第117話 クレール伯爵領都『クレイア』の異変
「ええ、名誉騎士になったの!?」
ガルアーク王国の王都を出発し、空を飛んでクレール伯爵領へと向かう最中、リオはセリアにガルアーク王国の名誉騎士になったことを伝えた。
リオとしては伝えておいた方がいいかなくらいの気持ちで口にした事実だったのだが、あまりに意外だったのか、セリアがギョッと目を見開いている。
他方で、すぐ隣を飛んでいるアイシアは特に反応を見せていない。
「はい、何というか、成り行きで」
二人の反応の差が何となく面白くて、リオはくすりと微笑を浮かべた。
「な、成り行きって、成り行きでなれる地位じゃないでしょ! いつ、いつの話?」
飛行しながら移動する都合上、空を飛べないセリアはリオに抱えられているのだが、セリアはリオにぐっと顔を近づけた。
「夜会の最終日、つい先日のことです」
驚きのあまりやや冷静さを欠いているセリアに、リオが落ち着いた声で答える。
「あっ……」
距離が近づきすぎていることに気づき、セリアがポッと頬を赤らめた。
適切な距離を即座に取って小さく咳払いを一つ打つと、微妙に上ずった声で追加の質問を送る。
「め、名誉騎士ってそう簡単になれるものじゃないと思うんだけど……。何があったの?」
「夜会で賊の襲撃がありました。狙いは王族だったみたいなんですが、たまたまその場に居合わせた関係上、撃退に協力しまして」
と、リオは簡単に名誉騎士に就任した経緯を説明した。
「夜会に賊が襲撃って……物騒ね。でも、数カ国もの王族の命を救ったのなら、相応の恩賞が与えられてしかるべき、か。それにしたって異国の人間にポンと叙任する地位じゃないはずだけど……」
「ですね」
リオが小さく肩をすくめ首肯した。セリアが語る事実は重々承知済みである。名誉騎士という称号はおいそれと与えられるものではないのだ。
確かに先のリオの功績を考えれば与えられることが絶対におかしいとまでは言いきれないのだが、フランソワの曲者っぷりを考えると何か狙いがあるような気がしてならない。
とはいえ、今のところはこれといった害悪が生じているわけでもなし。沙月のためというのならばともかく、積極的にあの国のために動いて仕えるつもりは少しもない以上、自由にやらせてもらうだけだと、リオは考えていたりする。
と、ちょうどその時、はるか遠方にクレール伯爵領の領都らしき建造物群が視界に入ってきた。
ほぼ同時にアイシアがリオの名を呼ぶ。
「春人」
「わかっている。先生、いったんここで降ります」
アイシアに応じ、リオがセリアを抱えたまま眼下の森の中に着陸した。アイシアもそれに続く。
「どうしたの?」
森の中に着地してから、セリアが疑問を口にした。
「都市の付近を何かが飛行しています。このまま接近すると発見されるおそれがあるので降りました」
「魔道船でも飛んでいたの?」
「いえ、たぶん何かの生き物です。魔物ではないと思いますが……」
「ふーん、なるほど」
セリアが興味深そうな顔を覗かせる。魔物ではないと聞いて、緊急性はそれほど高くないと判断したようだが、気にはなるようだ。
「ここからは走っていきましょう。ここまで来ればすぐに到着できるはずです」
「それはいいんだけど、私じゃ貴方達のスピードに付いて行けないと思うわよ」
セリアはいわゆる運動音痴だ。
というよりも、そもそもの問題として、魔法で強化した身体能力を脳が処理しきれないのだ。
身体能力はとにかく強化すれば良いというものではない。強化された身体能力をコントロールして動き回る運動センスが必要となる。
セリアにはそういった資質が圧倒的に不足していた。こんな足場の悪い森の奥深くでランニングなど論外である。
「俺がこのまま先生を抱えて走りますよ。空を飛ぶより揺れますが、ご了承ください」
