第144話 ニドル=プロキシア
リオは突然に襲い掛かってきた巌のような男を、フードの下から訝しそうに見つめていた。
「どうした、皇帝を拝み、畏怖でもしたか?
ニドル=プロキシアを自称した男は両手を広げると、リオに対して尊大に問いかける。その右手には、普通ならば両手剣として扱うような黒い刀身の大剣が軽々と握られていた。
「……どうして俺が結界を抜けて侵入したことがわかった?」
リオは目の前にいる男をあえて皇帝とは見なさず、質問をもって質問に応えた。
「ふはは、皇帝を相手に顔を隠し、あまつさえその不敬な物言い……。まあ、好いがな。とはいえ、そのようなことをわざわざ賊に教える道理もない」
ニドルは愉快そうに笑うと、にべもなくかぶりを振る。
(……だろうな。そんなことはどうでもいい。それよりニドル=プロキシア。この男がこの国の皇帝?)
元より素直に教えてもらえるとは思ってもいなかったが、目の前にいる人物がニドル=プロキシア本人なのか、リオは半信半疑だった。すると――、
「貴様が素性を明かさぬというのなら、余は力を以って屈服させるのみであるな。覚悟は好いか、下郎?」
ニドルはそう言うと、自然体で剣を構える。
同時に、リオも淀みなく懐からダガー二本を抜き放った。そして左右で逆手と順手に握って臨戦態勢をとる。すると、ややあって――、
「ふはは、暗殺者か、盗人か、果たしてそれとも……まあいずれでも好い。今の余は実に気分が好い。ここまで侵入できた賊は貴様が初めてゆえ、褒美を取らせてやるのも吝かではないぞ? 見事、余を打ち負かした暁には、この首を下賜してやっても構わん」
と、ニドルは目をみはって言うや否や、いきなりリオに斬りかかった。
(速い!)
リオはニドルの身体能力に目をみはると、自らも直進して正面からニドルを迎え討つ。ニドルが軽々と振り下ろした大剣を掻い潜ると、すれ違いざまにニドルの太ももを斬りつけた。しかし、金属音に似た音が響き、ダガーはあっさりと弾かれてしまう。
(金属鎧は着ていない。
と、リオは微かに息を呑んだが――、
「ふはは、好い、好いな。余をさらに楽しませると好い」
言って、ニドルは考察する時間すら与えずリオに攻撃を加える。大柄な体躯には似つかわしくない動きで、コンパクトに大剣を振っていく。すると、ニドルが大剣を振るう度に、観客席がクラッカーのように削り取られていった。
だが、リオは軽業師のような動きで、鮮やかにニドルの攻撃を躱している。そうしながらも縦横無尽に動き回り、次第に戦闘の舞台は観客席から眼下のフィールドへと移っていく。
「思った以上に素早い。業腹ではあるが、これは速さで勝負するのは少し分が悪いか?」
と、ニドルは口許を緩めて呟いた。開けた平地では機動力を活かせる分、障害物や段差がある観客席よりも格段に動きやすくなる。
直後、リオはフェイントをかけるように左右に疾駆しながら、正面からニドルに接近し始めた。だが――、
「ふん!」
ニドルは大剣を思いきり地面に叩きつける。すると、インパクトの箇所を起点に、
(なんだ、この
リオは瞬時にバックステップを踏んで距離を取ると、訝しそうに黒焔を見据えた。
「ふむ、素早い上に反応もいい。だが、余の剣は邪竜の焔を操る。鎮火するのは容易くないぞ?」
ニドルは感心したように唸ると、横薙ぎに大剣を振るう。すると、黒焔が真一文字に射出され、フィールドを焼き払った。
「……ふむ。もう少し加減をするべきではないのか?」
目の前一帯が黒焔に覆われ、ニドルが呆れがちに呟く。そして――、
「余と対等、あるいはそれ以上に剣を交えられる相手は久しかったゆえ、もう少し楽しみたかったのだが、臆病な竜だな。貴様は……」
と、そう呟いた直後、黒焔の中からいきなり風の砲弾が飛び出てくる。風の砲弾は黒焔を吹き飛ばし、それどころか黒焔を取り込みながら、一直線にニドルへと襲いかかった。
「むう!」
ニドルは咄嗟に大剣を振るう。風の砲弾は大剣と接触すると、ニドルの腕にぎしぎしと圧力をかけ、びりびりと大気を揺らした。
ややあって、ニドルが黒焔を帯びた風の砲弾を打ち払う。すると、いつの間にかリオがニドルの懐に潜り込んでいた。
「見事!」
