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精霊幻想記(Web版) 作者:北山結莉

第六章 今日より明日、明日より昨日へ

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第116話 その頃 その二

 リオがガルアーク王国を出立した日の昼。

 ベルトラム王国特別政府『レストラシオン』に所属する勇者――坂田弘明さかたひろあきはフローラと共にクレティア公爵邸を訪れ、リーゼロッテと昼食をとっていた。

 絶妙な焼き加減によりふっくらと焼き上がった極上の霜降りステーキに、弘明がナイフを通す。

 スッと切り離したステーキを口に含むと、噛まずとも口の中で肉がじゅわっととろけ、肉汁の旨みが口の中でどんどん溢れていった。


「相変わらずリーゼロッテのところの料理は美味いな。このステーキも良い肉を使っている。素材の味を生かすために、塩と胡椒だけで味付けをしているあたり評価は高いぞ」


 静かに目を閉じ、弘明がしみじみと語った。

 その言葉にリーゼロッテが微笑む。


「お褒めにあずかり光栄です。ヒロアキ様は美食家ですので、ご満足いただけるか不安だったのですが、ホッとしました」

「文句なしだよ。と、言いたいところだが、これほどの肉を使ったステーキとなると米が欲しくなるのがな……」


 と、弘明がわずかに物足りなさそうな表情を覗かせる。


「ふふ、ヒロアキ様は美味しいお料理を召し上がると、いつもお米が欲しいと仰いますね」


 弘明の隣に座っているフローラがくすくすと笑って語った。


「まぁ、慣れ親しんだ主食だからな。一日に一度は食いたくなるだろ」


 言って、弘明が少し照れくさそうな顔をする。

 リーゼロッテは少しだけ得意げな表情を浮かべると、


「実は今日のメニューにお米を使った料理をご用意してあるのです」


 と、そう打ち明けた。


「何、本当か?」


 弘明が目をみはり尋ねる。


「はい。アリア」


 リーゼロッテが頷き、傍に控えていたアリアに目配せして合図を送る。

 すると、アリアが一礼して配膳台へ向かった。

 弘明とフローラの視線がそちらに引き寄せられる。


「ほぉ、これは……リゾット、か」


 アリアが配膳した皿の上に乗せられた料理を目にし、弘明が目を光らせた。


「そのお米はシュトラール地方の一部の地域で栽培されている稲を取り寄せ、我が商会で栽培したものでございます。麦の代わりに粥にして食べるのが一般的なようなので、そのように調理させました」

「あー、パラパラして粘り気が少ない品種ってことか。確かに、そうなると白米として食べるのには向いてないな」


 弘明が納得顔で語る。


「これがお米なのですか、私は初めて見る食材です」


 フローラがリゾットに物珍しげな視線を向けた。

 というよりも、そもそもフローラは脱穀した麦すら見たことがない。

 脱穀した麦も米のように粥にして食べられてはいるが、粥はパンを食べることができない下民の食べ物だ。

 お嬢様育ちのフローラが口にしたことなどあるはずもない。


「レシピがあまり知られていないのか、王侯貴族が好んで食べる食材ではないですからね。こちらは試行錯誤して既存のレシピにアレンジを加えた調理法です。どうぞ召し上がってください」