「う、うん。お願い、します」
リオの腕の中で身を縮まらせ、微妙にしがみつく力を強めながら、セリアが頷く。
その頬は少しばかり赤く染まっていた。
☆★☆★☆★
それから、半刻もしないうちに、リオ達は目的地にたどり着いた。
クレール伯爵領、領都クレイア――、ベルトラム王国の東部寄りに位置し、ガルアーク王国へと通じる主要な街道が通る地方都市だ。
リオも訪れるのは初めてである。
人口は五万人、地方都市としては中堅以上の規模を誇り、東西の重要な交易地点として機能している。
「あれ、ベルトラム王国の空挺騎士団よ。なんでこんな場所にいるのかしら」
街道に躍り出て都市のすぐ傍までやって来ると、セリアが空を仰ぎ言った。ちなみに街道に出る少し前にお姫様抱っこの状態は解消されている。
都市付近の上空を徘徊しているのは、グリフォンという生物にまたがったベルトラム王国の空挺騎士達であった。
グリフォンは天上の獅子とも呼ばれており、竜種を除けば空の覇者の一角として名が上がり、非常に高い知能を有している。
気性が荒く、主に山岳地帯に生息しているが、一部の国では人に飼いならされて乗用獣となっており、上半身が猛禽類の姿をしているせいか、「キュアア」と甲高い鳴き声をするのが特徴だ。
ちなみに、リオの母の仇であるルシウスが率いている傭兵団の名前にも、グリフォンの名が採用されていたりする。
「確かに妙ですね。虎の子の空挺騎士団を王都から派遣するということは、よほどの事態があったということでしょうか」
そう言うと、リオは上空を仰ぎながら、考えるそぶりを見せた。
「えっと、どうする?」
都市を遠目で見やりながら、セリアがおずおずと尋ねる。
「とりあえず中に入ってみるしかないでしょうね。何か異変がないか、都市の中を歩いて回ってみましょう」
「うん!」
セリアが意気込んで頷いた。やはり都市の中で何が起こっているのか、気になるのだろう。
「アイシアは霊体化して俺の中で待機してくれるかな? 万が一の事態になった時の保険として」
「わかった」
手短に返事をすると、アイシアがスッと姿を消してリオの中に同化する。
「じゃあ行きましょうか」
そうしてリオとセリアは二人で都市の中に向かって歩きだした。
☆★☆★☆★
そして、現在地は都市城壁外部のとある広場。
顔を隠したフードの中から、セリアが都市の中を見渡した。
「あまり活気はないわね。というより……」
「失業者か、移民か……住む家のなさそうな人が多いですね。それに、城壁の外だっていうのに、巡回している兵の数も多い」
城壁の外部は都市の税金が大幅に免除されているため、どこの都市でも平時ならば露店が立ちならび、にぎわいを見せるのが通例である。
だが、リオ達が見渡せる限り、立ち並ぶ屋台の数は少なく、買い物に訪れている人の数も少ない。
住む家を失ったのか、広場の端にある空きスペースに腰を下ろしている家族やグループが大勢いた。
「しかも巡回しているのが領兵だけじゃないわ。国軍所属の兵士もだいぶ混ざっているみたい。何なのよ、いったい……」
故郷の雰囲気が変化していることに少なからず動揺しているのか、セリアの顔色は優れない。
本来、城壁の外はある種の自由地帯となっているため、権力者も基本的には不干渉だ。
なのに、ちらほらと視界に映るのは武装した兵ばかり。大別して二種類の軍装を身に着けており、それぞれの所属を示す紋章が刻まれていることから、セリアが言う通り国軍の兵士も混ざっているようだ。
領主となった貴族には領地の自治権が与えられているが、各領地の防衛は王軍の兵士と領地の私兵とが共同して行っている。
だが、基本的に平時は両者の職場が重なることはあまりない。王軍の役割は各領地の街道に設置された砦や関所の防衛と地方領主軍の監視にあるからだ。
