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精霊幻想記(Web版) 作者:北山結莉

第五章 思い描いた未来の先で

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第110話 手紙

 翌朝、リオが宿泊する客室にて。

 時刻は朝八時過ぎ。

 さして見知らぬ女中二人がすぐ傍にいる慣れない状況の中で、リオが朝食を済ませたところだ。

 身分や混雑する時間帯によっては個室での食事が制限されることもあるが、基本的に王城での食事は個室と食堂のどちらで摂ることも許されている。


「ハルト様、お茶をご用意いたしましょうか?」

「ええ、お願いします」


 そうして同年代の少女にお茶をれてもらっていると、部屋の扉がノックされる音が響いた。

 迅速に女中が扉を開きに行き、すぐに畏まって対応する声が聞こえてきて、


「おはようございます。ハルト様」


 と、そう言って、シャルロットが中に入ってきた。


「シャルロット王女殿下……。おはようございます」


 呆気にとられながらもリオが朝の挨拶を行う。


「何のご用でしょうか?」


 お茶会はシャルロットの部屋で行われる予定だ。

 ゆえに彼女がリオの部屋を訪れる理由に心当たりがない。


「午前中は私とお話をする約束でしたでしょう? 少し早いですがお迎えに伺ったのです」


 用件を尋ねられると、シャルロットが愛嬌のある笑みを浮かべて答えた。

 リオが室内の時計を見やる。

 シャルロットとの談話は朝九時からの予定だ。

 本来なら予定時刻までまだ一時間弱はある。

 いくら王城内が広く、移動に時間がかかるとはいえ、少し早いと言うにはいささか無理があるような気がしないでもない。

 が、王女にそんなことを言ってもせんのないことだろう。


「なるほど……。ご足労いただき恐縮です」


 思いがけぬ来訪の理由であったが、リオが無難に対応する。


「ふふっ、私がお会いしたかったから伺ったのですよ。どうかお気になさらず。よろしければこのままサツキ様のお部屋にも伺いたいのですが、いかがでしょうか?」

「ええ、構いませんが、少し寄りたい場所があるのです。先にそちらの用件を済ませてもよろしいでしょうか?」

「もちろんですわ」


 シャルロットがにっこりと微笑んで頷いた。


「それでは準備をしますので、少しお待ちください」


 そう告げると、リオは昨晩の内に時空の蔵から取り出しておいた三通の手紙を取りに行った。


 ☆★☆★☆★


 王城の廊下をすたすたと二人の男女が並んで歩いている。

 リオとシャルロットだった。


「ふふっ」


 リオの腕を掴みながら、シャルロットが嬉しそうに笑みを浮かべている。

 対照的に朝から気疲れし始めているリオであった。


「シャルロット様、あまりこうして密着されるのは……」

「お嫌でしょうか?」


 上目づかいでリオの顔をうかがい、シャルロットがストレートに尋ねる。


「嫌というわけではありませんが、周囲の方々に勘違いされてしまうのでは?」

「勘違いさせておけばいいではありませんか」


 そう言って、愛らしい笑みをたたえるシャルロット。


「あはは……」


 リオは顔を引きつらせながら、苦笑する。苦笑するしかなかった。

 確かにシャルロットはリオに懐いているように見えるし、沙月も何だかんだで彼女には妙に甘いところがある。

 だから、単に無邪気で、甘え上手なだけで、決して悪い子ではないのかもしれない。

 だが、リオはまだシャルロットに対する警戒心を拭えきれずにいた。

 幼くとも彼女も王族なのだから。

 若い王侯貴族は精神的に未熟であるがゆえに、自らに与えられた権力を過信しているのか、傍若無人になりやすいきらいがある。

 目下の者には自分勝手で無遠慮な言動が目立ち、己の要望が当たり前のように通ると考えており、自分の意志が尊重されないと途端に不機嫌になる――くらいならまだ可愛いものだ。

