第163話 姉妹の現状
現在、ロアナ=フォンティーヌは身をすくめて立ち尽くしていた。目の前の執務椅子には、自国の第一王女であるクリスティーナ=ベルトラムが腰を下ろしている。
ロアナにとってクリスティーナは決して頭が上がらない存在だ。公爵家の娘であるがゆえに幼馴染として付き合うことを許されているとはいえ、高位の王位継承権を持つクリスティーナとの間には決して越えられない地位の差がある。何よりクリスティーナには温厚なフローラ以上に王族としての気品と覇気があった。
周囲には、クリスティーナの他にも、ユグノー公爵やロダン侯爵を初めとするベルトラム王国の高位貴族が立ち並んでいる。場の雰囲気はどこかピリピリと張りつめていた。そんな中――、
「では、複数の女性との政略結婚に関して、勇者様はどのようにお考えなのかしら?」
先ほどから、クリスティーナが淡々とロアナに問いを発している。
質問の内容はもっぱら弘明に関することだ。例えば、ガルアーク王国城でどのような生活を送ってきたのか、どうしてフローラと一緒にロダニアへやってこなかったのか等、弘明の人となりが推測できる質問があれこれ投げかけられている。
ロアナは針の
「……非常に意欲的です」
と、強張った声で、クリスティーナの質問に答える。
「それはどのように?」
「例えば、先ほども申し上げた通り、連日、令嬢達のお茶会に参加して、結婚相手の候補となる貴族の令嬢達を選定なさっています。お眼鏡に適った方がいれば、積極的に個別のアプローチも仕掛けておいでです」
「つまり、周囲から政略結婚を求められているから、嫌々従っているというわけではないのね? 本心から複数の女性との婚姻を望んでいると?」
クリスティーナは落ち着いた声で問いかけた。すると――、
「は、はい。ただ、側室の序列付けに関しては難色を示していらっしゃいました。それと、来る者は拒まないとのことです。ある程度接した上で、ご自身が気に入られたらという条件付きですが……」
ロアナは恐る恐る回答する。そのあまりの節操のなさに――、
「……一応、確かめておくけど、複数人と政略結婚をすることで生じうる問題について、勇者様にはお伝えしているのよね? 正式な側室として婚姻関係を結べる人数が限られていることも含めて」
流石のクリスティーナもやや呆れた顔で訊いた。中には婚姻関係を結ばないで大勢の妾を囲う貴族も存在するが、婚姻関係を結んだ側室が複数人存在する場合には、通常は身分的な問題から側室間で序列が定められるし、序列に応じて実家が受けられる恩恵の程度も変わってくる。側室間の地位が均衡していると対立も生じうるし、要は、色々と複雑なのだ。
無論、側室全員の仲が良ければ様々なトラブルを回避できるかもしれない――実際にそういったケースも稀にある――が、実家の利害が絡んでくる以上、そう一筋縄にはいかない。抱えようとする側室の人数が増えるのならば尚更だ。だからこそ、序列付けは大事になる。
しかし、弘明はそういった問題を軽視しているのか、そもそも知りすらしないのか、序列付けはしたくないという。
「む、無論です。ですが、しきたりや慣習に束縛されることを極度に嫌われると申しますか、常識に捕らわれない価値観をお持ちですので、あまり私から強くお諫めすることもできず……、場合によっては、婚姻関係を結ぶ必要がないともお考えのようです」
ロアナは冷や汗を浮かべて答えた。
「…………まあ、そういった権力者がいないわけでもないけどね」
一夫多妻、あるいは一妻多夫を前提とした政略結婚は、政治的な必要性が認められているからこそ、合理性が認められている制度だ。必要性を越えて婚姻関係を結び過ぎれば、合理性まで失われてしまう。
とはいえ、歴史を紐解けば、数百人の側室や非公式の妾を抱えた王侯貴族の存在もそこまで珍しくもない。弘明の立場ならば同じことを実現することも可能だろうし、こんなことで勇者と波風を立てるのも好ましくはない。一応は看過できる問題だ。
だが、それでも嫌悪感を抱いてしまうのは、自分が女性だからだろうか。クリスティーナはそう思ったが――、
(大丈夫だと思える自信は何なのかしらね。現実を知らないだけなのかしら? だとすれば……、まあ、いいわ)
すぐに折り合いをつけると、小さく嘆息した。そして――、
「……それで、もちろん貴方は、勇者様のお眼鏡に適っているのよね?」
と、ロアナに問いかけた。
「は、はい。恐れながら……」
ロアナはおずおずと頷く。
「なら一応、訊いておくわよ。いかに公爵令嬢の貴方でも、勇者様の側室となれば、形式的には中堅程度の立場に甘んじることになるかもしれない。それでも貴方は勇者様との結婚を望んでいる。そう考えて構わないのね?」
クリスティーナがじっとロアナを見据えて、
