第157話 第二王女様のお目覚め
リオがルシウスと戦いを繰り広げ、その場に居合わせたフローラを救出してから二日後の朝。パラディア王国南西部のとある街道、そこから外れた岩場にて。
リオは周囲の岩場に紛れるように設置した岩の家で、フローラの看護を行っていた。
といっても、基本的には気絶したように眠り続けているフローラの容態に異変がないか、見守っているだけだ。
朝目覚めると、フローラを寝かせている寝室へ移動する。すると、フローラはすやすやと寝息を立てて、ベッドで横になっていて――、
(だいぶ長く眠っているけど、熱はもうない。これならそのうち目を覚ましそうだ)
と、リオはフローラの額に手を当て、その容体を確かめた。エルフ製の秘薬が効いているのか、顔色もだいぶ良くなっている。そして――、
(それに、首筋の痣も昨日よりかなり引いている……。これなら痕も残らないかな?)
フローラの首筋から顔と胴体へと侵食しかけていたどす黒い痣も、だいぶ小さくなっていて、色素も薄まっていた。となれば、後はもう、目を覚ますのを待つだけである。
(さて、朝ご飯でも作るかな)
リオは軽く伸びをしてまだ寝起きの身体をほぐすと、フローラが眠る寝室を後にした。
◇ ◇ ◇
それから、数十分後。
「ん、う……」
寝室に一人で眠るフローラの身体が、もぞりと身じろぎした。
意識が覚醒したのだ。フローラはぼんやりと、重たい
(ここは……?)
見慣れぬ天井が視界に映った。続けて、視線を動かして室内を見回すと、小奇麗な居住空間が映る。
(どこ? 私……)
どうして眠っていたのだろうか? フローラは白濁とした思考回路で、記憶を振り返る。
(確かお姉様に会いに行こうとして……)
魔道船の中に現れた見知らぬ男二人に、襲われたのだ。そして、パラディア王国の森に飛ばされた。
「っ!?」
フローラは慌てて身体を起こそうとする。だが、身体が重い。まるで鉛が纏わりついているようだ。動かそうとすれば反応はするが、思うように持ち上がらない。
フローラはいったん起き上がることを諦め、代わりにもう一度、室内をよく見回した。すると――、
(誰も……いない)
部屋の中にいるのが自分だけだと確認し、脱力する。動きだすのは、今の状況をもう少し整理してからでも遅くはなさそうだ、と考えて。
(私、村にいて、黙って村から抜け出そうとして……)
力尽きて、倒れた。そこへ村人達がやって来て、危険な病気にかかっていると判断されて、一度は見捨てられた。それで村の青年達に運ばれて、森の入り口に捨てられてしまった。ぼんやりとだが、すべて覚えている。すると――、
「…………」
フローラは名状しがたい心理的な胸の痛みに襲われて、顔を曇らせた。
村の人達を責めるつもりはない。自分は一方的に迷惑をかけてしまったのだから、恨むのは筋違いだと、そう思っている。
強いて恨むとすれば、一人では何もすることができない弱い自分だろう。情けなくて、不甲斐なくて、惨めな自分が悪い。そんな自分が堪らなく嫌だった。
だが、今は打ちのめされ、感傷に浸っている場合ではない。何がどうなって自分がここにいるのか、考えなければならない。
(ここは村長さんの家じゃ……ないよね? パラディア王国に暮らす貴族の人の邸宅、なのかな?)
フローラは立派な部屋の作りや家具を見て、そう思った。やはり自分は捕まってしまったのだろうか、と。
だとしたら、考えられる最悪の展開になっている可能性が高い。待っているのは、人質として利用される未来だけなのだから。
(……そうだ。私、森に捨てられたけど、あの後、誰かが戻ってきた。それで、私を森の外へ運び出してくれて……、ウィルさんとドンナーさん、だったのかな? でも、すぐにあの男の人の声が聞こえた、私をこの国に飛ばした男の人の声が……)
と、フローラはどんどん記憶をたどっていく。
森から連れ出されてしばらくすると、自分をパラディア王国へ飛ばした男の声が聞こえたことはよく覚えている。その男にひどいことを言われたことも。王族として生きてきた彼女の今までの人生で、最も惨めな体験だった。
だから、あの時、フローラは確かに絶望した。もう駄目だと思った。諦めの念すら抱いた。死にたいとすら思った。でも――、
(……その後、さらに誰かが来たような?)
そう、他の誰かの声が聞こえた。それでフローラは最後の力を振り絞って、薄っすらと目を開けたのだ。
そこには、自分をパラディア王国へ飛ばした男と対峙している、黒髪の少年がいた。だいぶ記憶は怪しいけれど……。その黒髪の少年が――、
「そう、……オだ。あんたを殺すために、……来た」
――と、言っていた、気がする。
(……黒髪)
顔はよく思い出せない。でも、黒い髪だったことは確かだ。その彼が、鋭い声で、自分を貶めた男と対面していた。
その後、自分を貶めた男の高笑いが聞こえてきた気がするが、そこで意識が完全に途切れてしまった。だから、覚えているのはここまでだ。だが――、
「……り、お?」
フローラは気がつけば、ぽつりと口を動かしていた。あの時、黒髪の少年は「リオ」と名乗っていたのではないだろうか。よく聞き取れなかったけど、そんな気がして、フローラはぶるりと身体を震わせる。
リオ――今もなお、フローラの記憶の片隅にしっかりと刻まれている少年の名だ。その記憶の中の彼が今、強く連想された。
ぼんやりと目にした少年が同じ黒髪だったからだろうか?