 リーゼロッテの言葉に、弘明とフローラがスプーンを使ってリゾットを口に運ぶ。


「これは……」


 弘明とフローラは驚き目を見開くと、


「美味いな」

「美味しいです」


 思わず口元を緩め、そろって感想を口にした。


「口の中いっぱいに広がるクリーミーなバターとチーズの風味。濃厚だがこってりしすぎない絶妙な味付け。適度にまぶした胡椒が良いアクセントになっている」


 弘明が得意顔で解説を行う。


「流石です。本当に舌が肥えていらっしゃいますね」


 リーゼロッテが言うと、弘明は気を良くしたように笑みを浮かべた。


「まぁな。俺は食にはうるさいぞ。その俺が太鼓判を押してやる。これは美味いぞ。レシピを広めればヒットするんじゃないか? なぁ、フローラ」

「はい。以前、頂いたパスタも美味しかったですが、こちらもそれに負けないくらい美味しいです」


 水を向けられ、フローラがこくこくと小動物のように頷く。


「ありがとうございます。よろしければお米を差し上げましょう。博識なヒロアキ様ならば様々なレシピをご存知でしょうし、色々とお試しになってはいかがでしょうか?」

「本当か? 面白そうだ。やってみるか」


 リーゼロッテの提案に、弘明は乗り気な様子を見せた。


「ありがとうございます。リーゼロッテ様」


 フローラがぺこりと会釈してお礼を言う。


「いえ、お気になさらず。ただ、代わりといってはなんですが、お米料理のご感想を『レストラシオン』の皆様に宣伝していただければ幸いです」


 言って、リーゼロッテは少しだけ茶目っ気のある笑みをたたえた。


「はい、もちろんです! そうだ! サツキ様もヒロアキ様の同郷人と伺いましたし、この味を教えてさしあげたら喜ぶんじゃないでしょうか?」


 名案だといわんばかりに、フローラが提案する。


「そうですね。サツキ様もお米が恋しいようでしたので、近いうちにお招きできればなと考えております」

「素敵ですね。私もサツキ様とはお話をしてみたかったのですが……」

「確かお二方の滞在期間はもう少しございましたよね? ならその間にお茶会でもいかがでしょうか? サツキ様もお誘いしてみますので」

「本当ですか? 嬉しいです。是非、お願いします!」


 リーゼロッテの申し出に、フローラはパッと顔を輝かせてから、


「あの、ヒロアキ様もご一緒にいかがですか?」


 ちらりと隣の弘明を見やり、そう尋ねた。


「あー、俺は別にいいや」


 弘明が面倒くさそうにかぶりを振る。


「えっと、でも……」

「いいだろ? 別に話さなければならないこともないし。そもそもお茶会って男が参加するような場でもないだろ?」


 戸惑いの色を見せるフローラに、弘明がきっぱりと告げた。


(冗談じゃない。顔が良いのは認めるが、ああいう気が強そうで口うるさそうな委員長タイプの女は苦手なんだよ。属性は盛れば良いってもんじゃない。それに、せっかく異世界に来たんだ。よく知りもしないリアルの連中とわざわざ関わりを持つのもめんどくせぇっての)


 内心で、そんなことを思いながら。


「そう言えば昨日、サツキ様がハルト様と試合を行ったとか。お二人はご覧になったのでしょうか?」


 気まずくなりかけた雰囲気を察し、リーゼロッテが話題を振る。


「はい。素晴らしい試合でした。お二人ともすごい速さで動き回っていて。ですよね、ヒロアキ様?」

「あー、まぁ、それなりに見れる試合ではあったな。手加減していたとはいえ、勇者の沙月が負けたのはいただけないが。俺の評価まで下がる」


 憮然ぶぜんと溜息をつき、弘明がフローラに応じた。


「どうしてサツキ様が手加減していると?」


 リーゼロッテが興味深そうに尋ねる。


「勇者が本来の力を解放して戦ったらとんでもないことになるだろうからな。なんでもありの状態で戦ったら負けることなんてないさ」


 弘明が誇らしげに語ると、リーゼロッテが小さく目をみはった。


「すごい自信ですね」

「当たり前だ。俺達勇者は自然を支配するからな。対人戦闘はおろか、対軍戦闘でも負けようがない」

「自然を支配する、ですか?」

「ああ、俺達勇者が持つ神装は特別製でな。例えば俺の『八岐大蛇ヤマタノオロチ』は水をつかさどる力を宿している」


 言って、弘明は口許くちもとに不敵な笑みをたたえた。


「『八岐大蛇ヤマタノオロチ』とは?」

「ん? ああ、俺の神装の名前だ。俺の世界では水神として知られている存在でな。本当は神装に名前なんてないんだが、名前を付けた方が武器として具現化する際に出しやすいんだ」

