第145話 それぞれの動向
ニドル=プロキシアとの戦闘後、リオは帝国城を脱出すると、すぐさま宿屋の自室に戻った。そのまま朝を迎えると、何食わぬ顔で宿を引き払い、帝都を後にする。
次に向かう先はプロキシア帝国から見て東方に位置するパラディア王国だ。パラディア王国はガルアーク王国から見て北方に存在する小国地帯の一国家であり、慢性的に近隣諸国と小競り合いを行っている紛争地域でもある。
情報の出所と入手した時の状況を考えると信憑性に疑いは残るが、傭兵のルシウスが活動の場として選ぶこと自体は特に不自然ではない。何はともあれ他に目立った情報がない以上、とりあえずはパラディア王国へ向かってみるしかなかった。
(皇帝の話だと第一王子なら何か知っている可能性があるらしいけど……。問題はどうやって接触を図るかだな)
ガルアーク王国の名誉騎士であることを明示すれば面会くらいはできる可能性もあるが、目的が目的だし、下手に貴族の立場で問題を起こしたくもない以上、正規の手続きで面会を申し込むのはあまり上手くない。
となると、侵入して接触を試みるしかないのだが、そう簡単にいくとも思えなかった。
確かに城内に侵入すること自体は不可能でないだろうが、王族となれば私室の警護は厳重であることが予想されるからだ。
部屋の前には見張りがいるだろうし、下手をすると部屋の中に見張りがいる可能性もある。また、妻子がいれば同衾しているかもしれないし、人次第だが侵入者対策であえて窓がない寝室に寝泊まりする王侯貴族も珍しくない。
(とりあえず侵入してみるか。チャンスが見つかるまで粘って、臨機応変に接触を試みるしかない)
リオは一応の方針を決めると、微妙に飛行速度を上げた。小国家が乱立する地帯だし、一度も訪問したことがない土地なので少しは道に迷うかもしれないが、今日明日中にはパラディア王国にたどり着くことができるだろう。柄にもなく動悸にも似た高揚感を覚えていたリオだった。
◇ ◇ ◇
場所は大きく変わって、セントステラ王国城、第一王女であるリリアーナの私室にて、美春はリリアーナにマンツーマンで日本語を教えていた。
現時点で美春達がセントステラ王国に連れてこられてから、既に一カ月近くが経過している。
「それにしても日本語とは難しい言語なのですね。ある程度学習が進んできたからこそ、改めて実感しました。発音はもちろん、文字の多さ、同音異義語の多さ、それらに含まれた歴史的背景、文法、そして細かなニュアンスを含んだ類似表現の数々、本当に奥が深いです。日常的な読み書きと会話ができるようになるのは果たしていつになることやら……」
授業が一区切りついたところで、リリアーナがしみじみと語る。
「いえいえ、リリアーナ様はすごい勢いで習得されていると思いますよ? 話し言葉はともかく、私達日本人でも綺麗で読みやすい文章を書くのは難しいですし、きちんと理解していない単語や表現もたくさんありますから、そう気負わずとも大丈夫です」
美春は微笑してかぶりを振った。
「ありがとうございます。素晴らしい師に恵まれましたからね、頑張ります」
リリアーナもフフッと微笑む。
実際、彼女の学習速度は目覚ましい。王族であるがゆえに勉強時間は限られているが、学習意欲は旺盛で、地頭もかなり良いのか、その理解力と暗記力は図抜けている。
現時点でひらがなとカタカナはもちろん、小学校低学年で習うような簡単な漢字も暗記しており、今は様々な単語や基本的な定型表現を次々と吸収しているところだ。ここから先はさらに成長速度が上がっていくことだろう。
「あはは、私は素人同然の先生なので……。日本語の文法や教え方をきちんと学んだこともありませんし、厳密には間違っていることを教えている可能性もあります。それでもリリアーナ様が短期間でここまで日本語を習得できたのは、やはりリリアーナ様の才能によるところが大きいと思います。どういうことを学んでいきたいのか、私はリリアーナ様のリクエストに沿って教えているだけですからね」
言って、美春は微苦笑する。
「確かにミハルさんは専門家ではないのでしょうが、私は貴方に何かを教える才能はあると思っていますよ。実際、日本語とこの世界の言葉との違いをわかりやすくご説明なさっていますから」
「それは……たぶんハルトさんのおかげです。わかりやすく教えてもらったので、私はそれを応用しているだけで……」
