第171話 道程、ロダニアへ
リオがフローラを連れて逃げ去ってしまった後。地上に残されたレイスが愉快そうに上空を見上げる一方で、シルヴィ達は呆け顔で空を見上げていた。すると――、
「おやおや、逃げられてしまいましたか」
と、レイスが呑気にも思える口ぶりで言う。
「…………な、何を悠長なことを言っている!?」
シルヴィはハッと我に返ると、血相を変えてレイスに語りかけた。
「悠長なとは心外ですね。これでも困っているのですよ。なにしろ貴方達のせいでフローラ王女を逃がしてしまったのですからね。正直、空を飛んで逃げられたらどうしようもありません」
レイスはやれやれと応じる。
「っ……、今はそれよりエステルだ。エステルのことを返してもらおうか」
シルヴィは大きく深呼吸をして憤りを抑えると、ルッチ達に囲まれたエステルを見やりながら、その身柄の引き渡しをレイスに求めた。
「おや、では、こちらの彼の身柄は我々で確保してもよろしいんですか?」
レイスは気絶した眼下の蓮司を見やりながら、ニヤリと笑みを刻んで言う。
「レンジの身柄もだ!」
シルヴィはきつい口調で告げる。
「ははは。実に強欲なことだ。まあ、その前にとりあえず今後について語り合いませんか? 貴方達もフローラ王女を襲ってしまったんです。このままだと、ルビア王国の立場が悪くなることは予想できるでしょう?」
レイスはしれっと話題を逸らした。
「っ、貴様がそれを言うか!?」
シルヴィは流石に激高して叫ぶ。
「今回に関しては勝手に動いて状況を悪くしたのはそちらでしょう。大人しく宿で待機していれば、事が済んだ後にエステル王女の身柄も引き渡したというのに」
「嘘を吐くな! なら、どうしてエステルがフローラ王女達の下にいた?」
「いえいえ、エステル王女は囮ですよ。フローラ王女とは知らぬ仲ではないでしょう? 危険な目に遭うことはないだろうと踏んで、利用させていただきました。そこへ貴方達が紛れ込んで、全てを台無しにしたというわけです」
レイスはもっともらしい弁明をして、仰々しく残念がってみせた。
「くっ……」
「まあ、約束ですからね。エステル王女の身柄はお返ししますよ。勇者の彼の身柄をどう扱うかも含め、この後の話し合いが済んだ後に、ね。ルビア王国にとっても悪い話ではないと思うのですが、いかがでしょうか?」
悔しそうに顔をしかめるシルヴィに、レイスはぬけぬけと提案する。
「人質を確保しておいて話し合いだと? エステルが目の前にいる以上、このまま力づくで奪還してもいいんだぞ? その上で貴様の首を手土産にレストラシオンに謝罪を申し入れる」
シルヴィは剣呑な面持ちで挑発した。
「その程度で謝意として受け取ってもらえるかは別として、そういう話でしたら、こちらもこの二人を人質として使いますよ?」
レイスはニヤリと笑みを刻み、間髪を入れずに挑発し返す。
「やってみろ。その時が貴様らの最期だ」
「ふふ、それは実に興味をそそられますが……、まあ、いいでしょう。では、まずエステル王女の身柄をお返しして差し上げなさい」
シルヴィが鋭い声で告げると、レイスは観念したとばかりにルッチ達に命令した。ルッチ達は指示に従いエステルをシルヴィの下へ運ぼうとするが――、
「貴様らはエステルに触れるな、エレナ!」
シルヴィはルッチ達を制止し、代わりに騎士隊長のエレナに運ぶよう促した。
「承知しました」
エレナは迅速に動きだし、エステルの下へ向かう。
ルッチ達はやれやれと両手を掲げて、無抵抗をアピールした。ちなみに、もともと上半身が裸だったエステルだが、先の戦闘中にエレナが衣類の乱れを整えている。その時点でエステルの胸に術式は浮かんでいなかったので、エレナはエステルが気絶していた経緯は知らない。
「エステルの容態はどうだ?」
「脈はあります。今は意識を失っているだけかと」
シルヴィが尋ねると、エレナが即答する。
「そうか……」
シルヴィは気絶したエステルの顔を見やり、小さく息をつく。
「このまま不毛なやりとりをしていても時間の無駄ですからね。とりあえず、話を進めさせていただきますよ。そのままお聞きください」
レイスはそう告げると、シルヴィの返事を待たずにさっさと話を切りだした。
◇ ◇ ◇
一方、場所はルビア王国南西部。国境付近の森。リオがシルヴィ達と戦闘を繰り広げた位置から、数キロの距離が離れた上空で。