「神装にそのような秘密が……。しかし、ヒロアキ様はどうしてそのような事をご存知なのですか? 最初から神装に関して知識を有していたと?」

「あー、この世界に来て最初の夜に変な夢を見てな。それで色々と教えてもらったというか、起きたら神装に関する情報が無意識下に伝達されていたというか。まぁ、わかるんだ、使い方が」


 と、いまいち要領の得ない説明を行う弘明。


「なるほど……。大変興味深いお話を伺えました。ありがとうございます、ヒロアキ様」


 リーゼロッテは思案顔を浮かべていたが、すぐに笑みを浮かべ直し、お礼の言葉を口にしたのだった。


 ☆★☆★☆★


 そして、その頃、場所は変わってガルアーク王国の王都から北部へと伸びる街道にて。

 透き通るような碧空へきくうの下、質の良さそうな数台の馬車が、ルビア王国に向かって進行していた。

 周囲には武装した騎士や兵士が護衛として歩を供にしている。

 中でも飛びぬけて豪華に飾り立てられた馬車の中に、純白の騎士服に身を包んだ少女と、全身を黒づくめのローブで覆った男が座っている。

 少女はルビア王国第一王女シルヴィ――姫騎士として名が知られている女傑である。

 男はその素性が謎に包まれた存在レイス――リオとも因縁のある男だ。

 御年一七歳になるシルヴィは、彫刻のように気品のある顔を不機嫌そうに歪ませ、目の前にいるレイスを睨みつけていた。


「約束通り貴様らに協力した。早く妹を……エステルを返してもらおうか」

「んー、ですが計画は失敗しちゃいましたからねぇ」


 シルヴィが冷たい口調で言うと、レイスが下卑た笑みをたたえてかぶりを振った。


「ふざけるな! 約束が違う!」


 シルヴィがいきどおりを隠さず怒鳴る。

 すると、レイスは大仰に両手を上にかかげ、肩をすくめて、


「おや、これは心外ですね。妹君を返してほしくば我々に協力しろとは申しましたが、それで妹君を返すとは一言も述べた覚えはないのですが……」


 飄々(ひょうひょう)とした口調で、そう言った。


「貴様、本当にふざけるなよ。こちらがどれだけ危ない橋を渡ったと思っている? 挙句の果てにあのような事件まで起こしおって……」

「なに、ちょっとした余興じゃないですか」


 レイスがおちょくるような声を出して笑う。


「余興だと? 大国の王族の命を狙うことが余興だというのか?」


 シルヴィが柳眉りゅうびを吊り上げて聞き返す。


「ええ、別に命を狙っていたわけではないのですが、退屈な夜会の暇つぶしにはなったでしょう?」

「そんなことがあるものか!」

「それは残念ですね」


 レイスはくつくつと笑みをこぼした。


「なあ……、身代金なら払う。貴様のことも口外しないと誓う。だからエステルを返してくれないか?」


 人を食ったような態度のレイスに、シルヴィが神妙な顔つきで頼み込む。


「身代金を要求するならとっくにしてますよ。私がそんなものを欲してないことくらいおわかりでしょう?」

「……なら何が望みだというのだ? 人質ならエステルの代わりに私がなってやってもよい。第二王女であるエステルよりは第一王女である私の方が利用価値は高いだろう?」

「人質とはエステル王女のように、か弱い女性がなるものですよ。貴方のような強い女性は我々では持て余してしまいます」


 レイスが言うと、シルヴィが忌々しそうに顔をしかめた。


「エステルは無事なのであろうな?」

「ええ、もちろんです。彼女は実に健気な少女ですね。なかなかそそります、はい」


 言いながら、レイスが不気味な笑みを口許にたたえる。


「……下衆が。エステルに何かしてみろ。生きていることを後悔させてやる」


 シルヴィが底冷えするような声で告げた。


「おお、怖い、怖い。こうして協力関係を続けている限り、滅多なことはしませんよ。私達は共犯者。仲良くしようじゃありませんか」


 清々しいくらいに空虚な笑みを浮かべ、レイスがにこやかに返す。


「ふん……」


 シルヴィは不快そうに鼻を鳴らして、馬車の窓の外を見やる。


(待っていろ、エステル。何としても私が助けてやる。だが、どうすれば。こんな時、あの男、レンジならどうするのだろうか……)


