第189話 源立夏
「私が想定する人物と前世の貴方が同一人物であるのなら、私は前世の貴方のことを知っているんです、ハルト様。いえ、天川春人さん」
リーゼロッテはリオを見据え、そんなことを言った。
「…………」
リオは即答はせず、考えをまとめるようにまつげを伏せた。
「………………」
リーゼロッテは緊張しているのか、硬い表情でリオの応答を待つ。すると、ややあって――、
「確かに私には前世の記憶があります。天川春人といいました」
リオはローゼロッテが望むであろう答えを口にした。
「っ、やっ、ぱり……」
リーゼロッテはハッと息を呑んだ。その瞳は喜びで輝いているようにも、郷愁から潤んでいるようにも見える。
「リーゼロッテ様は前世の私のことをご存じとのことでしたが、先ほどの話だと同じ交通事故で亡くなられたんですよね?」
と、リオはリーゼロッテに確認する。
「はい。前世の私もあのバスに乗っていたんです。名前はその、
リーゼロッテはそう言って、リオの顔色を窺う。
「源立夏さんですか……。だから、リッカ商会なんですね」
リオは立夏の名に聞き覚えはないらしく、ここで初めてリッカ商会の名付けの理由を察する。
「……ええ。亡くなった時は女子高生でした。覚えていらっしゃいませんか?」
「そういえば、いらっしゃったような記憶が……」
リオは朧気に記憶を振り返った。
「直接の面識は……、ありませんでしたからね」
リーゼロッテは心なしか、少し寂しそうに微笑む。
「ですが……、天川春人の名はご存じだったのですよね?」
リオは不思議そうに首を傾げる。
「はい。えっと、前世の私が通っていた学校が、天川春人さん……先輩の通われていた大学の付属校だったのと、知り合いに、天川先輩のことを好きな人がいたもので」
リーゼロッテは視線を泳がし、上ずった声で答えた。
「……そう、でしたか」
リオは斜め上の回答が戻ってきて、軽く面食らってしまう。
「は、はい。それに……」
「それに?」
「あ、いえ……」
――本当は私自身も、中学の頃に天川先輩とお会いしたことがあって……。
リーゼロッテはそう言いかけて、言葉を飲み込んでしまう。リオは立夏のことを覚えていなかったようだし、なんだか妙に気恥ずかしかったから。
「……失礼しました。妙なことを訊いてしまい」
リオもなんだかおもばゆくて、バツが悪そうに謝罪した。
「い、いえ」
リーゼロッテは微かに頬を赤らめてかぶりを振る。アリアを初めとする侍女の面々がこの場にいたら、珍しいものが見られたと喜んでいたことだろう。
「…………」
リオからも何か気の利いたことが言えるわけではなく、しばし無言の時間が続く。
「その、ハルト様」
沈黙を破ったのは、リーゼロッテだった。
「何でしょうか?」
「どうしてこんなに、前世の記憶のことをあっさりと認めてくださったのですか?」
訊いて、リーゼロッテはじっとリオの顔を見つめる。
「既に申し上げた通りですよ。リーゼロッテ様のことはこの国の王侯貴族で一番に信用しております。リーゼロッテ様ならばむやみに言いふらす真似はしないでしょう? 他言して欲しくはない事実ですから、誰が相手でも教えようとは思いません。あとは何よりも、思い切って前世の話を切り出してくださったリーゼロッテ様の思いを無下にはできなかったから、といったところでしょうか」
と、リオは正直に理由を打ち明けた。
「それは……光栄です」
「こちらこそ、伏せていた秘密を打ち明けてくださり光栄です」
リーゼロッテが少し気恥ずかしそうにぺこりと頭を下げると、リオはフッと笑みをこぼした。
「はい」
と、はにかんで応じるリーゼロッテ。
「こうして互いの秘密を共有し合ったことで一つ確認したいのですが、リーゼロッテ様はどうしてリッカ商会の製品名に地球の言葉を用いていらっしゃるのですか?」
リオは今度は自分から話を振る。
「もともとは自分と同じように前世の記憶を持つ方々がいるかもしれないと考えてのメッセージだったからです。まあ、地球から召喚された勇者様方が現れて、受け手となる人間が想定外に広くなってはしまいましたが……」
