
(せっかくお姉様ともやっと会えそうだったのに……。会いたい、早くお姉様と会いたい)
姉クリスティーナに対する想いも強まっていく。それから、フローラは姉と再会したい一心で、黙々と足を動かし続けた。
◇ ◇ ◇
そして、時は少しだけ進み、翌日の夕刻間近。場所は変わってパラディア王国城。粗野だが整った顔つきの壮年男性が、第一王子デュラン=パラディアと対面していた。
「それで、今日はどのような面白い悪巧みを持ちかけにきたのだ、ルシウスよ?」
デュランは両椅子に薄着の美女を侍らせながら、訪問者の男性――ルシウスに対して尊大に問いかける。
「ははは、まるで俺がいつも悪巧みを持ちかけに伺っているかのような仰いようですな」
「さして相違あるまい。先の戦で我が軍の勝利が揺るがぬものとなった以上、今の貴様が仕事を求めて俺のもとを訪れる必要はない。仕事以外で貴様が俺のもとに現れるのは、悪巧みを持ちかけてくる時と決まっている」
「まあ、間違ってはおりませんな」
頷いて、ルシウスはにやりと口許を歪めた。
「ならば早く申せ。今はもう俺が出張るほどの戦もなく、退屈なのだ」
デュランは大柄な体躯をずいと前のめりにしてルシウスを急かす。すると――、
「実は宝探しをしようと思っているのですが、殿下もご一緒にいかがと思いまして」
と、ルシウスはにこやかに語った。
「……宝探しだと? 我が国に何か眠っている宝があると?」
「ええ、それはもう極上の。いくつか条件を呑んでいただきたいのですが、発見した宝は殿下がお好きなように使っていただければと考えております」
訝しそうに目を細めたデュランに、ルシウスは鷹揚に頷いて語る。
「ふん。何を企んでいるのかはわからぬが、その口ぶり、その宝とやらが何かを知っているような申しようだな」
「ええ、宝を解き放ったのは他ならぬ私なもので。きっと殿下もお気に召すことだろうと考え、こうして参上しました。ただ、そのお宝はあいにくと生き物でして、早めに探して入手なさらないと逃げられてしまう恐れがございます。……これ以上の詳細は、いつも通り正式に交渉に入り次第、お教えするということで」
と、ルシウスは慣れた口ぶりで説明すると――、
「ふっ、いいだろう。交渉だ。お前らは去れ」
デュランは上機嫌に頷いた。侍らせていた女性達をすげなく追い払うと、女性達は衣類を羽織ってそそくさと退室していく。そうして室内に残ったのが二人だけになると――、
「では、お宝の内容をお教えしましょう」
ルシウスは満を持して宝探しの詳細を語り始めた。
◇ ◇ ◇
その頃、フローラはいまだにパラディア王国某所の森の中をさまよい続けていた。当初は不安や姉に会いたい想いで足を動かし続けていたが、時間が経つにつれて肉体的な疲労がだいぶ蓄積してきている。
(うう、足が重い。お腹が空いたよ。まだ森の外に出られないの? もうだいぶ暗くなってきたし……、どうしよう? 学院の時に習った知識だと、こういう時は完全に暗くなる前に寝床を確保しないといけないんだよね? でも、野営の道具なんて持っていないし……)
と、心の中で泣き言を漏らし続けるフローラ。歩けども歩けども脱出できない広大な森に、肉体だけでなく精神的な疲労も相当に蓄積し始めていた。
視界に映るのは相も変わらず木々ばかり。とはいえ、森の光景にも変化は少しずつ生じている。日が傾くにつれて、森の中も加速度的に暗くなってきているのだ。つい先ほどまでは森の奥の方まで見渡せていたのに、今は手前の方でもだいぶ薄暗い。
(動物の鳴き声も聞こえる。危険そうな獣の声は聞こえないけど……怖い)
非日常的な薄暗い空間の中だと、ただの小動物の鳴き声でさえ不気味に聞こえるのだから不思議だ。このままだと森の中で野宿するしかなさそうだが、それだけは何としても避けたかった。怖くて怖くて堪らない。足はだいぶ重たくなってきているし、靴擦れをして痛くもなっているが、時折、治癒魔法で誤魔化しつつ、フローラは早く森から出たい一心で前へ前へと足を動かしていた。
