第161話 それぞれの想い
岩の家を出発してから、小一時間が経過した現在。リオとフローラはパラディア王国南西部のとある都市に接近して、街道付近の岩陰に潜んでいた。
リオはフローラをいったん地面に降ろすと――、
「フローラ様、都市に入る前に、少しよろしいでしょうか?」
と、語りかけた。
「はい、何でしょうか?」
フローラは小首を傾げてリオに応じる。
「これからフローラ様の旅支度を整えるため都市に入るのですが、念のため、変装なさっておいた方がよろしいのかなと思いまして」
「変装……ですか?」
「ええ、こちらの首飾りをご装着ください」
リオはそう言って、フローラに首飾りを差し出した。
「はい……、えっ!?」
フローラは不思議そうにしつつも、リオに言われるがまま首飾りを着用する。すると、薄紫色の長い髪が、瞬く間に水色へ変化した。そのことに気づき、フローラは目を見開く。
「髪の色を変える魔道具です。首飾りを外せば元に戻りますので、ご安心を」
と、リオが告げると――、
「そんな、魔道具が……、っ」
フローラは呆然と呟いた。だが、ややあってハッと目を見開き、吸い込まれるようにリオの灰色髪を見やり、続けて胸元へ視線を向ける。そして、リオの胸元、少なくとも外から目に見える範囲には、同じ首飾りが着用されていないことを確認した。
もっとも、リオはタートルネックの厚手なクロースアーマーを着用しているので、もしかしたら衣類の内側に身に着けているのかもしれないが。
リオはフローラの視線の動きに気づいたが――、
「……どうかなさいましたか?」
そ知らぬ振りを決め込んで、フローラを見つめ返した。
「あっ、いえ!」
フローラは慌ててかぶりを振る。
「一般には流通していない術式を使用した魔道具ですので、無暗に口外はなさらないでいただけると幸いです。流通させるつもりもございませんので」
「……は、はい」
リオが語りかけると、フローラはおずおずと頷く。
「それと、念のため、都市の中ではフローラ様のことを偽名でお呼びしてもよろしいでしょうか? ……そうですね、例えば『ローラ』など、いかがでしょうか?」
「……あ、はい。構いませんが、でも偽名を使うなら、元の名前と関係のない方がいいのでは?」
フローラは不思議そうに質問する。
「おそらく元の名前と何の関係もない偽名だと慣れるまで時間がかかるでしょうし、咄嗟には反応しづらいのかなと愚考しました。それに、確かに安直かもしれませんが、『ローラ』でもその弊害は多少なりともおありなのでは? もちろん他の偽名がよろしいのであれば、そちらでお呼びしますが……」
と、リオが説明すると――、
「あ、なるほど。確かに違和感がありますね……」
フローラは目をみはって得心した。
「左様でございましょう。それに、いざ偽名を考えるとなると、案外難しいのではないかなと」
リオは微苦笑して語る。
「……はい」
確かにその通りだと、フローラは納得しつつ――、
(リオとハルトは、まったく関係のない名前……だよね)
と、そんなことを考える。髪の色を変える魔道具の存在を知ってしまったせいか、ここでも再びハルトがリオなのではないかという疑念がぶり返してきたのだ。
とはいえ、今、ハルトが語った理屈に準拠するならば、「リオ」という名前の人間が「ハルト」という偽名を用いるとは思いにくい、ように思えてくる。それとも、何らかの関係性や意味が込められているのだろうか。あれこれ勘ぐるが――、
(わからない)
考えているうちに、なんだかよくわからなくなってきた。すると――、
「……何か良い偽名をお考えですか?」
リオがフローラの顔をじっと見据えて尋ねた。
