第175話 嫉妬
「おい、クリスティーナ! フローラが帰ってきただって!?」
弘明はノックもなしに執務室の扉を開けると、声を荒げて尋ねた。室内にいたフローラやセリアはびくりと体を震わせる。その一方で――、
「……勇者様、お静かにお願いします」
クリスティーナは小さく嘆息して、弘明に応じた。
「そんなことより……、フローラ! 無事だったんだな、よく帰ってきた」
弘明は一瞬で室内を見回し、クリスティーナの隣に座るフローラの姿を発見すると、ずかずかと室内に入り込んでいく。
「あ、ありがとうございます、ヒロアキ様……」
フローラはおずおずと礼を言った。
「ああ、フローラ様………、よくぞ、よくぞご無事で」
ロアナもフローラの顔を見ると、感極まってふらふらと部屋の中へと歩きだす。
「ロアナ、お久しぶりです」
フローラは嬉しそうに口許をほころばせて、ロアナに応じる。
「あー、で、いったいどういうことなんだ、これは?」
弘明は早速、状況の説明を求めた。
「遭難していたフローラを、アマカワ卿が保護してくださったんです」
クリスティーナは向かいに座るリオを見やり、端的に結果だけを告げる。
「……なに?」
弘明はここでようやくリオの存在に気づき、訝しそうに目を細めた。
「お久しぶりです、勇者様」
リオは静かに立ち上がると、胸元に手を当て恭しく弘明に頭を下げる。
「あー、お前か。夜会以来だな。で……、話が見えてこないんだが、どうして魔道船に乗って遭難していたフローラがこいつに助けられることになるんだ?」
弘明は少々おざなりにリオに応じると、クリスティーナを見やってより詳細な事情の説明を求める。
「……ちょうど今、その辺りの説明をアマカワ卿にしていただいたところです。最初からあまり大きな騒ぎにはしたくはなかったので、まだ他の誰にもフローラの帰還は伝えていないのですが、勇者様のお耳には他の誰よりも先にお届けするべきだと考え、内密にお呼びしました。これから勇者様にもご説明しましょう」
クリスティーナは小さく息をついて、弘明に語った。
本当はあまり呼びたくなかったが、少し前までフローラの婚約者であった男だ。後から他の者達と一緒に事後報告を受けるだけでは面白くないだろう。
というより、弘明の性格上、蚊帳の外に置いておくとヘソを曲げて拗ねかねない。まだ短い付き合いだが、クリスティーナは弘明のことをよく理解していた。扱いやすくはあるが、どんなことでも特別扱いしておかないとすぐに不満を溜める面倒臭くてデリカシーのない男だと。
「あー、そうだな。聞かせてもらおうか。ロアナも座れよ」
弘明は空いている椅子に腰を下ろし、ロアナにも席を促す。
「いえ、私はこの場に……」
ロアナはこの面々と一緒に腰を下ろすのは恐れ多いと思ったのか、畏まってかぶりを振る。だが――、
「構わないから、座りなさい。ロアナ」
と、クリスティーナ。
「……恐れ入ります」
ロアナは深々と頭を下げて、弘明の隣に腰を下ろした。リオも腰を下ろす。
「では早速、ご説明したいところですが、セリア先生はそろそろ講義の準備をされた方がいいのでは?」
クリスティーナは話を始める前に、不意にセリアに水を向ける。
「あ、はい。そういえば、そうでございます」
セリアは室内の時計を見やりながら頷く。
「この場はもう大丈夫ですので、どうぞ講義へ向かってください」
「……はい。お気遣いくださり、ありがとうございます」
クリスティーナが退室の許可を出すと、セリアはこくりと頷いて礼を言う。
「アマカワ卿はもう少しお付き合いいただいてもよろしいでしょうか? そう長引かないとは思いますので」
と、クリスティーナはリオには残るよう、お願いした。
「無論です」
リオは鷹揚に首肯する。
「では、私はこれで。失礼いたします」
セリアはそう言って、リオを見やりながら立ち上がった。リオもセリアを見やり、また後で会おうとアイコンタクトを交わす。
それ自体は特に失礼にあたる行為ではないが、二人の親密さはだいぶ窺える。ロアナは興味深そうに目をみはり、リオとセリアを見やった。一方、弘明はつまらなさそうにその様子を見つめていて、フローラはどこか羨ましそうに眺めている。