リオは左腕でフローラを抱き寄せて、まっすぐ南西に向かって飛翔していた。フローラはリオの身体に必死にしがみついている。
フローラはリオの胸元に顔をうずめながらも時折、おっかなびっくりと周囲の景色を眺めようと試みていた。ただ、空気抵抗が凄まじいので、前を見るのすら一苦労だ。会話をするのも少しばかり難がある。
ちなみに、今はいつものように風の精霊術で特殊な空間を形成して飛翔しているわけではなく、右手で握った剣の切っ先から魔力の暴風を放ち推進力とし、空を突き進んでいる。なので、進む方向は微調整できるが、普段通り自由自在に飛び回ることはできない。
(……追ってくる気配はない。森を抜ける。そろそろ国境も近いはずだ。この辺りで着地するか)
リオは背後に追手の存在がいないことを確認すると、少しずつ飛翔する速度を緩めた。フローラもそのことに気づいたのか、恐る恐るリオの顔を見上げる。
「これから地上に降ります。少し荒っぽい着地になるので、しっかりと掴まっていてください。舌も噛まないよう、口をしっかりと閉じて」
リオは声を張り上げて、フローラに注意を促した。
「は、はい!」
フローラも声を張り上げ、こくこくと首肯する。リオはそれを確認すると、少しずつ速度と高度を下げ始めた。眼下の森との距離が詰まっていく。
だが、同時に森の切れ目も前方に見えていた。その先にはおよそ人の手が入っていない山地の麓がある。リオは適当な岩肌を着地地点として選ぶと、右手で握った剣を操作して速度と方向を調整し、そこを目がけてまっすぐに突き進んだ。
「っ……」
結構な速度で地面に落下していくものだから、フローラはびくりと身体を震わせる。リオはある程度地面と接近したところで、これまで後ろ向きに構えていた右手の剣を握り直し、地面に向けて振り下ろした。すると、切っ先から強力な暴風が吹き荒れる。
風はぶわりと地面に降り注ぎ、リオ達の落下速度を押し殺した。リオはそのまま地面に向けて風を放出し続け、緩やかな速度で地面へ接近していく。
そうして、地面に足を着けると――、
「もう大丈夫ですよ。無事、着地できました」
リオは目を瞑って抱き着いていたフローラに語りかける。
「は、はい……」
フローラは恐る恐る目を開けると、呆け顔で首肯した。
「ご自分で立てますか?」
リオはそう言って、抱き寄せていたフローラを一人で地面に立たせようとする。
「……はい」
フローラはわずかにふらついたものの、きちんと自分の足で地面に立った。だが、その面持ちはやはり呆け顔で、焦点も明確に定まっていない。
「少し驚かせてしまいましたでしょうか? 緊急事態だったとはいえ、手荒な真似を働いてしまい、失礼いたしました」
リオは少しきまりが悪そうに、苦笑してフローラに謝罪する。
「あ、いえ……、そんな、ことは」
フローラはたどたどしく否定して、ぼんやりとリオの顔を見つめだした。すると、次第に切なそうに顔を歪めだす。
「……もしかしてご気分が優れませんか?」
リオはフローラを心配して尋ねた。
「い、いえ、違う、違うんです。そうじゃなくて、ごめんなさい。私のせいでまたハルト様にご迷惑をおかけして、私のせいであんな危険な目に遭わせてしまって、私、何とお詫びすればいいか……」
フローラは強い罪悪感に苛まれているのか、ひどく申し訳なさそうに語る。だが――、
「いえ、どうぞお気になさらず」
リオはさして気にした様子はなく、
「申し訳ございませんでした、本当に、本当に……」
「そこまでお悔やみになる必要はないのですが。フローラ様が悪いわけではございませんので」
忸怩たる面持ちで首を垂れるフローラに、リオは苦笑して告げた。
「いえ、私のせいですよ。私がいたから、あのレイスという人は襲ってきたんです。そう言っていたではないですか」
フローラは自嘲気味にかぶりを振る。
「そうだとしても、やはりフローラ様が悪いわけではございません」
リオはきっぱりと告げた。
「……でも、今回だけじゃないんです。私がいるから、いつも誰かにご迷惑をおかけして。あの村でもそうでしたし、その前に魔道船だって襲われました。ハルト様の、貴方のことだって……」
と、フローラは泣きそうに顔を歪め、俯いて語る。だが――、
「迷惑ではございませんよ」
「……え?」
リオがはっきりと告げると、フローラは不意を打たれたように顔を上げた。