ゆえに、戦時中でもない限り都市部の防衛はもっぱら領兵の役目とされており、王軍が介入することは基本的にはありえない。
今の都市内部の状況は少しばかり異質であった。
「戦争が始まったという話は聞いてませんし、兵士に関して考えられるのは、何かを捜索しているのか、あるいは何かを警戒しているのか――」
言って、リオがちらりとセリアに視線を移した。
考えつく範囲で捜索対象の可能性としてまず浮かび上がるのが、現在失踪中であるクレール伯爵家の令嬢である彼女だ。
しかし、セリアが王城から姿を消して既に三か月以上が経過している。
となると、捜索が行われているにしても、ここまで大量の人員を動員しているとは少しばかり考えにくい。
ならば、他の誰かを捜索しているのだろうか。
あるいは、未知の何かを警戒しているという可能性もある。
「いずれにせよ、フードで顔を隠していると職務質問をされかねません。痛くもない腹というわけではありませんが、ここは
髪の色は魔道具で変えてあるから、フードを取ってもすぐに気づかれる可能性は小さい。リスクとしては許容範囲内だろう。
「そうね、顔を出して歩きましょうか」
微かな逡巡の末に頷き、セリアはフードを外した。すると、魔術で白から金へと色を変えられた髪が露わになる。
「セシリアは城壁の中、特に領館の近くには顔を出さない方がいいかもしれませんね」
「うん」
いくら実家に戻るとはいえ、今のセリアは失踪中ということになっているのだ。堂々と領館に出向くわけにはいかないだろう。
王都に滞在していることが多かったとはいえ、故郷にはセリアの顔を知る者も多いはずである。特に富裕層が暮らす城壁の中には、セリアに親しい者や実家に仕える陪臣が出歩いている可能性も高い。パッと見では気づかないだろうが、城壁の外を出歩くよりはリスクが格段に上がるはずだ。
そんなわけで、ここに来るまでの間に、屋敷に忍び込むことで、セリアの父と内密に再会を果たすという方向で話がまとまっている。
あとは実際に忍び込めそうかどうか、リオが下見をするだけだった。
「城壁の外で休憩用に宿をとりますから、そこで休んでいてくれますか? その間に俺が城壁内部で情報を集めますので」
「うん。でも、もう少しだけ城壁の外を歩いてみてもいいかな? この都市に暮らす人たちの様子を見てみたいの」
頼んで、セリアが窺うようにリオの顔を見上げる。
故郷に暮らす民の暮らしぶりがどうなっているのか気になる気持ちは、わからないでもない。
「構いませんよ。ただし、俺の傍を離れないでください」
「もちろん! ありがとう、ハルト」
リオが首肯すると、セリアは嬉しそうに
「それで、どこか見てみたい場所はあるんですか?」
「えっと、城壁の外は私もほとんど出歩いたことはないんだけど、とりあえず一通り見て回りたいなって……」
「なら、城壁の外の区域をぐるりと回ってみましょうか。行きましょう」
そうして二人は城壁の外を歩き出したのだった。
☆★☆★☆★
そして、半刻ほどの時が過ぎる。
リオ達は城壁の外に暮らす人々の暮らしぶりを見て回った。
そうして歩き回り気づいたのは、思った以上に住居不定な人間の数が多いということだ。
ちょっと路地裏に入り込めば、生気を失った顔つきの者達が壁に寄りかかり、腰を下ろしている。
人々の暮らしを観察するように視線をさまよわせているセリアに、探るような視線が向けられることが何度かあった。
そんな視線に気づかないセリアの代わりに、リオが冷めた目つきで見返す。
すると、リオの腰に差した剣の効果も相まって、住人達はすぐに視線を霧散させた。
だが、ある時、地面に座っていた一人の少年がおもむろに立ち上がった。年頃は十歳程度といったところか。