 適当にあしらって地雷を踏むと、癇癪かんしゃくを起こしかねない者がいるし、逆恨みして悪質な嫌がらせをしてくる者もいる。

 特に相手の性別が女性である場合は本当に厄介で、リオもベルトラム王立学院時代によく学んでいたことだ。

 シャルロットの年齢は十三歳、ちょうど多感な時期である。

 ゆえに、シャルロットという少女の人間性も把握しない段階では、下手な対応はできない。

 不興を買って騒ぎになれば、客としてお城に居づらくなるかもしれないのだから――、まぁ、流石に不敬罪になることはないだろうが。

 それに、シャルロットが何かしらの思惑があってリオに接近している可能性も考慮しなければならない。

 リオに彼女を近づけさせたのは国王であるフランソワだ。

 あの国王は油断ならないとリオは思っている。

 美春達と交友を持ち、沙月とも急接近しているリオを利用しようと考えていても不思議ではない。

 シャルロット自身に思惑がなくとも、フランソワから何かしらの命令を受けている可能性はゼロではないだろう。

 そうだとすれば本当に厄介なことこの上ないが。


「タカヒサ様に御用がおありなのですか?」

「いえ、用があるのは私が保護していた三人の少年少女です」

「まぁ、そうでしたか。綺麗でとても可愛らしい方ですよね、ミハル様」


 屈託のない表情でシャルロットが言う。


「ええ……、そうですね」


 掛け値なしの本心であるが、素直に同意するのも何となく気が引けて、リオがためらいがちに頷いた。

 シャルロットがにこりと笑ってリオの反応をうかがう。

 そうして会話をしているうちに、美春達が宿泊している部屋の前にたどり着く。

 護衛の騎士達の姿は見受けられない。


(留守なのか?)