しかし、それが悪手となっていることを、フローラはさして強くは実感していない。自然の中で野営する際の鉄則として完全に暗くなる前に野営の準備を終えなければならないということを知識としては知っていても、体験として身に染みてはいないからだ。
だから、明確な見通しも保険もないまま、まだ大丈夫、もしかしたら完全に暗くなる前に森の外へ出られるかもしれない、という甘い考えを抱いてしまう。
もちろんフローラだって学院時代には野外演習に参加した経験はあるものの、所詮は人員も試験場も装備もすべてがお膳立てされた形だけの演習にすぎない。第二王女の彼女はただ同行しているだけで、特に何か作業を割り振られたわけでもなかったので、役立つ経験として何かが残ることはなかったのだ。
そうして、フローラは最悪な状況へと知らぬうちに突き進んでいく。数十分もしないうちに日が急速に傾いていき、気がつけば森の中も真っ暗になってしまった。想像以上に真っ暗で、何も見えない。それが怖くて堪らず、フローラはひたすら移動の継続を試みた。
「《
暗くて先が見えにくくなってくると、流石に呪文を唱え、光と熱を放つ魔法を使用する。すると、眩い光が前方を強く照らした。
光量を調節し、程よい明るさに抑えると、フローラは再び移動を再開する。真っ暗になった森の中で、不自然な光を発したまま、一人でとぼとぼと歩いていく。
それからどれほどの時間が流れたのだろうか。森の外に出られる気配は少しもない。フローラの疲労も流石に限界を迎えようとしていた。真っ暗な闇の中で至近距離から光源を浴びているせいか、目がちかちかとして集中力も削がれてきている。
それでも重い足を引きずり、惰性で前へ前へと歩いていたが――、
「きゃっ!?」
フローラはとうとう草木に足を奪われ、前のめりに転んでしまった。その拍子に魔法の光が消滅してしまう。
「うう、いたた……」
フローラは華奢な腕で自らの身体を支え、何とか体勢を戻そうとする。綺麗なドレスもすっかり汚れてしまったが、暗闇の中ではそれを視認することすらできず、彼女が気づくことはない。すぐには立ち上がる気力も湧かなかった。
フローラはそのまま両手を突いて地べたに座ると、呆然と暗闇の中を見回す。すると、あまりにも暗すぎる空間に自分が置かれていることをようやく気づいた。一、二メートル先にある木でさえ
歩いている時は気づかなかったが、身動きせずにいると、虫の鳴き声が小さく響き渡っているのが聞こえてくる。ひんやりと涼しい風が吹く度に、ざわざわと木々が揺れているのもわかった。すると――、
(どうしよう……?)
と、フローラは放心状態で途方に暮れる。森から出なければと頭で漠然と考えるが、その方法がまるでわからない。これだけ歩いても出られなかったのだ。本当に出ることはできるのか、不安の入り混じった疑問を覚えてしまう。
(もう歩けないよ)
フローラは緩慢な動きで立ち上がろうとしたが、すぐに断念した。まるで
フローラの心はだいぶ折れかけていた。少なくとも今晩中に森の外に出ることはもう無理だと強く理解させられている。恐怖を覚えて行動に移す体力も気力もない。もうこのままずっと座っていたい気分だった。だから――、
(とりあえず明るくなるまで待たないと……)
休んで体力の回復を図ろうと、フローラはぼんやりと考える。今の自分にできることはもうそれくらいしかないのだから、と。
(喉が渇いたな)
フローラはぼんやりとそう考えると――、
「《
ぼそりと呪文を唱えて、手元から水を出した。じゃばじゃばと溢れる水に顔をつけ、そのまま顔を洗って喉を潤す。そうして、フローラはしばし無心に水を求め続けた。
「ぷはっ……」
十秒ほど夢中になって水を飲み続けると、ようやく息継ぎをする。水を飲んだおかげか、少しだけ体力と気力が戻った気がした。そして――、
「びしょびしょになっちゃった。……休む場所を変えないと」
水を出したせいで地面が水浸しになっていることに気づくと、重たい身体に鞭を打って立ち上がる。