他方、クリスティーナは旅の間にリオとセリアの親密さをよく理解していたので――、
「こちらの話が早めに終われば、先生のもとへアマカワ卿をお連れします。講義が先に終わるようであれば、よろしければまたこちらへお越しください」
二人の間柄を気遣って、セリアを見送った。
「承知しました。それでは」
セリアは申し訳なさそうに会釈すると、
「じゃあ、聞かせてくれよ」
と、弘明は説明を促す。
「アマカワ卿から伺った話の整理もしたいので、順を追って私からご説明します。何か齟齬や補足がございましたら、適宜、ご指摘いただけますか、アマカワ卿?」
クリスティーナはそう前置きして、リオを見やった。
「畏まりました」
リオは微笑して受け入れる。そうして、今度はクリスティーナが弘明やロアナに状況を説明することになった。
フローラが乗っていた魔道船が黒い亜竜らしき存在とは別に、傭兵ルシウスとプロキシア帝国の外交官レイスに襲撃されていたこと、フローラがパラディア王国の森に転移させられていたこと、その森で毒蜘蛛に噛まれて生死をさまよっていたこと。
それから、なんとか近くの村にたどり着いたが、パラディア王国の貴族に身柄を引き渡されそうになることを察すると、一人で村を飛び出したこと、だがすぐに力尽きてしまったこと、そのすぐ後にルシウスとパラディア王国の王子が現れて連れ去られそうになったこと、そして、そこへハルトが現れたこと。
他にも先ほどは語られなかった詳細な話に触れたりしつつも、ルシウスがハルトの両親の仇であることには立ち入らず、先ほどハルトが話してくれた説明を一通り終える。すると――、
「……なるほどな。まあ、話はわかった。俺と離れている間に、ずいぶんと大変だったみたいだな」
弘明はそう語り、フローラを見やって深々と息をついた。
「はい……」
フローラはぎこちなく頷く。
「毒蜘蛛の後遺症は大丈夫なのでしょうか?」
ロアナは不安そうにフローラの身を案じる。
「はい。ハルト様のお薬のおかげで。首筋に痣ができてしまったのですが、
フローラは痕があった首筋に触れながら、微笑して答えた。
「…………」
弘明はフローラがリオのことを「ハルト様」と呼んでいることに気づくと、スッと目を細める。
「ありがとうございます、アマカワ卿」
ロアナはリオに対して深くこうべを垂れた。
「いえ」
と、リオは朗らかにかぶりを振る。
「……ですが、貴重なお薬だったのでは? 毒で生死をさまよったフローラを短期間で完治させたほどの効果です。強力な
尋ねて、クリスティーナはリオの顔色を窺う。
「まあ、それなりには。ですが、フローラ様のお命には代えられません」
「……ありがとうございます。フローラをお助けくださったお礼はまた改めて、必ずいたします」
クリスティーナはそう言って、粛々とリオに一礼する。
「偶然の成り行きですので、お気遣いなく。それより、実はまだご報告していない出来事も一つございます」
リオはやんわりとかぶりを振ると、まだ報告すべき話があると伝えた。
「何でしょうか?」
と、クリスティーナ。
「……パラディア王国からロダニアへ向かう道中、ルビア王国へ立ち寄ったのですが、そこでプロキシア帝国の大使であるレイスが率いる傭兵三名と、ルビア王国の第一王女であるシルヴィ様が率いる騎士達に襲われました」
リオはまずは概要だけを伝える。
「…………ルビア王国の、シルヴィ王女が、ですか?」
クリスティーナは面食らい、目を皿にしてリオの発言を確認した。ロアナやヴァネッサも唖然と目を瞬いている。
「はい。その時の状況が少し複雑だったのですが、襲撃の狙いがフローラ様だったということはレイスの発言から明らかになっています。シルヴィ様は相手がフローラ様だと知った上で私たちを襲撃したわけではなさそうでしたが、レイスに協力していたことは間違いなさそうでした」
リオは頷き、より詳細に概要を語った。
「あー、ルビア王国のシルヴィ王女ってのは、確か夜会に出席していた姫騎士だよな?」
と、弘明は隣に座るロアナに尋ねる。
「……はい。ガルアーク王国や我がレストラシオンとは同盟関係にある国です」