リオは少年の動きを察知していたが、とりあえず放置して様子を見てみることを決める。
少年はリオとセリアの死角に入るように歩を進めると、ある地点から小走りで駆け寄りセリアにぶつかった。
「す、すみません」
わざとらしく転び、ふらふらとした足取りで立ち上がり、少年がぺこりと頭を下げる。
「あ、いいのよ、別に。大丈夫だった?」
ぶつかってきたのは相手だというのに、セリアは少年を優しく気づかった。
「はい。それじゃ」
少年は手短に返事をすると、素早く立ち去ろうとした、が――。
「っ……」
リオが少年の腕をしっかりと掴み取り、
「セシリア、
と、セリアに言った。
「え?」
頭上に疑問符を浮かべているものの、言われるがまま懐を探るセリア。
「あ……」
セリアはすぐに財布がなくなっていることに気づいた。
「この人から盗んだものを返してもらおうか」
リオが冷たい声で少年に告げる。
「え? な、何のことでしょう?」
少年は上ずった声でとぼけた。
「そっちの手に隠し持っている財布のことだ」
リオは小さく溜息をつくと、少年を引き寄せた。そうして少年の手からサッと上質な革の財布を掴みとる。
現行犯だ。普通に考えれば言い逃れはできない、のだが。
「か、返せ! それは俺んだ!」
少年は泡を食ったように叫び、必死の形相でリオに掴みかかろうとした。
だが、その手はあっさりとリオに掴まれ、逆手に捻られて取り押さえられる。
「がっ」
少年の顔が苦痛で歪む。
「ちょ、リ、ハ、ハルト」
一瞬、『リオ』の名で呼びそうになってしまったが、セリアが不安そうに『ハルト』と呼び直した。
だが、リオは応じることはせず、少年を軽く突き飛ばし解放する。
少年はバランスを崩して転んでしまった。
「このまま立ち去れば見逃してやる」
リオが剣呑な雰囲気を
基本的に城壁の外で起きたスリ程度で官憲は動かない。
自衛は各個人の務めであり、私的制裁も是とされる。
仮に少年がスリを仕掛けたのが気性の荒い冒険者であったのならば、気が済むまでぶん殴られていたであろう。
ゆえに、リオがこの程度で済ませているのは――少年にとってかなり運が良い――温情的な対応である。
だが、普段のリオからは想像がつかない感情の希薄な態度に、セリアはひっそりと息を呑んでいた。
すると、彼我の力量差を悟ったのか、少年が怯えたふうにびくりと身体を震わせる。
少年がもともと自分が座っていた付近を見やった。
そこには大人数人が固まって座っていたが、少年から視線を向けられるとサッと視線を逸らしてしまう。
どうやら少年の保護者かお仲間のようであるが、見捨てられてしまったようだ。
「く、くそ……」
少年が地べたをはいずりながら立ち上がり、よろよろとした足取りでその場から立ち去っていく。
その後ろ姿はひどくみじめに映った。
「行きましょう」
リオがセリアの手を掴みとり、足早に歩き始める。
「ね、ねぇ、ハルト……」
しばらく手を引かれて歩いたところで、後ろを気にした様子のセリアがリオの背中に声をかけた。
何故だか胸が息苦しくて、声をかけずにはいられなかったのだ。
リオは足を止めると、困った顔つきをして振り返った。
「さ、さっきのことだけど……」
「すみません。俺がしたことは人として間違っているのかもしれない。でも、あの場でああする以外にありませんでした」
確かに、あの場で少年に施しでもしていたら、周囲の者達がこぞって集まっていた可能性が高い。
そんなことはセリアにもわかっている、だが――。
「……何か、できることはなかったのかな?」
そう思わずにはいられない――セリアはそんな後味の悪さを覚えていた。
「セシリアは優しいですね」
王立学院に通っていた頃も、孤児だったリオに優しく接してくれたのはセリアだけだった。だから、先のような出来事にも胸を痛めるのだろう。
