第159話 服が綺麗になった理由
フローラをロダニアまで送り届けることが決まり、朝食を給仕し終えると――、
「それでは少しお待ちください」
「はい」
リオは食後のお茶を淹れに、いったんキッチンへと戻った。フローラはそんなリオの後ろ姿を、やや緊張気味に見送ると――、
(……美味しかったな、アマカワ卿の手料理)
小さく息をついて、肩の力を抜く。そして、久しぶりの満腹感に口許をほころばせ、至福の余韻に浸り始めた。
一時は毒に全身を蝕まれて、野たれ死にそうになっていたのだ。それが温かくて美味しいご飯を食べさせてもらって、暖かくて快適な部屋でリラックスできているのだから、幸せを感じないはずがない。
しかも、もしかしたらリオかもしれない人物に優しくしてもらって、たくさんお喋りもできている。本当にリオなのだとしたら、学院時代には想像できなかったことだ。
それが堪らなく嬉しくて――、
「ふふふ」
フローラは声を抑えきれずに微笑んだ。
どうして自分ばかりがこんな目にと思ったこともあったが、今はこんなに幸せでいいのだろうかと思えるくらいには、心が満ち足りている。
もちろんリオのことも、今後のことも、考えるべき事柄はたくさんあるが、せめて療養させてもらっているこの時だけは、この幸せに浸っていてもいい……はずだ。
(本当に夢みたい、あんなにひどい目に遭ったのに……)
フローラはふと、ここ最近の出来事を振り返る。着の身着のまま森をさまよい野宿して、高熱にうなされて、ルシウス達に身柄を狙われたことを。すると――、
――くっ、ははは。そりゃあ何日も風呂になんか入ってないでしょうからねえ。こんなに汗もかいているし、そら臭いでしょうよ。おう、姫様。意識はありますか? 臭いそうですよ。
意地悪く高笑いをする、ルシウスの声が脳裏に響いた。
「っ……」
フローラはその時の羞恥心と恐怖心を思い出し、びくりと身体を震わせる。今思い出すだけでもトラウマになりかねないほどに嫌な出来事だった。だが――、
(駄目だ。せっかく助けてもらったんだから、楽しいことを考えないと)
嫌な思いを振り払うように、フローラは強くかぶりを振った。もっと明るいことを考えるべきだと、大きく深呼吸をして、心を落ち着かせる。
そうして、嫌な記憶を頭の隅に追いやるように、深呼吸を繰り返して呼吸を整えるが、何か大切なことを見過ごしている気がした。そう、乙女の尊厳に関わるような……。すると――、
(…………あれ?)
フローラはふと気づいたように、すんすんと鼻を動かした。
別に変な臭いがするわけではない。だが、フローラはそれでもすんすんと鼻を動かし続ける。それから、しばらくすると、とたんに硬直して――、
「っ!」
フローラの顔は一気に赤くなった。
直後、フローラは自分が着ている服――ちょうどお腹らへんの生地――を慌てて顔に手繰り寄せ、すんすんと臭いを嗅ぎ始める。
(変な臭いは……、しない、よね?)
と、それを確認し、まずはホッと安堵の息をつく。もしも変な臭いがしていて、リオに嗅がれていたらと想像すると、恥ずかしくてたまらなかった。
だが、すぐに沸き起こってくるのが疑問だ。ルシウス達はフローラのことを臭いと言っていた。それはフローラ自身も聞いていたから覚えている。
なのに、今は特に鼻を刺激するような臭いは感じられない。少なくともフローラが嗅ぎとれる感じでは、だが。
(私の鼻がおかしくなっているわけじゃない、よね?)
フローラは服の生地を掴んだまま、再びすんすんと鼻を動かす。しかし、やはり変な臭いがするというわけではない。というより、むしろ――、
「良い、匂い?」
そう、ほんのりと良い香りがする。それに――、
「服が綺麗になっている?」
フローラは小首を傾げて、自分が着ている服を見つめた。着ている服は村にいた頃と変わっていない。だが、どことなく綺麗になっている気がするのだ。
となると、導き出される事実は――、
「……アマカワ卿が、洗ってくださったんだ、よね」
それしかない。
服を洗ったということは、身体も洗ったのだろうか。身体を洗うには、普通ならば服を脱がす必要があるわけで、あられもない姿をさらすことを意味する。
つまりは、もしかしたらリオに見られてしまったのかもしれないわけだ。自分の裸体を。全裸、あるいは半裸など、成長してからは父親にすら見せたことがないというのに……。
「っ……!?」
フローラはその事実を推測すると、照れくさそうに頬を赤らめた。
だが、不思議と嫌な感じはしない。そう、少なくとも生理的な嫌悪感はない。思考が麻痺しているのだろうか。と、そう思ったが――、
「…………っ、アマカワ卿に、私!」
そんなことはなかった。
そうであるのなら、羞恥心でこんなに全身が火照っているはずがない。そう、フローラの顔は一気に紅潮している。顔と全身から火が出てしまいそうなほどに、恥ずかしさを覚えていた。どきどきと胸の高鳴りが止まらない。
(ど、ど、どどど、どうしよう!?)