 疑問に思ったが、小さく息を吐いて、扉を静かにノックした。

 コンコン。


『馬鹿、お兄ちゃんのえっち! デリカシーがないよ!』


 室内から漏れる亜紀と思しき少女の声で、ノックの音がかき消された。


『わっ、待って、亜紀! ごめん、ごめん! 覗こうとしたんじゃないから! 雅人もいるだろうからって、ま、雅人は。いないの!?』

『雅人なら暇だから、お城を見てみたいって外に出て行っちゃったよ! もう!』


 室内から慌ただしい喧騒が伝わってきて、


「何やら取りこんでいらっしゃるようですね」


 シャルロットがきょとんと目をみはる。


「みたいですね。……もう一度だけノックしてみましょうか」


 リオが苦笑しながら言った。

 ここは空気を読んで出直すべきかもしれないが、リオとしてはこのタイミングを逃すわけにはいかない。

 今度は少し強めにノックしてみた。


『も、申し訳ございません。少々お待ちくださいませ』


 少し余裕のない声で返事が戻ってくる。


『タカヒサ様、お客様です。おそらくハルト様かと』

『わ、わかった。すぐ出るよ。亜紀、ちょっと待っててくれ。落ち着いてからまた話そう』


 扉の向こうで何があったのかは知らないが、会話の流れからすると貴久が亜紀を怒らせてしまったのだろう。

 たっぷり十秒ほど経って、慌ただしく部屋の扉が開いた。

 そうして現れたのは貴久、キアラ、そしてアリスの三人だ。


「お待たせして申し訳ございません。ちょっと取りこんでいま……して……」


 バツが悪そうに苦笑していた貴久であったが、上機嫌でリオの腕を組んでいるシャルロットを発見すると、目を丸くして硬直した。


「おはようございます、タカヒサ様」


 シャルロットがにっこりと貴久に微笑みかけた。


「え、ええ、おはようございます。シャルロット王女」


 貴久がおずおずと返事をする。


「お忙しいところ申し訳ございません。予定時間より早く伺ってしまい恐縮なのですが、ミハルさんはいらっしゃいますか?」


 と、リオがすまなそうに謝罪し、いた。


「あ、えっと……。どうだろ。雅人が外に出ちゃっているみたいで、もしかしたら一緒に行っちゃったかも……」

「ミハル様ならマサト様を追いかけていきました。付き添いにヒルダがいます」


 あやふやな貴久の説明を、キアラが補足する。


「あはは……。だ、そうです。実は俺も部屋に戻ってきたばかりで、亜紀ならいるんですけど……」


 貴久が引きつった笑みを浮かべながら言った。


「アキちゃんだけですか」


 リオが思案顔を浮かべる。

 亜紀にも手紙は書いてあるが、リオとしては真っ先に手紙を渡すべき相手は美春と考えていた。

 亜紀は天川春人のことを嫌っている節があるので、リオの前世を伝えることでどんな反応を見せるのか予想がつかないからだ。

 だから、まずは美春に手紙を読んでもらって、その上で亜紀に手紙を渡すかどうか判断してもらうつもりでいた。

 最初に亜紀に手紙を読ませることは正しいのだろうか。

 正直、リオには判断しかねる。

 亜紀が前世の自分に対してどのような心証を抱いているのか、リオはほとんど何も知らないのだから。

 要は怖いのだ。

 そうしてリオが逡巡していると、


「九時過ぎ……遅くとも半までには戻ってくるはずです。昨日も言いましたけど、魔道船の見学があるので」


 貴久がそう言い添えた。


「なるほど……」


 と、リオが嘆声染みた言葉を漏らす。

 どうも昨晩からあまりタイミングがよろしくないようだ。

 お城に滞在しているせいで行動の自由が制約されていたり、美春と別の部屋になっているせいで会おうと思った時に会えなかったり――。

 だが、リオの調子を狂わせている最大の原因は別に――いや、隣にいる。

 リオは目を転じてその原因たる人物をちらりと見やった。

 シャルロットがリオの視線に気づき、愛らしい笑みを向ける。


(昨晩はこの子のせいで美春さんが先に眠っちゃったし、今朝もこの子のせいで美春さんとすれ違いになっているし……)


 いっそ社会的な立場を無視してシャルロットを邪険にしたい衝動に駆られるが、ぐっとこらえる。


(むしろ昨日のうちに告白できただけでも良しとするべきなんだろうか)


 昨晩の夜会で告白していなければ、こうしてシャルロットの邪魔が入り、告白できぬまま今日の午後になって、美春達との話し合いに突入していたはずだ。

 その話し合いには美春以外にも亜紀がいて、沙月がいて、貴久がいて、雅人がいて、リリアーナがいて、他にも部外者がいる可能性もある。

 そんな状態で告白するのは流石に御免こうむりたいたい。

 二人きりになれるかどうかもわからないし、亜紀がどんな反応を見せるかわからないし、話し合いをする空気でなくなるかもしれないし、ましてや告白なんてするような雰囲気ではなくなるおそれもあるし、既に美春達が決断を下し終えている可能性だってあるし、そのまますぐお別れになることだってありえるのだから。

 そうして数瞬ほど逡巡していると、


「アキ様がいらっしゃるのならば、ハルト様の御用をお済ませになりませんか? タカヒサ様もお忙しいでしょうから」


 シャルロットがリオに用事を済ませるよう促す。


「ええ……」


 笑みを浮かべて首肯しながら、


(どうする……)


 リオが脳内で状況を整理し始めた。

 考えられる選択肢は五つ。

 ここで貴久に手紙を預けるか、亜紀を呼び出して手紙を渡すか、この場に居座ってギリギリまで美春達の帰りを待つか、当てもなく美春を探しに行くか、午後になって美春達と話し合いをする時に手紙を渡すか。