「そんなことないわ」
セリアが苦々しく否定する。
今の自分では貴族として困っている民衆の一人すら救うことができやしないのだ――セリアは己の無力さを嘆いた。
「正しい行いが常に正しい結果をもたらすとは限りません。あの場で彼だけに施しを与えていれば、付近にいた人達が一気に押し寄せてきたはずです」
食い詰めた人間に余裕はない。
救いがあればそこに群がる。
気まぐれな施しがあれば、理不尽に怒り、不公平だと叫ぶ。
遠慮とか配慮とか、そんな気配りはしない。
彼らは救いという結果だけを求め、本能のまま感情を口にしているだけだ。
それが群れた相手であればなおさらである。結果に満足すれば文句は言わず、結果に納得できなければ不満を言う。いちいち相手にしていたらきりがない。
ゆえにリオは突き放すような態度をとった。やれることをやっただけだ。
結果、セリアには嫌な思いをさせてしまった。
セリアは
(ままならないな)
リオは小さく息をつくと、
「そろそろ宿に向かいましょうか」
そう提案した。
「うん。ごめんね。変なこと言って……」
「いえ」
うつむきしおれるセリアに優しくかぶりを振ると、リオは宿を探して再び歩き出した。
それから城壁の外にある宿屋の中では比較的マシなランクの宿屋で二人部屋をとると、リオは情報を収集しに都市の内部に潜り込んだ。
しかし、思った以上に有益な情報を得ることはできず、屋敷周辺の地理や警備状況を確認すると、リオは宿へと戻り、セリアと合流することにしたのだった。
☆★☆★☆★
「屋敷の警備はだいぶ厳重でした。領軍だけでなく、王軍も警備に加わっているようです。都市の状況がおかしいのは明らかですが、予定通り潜入してみますか? もちろん、時期を置いて潜入する選択肢もありますが」
屋敷の下見を終え、セリアが休憩している宿屋へ戻ると、リオが尋ねた。
「……潜入が可能なら、行ってみたい、かも……。でも、発見されるリスクが高いなら無理をする必要はないわ。透明になる精霊術だって、絶対に安全ってわけじゃないんでしょう?」
セリアが遠慮がちに語る。これまでに目にした都市の状況を踏まえて、この地で何が起きているのか気になっているのだろう。
ちなみに、光学迷彩の精霊術は外部からの干渉に弱い。
強い風が吹いたり、走ったりして強い空気抵抗が生じたり、人や物に衝突してしまうと空間に揺らぎが生じてしまうのだ。
ゆえに、物に触れようとしたり、人の密集地帯を通るなど、物理的な接触を避けられない場面では、使用が制限されてしまう。
「そうですね。透明になって庭に忍びこむだけならさほど難しくはないんですが、屋敷の中に入るのはちょっと難易度が高いかもしれません。主だった出入り口は固められていて、警備の隙間があまりなかったので」
例えば、今回の潜入先が巨大な城ならば
だが、貴族の邸宅レベルだと、サイズが小さくなる分、隙間を見つけにくくなるのだ。
リオとしては、寝室にでも窓があればそちらから潜入をしようと思っていたのだが、窓を開けるのに光学迷彩の精霊術を解く必要がある。
また、屋敷の周りには
「そっか……」
「まぁ、万が一発見されても、こちらの素性は掴まれていませんし、逃走ルートが確保されているなら、とりあえず忍び込んでみる価値はあると思いますよ」
表情を曇らせるセリアに、リオが気軽に考えるよう情報を付け加えた。
仮にこちらの素性と居場所を突き止められた状態であったならば、捜査の手が及んだ際にアリバイを工作する必要が生じる。
だが、そういった諸々のリスクがないのなら、大胆な行動が可能というわけだ。
「……庭に入るのがそれほど難しくないのなら、侵入ルートにアテはあるわ。庭に屋敷の地下へ通じる隠し通路があるの。家の者だけが知っているね」