「あっ、いえ、そういうわけでは! えっと、では、その……ローラでお願いします。あはは、違う名前を名乗るというのも、なんだか気恥ずかしいですね」
フローラはハッとしてかぶりを振ると、はにかみながらローラと名乗ることを決めた。自分ではない自分に変わるみたいで、なんだかこそばゆいのだ。だが、その一方で――、
「畏まりました、ローラ様」
リオは恭しく『ローラ』と、フローラを偽名で呼ぶ。そうやって、何の臆面もなくリオに偽名で呼ばれたものだから――、
「は、はい……」
フローラは思わず頬を紅潮させて、照れくさそうに返事をした。
◇ ◇ ◇
それから、リオ達は都市に入り、真っ先に富裕層向けの衣類を取り扱っている洋服屋に向かった。そして、店の中で――、
「……あの、どうでしょうか?」
フローラは自分で見繕った旅装束を試着して、リオにその姿を見てもらった。
丈夫で、丈の長いワンピースに、膝上まで伸びる厚手のハイソックス、そして革のロングブーツ。シンプルだが動きやすくて、清楚で、可愛らしいデザインである。
「とてもお似合いでいらっしゃいますよ」
リオは鷹揚にフローラを褒め称えた。決してお世辞ではない。実際、すぐ傍にいる女性の店員も、接客を忘れてフローラの可愛らしさに見惚れている。
「ありがとうございます」
フローラは照れくさそうにはにかんだ。
「サイズはいかがでしょうか? 既製品ですので、よくご確認ください」
「えっと、たぶん大丈夫だと思うのですが……」
リオが問いかけると、フローラはその場で身体を捻って、動きやすさを確認する。その物言いは少しだけ自信がなさそうだ。着慣れないタイプの服なだけに、判断ができないのだろう。
「現時点で特に違和感がおありでないのでしたら、問題ございませんよ。候補の一つとして、キープしておきましょう。他にもいくつかご覧になってから、最終的に購入する品をお選びください」
「はい」
それから、フローラはしばらく試着を繰り返した。王族ともなると市井での買い物すら自由にできないからか、貴重な体験に目を輝かせて選んでいる。
リオはフローラから意見を求められるたびに、「お似合いですよ」と感想を口にした。服を見る目にあまり自信がないので、参考になるアドバイスができないのだ。
とはいえ、フローラは買い物が楽しいからか、リオに似合っていると言われるだけで、堪らなく嬉しそうな笑顔を覗かせている。そうして、一通りの試着を終えると――、
「どれがよろしいでしょうか?」
フローラがリオに尋ねた。
「そうですね。正直なところ、服のセンスにはあまり自信がないので、どれもよくお似合いだとしか……」
リオは困り顔で答えて、頭を掻いた。
「そんなことはないですよ。あの家の中でハルト様が着ていらっしゃった服はどれもとてもお洒落でした」
と、フローラは岩の家でリオが着ていた普段着を思い浮かべながら語る。どれも小奇麗で、リオによく似合っている服だと思ったから。すると――、
「ああ、あそこで着ていた普段着は、美春さ……いえ、他の人に選んでもらったものばかりなので」
リオは懐かしそうに微笑し、かと思えば、すぐに翳りを帯びた笑みを覗かせて答えた。そういえば、何度かアマンドに買い物へ行って、普段着を選んでもらっていたなと、懐かしそうに思い出す。
復讐を果たした今、ふと脳裏に浮かんだ彼女の顔は、とても眩しかった。私怨で人を殺し、血塗られた自分が薄汚く思えるほどに。
「……そう、なのですか」
フローラはリオの表情の変化から何かを機敏に感じ取ったのか、複雑な面持ちを浮かべた。そして――、
(ミハル……さん、確かハルト様が保護していた異界の女性の名前だった、よね?)