「…………はい、望んでおります」
ロアナは確固たる決意を秘めて、静かに頷いた。
「……そう。なら、フォンティーヌ公爵家の娘として、これからも貴方が勇者様のことを支えて差し上げなさい。最も身近で、理解ある立場の人間としてね」
と、クリスティーナは言って、小さく肩をすくめる。
「……は、はい!」
ロアナは力強く首肯した。
「手間を取らせて悪かったわね。もういいわよ、勇者様のところへお戻りなさい」
「はっ!」
クリスティーナが退室の許可を出すと、ロアナは畏まって頷く。それから、ロアナは恐々とした様子で踵を返し、扉へと向かった。だが、退室間際――、
「……ロアナ」
クリスティーナがロアナの背中に声をかける。
「は、はい!」
ロアナはびくりと身体を震わせて、立ち止まった。すると――、
「よければまた後で、話に付き合って頂戴。その時は旧友として、肩の力を抜いてね」
クリスティーナが素の表情を覗かせて、ロアナに語りかける。
ロアナは数瞬、呆けた顔を浮かべると――、
「…………は、はい! 喜んで!」
ハッと顔色を変えて、返事をした。
◇ ◇ ◇
「失礼いたします」
それから、ロアナがおずおずと執務室から出ていくと――、
「……クリスティーナ様、恐れながら、伺ってもよろしいでしょうか?」
ずっと沈黙を貫いていたユグノー公爵が、口を開いた。
「何かしら?」
クリスティーナはしれっとした声で応じる。
「どういうおつもりで、勇者様とフローラ様のご婚約を解消なさったのでしょうか? まだ行方不明の段階です。対内的にも、対外的にも、いささか時期尚早だったのでは?」
ユグノー公爵は単刀直入に質問した。すると――、
「不遜かもしれないけれど、勇者様の人となりと、現状をどのように認識なさっているのかを、確かめました」
クリスティーナは簡潔に答える。
「……お二人の婚約解消で、でございますか?」
ユグノー公爵は納得しかねるようだ。
「ええ。時期尚早だという判断もできないということが、結果的にわかったでしょう?」
と、クリスティーナが歯に衣着せずに告げると――、
「…………しかし、実際に婚約解消に踏み切る必要はなかったのでは?」
ユグノー公爵は思わず言葉に詰まったが、しかる後、食い下がった。だが――、
「今の勇者様は成長中です。確かにレストラシオンにとって勇者様のご威光は不可欠ですが、だからこそ、成長を待つ必要があると私は考えます。それに、婚約していても実際に結婚するのはまだ先のこと。幸い我々に協力していただけることは公約してくださっているのですから、そこまで焦る必要はないでしょう。正妻の候補は我々の組織から出させていただくと、改めてご了承いただけばよいのです。私という選択肢も出てきたのですから」
クリスティーナは理路整然と回答する。
(無論、本人がフローラとの婚約維持を強く望むのなら、話は別だったけれどね。でも、彼はあっさりと解消を許可した)
と、冷めた思考で考えながら。
「……それはつまり、クリスティーナ様が勇者様とご結婚になる可能性もあるということでしょうか?」
ユグノー公爵はスッと目を細めて、深く落ち着いた声で質問した。
「当然でしょう。むしろ今となっては、第二王女のフローラよりも、第一王女の私が適任のはずです」
クリスティーナは自身の立場をも根拠として、然りと頷く。
(そう、もしフローラが生きているとしても、人身御供には私がなればいい)
と、そう思って。すると――、
「……確かに、仰せの通りでございますな。失礼いたしました、出過ぎた真似を」
ユグノー公爵はようやく引き下がった。
「構わないわ。反対意見は貴重だもの。これからも何か気づいた点があれば、忌憚のない意見を聞かせて頂戴」
クリスティーナはそう言って、にこりと笑ってみせる。
「御意に」
ユグノー公爵はクリスティーナの容貌に瞳を据えると、しかる後、恭しく頷いた。
(……やはりフローラ王女のようにはいかんか)
と、真顔で考えながら。
◇ ◇ ◇
一方、場所は変わって、パラディア王国内の南西部に位置するとある都市。
リオはフローラを連れて、宿屋を訪れていた。品質は中の上程度と、本来ならば王族のフローラが宿泊するような格を備えた施設ではない。
とはいえ、小国のパラディア王国の地方都市に、それほど上等な宿屋が存在するはずもなく、贅沢など言っていられない。もっとも、当のフローラにまったく気にした様子がないのが幸いだった。物珍しそうに宿屋の内観を眺めている。
リオはそんなフローラを背にして――、
「二人で泊まりたいのですが、部屋の空きはありますか?」
と、カウンターの店員に歩み寄って語りかけた。
「はい、ございますよ。相部屋でよろしいですか?」
女性の店員は美男美女のリオとフローラの組み合わせに軽く目をみはったが、営業スマイルを浮かべて鷹揚に受け答える。すると――、