 姫騎士と呼ばれた少女の脳裏に浮かんだのは一人の少年の顔だった。


 ☆★☆★☆★


 美春達がセントステラ王国に向かって数日が経ったある日。

 千堂亜紀は夢を見ていた。子供の頃の夢――今からもう九年も前、春人と亜紀の両親が離婚する前の夢を。

 亜紀は思う――あの頃の自分はお兄ちゃん子であり、お姉ちゃん子であった、と。

 当時の天川家は両親が共働きで子供達にあまりかまってやることができなかった。

 そんな天川家の両親の代わりに幼い亜紀の面倒を見ていたのが年上の春人と美春だったのだ。

 だから、亜紀が春人と美春をお兄ちゃんお姉ちゃんと慕うのは当たり前の事だったのかもしれない。

 春人と美春はいつも仲良しで、亜紀から見て二人は理想の兄と姉だった。

 仲が良すぎて時折二人だけの空間を築くこともあったが、そうして二人が幸せそうに遊んでいる姿を見るのが亜紀自身たまらなく好きだった。


「お兄ちゃん、お姉ちゃん」


 ふと気づくと、夢の中で、幼い亜紀は春人と美春を求めて呼んでいた。

 不思議だ。

 普段ならその人物を少しでも連想するだけで嫌悪感があふれ出てくるのに、今は少しも嫌な感じがしない。

 亜紀の目の前にはぼんやりとした幼い春人と美春の姿があった。

 周囲は漆黒の闇に覆われているが、亜紀達がいるところだけ白い空白の空間となっている。

 すぐ傍には幼い日に春人や美春と一緒に遊んでいたおままごとの道具もあった。

 三人でおままごとをする時は春人と美春が夫婦役で、亜紀は常に娘役がいいと率先して申し出ていた記憶が懐かしい。

 そうすれば二人に甘えられるから――、二人に甘えられるのは亜紀だけの特権だったのだ。

 となれば、この状況で亜紀がしたいことは一つしかない。


「お兄ちゃん、お姉ちゃん、おままごとしよ! 私、子供の役ね!」


 こう言えばいつだって春人と美春は応じてくれる。


「いいよ」

「やろう、亜紀ちゃん」


 ほら――春人と美春が笑みを浮かべ、首肯してくれた。

 三人一緒、笑顔で仲良くおままごとをする。

 こんな幸せな時間がいつまでも続けばいいのに――、そう思って、


「今日はこのまま三人でお泊りしたいなぁ」


 亜紀がおもむろに呟いた。

 すると、春人と美春が顔を見合わせる。


「駄目だよ。明日はお休みじゃないだろ」


 と、春人が困り顔で亜紀の説得を試みた。


「ええ~、でもぉ。お兄ちゃんとお姉ちゃんと三人で並んで寝たいよ」


 亜紀が寂しそうな声音こわねでしゅんとする。

 春人とも、美春とも、亜紀はずっと一緒にいたいのだ。

 嫉妬するくらい仲良しな二人だけど、決して亜紀をのけ者にせず、優しく受け入れてくれる二人と。


「うーん。でもお泊まりしていいのは次の日がお休みの日だけだからなぁ」

「ハルくん、何とかならないかな?」


 悩ましげに語る春人に、美春がおずおずと頼んだ。


「みーちゃんがそう言うんなら、何とかしたいけど……」


 春人は逡巡しゅんじゅんするように唸ると、


「じゃあ今日は俺の部屋で一緒に寝るか、亜紀?」


 と、そう提案した。


「え、いいの?」


 亜紀の表情がパッと明るくなる。


「いいけど、亜紀、いつも父さんと母さんと一緒に寝てるだろ。夜中に起きて泣かないか?」

「な、泣かないもん! お兄ちゃんが一緒に寝てくれるなら大丈夫だもん!」

「じゃあ、いいよ。一緒に寝ようか、亜紀」


