第140話 出発、そして――
レストラシオンから屋敷を貰い受けた日の二日後、リオは昨日からセリアが暮らし始めた自分の持ち家を訪れていた。
ちなみに、一応、屋敷の所有者はリオだが、婚約者でもない男が未婚の貴族女性の家に寝泊まりするわけにはいかないと、ロダン侯爵領の迎賓館に滞在していたりする。
今日、屋敷を訪れたのは、セリアと正式に屋敷の賃貸借契約を締結するためだ。
「これで屋敷の賃貸借契約を正式に締結したことになるわね。契約書を無くしちゃダメよ? なんてね。気をつけるのは私の方か」
セリアは作成した契約書にサインすると、どこか寂しそうに微笑んだ。
「あまり散らかさず、しっかりと保管場所を用意しておいてください。本当は信用できる人間が先生の世話役に就いてくれるとありがたいんですが……、やはり難しそうですよね?」
リオはくすりと笑うと、窺うように尋ねる。
「うーん……、候補の人員はいくらでもいるらしいんだけど、気を許せる相手を見つけるのは難しいわね。とはいえ、あまり我儘も言っていられないし、そこら辺をどうにかするのは家主となった私の仕事だから、リオは気にしないでいいわよ。屋敷に結界も張ってくれたし、当面は一人暮らしでもいいから」
セリアは苦笑して、小さく肩をすくめた。すると――、
「そのことなんですが、屋敷……というより、先生の警護役に関してお話があります」
リオが真面目な面持ちで話を切り出そうとする。
「……何かしら?」
尋ねて、セリアは姿勢を正した。
「実は俺が旅に出ている間、先生の傍にはアイシアに残ってもらおうと思っていまして」
「え? アイシアに?」
「はい。霊体化したアイシアに傍にいてもらえば安心でしょう?」
「……安心は安心だけど、アイシアは契約者の貴方から魔力の供給を受けているんでしょう? 長い間離れても大丈夫なの? 何より、リオにもアイシアにも悪いわよ」
と、セリアは顔を曇らせる。
「実体化しなければ激しい魔力消費はないはずですし、魔力の補給に関しても考えがあります。それに、これはアイシアから言い出してくれたことなんです」
「……アイシアから?」
リオがどこか困り顔で言うと、セリアが意外そうに目を見開く。すると――、
「春人がセリアのことを心配しているから、私が残ればいいって言っただけ」
アイシアがおもむろに実体化して、そんなことを言った。
「あはは……、だそうです。しまらない話ですが」
リオが苦笑して、ひょいと肩をすくめる。
「アイシア、リオ……」
セリアは名状しがたい想いで二人の名を呟いた。
「このロダニアはレストラシオンの本拠地ですが、それでも人の出入りはあります。都市の中に密偵が紛れ込んでいる可能性はもちろん、組織の中にまで入り込んでいる可能性だってあるはずです。潜入先で大胆な強硬手段に出るとは考えにくいですが、先生は国内の重要人物ですから、何が起きるかはわかりませんし、最初のうちは特に不安なはずです。違いますか?」
と、リオは自身の考えを述べてから、セリアに問いかける。
「……そうね。クリスティーナ王女殿下達にも同じことを言われたし、私もそう考えている。少しも不安がないと言えば嘘になるわ」
「でしたら、最初だけでもアイシアに護衛を頼んでください。もちろん周辺に警護の人員が配置されるんでしょうが、アイシア以上の適任はいないはずです」
バツが悪そうに頷くセリアに、リオが言う。
「確かにアイシアが傍に居てくれたらすごく心強いけど、そうしたら結局、貴方達に頼っちゃうことになるし……」
セリアはひどく悩ましげな面持ちを覗かせた。
「私は構わない」
アイシアが即答する。
「俺もアイシアが構わないのであれば。……本当は俺が傍に居てあげられればいいんですが、少し所用がありまして。すみません」
一方、リオがどこか後ろめたそうに語る。すると――、
「リオが謝ることなんて何もないわよ。貴方には貴方の事情があるんでしょうし、……何をしようとしているのかはわからないけど、何か目的があって一人で動いているんだなってことはわかっているつもりだから」
セリアがリオの顔色を窺うように、気遣って言った。
「先生……」
「むしろ申し訳ないのはこっちよ。私なんかの世話でリオに時間を取らせちゃって、貴方の負担になっているから」
「そんなことはありません」
リオは即座に否定する。
「貴方ならそう言うんでしょうね。……でも、私はリオに大きな恩があると思っているの。たくさん養ってもらって、申し訳ないと思ってもいる。だから、私に手伝えることがあったら、遠慮なく言うのよ? 私にできることなら何だってするから」
セリアはやや呆れがちに嘆息して言うと、優しくリオに微笑みかけた。