「……何の目的でメッセージを? あの交通事故で亡くなった人物を対象にしていたということになるんですよね?」
「会ってお話をしてみたかったから、ですかね。地球の、少しでも自分が知っている人達と……。本当に私以外にも前世の記憶を持つ人はいるんだろうか。前世の記憶はまがい物で、私の頭がおかしくなってしまったんじゃないか。仮におかしくなかったとしても、私が想定している人達以外にメッセージが届くんじゃないか。そう思うと不安はありましたが」
と、リーゼロッテは遠い目で、きまりが悪そうに語った。要するに、寂しかったからということだろうか。ただ、不安に思うことも含め、気持ちは理解できる。
「そうでしたか……」
リオはぱちりと目を瞬くと、くすりと口許をほころばせた。
「ですので、ハルト様さえよろしければ、思い出話に付き合っていただければと。前世で生きていた頃には、お話しできなかったことをたくさんお話ししてみたいんです」
それでリーゼロッテの目的は達成されるのだから。
「承知しました。私でよければ」
リオは快く了承した。それから、ぽつりぽつりと、二人でしばしとりとめのない話をする。春人は大学でどんな勉強をしていたのかとか、どんなアルバイトをしていたのかとか、立夏は高校でどんな部活や委員会に入っていたのかとか、何が好きだったとか、何が趣味だったのかとか、立夏がバスの中で実は人間観察をしていてよく一緒に乗っていた春人のことも見ていたのだとか。
「天川先輩はよく窓の外を見ていらっしゃいましたよね? 何を見ていらしたんですか?」
話の流れでリーゼロッテが天川春人のことを指して呼ぶ時は、天川先輩という呼称になった。
「良く覚えていますね。特には何も見ていなかったと思います。乗っている間はすることもなかったので」
「ふふ、そうだったんですね」
リーゼロッテはくすくすと笑って納得した。そして――、
「そういえば、私達が乗っていたバスに小学生の女の子も乗っていましたよね。よく三人だけで同じ時間帯のバスに乗ることがあったんですけど……」
話題は不意に、ラティーファの前世――遠藤涼音のことになる。
「……ええ。いましたね」
リオはあたかも記憶を振り返るかのように、わずかに間を開けて応じた。
「あの子ともいつかお話をしてみたいなと思っていたんです」
こうやって前世のことを振り返って話している時のリーゼロッテは、普段よりもあどけない表情を覗かせている。
「……実を言うと、あの子もこの世界で生まれ変わってはいます」
リオは思案し、そう打ち明けた。
「そうなんですか?」
リーゼロッテは強く瞠目する。
「ええ。ひょんなことから遭遇し、前世のことを知るようになりまして……。今は遠くに暮らしていて、簡単に会うことはできないんですが、いつかお連れすることもできるかもしれません。無論、本人が望めばになってしまうのですが、次に会う機会があればリーゼロッテ様のことをお伝えしてみます」
問題は色々とあるし、実現するかもわからないが、ラティーファにもそういった意思があるのであれば、遠い将来にでも実現はできるかもしれない。
「はい、ぜひ」
リーゼロッテは破顔してお願いした。
「承知しました」
リオはフッと笑みを刻んで首肯すると――、
「ところでリーゼロッテ様は、この後まだお時間はおありですか?」
と、唐突にリーゼロッテに尋ねた。
「はい。今日は休日としたので……」
リーゼロッテは頷きつつ、こてりと小首を傾げる。
「よろしければ昼食でもいかがですか? 私の手作りで恐縮ですが、せっかくなので懐かしい味をご馳走しますよ」
リオはリーゼロッテを昼食に誘う。
「懐かしい味、ですか……」
リーゼロッテは興味深そうに瞬きをする。
「ええ。何が出るかは実際のお楽しみですが、アリアさんの分も別にご用意するので、ご予定がなければぜひ」
「……恐れ入ります。では、お願いしてもよろしいでしょうか?」
そうして、昼食はリーゼロッテと一緒にとることが決まった。すると、リオは間もなくして昼食の準備を開始する。その間にリーゼロッテはアリアのもとへ向かい――、