ロアナは躊躇いがちに説明した。そんなルビア王国の第一王女であるシルヴィが、レストラシオンの象徴ともいえるフローラを襲撃したとなれば、実に穏やかではないから……。
「他にも以前、夜会でフローラ様を襲撃した賊を手引きしたのがシルヴィ様だったと、レイスは言っていました。確実とは申せませんが、その時のシルヴィ様の反応を観察した限りだと、後ろ暗いところがないわけではないのかなと……」
と、リオは事実に対する個人的な所感を述べる。
「それは、看過できないお話ですね。事実であるのならば、明確に国際問題として処理すべき案件です」
クリスティーナはそう言って、悩ましそうに顔を曇らせた。すると――、
「お姉様、ハルト様のお話は本当です。街道を歩いていたら、問答無用でハルト様を狙って攻撃してきて、すごい数の騎士の方々に囲まれてしまったんです。それで、ハルト様が私のことを守ってくださって……」
フローラはクリスティーナがリオの発言をにわかには信じられないと思っていると判断したのか、リオの話を補強するように語る。
「もちろんアマカワ卿の話は信じているわ。貴方のことも。ただ、シルヴィ王女の意図を測りかねているのよ」
クリスティーナは微苦笑して、フローラに応じた。
「は、はい」
フローラは少し気恥ずかしそうに頷く。
「考えられるのは、レイスがルビア王国の第二王女であらせられるエステル様を人質として用いていたということです」
「人質、ですか。もう少し詳しく伺っても?」
クリスティーナはスッと目を細め、リオに尋ねる。
「私とフローラ様は街道を歩いていると不自然に脇の森から現れたエステル様と遭遇し、助けを求められました。エステル様はすぐに気絶されてしまい、状況はよくわからなかったのですが、そこをシルヴィ様の配下と思しき騎士の女性に勘違いされ襲われました。その後のレイスとシルヴィ様の会話で、エステル様の誘拐を匂わせる発言もありましたので……」
と、リオはエステルの誘拐を裏付ける事実を語った。
「なるほど……」
クリスティーナは思案顔を浮かべて唸る。
「他にもシルヴィ様達はエステル様を救出するべく動いていた節がありました。ただ、他にも気になることはございまして、勇者様と思しきレンジという名の少年がシルヴィ様と一緒に行動していたんです。その身柄についてレイスとも話をされていました。援軍の騎士の方々が続々と駆けつけ、悠長に話を聞いている暇もなかったので、最後まで話を聞くことはできなかったのですが……」
リオはここで新たに蓮司の存在を明かした。
「……勇者様、ですか?」
クリスティーナは未知の勇者の存在に一瞬硬直し、なんとか口を開く。弘明、ロアナ、ヴァネッサも大きく目を見開いていた。
「はい。実際に交戦もしましたし、弘明様と同じ黒髪でしたので、間違いはないかと」
リオは頷き、弘明を見やる。
「あー、待て。名前的に俺と同じ世界の出身である可能性は高そうだが、勇者なら神装を持っているはずだが?」
と、弘明。
「はい。氷を操るハルバードを所持していました。魔法による身体能力強化を超える高い身体能力で動き回っていたので、おそらくは神装によって強化されていたのでしょう。無論、それが魔剣の類である可能性もございますが、レイスは『勇者』と口にしていたので……」
リオは蓮司が神装と思しき武器を所持していたことを報告する。
「…………待てよ。状況的にお前は姫騎士と、その姫騎士が率いる騎士の部隊と、そのレイスって奴と、他にも傭兵に囲まれていたんだよな? で、その上でさらに勇者の相手までしたと?」
弘明は懐疑的に語って、リオを見つめた。
「ええ、続々と増援が現れたので、同時に全員と戦闘をしたわけではありませんが。ただ、勇者様とシルヴィ様には同時に戦いました」
リオはこくりと頷き、当時の状況を教えてやる。
「倒したのか?」
「落ち着いて話ができる状況ではなかったのと、がむしゃらに攻撃を加えてきたので、勇者様のことは気絶させました」
「……にわかには信じられんな。本当に勇者だったのか、そいつ? 姫騎士ってのも魔剣を装備しているんだろ? 二対一で負けるとは思えん」
弘明は肩をすくめ、やれやれと語った。だが――、