 顔を赤くして恥ずかしそうに否定する亜紀に、春人が微笑みかけた。

 すると、二人の会話を横で眺めていた美春が、


「ず、ずるい。亜紀ちゃん……」


 ぼそりと、呟いた。


「みーちゃんまで亜紀と一緒になってどうすんだよ」


 春人が苦笑し呆れ顔を浮かべる。


「むぅ、そうだけど……」

「じゃあ次の休みの日はみーちゃんがうちに泊まりに来いよ」

「本当?」

「ああ本当だよ」

「えへへ」


 美春は嬉しそうに顔をほころばせた。


「その時は私も一緒に寝ていい?」


 亜紀がおそるおそる二人に尋ねる。

 すると、春人と美春は笑顔で声をそろえて、


「うん、いいよ」


 そう、答えたのだった。


「えへへ~、約束だよ」

「ああ、約束だ」

「お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、ずっと私と一緒にいてね」


 亜紀が無邪気に顔をほころばせてお願いする。


「わかったよ」

「うん、一緒にいるよ。亜紀ちゃん」


 春人と美春が笑顔で頷いたところで、突として周囲が完全に漆黒の闇に覆われた。

 自分以外は何も見えない。


「お兄ちゃん? お姉ちゃん?」


 亜紀が不安そうに二人を呼んだ。


「亜紀ちゃん」


 すると、暗闇の中で美春の声が聞こえた。


(ああ、美春お姉ちゃんだ……)


 亜紀がホッと安堵した。

 ――美春お姉ちゃんは約束を破らなかった。お母さんが離婚した後も私の傍にずっといてくれた。ふさぎ込んでいた私の手を握って一緒に寝てくれた。

 ――アイツとは違う。三人で一緒に寝てくれるって、言ったのに。ずっと一緒にいてくれるって、約束してくれたのに。

 そんな想いが心の内から溢れ出てくるのが抑えられない。

 どうしようもなくイライラしてしまう。

 無論、亜紀だってわかってはいるのだ。

 この感情が逆恨みだということくらい。

 でも、感情と理屈は違う。


「亜紀ちゃん」


 ゆさゆさ。


「亜紀ちゃん、起きて……亜紀ちゃん……」


 ゆさゆさ、ゆさゆさ。

 誰かが亜紀の身体を揺さぶっている。


「嘘つき」


 亜紀は思わず呟いて、


「え……?」


 ぱちりと、目を開けた。

 美春の漏らした戸惑いの声が耳に届き、視界いっぱいに光が広がっていく。

 そこは美春と亜紀に貸し与えられたセントステラ王国王城のとある一室。

 そして――。


「美春お姉ちゃん……」


 美春が心配そうに亜紀の顔を覗きこんでいた。


「おはよう。気分でも悪い? 少し顔色が悪いけど」

「おはよ。大丈夫だよ。それより私、何か言ってた?」


 亜紀がおそるおそる尋ねてみた。あんな夢を見ていたのだ。何か変なことを口走っていなければいいのだが。


「え? ……ううん。特には」


 美春が小さく首を横に振った。


「本当に?」

「うん、本当だよ」

「そっか……」


 安堵し、亜紀がそっと息をつく。


「朝ご飯の準備ができたんだけど、もう食べられる?」

「ありがとう。美春お姉ちゃん、その恰好……」


 宮廷のエプロン服を身に着けた美春を見て、亜紀が目をみはる。


「お城にただで住ませてもらうわけにはいかないし、何か手伝わせてくれってリリアーナ様にお願いしたの。そしたら亜紀ちゃんや雅人君の世話をしてくれないかって仰ってくれて。その方が二人もいいだろうからって」