と、ガルアーク王国の夜会で美春を見かけた時の記憶を掘り返す。だが、実際に話をしたわけではないので、どのような人物なのかはわからない。
ただ、とても可愛らしくて、綺麗な女性だったことは記憶している。いったいリオとはどのような間柄だったのだろうかと、フローラはなんだか無性に気になった。すると――、
「そういうわけなので、ローラ様がお気に召した品でよろしいと思いますよ。携行できる荷物の量を踏まえると、二着か三着がちょうどいいかと」
微妙な空気になってしまったことを察したのか、リオが話をまとめてしまう。
「……はい」
フローラはおずおずと頷く。だが、微妙に間を置いて――、
「でも、その、一着はハルト様が選んでいただけないでしょうか?」
と、そんなお願いをする。
「私が、ですか?」
リオは意外そうに目を丸くした。どうしてフローラがそんな申し出をしたのか、理由がわからなかったから。
「駄目、でしょうか?」
フローラはリオの顔色を窺うように尋ねた。
「いえ、そのようなことはございませんが……、承知しました。では、恐れながら、選ばせていただきます」
リオは戸惑いつつも、快く了承する。別に手間がかかるわけではないし、自分が所属しない国とはいえ、王族の頼みとあらば、そう簡単に無下にはできない。何よりフローラが不安そうに見つめてくるから。すると――、
「ありがとうございます!」
フローラは嬉しそうに破顔した。
◇ ◇ ◇
場所は変わって、セントステラ王国。第一王女であるリリアーナの私室で、本日も美春による日本語レッスンが開催されていた。
椅子に座り、二人で向き合うと――、
「それでは、本日もよろしくお願いいたしますね、ミハルさん」
リリアーナが講師役の美春に深々と頭を下げる。
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします、リリアーナ様」
美春も折り目正しくお辞儀を返した。だが、頭を上げて、真正面からリリアーナを見据えると、彼女の顔色が優れないことを察して――、
「……リリアーナ様、恐れながら普段よりもお顔の色が少しだけよろしくないのでは? お加減はいかがでしょうか?」
リリアーナの身を案じた。
すると、室内にいる唯一の侍女、フリルが小さく嘆息して――、
「ほら、ミハル様もそう仰っているではないですか。私の目が節穴というわけではなさそうですよ。あまりご無理はなさらないでくださいませ、リリアーナ様」
と、リリアーナに諫言するように、開口する。どうやら美春と会う前に、フリルからも顔色が悪いと指摘を受けていたらしい。
「お加減が悪いようでしたら、今日の講義はお休みにさせていただきますよ?」
美春は心配そうに水を向けた。だが、リリアーナは少しだけバツが悪そうに笑みを浮かべると――、
「大丈夫、それには及びませんよ。実はミハルさんからお借りしている辞書の文字を見るのが面白くて、つい夜更かしをしてしまったんです」
大したことはないと、かぶりを振る。
「それは……、きちんとお休みにならないと。フリルさんも心配されますよ?」
美春は困り顔で、フリルを見やった。
「ええ、ミハル様が仰る通りでございます」
フリルは力強く賛同する。
「ふふ、ありがとうございます、ミハルさん。それに、フリルも。でも、本当に大丈夫ですから。この程度で弱音を吐いていたら、王族としての公務も果たせませんもの」
と、リリアーナは惚れ惚れするような笑みで語った。
「一日程度の夜更かしなら、私も目をお瞑りいたしますが……」
フリルは小さく息をついて、嘆かわしそうに呟く。その口ぶりからリリアーナが何日も睡眠時間を削っていることが窺えるが、美春には聞こえない程度の声量に抑えられている。
「それはそうと、今日も辞書から気になる文字を探してみたんです。その意味を早くミハルさんに伺いたくて、教えてくださいな」
リリアーナはフリルに申し訳なさそうな笑みを向けつつも、明るい声でそう言って、一枚の紙を取り出した。この紙にリリアーナが気になった文字や単語が書かれているのだ。
「畏まりました。本日はどのような単語をお調べになったんでしょう、か……」
美春はリリアーナから紙を受け取り、記載された文字を眺めると、思わず硬直した。そこに『臆病』『無気力』『意地汚い』『醜い』『未練』『死』といったマイナスな意味を持つ単語ばかりが羅列されていたから。
「……どうかなさいましたか?」
リリアーナは恐る恐る尋ねて、美春の顔色をじっと窺う。
「あっ、いえ、お選びになった言葉の意味が、どれも暗いものばかりだったので……」
美春は笑みを取り繕って、硬直した理由を語った。他にもリリアーナが選んだ言葉はたくさんあって、マイナスな意味を持たないものも交ざっているからただの偶然なのだろうが、無作為に選んで、マイナスな意味の言葉が最初に連続したのは少しすごいなと感心する。
「……まあ、そうなのですか?」
リリアーナはわずかな間を置いたものの、驚いたように目をみはってみせた。
「ええ。単語の数も多いので、とりあえず順番に意味をお教えしますね」
美春はさして気にも留めずに、その日の講義を始める。
「お願いいたします」
と、頭を下げるリリアーナの顔色はやはり悪く、その声色も微かに強張っているような感じがした。