わからない。わからないけど、そう思わずにはいられない。だから――、
(私が気を失った後、どうなったんだろう?)
と、強く気になったフローラだった。だが――、
「っ!?」
ぐうううと、かつて聞いたことがない悲鳴を上げて、フローラの胃が空腹を訴える。室内には誰もいないはずだが、フローラは気恥ずかしそうにお腹を抱えた。すると――、
「……良い匂い」
空腹を刺激する良い匂いがほのかに漂ってきた。どうやら部屋の扉がわずかに開いているらしい。そこから漂ってきているのだろう。
「っ……」
フローラはごくりと、唾を飲んだ。そういえば寝起きだからか、異様に喉も渇いている。というより――、
(……あれ? お腹が減っている?)
そう、お腹が減っている。熱を出してから、ずっと食欲がなかったのに……と、フローラはハッと気づいた。そういえば、起きる前より身体の調子もずっといい。
(熱が……ない?)
ぐったりとした疲労感はあるが、熱に伴う寒気や頭痛がしなくなっている。
「治っている……?」
完治しているのかはわからない。だが、良くなっているのは確かだ。
フローラは呆けた顔を浮かべると、しかる後、今一度、立ち上がってみようと決意した。両手に力を込めて、ぐいっと半身を起こそうと試みる。
だが、やはり鉛のように身体が重い。それでも、すぐには諦めず、なんとかベッドの外へ這い出る。そして、地面に足を着けると――、
「きゃっ!?」
フローラは立ち上がろうとして、転んでしまった。足に力が入らないのだ。
どうして?――と、疑問が浮かんだが、今はそれどころではない。転んだ衝撃で、決して小さくない物音が立ってしまった。
(どうしよう? どうしよう?)
フローラはパニックになり、慌ててベッドに上ろうとする。だが、少しして、キィと部屋の扉が開く音が響いた。
フローラはびくりと身体を震わせる。恐る恐る扉を見やると――、
「……おはようございます」
そこには、灰色の髪をした少年が立っていた。
◇ ◇ ◇
「……おはようございます」
灰色の髪をした少年――リオは、ベッドの傍で倒れるフローラを発見すると、目を丸くして声をかけた。
「あ、その……おはよう、ございます」
フローラはどぎまぎと返事をする。
「お目覚めのようですね。……起きられますか?」
リオは扉の横に設置された魔道具を操作して室内の灯かりを強くすると、フローラに歩み寄って、そっと手を伸ばした。
「……ありがとうございます」
フローラは眩しさで目を細めつつも、礼を言いながらリオの手を掴む。軽く引っ張ってもらって、そのまま起き上がろうとするが――、
「っ、きゃ!?」
力が入らず、そのままリオの脚にもたれかかってしまった。
「大丈夫ですか?」
リオは面食らってフローラを案じる。
「は、はい! ご、ごめんなさい! 力が入らなくて、その!」
フローラは慌てて起き上がろうと身じろぎした。あたふたと手を動かし、リオの腰を掴んで立ち上がろうとする。だが、余計に体勢が際どくなっていく。
「落ち着いてください。抱きかかえますから、失礼いたしますね」
リオは苦笑交じりに嘆息すると、フローラを抱きかかえて持ち上げた。
いわゆるお姫様抱っこである。ここでフローラはようやくリオの顔をじっくりと見つめるに至った。至近距離から視線が重なると――、
「す、すみません!」
と、フローラは頬を紅潮させて謝罪する。
「いえ、ベッドに寝かせますね」
リオは落ち着いた声でかぶりを振って、フローラをベッドまで運んでやった。そのままそっと、マットレスの上に降ろしてやるが――、
「…………」
フローラがじっとリオの顔を見つめたまま、ギュッと服を掴んでいる。
リオは離れることができず――、
「どうかなさいましたか?」
と、困り顔で尋ねた。
「あっ、いえ、その、貴方はアマカワ卿……、ハルト様ですか?」
フローラは恐る恐る尋ね返す。
「……ええ、覚えていてくださり、光栄です」
リオは微かに間を置いて、恭しく頷く。
「あの、貴方が……私を助けてくださったのですか?」
フローラはリオの顔を覗きこんで尋ねた。
「ええ。覚えていらっしゃいませんか?」
リオは淀みなく首肯して、尋ね返す。
「……はい。記憶が、ぼんやりとしていて、あまり……」
フローラは顔を曇らせて首肯した。ただ、その瞳は真っ直ぐと、今もリオの顔を窺うように捉えている。
「無理もありません。すごい熱でうなされていましたから」
リオはフローラの記憶が曖昧なことを確信すると、心の内でこのままハルトとして振る舞うことを決めた。
「あの……、でも……、いえ、何があったのか、教えていただけないでしょうか?」
フローラは何か訊きたそうに口ごもると、そんなお願いをする。
「ええ、構いませんよ」
リオは二つ返事で了承した。すると――、
「っ!?」
ぐうううと、フローラのお腹が再び悲鳴を上げる。直後、フローラは顔を真っ赤にして、硬直してしまった。室内に漂っていたややぎこちない空気が霧散してしまう。
リオはくすりと口許をほころばせると――、
「とりあえず食事にしましょうか。すぐに準備いたしますので」
と、提案する。
「す、すみません!」
フローラは慌ててリオの服から手を離し、お腹を押さえた。それでようやくリオに自由が戻る。
「いえ。失礼いたします」
リオは踵を返し、キッチンへと向かった。
だが、フローラはそんなリオの背中をじっと見つめていて、頬の紅潮がわずかに引いてくると――、
「……似ている?」
ぼそりと、呟いた。