「それは……俺が知ってしまってもいいんでしょうか?」
隠し通路の存在を明らかにしたセリアに、リオがおそるおそる
「あまり良くないかもしれない……んだけど、リオだからいいわ。信用しているもの。言いふらさないでね」
言って、セリアがフッと微笑んだ。本当にリオを信用しているのが伝わってくる、温かい笑みだった。
「はい」
リオは少し照れくさそうにはにかんだ。
☆★☆★☆★
そして、草木も寝静まった深夜。
リオはセリアを連れてクレール伯爵家の館に潜入していた。一時的な休憩先として借りた宿は、足が付かないように引き払ってある。
小高い丘の上にある敷地内には
随所に巡回の兵士達が歩き回っており、並みの使い手では庭に侵入すること自体が不可能にすら思える。
とはいえ、精霊術で空を飛べてしまうリオならば、夜闇に紛れて開けた庭の空間に忍び込むこともさほど難しくはなかった。
問題は何らかの魔力感知を可能とする人員が待機していたり、魔術結界が施されていたりする場合である。
だが、それらはいずれも希少性が高かったり、運用性に難があったりするし、万が一、発見されたとしても、そのまま飛んで逃げてしまえば犯人として捜索の手が及ぶおそれもない。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。リスクとしては許容範囲内だ。
現在、リオが光学迷彩の精霊術を駆使して裏庭を歩き回っているが、屋敷の人間に気づかれた様子はない。
裏庭は正面ほど警備の人員が多くなく、セリアに先導され、リオがその背中を追う。
「こっちよ」
光学迷彩で姿は偽装できても、声までは隠せないため、セリアが小声で喋った。
「確か、この辺りに……」
庭の端にある噴水のすぐ近くにやって来ると、セリアが石畳の地面をまさぐる。
(不味いな)
周囲に人がいないことを確認し、リオはいったん光学迷彩を解いた、ところで、
「あった。よいしょ!」
セリアが隠し通路への入り口を発見したようだ。
両手を用いて地面を操作してから、引き戸のように地面を引っ張った。
だが、非力なセリアでは重い石の床を動かすことはできない。
「手伝います」
小さな隙間ができたところでリオが手を差しこみ、一気に床を引っ張った。すると、屋敷の地下へと続く階段が現れる。
「あ、ありがと……」
「いえ、人が来る前に早く入りましょう」
「うん」
二人は地下へと続く階段を下りた。
リオが開いた床を元に戻している間に、セリアが壁に備え付けられている魔道具による明かりを
そうして地下通路が明るくなったところで、二人は歩を進めた。
少し歩いたところで屋敷の地下に行き当たったのか、開けた空間に躍り出る。
正面奥には上に続く階段、左右にはいくつかの扉があり、リオが物珍しそうに辺りを見やった。
「ここは……」
「ちょうど屋敷の地下らへんよ。緊急時の居住空間にもなっているの。まぁ、今は誰もいな……」
などと、リオとセリアが話をしていると、扉の一つがおもむろに開く。
扉の中から現れたのは鋭く美しい顔をした少女だった。
薄紫色の長いストレートヘア、深みを帯びた紫の瞳、気品を感じさせる優美な目鼻立ちをしており、平民の少女が醸し出す素朴な美しさや可愛らしさとは異質な雰囲気を
少女は紫を基調にした可愛らしい貴族服を身に着け、その上から純白のポンチョを羽織っていた。
通路にリオ達がいることに気づき、少女が
リオはとっさにセリアの姿を隠し、庇うように前に足を踏み出した。
「っ、ヴァネッサ!」
少女が叫ぶと、扉の中からさらに別の女性が姿を現した。年頃は二十代半ばくらいだろうか。騎士服を身に着け、腰には細身の剣を差している。
女性騎士はリオを視界に収めると、
「何者だ?」
鋭い形相を浮かべ、臨戦態勢で身構えた。