 現在、美春は国賓こくひんとしてこのお城に滞在している。

 ゆえに、衣食住のすべては無償で提供を受けることができる立場にいるのだが、美春はかたくなにそれを断っていた。


「そう、なんだ。確かにその方が私達も気楽だけど……」


 美春の説明に相槌あいづちを打ちながら、亜紀はつい先日に起きた騒動を思い返していた。

 時は魔道船で美春達がセントステラ王国に到着した後にまでさかのぼる。

 その日、一同がお城に案内されると、貴久と美春との間で再び一悶着があった。

 魔道船の中であった口論を踏まえれば当然に予想がついていた事態だ。

 ガルアーク王国に戻りたいと主張する美春に対し、それは駄目だと頑なに拒む貴久。

 互いに譲らない二人であったが、貴久が引かず、美春が単独でガルアーク王国に戻るのは実質不可能である以上、どちらが折れる定めにあるかは一目瞭然いちもくりょうぜんである。

 結果、美春は自らの意志に反してほぼ半強制的にセントステラ王国のお城に国賓待遇で軟禁されることになってしまった。

 当然、美春と貴久の関係はこの上なく悪化しており、現在は冷戦状態となっており、ここ数日は互いに一度も口をきいていない。

 貴久も美春の事もとても大切に想っている亜紀は二人の仲をハラハラしながら見守っていたのだった。


「ねぇ、美春お姉ちゃん、お兄ちゃんのこと、嫌いになっちゃった?」

「……すごく怒ってはいるけど、嫌いにはなってないよ」


 亜紀がおずおずと尋ねると、美春が普段よりも硬い声色で答えた。

 本気で怒っているのがハッキリとわかる。

 そもそも優しい美春が本気で怒っているところ自体、長い付き合いのある亜紀でも見たことはない。


「あ、あのね、お兄ちゃんも意地悪して美春お姉ちゃんがガルアーク王国に戻るのを反対しているわけじゃないと思うの。お兄ちゃん、美春お姉ちゃんのことを心配しているから」

「そんなことはわかっているよ。でも、ごめん。納得できないの。今は私自身、気持ちの整理ができないし」


 そう語る美春の顔は少しだけ強張っていた。


「でも、ハルトさんも沙月さんも了承済みの話だって言っているしさ。いずれこの国に来てくれるみたいだし、もう二度と会えないわけじゃないんだから、大丈夫だよ」


 美春の怒りをしずめようと、亜紀が必死に語りかける。

 だが、美春はぎこちない笑みを浮かべると、


「ごめんなさい。亜紀ちゃん。この話はここまでにしよう。雅人君を呼んでくるから、三人で朝ご飯を食べようか」


 貴久に関する話を打ち切った。


「うん……」


 亜紀が返事をすると、美春は「じゃあ……」と言い残し、足早に部屋から立ち去ってしまった。

 部屋に一人取り残され、亜紀が扉を見つめながら、「はぁ」と深く溜息をつく。


(このままじゃ駄目だ。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。私が二人の仲を取り持たなきゃ……)