「今日はこのままハルト様に昼食をご馳走していただくことになったわ。貴方もご相伴に与らせていただけることになったから、楽しみにするといいわよ。きっと珍しくて美味しいものを作っていただけるはずだから」
と、伝えた。
「それはなんと、光栄ですね……」
アリアは目を見はって口許をほころばせる。そして、リオに用意してもらったお茶とお菓子を見下ろしながら――、
(となると、ご用意していただいたお菓子をいささか食べすぎたのは尚早だったでしょうか……。いえ、これだけ素晴らしいお茶を用意されて、お菓子に手をつけないのは失礼というもの。日課の訓練の量を増やせば問題はないでしょう)
と、そんなことを思っていた。
◇ ◇ ◇
それから、小一時間ほど経過すると、リーゼロッテはアリアと一緒に邸宅の食堂へと案内されていた。
ダイニングテーブルの上には、葉が巻かれた挽肉の和風ハンバーグ、カリッと揚げたてのてんぷら、味が染みこんで柔らかそうな大根の煮物、香ばしく炒められたうどの皮のきんぴら、菜を使ったおひたし、たっぷりのショウガとネギで彩られた豆腐(と醤油らしき液体)、箸休めの漬物数種と、見事に和風の献立が並んでいる。いくつかは時空の蔵に下準備を済ませた食材や作り置きを保存していた品もあるが、いずれもリオが調理した品だ。
「とりあえずすぐにお出しできる品を色々と作ってみました。お口に合うかはわかりませんが……」
リオはそう言いながら、炊きたての白米とお味噌の香りが上品に香るけんちん汁をよそっている。
「…………」
リーゼロッテは目を点にして食卓を眺めていた。無理もない。長年、リーゼロッテが探し求めてきた食材がいくつも、当然のようにこのテーブルの上に並んでいるのだから。
「本当に珍しいお料理の数々ですね。大変美味しそうです」
アリアは興味深そうに目をみはっている。
「……想像の何倍も上を行く品の数々です。ハルト様もお人が悪い」
リーゼロッテは今すぐにでもリオに食材を譲ってほしいと訴えかけたい気持ちをグッと堪えて、なんとか言葉をひねり出した。
「以前、夜会の時にヤグモ地方の食材にご興味がありそうでしたので」
リオはくすりと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「……ですね。覚えておいでだったとは、光栄です」
「ぜひ、温かいうちにお召し上がりください。アリアさんのお席もご用意しましたので。慣れると箸という道具を使うと食べやすいのですが、今日はナイフとフォークとスプーンをお使いください」
事前にアリアも一緒で構わないと話はしてあり、堅苦しい作法もなしという手はずになっている。
「はい。ありがたく。アリアも座らせていただきなさい」
リーゼロッテはアリアと一緒に椅子へ腰を下ろした。リーゼロッテのもとにもナイフとフォークとスプーンが置かれていたが、リオの気遣いなのかそれとは別に用意されていた箸をそっと手に取ると――、
「いただきます」
と、小さく口を動かす。まず手につけたのは、大根の煮物。柔らかい。スッと箸が通り、切りたいように分けることができた。リーゼロッテはアリアから見れば妙に慣れた手つきでそれを口へ運んだ。瞬間――、
「んぅ……」
あまりの懐かしい美味しさに、リーゼロッテは艶めかしい声を漏らしてしまう。その味を慈しむように、しばし押し黙る。アリアはそれを確認すると、主に倣ってナイフとフォークを使い切り分けた大根を口へ運んだ。
「っ……」
アリアはぱちぱちと瞬きをする。
「美味しいです、すごく……。どう、アリア?」
しばらくすると、リーゼロッテはほうっと息をついて言った。そして、アリアにも感想を求める。
「初めて味わう料理ですが、美味です。優しい味ですね。それでいて癖になりそうな」
アリアもお気に召したようだ。
「ありがとうございます。これといって召し上がる順番に作法はないので、お好きな品から召し上がってください」
リオは朗らかに礼を言うと、食事の続きを促した。
「恐れ入ります」