ニドルは恍惚めいた笑みを口許に刻むと、反射的に迎撃態勢を取る。だが、先手を取ったのは奇襲を仕掛けたリオだった。
リオは懐に潜り込んで大剣を握ったニドルの間合いを殺すと、トリッキーな動きで左右のダガーを振るいながら、ニドルを圧倒し始める。
月明かりに照らされ、リオのダガーが幾度も煌めいた。そうしてニドルの手足に斬撃が的確に撃ち込まれる。とはいえ――、
(着用しているクロースアーマーの材料に秘密がありそうだな。亜竜の皮膚でも斬りつけているみたいに硬い)
リオの攻撃は斬撃というよりは、むしろ打撃として機能していた。ニドルの衣服はダガー程度の刃を弾いてしまうのだ。もっとも、服を通してダメージは確実に蓄積しているはずである。急所への攻撃は警戒しているようだが、行動不能に陥るのも時間の問題であろう。
「ふはは、このままでは余の敗北も時間の問題か。好い、好いな。実に好い。血湧き肉躍る。命の危険を感じるとは、こういうことか。そうか、思い出してきたぞ」
ニドルは窮地に立たされているにもかかわらず、大声で無邪気に笑った。まるで心の底から純粋に戦いを愛しているかのように。
すると、リオはニドルという男の人間性を測りかねたのか、どこか警戒しながら攻撃を加え始める。
「どうした、余の命を奪う好機であるぞ? 一気に首を取りにくると好い。余が弱るのを待っても後悔するだけだ……が、ああ、もう遅い」
ニドルは自分を早く殺せとリオを急かしたが、ふと残念そうに表情を曇らせる。直後、ニドルが手にした大剣と身体から、黒い魔力が焔のように吹き荒れた。
リオは反射的に後ろに下がる。すると――、
「残念ながら、時間切れだ。
と、ニドルが嘆息して言う。吹き荒れる黒い魔力の奔流は、ニドルが持つ大剣へと禍々しく集約していく。
(あの魔力は不味い)
リオは背筋にひやりとしたものを感じ、自らも咄嗟に体内で魔力を練り上げた。すると――、
「……ほう」
ニドルは目を丸くし、驚愕を覗かせる。そして、ニイッと好戦的に口許を歪ませた。そうしている間にも、吹き荒れる黒い魔力の奔流はニドルの大剣に集約し――、
「では、勝負だ」
ニドルは正眼に構え、ゆっくりと大剣を振り下ろした。刹那、リオに向かって膨大な黒焔の奔流が放たれる。闘技場内も漆黒の闇に覆われた。
しかし、リオはリオでニドルに劣らぬ膨大な魔力を練り上げていたのか、自らに迫りくる黒焔に向けて怯まずに手をかざす。すると、次の瞬間、リオの手から白い光が吹き荒れた。
白い光の奔流は、ダイヤモンドダストの如き輝きを放ちながら真っ直ぐと突き進み、黒焔と衝突する。直後、眩い光が闘技場内を照らし、冷気を帯びた暴風が周囲に吹き荒れた。
ニドルが放った黒焔は蝕まれるように凍りついていく。さらには、いつの間にかリオがニドルの背後に迫っていて――、
「……ふむ、いささか急な幕引きではあったが、これほどの高揚感を覚えたのは何時ぶりであろうか。大義であった。楽しめたぞ。余は約束をたがえぬ主義ゆえ、褒美を取らせよう。何が望みだ、余の命か?」
首筋にダガーを突き付けられたニドルが、ぽつりと語った。
「……別にあんたの命に興味はない。欲しいのは情報だけだ」
リオは微かな間を置くと、要求を突きつける。ニドルに対して殺害を最優先に攻撃を仕掛けなかったのは、そもそもの目的が情報収集だからだ。
現状はいささか以上に想定外な事態ではあるが、相手がこの国の王であるというのならば、むしろ都合は良い。ルシウスのことも知っている可能性は高いだろう。
「……ほう? では、貴様の問いに対して余が正直に答えることを褒美として望むと?」
ニドルは意外そうに目を見開き、リオに問いかけた。
「そうなる」
「はっ、好かろう。申せ。見張りの兵士共が駆けつける前にな」
リオが頷くと、ニドルは堪らず笑みを溢して命じる。
「……ルシウスという名の傭兵を捜している。この国の人間であるのなら、知っている情報を教えてほしい」
「ふ、ふははははは!」
ニドルは大声を出して笑った。
「……何がおかしい?」
リオが怪訝な顔つきで訊く。
「なるほど。貴様、あの男を捜しているのか、それでこんな場所まで潜り込んできたと。見上げた行動力よな。くっくっくっ」
「……つまり、あんたはあの男のことを知っていると?」