 亜紀の心は曇りに曇っていた。


 ☆★☆★☆★


 その日の昼、場所はセントステラ王国のとある屋外稽古(けいこ)場。

 貴久と雅人は訓練用の剣を手に取り、模擬戦を行っていた。

 片手剣に盾を装備した雅人に対し、貴久は片手半剣を両手で掴んでいるだけだ。

 既に模擬戦が始まってから一分ほどが経過している。

 一見すると体格で勝る貴久が圧倒しているように見えるが、雅人は盾を上手く用いて見事に貴久の攻撃をさばいていた。


「マサト様はこの世界に来る前に剣術を習っていたのですか? タカヒサ様は剣術を習っていなかったとのことですが」


 リリアーナの護衛騎士であるヒルダが目をみはりながら、一緒に試合を観戦していた亜紀に尋ねた。


「いえ、雅人も剣術を習い始めたのはこの世界に来てからです」

「ほう、彼に剣を教えたのは……」

「ハルトさん、私達を保護してくれた人です」

「なるほど。例の黒の騎士殿か。彼が鍛えたとなれば納得はできる」


 そう呟きながら、ヒルダは感心したように雅人の動きを見つめていた。

 弟に高い評価が与えられていることに内心で驚きながら、亜紀が二人の試合を見守る。

 と、その時のことだ。

 ここまで貴久の手の内を確かめるように守りに専念していた雅人だったが、勝負に出た。


「行くぜ、兄貴!」


 貴久が振り降ろした剣の軌道を盾でいなすと、雅人は一気に間合いを詰めた。そのまま貴久のふところもぐり込む。


「させるか!」


 貴久が身体を捻転ねんてんさせ、剣を振るう。

 その切っ先は空気を切り裂き、雅人に向かって力強い軌跡を描く。

 だが、雅人が瞬時に盾を構え、前へとさらに加速すると、インパクトのタイミングをずらして、貴久の出足を潰してしまった。

 貴久が小さくよろめく。


「上手い!」


 模擬戦を観戦していたヒルダが思わずといったふうに呟いた。

 少しでもタイミングが出遅れていれば雅人の身体が吹き飛ばされて勝負は決まっていたはずだ。

 普通は迫りくる攻撃に驚き身体が硬直して反応が遅れてしまうものだが、それを見誤らずに、かつ、臆さずに前に足を踏み出した胆力は見事なものである。

 よほど実戦を重視した訓練を受けて戦闘慣れしているのか、それとも生来の度胸が備わっているのか、いずれにせよ、ヒルダは雅人にさらに高い評価を与えていた。


「はぁっ!」


 雅人が叫びながら盾を構え直して、体当たりするように貴久にぶつかりに行く。

 体格で劣る雅人だが、剣を受け流されてフラついていた貴久の体勢を崩すのは容易かった。


「くっ!」


 後ろに突き飛ばされながら、貴久が苦し紛れで剣を水平に振るう、が。


「狙いが甘いぜ、兄貴!」


 雅人はかがむように鋭く足を踏み込みこんで、盾を使って貴久の剣を下から上に向けてパリィした。

 そのまま雅人が貴久に向けて剣を突きだし、貴久の胸元を的確にとらえようとする、が。


「ま、まだだ!」


 タイミング的に防御が間に合う時間的な余裕はなかったはずだが、貴久が後出しで剣を振るった。

 尋常ならざる速度で貴久の剣が振るわれ、雅人の剣にぶつかる。


「痛っ」


 力負けした雅人の剣が吹き飛ばされ、くるくると回転しながら、空を舞った。

 数瞬の時を経て雅人の剣が地面に転がり落ちる。

 それを確認すると、雅人は貴久をジロリとにらみつけた。


「おい、兄貴。最後、身体能力を強化したろ。反則だぞ! 最初にルール決めたろ」


 と、雅人が貴久を非難する。

 今の勝負、貴久が身体能力を強化していなければ、勝っていたのは雅人のはずだったのだ。


「あ、いや……すまない。つい、熱くなってしまった」


 貴久がバツが悪そうに謝罪する。


「ちぇ、まあいいけどよ。でも、兄貴の反則負けだぜ。いいよな?」

「ああ、いいよ。お前の勝ちだ」

「なら、約束は守ってもらうぜ。美春姉ちゃんにちゃんと頭下げてこいよ。ハルト兄ちゃんはもう出発しちまっているだろうし、沙月姉ちゃんは近いうちにこっちにくるみたいだから、今更あっちの国に戻ってもあんま意味はないかもしれないけど、駄目だの一点張りじゃ納得なんかできねーだろ」


 気後れした表情を浮かべる貴久に、雅人が正論で抗議する。


「……わかっているよ。ちゃんと謝る」


 貴久は気まずそうに視線をそらすと、そう答えた。

 そんな兄の反応に雅人が小さく眉をひそめる。


「ちっ、約束だからな」


 念を押すようにそう言うと、胸の内のモヤモヤを晴らすように、雅人は剣の素振りを開始した。

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2015年10月1日 HJ文庫様より書籍化しました(2020年4月1日に『精霊幻想記 16.騎士の休日』が発売)
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「読める!HJ文庫」にて書籍版「精霊幻想記」の外伝を連載しています(最終更新は2017年7月7日)。
登場人物紹介(第115話終了時点)
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