誰かに日本語を教えた経験のない美春がまがりなりにもリリアーナに言葉を教えることができているのは、リオからこの世界の言葉を効率的に教えてもらった経験があったからだ。だが、リリアーナに讃えられると、美春は微妙に表情を曇らせてしまう。
「申し訳ございません、ご不快な思いをさせてしまったようですね」
リリアーナは美春の表情の変化を敏感に察したのか、すまなそうに謝罪の言葉を口にした。
「あ、いえ、別に不快というわけでは……」
美春はハッと顔色を変えてかぶりを振る。すると――、
「以前にも申し上げた通り、タカヒサ様は何か理由があってミハルさん達を我が国へとお連れになりました。その理由は私にも仰っていただけておりませんが、今のあの方は随分と意固地になっていらっしゃいます。まるで子供のように」
リリアーナが滔々と語りだした。
「はい……、それは承知しております」
美春は歯がゆそうに頷く。
貴久は今の今に至ってもまだ美春達に事情をきちんと説明していない。そのせいか雅人も含めて貴久との関係は日増しにギクシャクとしており、亜紀が両者を仲介しようとあくせく奮闘しているのが現状である。
「タカヒサ様をお止めすることができなかった私が申せた義理ではございませんが、恥を承知で改めてお願い申し上げます。……今しばらくお時間を頂けないでしょうか? 必ずやミハルさんが納得できるだけの情報を提示できるように取り計らってみますので」
リリアーナはそう言うと、美春に対して深々と頭を下げた。
「い、いえ、そんな、リリアーナ様に頭を下げていただかなくとも」
美春は慌ててリリアーナを制止しようとする。
「いいえ、現状に至るまでの経緯の落ち度はこちらにあり、我が国がミハルさんに対して不誠実極まりない真似を働いていることも自明のことです。挙句、ミハルさんの寛容さに一方的に甘える始末。私程度の頭でも下げなければ示しがつきません」
リリアーナはそう言いながらも、じっと頭を下げ続けていた。
すると、美春が同じ部屋に黙ってたたずんでいる侍女のフリルに救いを求めるように視線を向けたが、黙って首を左右に振られただけだった。
ややあって、美春は恐る恐る――、
「リリアーナ様、頭をお上げください。……一つだけ伺ってもよろしいでしょうか?」
と、そう訊いた。
「はい、何なりと」
リリアーナは決然と首肯する。
「その……、どうしてリリアーナ様は貴久君の我儘を聞いているのでしょうか? 彼が勇者だからですか?」
美春はリリアーナの顔色を窺うように問いかけた。
「……仰せの通り、彼が勇者であるからというのが理由の半分です」
「じゃあ、残りの半分は……」
ぽつりと答えたリリアーナに、美春が追加で尋ねる。
「勝手ながら、あの方のことを信じたいから……でしょうか」
リリアーナはそう答えると、少し切なそうに微笑んだ。
すると、美春は微かに目を見開き――、
「リリアーナ様は……」
貴久のことが好きなのだろうか――と、そんなことを思ったが、尋ねることはできなかった。そうしているうちに――、
「これはタカヒサ様の我儘であると同時に、私の我儘でもあります。仮にタカヒサ様に非があるようでしたら、私にできうる限りの謝罪をさせていただく所存です。だから、タカヒサ様に対する当面の対応は私にお任せいただけないでしょうか?」
リリアーナがそんなことを言いだす。
「…………はい、わかりました、よろしくお願いいたします」
美春はたっぷり逡巡し、しかる後、ゆっくりと頷いた。今の美春は貴久から避けられてしまっているし、正直、貴久が何を考えているのか、もうわからなくなっている。ここ最近では顔を合わせてもまともに会話をすることすらできないくらいだ。
「ありがとうございます。何かわかれば嘘偽りなくお伝えしますので。今後も当面はこのまま私に日本語を教えていただけると幸いです」
「はい、もちろん」
「……良かった、本当に」
美春が快く承諾すると、リリア―ナはほっと安堵の息をつく。そして――、
「ふふ、ホッとしたら喉が渇いてきました。フリル、お茶を淹れてくれますか?」
と、侍女のフリルに指示を出した。すると――、
「畏まりました」
フリルが恭しく頷き、お茶を淹れる準備を開始する。
「では、そろそろ授業の再開をお願いしてもよろしいでしょうか、ミハル先生」
リリアーナは雰囲気を変えようと思ったのか、優しく微笑むと、畏まった口調でお茶目にそう言ってみせた。
「……えっと、はい。お任せくださいませ、姫様」