「……はい」
リオは安らかに相好を崩して頷く。
「それで、ここにはどのくらいで戻ってこられそうなの?」
二人でしばし見つめ合うと、セリアは微妙にはにかんで尋ねた。
「最長で二カ月。早くて一カ月です。アイシアの魔力供給に関しては、霊体化した状態で日常的に消費する分には特に問題ありません。問題は実体化した時なんですが、念のためにこちらを」
そう言って、リオは机の上に金属製のブレスレットと小袋を置いた。すると、セリアの視線が机上に引き寄せられる。
「……これは?」
「ブレスレットは魔道具です。埋め込まれているのは精霊石で、魔道具の核になっているのですが、あらかじめ魔力を補給しておくことで、いざという時に吸い出して使えるようにもなっています。魔道具としての本来の機能は、魔術……それと魔法の威力を増幅して強化するというものです。これを使えば少ない魔力で高威力の魔法を使用可能になるでしょう」
「魔法の威力を増幅って、
リオから魔道具の効果を説明されると、セリアが顔を引きつらせた。
「今はそっちの機能のことはいったん置いておきましょう。確かに先生の魔力は人間族にしては破格なほどに膨大ですし、アイシアと一時的なパスをつなぐことで魔力を供給することもできます。ただ、それでも実体化したアイシアを使役するにはいささか心もとないはずです」
「まあ……、そうでしょうね」
セリアが歯噛みして同意する。リオの魔力が底知れずに膨大なせいで実感が薄いが、霊的存在が実体化して顕現するという超自然的な事象を引き起こすなど、実体化を維持するだけでもかなりの魔力を消費するであろうことは想像に難くない。ましてや戦闘で精霊術を使えば魔力消費量は加速度的に増えていくのだから。
一応、アイシアは自前で相当量の魔力を蓄えておくことができるらしいが、契約者から離れた状態で実体化を維持したまま生活をすれば、一カ月程度で魔力残量は怪しくなるという。
「なので、その不足分をこの魔道具に埋め込んだ精霊石で補ってもらおうと考えました。おそらく先生数人分の魔力が込められていますから、アイシアが本気を出して戦闘しても耐えられるはずです」
「す、数人分って……。自信を失うわね」
「それだけ作るのに苦労した一品です。かなり質の良い精霊石を使用していますから。本当は他にも先生に作っておきたい魔道具があったんですが、ストックの関係でそれはまた今度ということで」
と、リオは苦笑して言った。
「あはは……、こうしてリオへの恩が積み重ねられていくのね」
がっくりと項垂れて苦笑いを覗かせるセリアに――、
「えっと、それで、こちらの小袋ですが……」
リオがおずおずと声をかける。
「う、うん。何が入っているの?」
「クレール伯爵から預かった路銀の残りです」
そう言って、リオは貨幣がぎっしり詰まった小袋をセリアに差し出した。
「え? あ、お父様から……。こんなに受け取っていたの?」
セリアがギョッと目を見開く。
「はい、全部で金貨二百枚ほどの貨幣が詰まっています。どうぞ受け取ってください」
「……ダメよ。これはリオが受け取って。お父様もそう言っていたんじゃない?」
セリアはきっぱりとかぶりを振って、貨幣の詰まった小袋をリオに押し戻した。
「さて、どうでしたでしょうか? 確かレストラシオンでの先生の活動資金として役立てろとのことでしたが……、いずれにせよ俺には必要のないお金なのでいりません。先生はしばらく色々と物入りでしょう? お父上のお金ですから、遠慮なく使ってみては?」
「………………じゃあ、借りておく。きちんと返すから」
セリアはしらばっくれるリオをたっぷりジト目で見つめると、少し拗ねたように唇を尖らせて、お金を受け取った。このままだと水掛け論になるのは必至だし、この場で何と言おうとリオがお金を受け取らないのは自明だから。
「はい」
リオは朗らかに首肯した。
◇ ◇ ◇
そして、翌日。いよいよリオが出発する日がやってきた。時刻は午前中。アマンドまではリーゼロッテの魔道船で送ってもらうことになり、都市に隣接する湖の港を訪れている。
港には主だった顔ぶれが見送りに姿を現しており、今はクリスティーナが代表してリオに声をかけているところだ。
「結局、貴方には大した恩を返すことができませんでした。アルフレッドの剣も返していただくことになりましたし」
と、クリスティーナがどこか物憂げな面持ちで言う。
「業物の剣なら間に合っていますし、国宝の剣を簡単に頂戴することもできません。どうかあの剣に相応しい使い手にお与えください」
リオは苦笑してかぶりを振った。