「あ、相部屋?」
背後で話を聞いていたフローラの顔が紅潮した。だが――、
「いえ、二部屋でお願いします。出来れば一つは角部屋で、もう一つはその隣の部屋だと嬉しいのですが……」
リオはフローラの表情など知らず、自身が望む条件をきっぱりと伝える。
「あー、えっと、はい。ございますよ。ですが、何なら、最上階の部屋をお使いになりますか? 料金は少し高くなりますが、リビングダイニングの他に寝室が二つありまして、うちの宿では最も良い部屋になります」
店員の女性はリオとフローラの顔を見比べながら、そう提案をした。表情に変化がないリオとは対照的に、フローラはホッとしたような、気恥ずかしそうな顔をしている。
(お忍びの貴族か、商家のお嬢様ってところかねえ。もしかすると駆け落ちの可能性も……)
と、店員の女性は二人の関係を勘ぐった。まあ、どっちにしろ上客には違いないので、何でもいいと考えて。
「……とりあえず、実際の内装を確認してから決めてもよろしいですか?」
リオは一瞬、思案すると、実際に部屋を確認してみることにした。
「もちろん」
店員はにこりと営業スマイルを浮かべて頷く。それから、早速――、
「こちらでございます」
リオとフローラは件の部屋へと案内された。
「……なるほど、確かに良い部屋ですね」
リオは室内を見回しながら、感想を口にする。
「そうでございましょう。主寝室には内鍵が付いておりますので、ワンルームの部屋を二つ借りるよりも、快適性は高いですよ」
店員はにこにこと解説を行う。
(ここなら同室でもフローラ姫のプライバシーは確保できるし、防犯面からも好ましい)
と、リオは室内を歩き回りながら考えて、簡単に部屋の造りを確認すると――、
「ローラ様はこちらの部屋で構いませんか?」
フローラを見やって、水を向けた。
「は、はい! お任せします」
フローラはこくこくと頷く。となれば、話は早い。
「では、こちらの部屋を一泊で」
リオは店員の女性に契約の締結を申し出る。そうして、商談は成立した。
◇ ◇ ◇
そして、その日の晩。フローラは貴重な宿での宿泊体験を楽しんでいた。リオは小一時間で戻るからと、夕食を作りに宿屋の厨房へ向かっている。
フローラはそわそわと室内を歩き回っていたが、しばらくすると椅子に座って、こじんまりとリオが淹れてくれたお茶を口にし始めた。すると、ノックの音が聞こえて――、
「あっ、はい!」
帰ってきた――と、フローラはびくりと立ち上がり、小走りでとたとたと扉へ近づく。
「ハルトです。夕食をご用意しましたので、扉を開けていただいてもよろしいですか?」
扉の向こうには、予想通りリオが控えていた。
「はい、少しお待ちください!」
フローラは嬉しそうに、たどたどしい手つきで扉を開放する。そこには、トレイを手にしたリオが立っていた。
「お待たせしました」
リオは少しおかしそうに微笑して語りかける。フローラがまるで主人の帰りを待ちわびていた子犬のようだったから。
「お帰りなさいませ。わっ、すごく良い匂いですね!」
空腹を刺激する香りが鼻孔をくすぐり、フローラは満面の笑みを浮かべた。
「それはよかった。とりあえず、中へ入りましょうか」
「はい!」
いつまでも扉の前に立っている意味もない。リオはフローラを促し、ダイニングテーブルへと足を運ぶことにした。
すると、リオは慣れた手つきで、料理が入った皿を机の上に並べていく。献立は消化しやすいようにと、柔らかくなるまで煮込んだリゾットに、添えつけにささみときのこのソテー、あとは野菜が入ったサラダと、具沢山のスープだ。
「美味しそうですね……」
と、フローラは感心して息を呑む。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がってください」
リオはそう言いながら椅子を引いて、恭しく着席を促した。フローラは「ありがとうございます」と礼を言って、おずおずと着席する。
「では、私も失礼いたしますね」
リオはフローラの向かいの席に腰を下ろす。そうして、今夜も二人きりの夕食が始まった。
「ハルト様、今日の料理もすごく美味しいです!」
フローラは上品に料理を口に含むと、嬉しそうに感想を口にする。
「お口に合ったようで、光栄です」
リオは優しく口許をほころばせながら――、
(アイシアと約束した期日まであと半月はある。このまま陸路で移動しても、十分に余裕を持って到着できる)
ロダニアまでの所要時間を考える。そして――、
(ロダニアに到着したら、先生の様子を見て、今度こそ精霊の里へ戻らないとな。あとはその前に、リーゼロッテさんと沙月さんのところにも顔を出さないといけないか)
ロダニアに到着した後のことを考えた。