美春は一瞬目を丸くした後、自然と自身も芝居がかった口調で応じた。そのまま二人で顔を見合わせると、どちらからともなく、おかしそうに微笑み合う。
「きっかけは好ましいものではなかったかもしれませんが、私は貴方と出会えて良かったと思っております、ミハルさん」
リリアーナはひとしきり微笑むと、嬉しそうにそんなことを語りだす。
「その、私もリリアーナ様とお会いできて良かったと思っております」
美春はやや気恥ずかしそうに同意した。リリアーナは王族なのに一緒にいても気疲れしないというか、不思議と波長が合うような気がするのだ。まるで数年来の友人であるかのように。だから、もしリリアーナもそう思っているのだとしたら嬉しい。そう思った美春だった。
すると、リリアーナは何か話を切り出したそうに美春を見据え――、
「ありがとうございます。……ところで、ミハルさん。一つお願いがあるのですが、お聞きいただけないでしょうか?」
と、ややぎこちなく、話を切り出した。
「はい、何でしょうか?」
「ミハルさんが持っている辞書を何日かお借りしたいのですが……、ご許可を頂けないでしょうか?」
「私の辞書……これですか?」
美春は小首を傾げて、手元に置いてあった小型の国語辞典を手に取る。この世界に召喚された時に持っていた学生鞄の中に入っていたものだ。
「はい。今の私ではまだ何が書いてあるのかは理解できないでしょうが、漢字の成り立ちを聞いたら興味が湧きまして、どのような文字があるのか見てみたいのです。気になった文字があればそこから覚えてみるのも面白そうだと思いまして」
「なるほど、確かに興味を持ったことから覚えた方が習得も早いかもしれませんね。……構いませんよ。では、今日はいつもと宿題を変えてみましょうか。辞書の中から気になった文字や単語をいくつか探してみてください。次の授業の際にその意味をお教えしますので」
美春はふむふむと頷くと、リリアーナに国語辞典を貸し与える許可を与えた。
「ありがとうございます。頑張って勉強いたしますね。……ミハルさんのためにも」
リリアーナは微妙に
◇ ◇ ◇
そして、さらに場所は変わってガルアーク王国城。演習場の一角で、皇沙月が練習用の槍を黙々と振っていた。だが、その表情はどこか物憂げである。
というのも、つい先日、ガルアーク国王フランソワから直々にお言葉を頂戴したからだ。竜が現れたため、しばらくは魔道船を運航させることができなくなった、と。
現在、ガルアーク王国を含めた近隣諸国は魔道船の運航を自粛する方向で動いており、いつになったら自粛が解消されるかはまったく見通しが立っていない状況だという。
せっかくセントステラ王国を訪問に向けてフランソワに相手国との交渉を依頼していたのに、話を進められなくなってしまった。
(結構な数の犠牲者が出たって話だし、あの王女様も……大丈夫かしら? あんなに大人しくてか弱そうな子なのに……)
実際に何度か顔を合わせて話をしたこともあるフローラのことを考えると、沙月はなんともやりきれない気持ちになってくる。色々な考えや思いが胸の内に押し寄せてきて、槍を握る手にも次第に力がこもってきた。
(そもそも勇者って何なのよ? 勇者なら竜くらい討伐するものなんじゃないの?)
こういう時のために存在する勇者なのではないか、とも主張してみたが、案の定というべきか、もっともらしい理由をつけて消極的な回答が戻ってきただけである。
(結局は体の良い神輿ってことなのかしらね。……まったく、こんな時に現れるなんて、色々と空気が読めない竜)
勇者とは神威を象徴する存在だ。国の権威が神威によって根拠づけられている以上、国としてはせっかく抱えた勇者にいなくなられては困るのだろう。
ゆえに、安易に外出許可を与えることはないだろうし、ましてや危険な化物の討伐になんてそう簡単に行かせるわけがない。
確かに沙月としても安易に危険な化物討伐のお鉢を次々と回されては困るが、今回ばかりは居ても立っても居られなかった。実際に自分が竜を倒すとなったとして、怖くないといえば嘘になるが、それ以上にじっとしているのはどうも性分に合わないようだ。
「ああ、もう!」
沙月はやるせなさをごまかすように、力強く槍を振り下ろした。そのままぴたりと槍の穂先を止めると、小さく溜息をつく。そして――、
「どこに行っているのよ、ハルト君」
不安そうな声で、自らの心情を