アルフレッドを倒したことで拾った剣はその後もリオが預かり続けていたのだが、出発を前にリオから返還を申し出ている。クリスティーナはリオになら与えてもいいと言ったのだが、リオはその申し出を恭しく辞退したのだ。
剣を受け取ることで貴族社会からレストラシオンとの結びつきが過度に強いものだと勘ぐられても面倒だし、剣自体を狙って不届き者に襲われる危険性もあると考えたから。
「……わかりました。では、セリア先生にお会いになる際はこちらのブローチを提示して貴族街にお入りください。通行手形の代わりとなります」
「……承知しました。ありがたく頂戴します」
リオはクリスティーナから恭しくブローチを受け取った。ブローチにはクリスティーナが公的に用いる紋章と同じデザインが施されているが、リオが知る由もない。
受領まで一瞬の間を要したのは、ブローチに通行手形以上の役割が込められているのではないかと勘ぐったからだ。だが、公衆の面前で理由もなしに王女からの贈り物にケチをつけるような真似はできず、大人しく受け取る以外に道はない。
ブローチについて深く尋ねることで藪蛇となっても困るし、失礼な行為に当たりかねないので、リオはさっさと話題を変えることにした。知らぬが仏である。
「それはともかく、コウタ君のことはよろしいのですか? このままアマンドへ連れていってしまって」
と、リオは一緒に見送られる側にいる浩太をちらりと見やって訊いた。何やら浩太は昨日のうちにロダニアから出ていくと意思表明をしたらしい。
一方で、怜はロダニアに残ることになっており、見送る側にいたりする。別に喧嘩をしているというわけではなさそうだが、リオはどこかバツが悪そうな雰囲気を二人から感じ取っていた。
「それが彼の意志だというのなら、こちらから引き止める真似はしません。とはいえ、戻ってくるようなら受け入れる用意があるとは伝えました。後は彼次第です。今後は一先ずアマンドで活動するとのことでしたから、レディ・リーゼロッテにそれとなく気を配っていただくようお願いしました」
クリスティーナは微妙に憂いを帯びた面持ちで語った。心配はしているが、あくまでも強制はしないというのが彼女のスタンスらしい。
「……なるほど。承知しました」
リオが小さく息をついて頷く。気持ちとしてはリオもクリスティーナと似たように考えている。何かと危なっかしく感じてはいるが、ああ見えて頑固なところがあるようだし、中途半端におせっかいを焼いても逆効果だろう、と。
「……もしアマカワ卿の目の届く範囲で困っているようであれば、アドバイスだけでもしていただけると助かります」
「あまりアマンドにはいられませんが、畏まりました」
申し訳なさそうにお願いしてきたクリスティーナに、リオは微苦笑して応じた。
その後まもなく、リオ達はロダニアを出発する。あらかじめセリアとの別れはきちんと済ませていたので、最後は軽く言葉を交わしただけで別れを済ませた。また、ヴァネッサや怜とも別れの言葉を交わすと魔道船に乗って、その日の昼過ぎにはアマンドに到着することになる。
◇ ◇ ◇
そして、時は少しだけ進み、翌日の夕方。ロダニアの湖に一隻の魔道船が不時着した。不時着した船は傷んでいたものの、レストラシオンが所有するものだと旗からすぐに判明する。ロダニアの貴族街は瞬く間に騒ぎとなった。
迅速に指揮を執って救助の人員を向かわせるクリスティーナ。魔道船には顔面を蒼白にした乗組員達がいて、怯えた様子で身体を震わせていた。
救助隊の隊長は一先ず保護を優先し、魔道船の乗組員達を港へ輸送しながら事情を聴取することになる。すると、魔道船の船長から告げられた事実に、大きく衝撃を受けることになった。
救助隊が魔道船の乗組員達を連れて港にたどり着くと、そこにはクリスティーナとレストラシオンの重鎮達が待ち構えていて――、
「何があったのか、報告しなさい」
と、クリスティーナが直々に命令した。救助隊の隊長はひどく戸惑った様子を見せたが、意を決したのか――、
「せ、船団を組んでフローラ王女殿下をロダニアへ護送していたところ、く、黒い竜の襲撃を受けたとのことです。他の護衛船は……ぜ、全滅。彼らが乗っていた船だけがかろうじて逃げることができたと」
と、上ずった声で報告した。
瞬間、クリスティーナは高所から落下するような感覚を覚える。平衡感覚を失い、まるで天と地がひっくり返ったような衝撃を受けた。頭が上手く働かない。
「…………全滅? フローラは? フローラはどうなったの?」
クリスティーナは何とか頭の中に思い浮かんだ質問を口にした。だが――、
「ふ、フローラ第二王女殿下がお乗りになっていた船は、真っ先に撃墜されたと……」
返ってきた答えは、ただただ非情だった。