「少なくとも私は迷惑だと思っていません。連中は私としても個人的に因縁がある相手です。その動きを知ることができたという意味で、先の戦闘は意味のあるものでした」
と、リオはフローラを言い聞かせるように語る。確かに、フローラからすれば、自分のせいで絶体絶命の窮地に追い込まれたのだと思っているのかもしれない。
だが、リオにとっては十分に対処可能な状況だったのだ。そして、実際に対処してみせた。巻き込まれたからこそわかったこともある。だから、面倒ではあったかもしれないが、迷惑だったというわけではない。
「……ハルト、様」
フローラはギュッと拳を握りしめ、強い罪悪感と自己嫌悪にまみれた面持ちを覗かせた。
「納得できませんか?」
リオは困り顔で問いかける。
「……私、昔から要領が悪くて、王女として自覚を持とうとしてもすぐ気が抜けて、甘くて、誰かに守ってもらうばかりで、現実も見えていなくて、駄目な子なんです」
フローラは強く己を恥じるように語った。
「…………」
リオはなんと言えばいいのかわからず、黙って話を聞いている。
「今回だってそうです。自分のことで精一杯で、ハルト様に頼りきりで何の危機感も持ってなくて、あの魔道船の襲撃でどれだけの人に迷惑をかけたのか、今こうしている間にもどれだけの人に迷惑をかけているのかを考えようともしないで……。あのレイスという男の人と会うまで、想像すらしていなかったんです。ハルト様が氷に包まれた時だって、怖くて動けなくて……」
と、フローラは一通り己の不甲斐なさを吐露すると――、
「こんな私に王女の資格があるんでしょうか? 王女とは、何なのでしょうか? 私なんかが、このままロダニアに戻ったところで、また足手まといになるだけなんじゃ……」
ひどく弱々しく、自信のない声で疑問を口にした。果たして自分という人間は必要な存在なのだろうか、周囲から守ってもらう価値のある人間なのだろうか、と。
「……貴方は王女です。ベルトラム王国の第二王女、フローラ=ベルトラム様です。貴方は王女として生まれてきた。その事実がある以上、資格など関係ない。貴方が王女であらせられる以上、それだけで利用価値があります」
「っ……」
リオがつらつらと語ると、フローラはびくりと身体を震わせた。まるでフローラという人間には価値がなく、王女としてのみ価値があると言われたようにも思えたから。だが――、
「ですが、生まれとか利用価値とか、そんなことは一切関係なく、貴方のことを必要としていて、貴方のことを心配していて、貴方のことを守ろうと思ってくれる人だってロダニアにはいるはずです。違いますか?」
リオは今度は少し優しい声色で、諭すように語って尋ねる。
「っ……、違、いません」
フローラはハッと目を見開くと、小さく口を動かした。
「その人達のためにも、貴方はロダニアへ戻らなければならない。違いますか?」
「……違いません」
今後は先ほどよりもしっかりと口を動かすフローラ。
「では、向かいましょう、ロダニアへ。あまりこの場でもたもたしてもいられません。魔剣で風を操って空を飛ぶのは魔力の消費も激しいので、ここからは走って国境を越えますから。少し急ぎますよ」
リオは決然とフローラを誘う。すると――、
「はい!」
フローラは静かに、だが力強い声で頷いた。
「では、失礼いたしますね」
リオは早速、フローラを抱きかかえようと近づく。だが、その前に――、
「あの、ハルト様」
フローラは恐る恐るリオに声をかけた。
「何でしょうか?」
リオはフローラの前で立ち止まって小首を傾げる。
「ハルト様はどうして、私を助けてくださるのですか?」
フローラはリオの顔を見上げて尋ねた。
「……助けることができたから、助けたんです。貴方が王女であるかどうかは関係ありません」
リオはある程度正直に、自分なりの答えを伝える。
「ありがとうございます、ハルト様……」
フローラは切なそうに微笑むと、心底申し訳なさそうに、お礼の言葉を口にした。
「では、今度こそ、失礼いたします」
言葉通り、リオは今度こそフローラを抱きかかえる。
「お願いします、ハルト様」
フローラは芯のある声でリオに頼んだ。その視線は真っ直ぐと南西を見据えている。
「ええ、少し急ぎますので、しっかりと掴まっていてください」
リオはそう告げて、南西の国境へ向かって走りだす。二人がベルトラム王国のロダニアへたどり着いたのは、それから8日後のことだった。