「《
フローラは再び魔法で灯りを作ると、休めそうな場所を探しにのろのろと歩きだした。そして、数分後、適当な木の根っこを今日の寝床として選ぶ。地面には枯れ葉が散乱しているので、少しはクッション的な役割を期待できそうだった。
「よいしょ……。《
フローラはゆっくりと地面に腰を下ろすと、こてりと木に体重を預けて寄りかかる。そして、靴擦れした足に治癒魔法をかけると、続けて疲労が蓄積している手足にも治癒魔法をかける。治癒魔法では筋肉痛や肉体の疲労を完全に抑えることはできないが、かけないよりはマシな程度には効果があるからだ。そうして一通りの作業を終えると――、
(疲れた……)
頭に思い浮かんだのは、その一言だけだった。それから一分もしないうちに強い眠気が襲ってきて、フローラはうつらうつらと舟をこぎ始める。やがて無意識に瞼を閉じると、彼女の意識は瞬く間に闇に呑まれた。
◇ ◇ ◇
そして、翌朝。
「ん……」
肌寒さを覚えて、フローラの意識はぼんやりと覚醒する。ゆっくりと目を開くと、視界に森の風景が映った。
(……そっか。私、結局、あのまま寝ちゃって……。寒いな)
と、フローラは自分が置かれた状況をぼんやりと思い出す。
なんだか妙に肌寒かった。身体が気だるく、節々に鈍い痛みを感じる。毛布もかけないで眠っていたのだから当たり前だった。
しかし、フローラは全身の倦怠感を堪えて、何とか身体を動かそうとする。だが――、
「……痛っ!?」
実際にのそりと身体を動かすと、首筋にちくりと鋭い痛みを覚えた。
「な、何!?」
びくりと身体を震わせ、反射的に左手で首筋を払うフローラ。すると、何かを吹き飛ばした感触が左手に伝わってきた。飛んでいった何かを視線で追いかけると、そこには一匹の蜘蛛がいて――、
「ひっ!?」
フローラの頭は一気に覚醒した。瞬時に状況を理解すると、みるみると顔が青白くなる。
「やっ! やっ! やっ! やだぁ!」
他にも身体に纏わりついた虫がいるんじゃないかと考え、フローラは慌てて全身をはたき始めた。ドレスの下も含めてくまなく身体をはたいていく。
そうして身体の隅々まで入念にまさぐった結果、接触していた虫がとりあえずは先ほどの蜘蛛一匹だけだと知ると――、
「……もうやだよぉ」
と、フローラは泣きそうな声を出した。そして、その後も入念に身体をはたくと、今度は痛みを感じた首筋の箇所を恐る恐る触ってみる。
「よかった、血は出ていない」
首筋に血液は付着していないことを知り、フローラはほっと胸を撫で下ろした。だが、このまま気を抜くわけにもいかない。
「……早く行こう。森の外に出ないと」
フローラは一秒でも早く森の外へ出るべく、すぐに移動を開始した。お腹は空いているし、全身の疲れは色濃く残っているが、贅沢は言っていられない。
「……あれ?」
ふらふらとした足取りで数十分ほど歩くと、フローラは軽いめまいを覚えた。空腹時の運動による貧血だろうかと見当をつけるも、ふらついた身体に鞭を打ってそのまま足を動かす。そして、さらに小一時間が経過すると――、
「え……、あれ……森の外?」
視界の奥に木々の切れ目が見えた。
(……森の外に出られるの?)
と、フローラは呆気に取られたように立ち尽くす。しかし、ややあってハッと顔つきを変えると、足早に歩きだした。そして――、
(出られる。森の外に出られる。誰かすぐ傍で人が暮らしていればいいんだけど……)
そんなことを思いながら、ようやく森の外へ出る。森の外は穏やかな丘陵地帯となっていて、そこそこ見晴らしは良かった。
すると、フローラは森から遠く離れた場所に、村らしき建造物があるのを発見する。
「む、村だ。あれ、村だよね。良かった……」
フローラは安堵のあまり、崩れるようにその場で座り込んでしまった。だが――、
「……行かなきゃ。お姉様のところへ」
しばらくすると、フローラはおもむろに立ち上がる。そして、身体に残っているわずかな元気を捻りだし、のろのろとした足取りで村へと近づいた。