フローラは瞬く間にパニックに陥ってしまう。
これならばやはり変な臭いがしていた方がよかったかもしれない――と、お腹周りの生地を掴んで再びすんすんと鼻を動かすが、やはりほのかに良い香りしかしてこない。
でも、変な臭いを嗅がれるよりは、やっぱり良い香りを嗅いでもらった方がいいのかもしれない。でも、でも……と、フローラの思考は二転、三転していく。もはやオーバーヒート寸前だった。
(見られちゃったのかな? 見られちゃったんだよね、たぶん。うう、どうしよう……)
フローラは捲り上げたお腹の生地をギュッと掴んだまま、ぴたりと硬直してしまう。お腹の肌が露出したまま服の臭いを嗅ごうとしているので、ちょっと危うい格好になっている。
すると、トントンと、扉をノックする音が響く。だが、フローラは思考に没頭しているのか、一向に気づく様子はない。部屋の扉はずっと開きっぱなしになっているので、外から中は丸見えだ。
扉の外にはリオが所在なさげに立ち尽くしていて――、
(……もっと強くノックした方がいいのか?)
と、困り顔で、引きつった笑みを浮かべている。お茶を淹れて戻ってみれば、フローラが自分の服を捲し上げているものだから、堂々と入っていくことができないのだ。
そう、リオは既に室内の光景をばっちりと目撃してしまっている。知らぬはフローラだけだ。リオは今もなお顔を真っ赤にして匂いを嗅ぎ続けているフローラの様子を、扉の外からそっと窺うと――、
「……フローラ様、お茶をお淹れしました。中へ入ってもよろしいでしょうか?」
少し大きめの声で入室の許可を求めた。
「……へ?」
フローラは流石にリオの声に気づいて我に返ると、部屋の扉が開きっぱなしになっていることにも気づく。
「お茶をお淹れしましたので、中へ入ってもよろしいでしょうか?」
リオはフローラが自分の声に気づいたことを察すると、改めて部屋の中へ向けて声を発した。
「ひゃ、ひゃい!」
フローラはびくっと身体を震わせて首肯する。
リオはふうっと小さく息をつくと――、
「失礼します」
きちんと断ってから、入室する。その間に衣類の乱れを整えているだろうと思ったのだが――、
「…………」
フローラはいまだに服を捲し上げたままだった。ほんのりと頬を紅潮させたまま、気恥ずかしそうにリオに視線を向けている。
「……っ、お着替え中でしたか?」
リオは咄嗟に視線を逸らす。着替えなんて用意していないので、着替えをしているはずがないのだが、他に上手い台詞が見つからなかった。
しかし、それでようやく――、
「え? あ……!?」
フローラは自分が何をしていて、リオにどう見られているのかを察する。もしかしなくとも自分はすごく変な子に思われているんじゃないだろうか。そう思って、顔を真っ赤にすると――、
「こ、これは、違うんです!」
フローラは捲し上げた生地を慌てて元に戻しながら、上ずった声で弁明を開始した。
「……ええ、承知しております」
リオは何と応じればいいのかわからず、とりあえずフローラの弁を認める。
「わ、わかるんですか?」
フローラは意表を衝かれたように、目を見開く。
すると、リオは悩みに悩む。フローラの行動の一部を見ていたから、何となく臭いを気にしているのであろうことはわかっている。だから――、
「いえ、その……、お着替えをご所望ですか?」
と、ぎこちなく答える。流石に「服の臭いが気になりますか?」と率直に尋ねることはできなかった。
「い、いえ、そ、そういうわけではないのですが、わ、私の服は……、ア、アマカワ卿が洗ってくださったのですか?」
フローラはあたふたとかぶりを振ると、もじもじと気恥ずかしそうに尋ねる。
「……はい。恐れながら、治療にあたって衛生面にも気を配る必要があると愚考しましたので」
リオはやむを得ず首を縦に振った。
「あ、ありがとうございます……。その、変な臭いはしなかったですか?」
フローラは顔を真っ赤にして礼を言うと、リオの顔色を窺うようにおずおずと質問する。
「……はい、そのようなことはございませんでしたが」
真実はともかく、リオはポーカーフェイスを装ってかぶりを振る。体臭よりも先に意識がない状態で身体を洗われた事実を気にするべきではないかとも思ったが、藪蛇なので突っ込むことはしない。
「……ほ、本当に?」
フローラは恥ずかしそうにしつつも、じっとリオの顔を見つめた。
「ええ」
リオは笑みを取り繕って首肯する。他にどんな顔をすればいいのかわからないのだ。
「よ、よかった……、あっ、でも……」
フローラはホッと安堵の息をつく。だが、すぐに何かに気づいたのか、再び頬を赤らめだした。そして、リオの顔をちらちらと窺う。そうして、フローラが慌てふためいているせいか――、
(意外と表情豊かな子だな)
リオは却って冷静に、フローラのことを分析していた。物静かで控えめな子という印象を抱いていたが、案外そんなことはないようだと、ややバツが悪そうな顔で認識を改める。すると――、
「あの、その、服と一緒に、私の身体も、その……」
フローラが消え入りそうな声で呟いた。リオはしっかりとその声を聴き取る。
追及されたとあれば、白を切るわけにもいかないのだろう。
「看護の一環とはいえ、意識のない間に王族の方の裸を盗み見れば問題になると、服を着ていただいたまま洗わせていただきました。誓っていかがわしい真似はいたしておりませんが……」
信用するかどうかはフローラ次第だ。
「そ、そうでしたか……。ありがとうございます」
フローラはひどく恥ずかしそうに俯き、礼を言った。どうやら納得はしてくれたようだ。いや、もしかすると、深く尋ねるに尋ねられないだけかもしれないが。
「いえ、まだ体調が万全でないのでお風呂に入っていただくわけにはいきませんが、後でお湯とタオルをお持ちしましょう。女性用の服は持ち合わせがないので、着替えは私の服になってしまいますが……」
リオはあえてそれ以上の弁明はせず、話を流すように提案した。すると――、
「は、はい! ぜひ、お願いします!」
フローラはそそくさと頭を下げる。リオの顔を直視することはできないのか、そわそわと視線をさまよわせていた。