「ああ、知っていることは知っている。この国に所属する人間ではないがな」
「では、どういう関係だ?」
「余はこの国の王であり、あの男は名の知れた傭兵団の長。契約関係にあったとしても不思議ではあるまい」
と、ニドルは愉快そうに、それでいて堂々と答える。
「ならば、レイスという名の男は知っているな? この国の大使として動いている男だ」
「……ほう、レイスのことも知っているのか。確かに、あの男を大使に任命したのは余であるが」
「レイスとルシウスの関係は?」
微かに目をみはったニドルに、リオは淡々と質問した。
「ルシウスにレイスの護衛を任せたこともあるが、余は臣下の交友関係に興味はない。レイスがこの国に戻ることはほとんどないゆえ、尚更にな。戻ってきたところで、またどこぞへとふらりと姿を消していくような男だ。まあ、徒党を組んで色々と動いてはいるようだが……。ふむ、貴様の狙いはルシウスとレイス。どちらにあるのだ? 今この場で余が教えてやれるのは一人の情報だけであるぞ?」
「……あんた、今の状況を理解しているのか? 訊いているのは俺だ」
リオは静かに手を動かし、ニドルの喉にダガーを当てる。
「急くな、小僧。直に警邏の兵士共が駆けつけると言っているのだ。余計な話をしている暇はあるまい?」
「ならば、ルシウスの居場所を教えろ。知っているのならな」
「……パラディア王国。その国は日常的に隣国と紛争を行っているのだが、我が国が背後で支援している。東の小国だ、知っているか?」
「名前を聞いたことはある」
「ならば話は早い。今より一年ほど前か。それまで奴はわが国と契約していたのだが、次の仕事先としてパラディア王国を選んだ。余が内密に推薦状をしたためたゆえ、王室と結びつきを持っているはずだ。……第一王子ならば何か知っているやもしれんな」
ニドルはそう答えると、小さく肩をすくめた。
「………………」
リオは沈黙し、思案顔を浮かべる。ニドルは自発的に供述してはいるが、信用するに足る証拠がない以上、口から出まかせを言っていないとも限らない。果たしてこのままこの場を後にしてもよいものか、リオが逡巡していると――、
「まあ、信じる信じぬは貴様の勝手よ。だが、どうする? 余が奴の所在に関して知っていることをすべて話した以上、既に褒美は取らせたことになる。これより先は素直に協力してやる義理もないぞ? ちょうど警邏の兵士共が集まってきたようだしな」
と、ニドルが不敵な笑みを刻んで語る。その言葉通り、闘技場へ通じる通路から騒がしい物音が聞こえてきた。
(これ以上の長居は確かにリスクが高い、か)
リオはわずかに眉をひそめると、撤退を決断する。すると――、
「ああ、それと、帰るのなら不用意に結界と接触せず、侵入箇所から帰った方がいい。これも信じるかどうかは貴様の自由だがな」
ニドルが思い出したように付け足した。同時に、ニドルの体内からぞわりと魔力が膨れ上がる。リオは反射的にバックステップを踏んで距離を取ると、即座に駆け出して脱出を開始した。
(何なんだ、あの男は?)
リオは走りながら跳躍して観客席に上がると、名状しがたい不気味な感覚を覚え、ちらりと眼下のニドルを見やる。
ニドルは不敵な笑みをたたえて、リオを見上げていた。
「あそこにいるぞ!」
「速い!」
「他にもいるかもしれん! 陛下をお守りしろ!」
などと、兵士達は慌ただしく動き回り、統率のとれた動きでリオの包囲とニドルの警護を開始する。
だが、リオは追従を許さぬ速度で疾駆すると、観客席から吹き抜けの天井へと軽々と跳躍した。
「な、なんという身体能力だ……」
「ただの
兵士達は唖然と足を止め、リオを見上げる。
リオは最後にニドルを見下ろすと、闘技場の外へ飛び降りるようにして、追手の兵士達の視界から姿を消しさった。すると――、
「と、飛び降りた!?」
と、兵士達は目を丸くして呆気に取られる。リオはその隙に風の精霊術で急上昇し、結界の隙間から脱出を図った。その一方で――、
「そう怒るな。確かに強いが、余はあの男のことは好かん。仮に死んだとしても、代わりを探せばいいのであろう?」
ニドルは愉快そうに笑って、一人でたたずみながらそんなことを呟いていた。