「いえ、アマカワ卿も魔剣の持ち主です。そこのヴァネッサの兄であり、我が国最強の騎士と謳われたアルフレッドも倒されたお方です。その実力は確かなものだと、私が保証しましょう」
と、クリスティーナがリオの強さを語る。
「……ふーん」
弘明はまだ信じられないのか、はたまたクリスティーナがリオを庇うような発言をしたのが癇に障ったのか、面白くなさそうに唇を尖らせた。
「他にも、先ほどの話で名が上がったルシウスという男も名のある傭兵団の団長ですし、パラディア王国の第一王子も屈強な戦士として知られる御仁です。アマカワ卿は少なくともそういった者達を打ち負かせるだけの実力はあると、お考えください」
クリスティーナは弘明の態度を億劫に思ったが、整然と説明を追加する。
「……そういや、お前は沙月と模擬戦をして勝ったこともあるみたいだしな。あまりそうは見えんが、クリスティーナもこう言っているし、実際にフローラも連れ帰った。強いってことは間違いないんだろうな」
弘明はやはり面白くなさそうだが、とりあえずは納得してみせた。他の勇者が簡単に負けるようでは、自分の価値まで下がると思っているのかもしれない。
「恐れ入ります。混戦でしたから、運が良かったのでしょう」
リオは謙遜し、かぶりを振ってみせる。
「あー、まあ、そうだな。乱戦ってのが幸いしたんだろうな。勇者の真価はマップ兵器並みの広範囲攻撃にある。味方を巻き込んで攻撃するわけにもいかんからな。近距離で戦えばワンチャンあるだろう」
弘明はそれで納得したのか、大仰に頷いてみせた。すると、温厚なフローラだが、流石に少し何か言いたそうな顔を浮かべる。だが――、
「……いずれにしても、もう少し詳しいお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
クリスティーナはこれ以上、話がこじれる前に、リオに水を向けた。
「無論です」
リオは快く了承する。
「ありがとうございます」
クリスティーナは胸を撫で下ろし、申し訳なさそうにリオに礼を言った。すると――、
「あー、少し難しい話になりそうだし、難しいことはクリスティーナとそいつに任せて、フローラは退散したらどうだ? 王族の姫がいつまでもそんなパッとしない格好をしているわけにもいかんだろ。旅で汚れているんだろうし、まずはドレスに着替えてこいよ。改めて茶でも飲みながら、話をしようぜ」
弘明はいまだに旅服姿のフローラを見やり、そんなことを言う。
「……いえ、あの、これはハルト様に選んで買っていただいた品なので、私は、好き、なんです。似合わないでしょうか?」
フローラはギュッと自分の服を握ると、恐る恐る自分の意見を主張して尋ねた。
「…………へえ。まあ、旅の間にずいぶんと親しくなったみたいだしな。なら、いいんじゃないの、オシャンティで」
弘明は少し意外そうに目を見開いたが、すぐに眉をひそめ、どこかおざなりに感想を口にする。
「でしたら、綺麗に洗って、大切に保管する必要がございますわね」
ロアナは咄嗟に空気を読んだのか、努めて明るい声で言った。
「……私がアマカワ卿から話を聞いている間に、フローラのことを任せてもいいかしら、ロアナ? 今日の夜にでも、フローラの帰還を祝う席を設けるから。主だった幹部はともかく、他の貴族達への説明はその時に行うわ。話を聞きつけた者がいたら、そう説明して面会は謝絶して頂戴」
クリスティーナは小さく嘆息し、ロアナに指示を出す。
「畏まりました。では、フローラ様、ヒロアキ様」
ロアナは恭しく頷くと、フローラと弘明に退席を促した。
「ああ」
弘明はスッと立ち上がる。一方――、
「……では、ハルト様、また後で」
フローラはリオに語りかけ、名残惜しそうに立ち上がった。
「ええ」
と、リオはどこか困り顔で頷き返す。
「………………」
弘明は黙ったまま、じっとフローラの顔を見つめる。その瞳はリオしか映しておらず、弘明のことなど映してはいない。片思いの男性に胸を焦がす乙女の眼差しだった。
(っ……)
自分には見せたことがないフローラの表情を垣間見て、ざわりと強い胸騒ぎを覚える弘明。それは独占欲、すなわち嫉妬の念。そして、自分以外の男に好意を寄せているであろうフローラに対する、激しい拒否感と嫌悪感だった。