リーゼロッテは他の料理の味が気になるのか、そわそわと料理を眺める。次に手をつけることにしたのは、ショウガとネギが乗った豆腐。それにお醤油をかけて口へ運ぶ。
「んう……」
ついつい口許が緩んでしまいそうになるのを抑えられない。本当に懐かしい味を楽しむと、おひたし、和風ハンバーグへと順に箸を動かしていく。そして、お米を一口。
「ふふ」
リーゼロッテは幸せそうに笑みをこぼした。これだ。これが白米だ。モチッとしていて、つやがあって、ふっくらしている。リーゼロッテがシュトラール地方で探し求めてようやく手に入れたパサパサの米とは違う。口に入れた瞬間に美味しいとわかる。
そして極めつけは、けんちん汁である。それを口に含み、素材の味がたっぷりと染みこんだ味噌仕立ての汁の味を楽しむ。その後はもう無我夢中だった。礼儀は踏まえつつも、黙々と箸を動かし、恋い焦がれた和食を無心になって味わい続ける。
はしたないとわかっていても、ご飯とけんちん汁のおかわりを要求してしまったほどだ。アリアも便乗してしっかりとおかわりをもらい、主従で黙々とリオの料理を食べ続けていた。
リオは余計な会話は振らず、時折アリアが食べ方や調理法について不思議そうにしているのを見ると、その疑問を解消してやる程度に留める。
それからしばらくして食事を終えると――、
「……ご馳走になりました。とても幸せな一時でした。時間も会話も忘れてしまうくらいに」
リーゼロッテは少し照れくさそうに、可愛らしく会釈する。
「ご相伴に与り、至福の一時でございました。誠にありがとうございます、ハルト様。いえ、アマカワ卿」
アリアは深々とリオにこうべを垂れた。
「喜んでいただけて何よりです。近日中に王都を離れるかもしれないのですが、ご希望とあらばまたお作りしますので」
「はい、ぜひ!」
リーゼロッテはそれはもう嬉しそうに、間髪を容れずにお願いする。
「畏まりました」
リオも笑顔で快諾した。
「ですが、頂いてばかりというわけにもまいりません。ぜひ、このお礼をさせてくださいませんか?」
リーゼロッテはリオを見据え、お礼をしたいという確固たる意思を示す。
「いえ、お食事をご用意しただけのことですから」
リオはやんわりと断る。ただ――、
「お願いします。これだけの品を頂いて、感謝の気持ちをお伝えしたいんです」
リーゼロッテも簡単には引き下がらなかった。
「ですが……」
まさかお礼をさせてくれと請われることになるとは思っていなかったのか、リオは即座には決めかねる。
「私に何かできることがあればぜひ仰ってください」
と、リーゼロッテは積極的に申し出る。これが坂田弘明ならリーゼロッテにデートの一つでも要求しているところであろう。仮に今、リオがそう要求すれば、リーゼロッテは「はい、喜んで」と受け容れるかもしれない。ただ、当たり前かもしれないが、リオのお願いは異なるものだった。
「では、私が留守にしている間に、この家の定期的な管理をお願いできませんか? 陛下から家臣と一緒に使用人をつけてくださるというお誘いはあったのですが、現状ではどれくらいこの家に住むことになるかはわからず、お断りしてしまったものでして。信頼できる方にお任せできればとは思っていたんです」
下手に家来をもらってしまっては国との結びつきが強くなりすぎてしまうし、確実に王侯貴族の息がかかった人間を雇うのもなんだか気が引けてしまうという懸念もあった。それに、フランソワに任せるとなし崩し的に話を進められてしまうのではないか、と警戒していたりもする。その点、リーゼロッテならば信頼できる。
「畏まりました。そういうことでしたら、クレティア公爵家の使用人から信用できる人間を選定いたしましょう」
リーゼロッテは小気味よく請け負った。
「助かります。週に一度、見回りに来ていただく程度で大丈夫ですので」
「お任せください」
と、頷くリーゼロッテだが、実際には週に一度どころか毎日、邸宅を警備する人間を派遣させて、定期的に掃除もさせようと考えていたりする。それをリオが知るのは、まだ先の話であった。