 正直、手紙は午前中に読んでもらいたい。

 手紙の中身を読むことで美春達は確実に混乱してしまうだろうから、話し合いをするまでに考える時間を入れておきたかった。

 沙月とシャルロットとのお茶会の開始時刻は九時ぴったり、他方で美春達がこの場に戻ってくる時間は遅くとも九時半。

 時刻は既に八時半に差しかかっており、広い場内を歩いて沙月を迎えに行く関係上、そろそろこの場を離れないといけない。

 また、シャルロットとの同伴や沙月の迎えを除外して、九時前ギリギリまでこの場で待っていたとしても、美春達が戻ってくる保証はない。

 最も無難な選択肢は――。


「……タカヒサさん、手紙を渡してもらってもよろしいでしょうか?」


 観念したように小さく嘆息すると、リオが貴久に依頼した。


「もちろん構いませんけど、じゃあ亜紀を呼んできますね」


 そう言って、貴久が身体を反転させて扉を開けようとする。

 宛先人が部屋の中にいるのだから、呼び出せばいいだろう。

 そう思っての行動だ。

 だが、


「いえ、待ってください」


 リオが制止すると、貴久が動作を停止してリオを見やった。


「三通とも最初は美春さんに手紙を渡して読んでほしいんです。アキちゃんとマサトにはその後に渡すよう伝えてくださいませんか?」


 少し気が引けた様子で、リオが説明する。


「……はい、わかりました」


 説明の真意を掴みかねてはいるようだが、貴久が素直に了承した。

 リオから渡された三通の手紙には、シュトラール地方の言葉で宛先人名が書かれてあり、宛先人以外の者が開封しないように封蝋ふうろうもしてある。

 ありえないとは思うが、沙月がいる前で手紙の話はしたし、シャルロットも傍で見届けている以上、後で渡した渡していないと言い争いが生じることもないだろう。


「よろしくお願いします。それでは、また午後に伺いますので。今度はサツキさんと一緒に」

「ええ、お待ちしております」


 貴久と頷きあうと、リオがシャルロットに視線を向ける。


「シャルロット様、私用でお待たせしてしまい、大変申し訳ございませんでした」

「いえ、いいのですよ。それより早くサツキ様の下へ行きましょう。ひょっとしたら入れ違いになってしまうかもしれませんから」


 シャルロットが嬉々としてリオの腕を掴んで引っ張り始める。

 そうして、リオはその場を後にしたのだった。


 ☆★☆★☆★


 立ち去ったリオとシャルロットの姿が見えなくなったところで、


「何が書いてあるんでしょうねぇ~。恋文かなぁ」


 と、呑気のんきにも思える明るい声で、少女騎士のアリスが言った。

 貴久がハッとして、手に持った手紙を凝視する。


「アリス、はしたないわよ」


 先輩騎士のキアラがアリスをたしなめた。

 一見するとお淑やかな雰囲気を持っているが、何というかキアラには独特の迫力がある。


「え~。だって気になるじゃないですか」

「だからといって他人の手紙を詮索するものじゃありません」

「あ、ということは、キアラ先輩も気になるんですね」

「本当に口の減らない子ねぇ」

「あはは……」


 キアラが放つ無言の圧力に押されて、アリスが冷や汗を浮かべる。


「でもタカヒサ様も気になっているみたいですよ。あの幼馴染の女の子のこと、絶対好きですよね。そこにリリアーナ様が入ったら禁断の三角関係に……」

「こら、だからそういう下世話なことは……」


 ひそひそとキアラとアリスが喋る。

 しかし、貴久には二人の会話などこれっぽっちも聞こえていないようで、黙って両手に持った手紙を見つめていた。

 すると、その時のことだ。

 亜紀しかいないはずの扉ががちゃりと音を立てて開いた。

 貴久がびくりと身体を震わせて、反射的に手紙をふところに隠そうとする。

 だが、急いでいたせいか、手紙は素直に懐には入らず、三通ともすっぽ抜けて地面に落下し始めた。

 咄嗟とっさに手を動かして格闘し、貴久が宙を舞う手紙をまとめて腹部に抱えようとする。

 すると、ぐしゃっとした嫌な感触はしたものの、二通はキャッチに成功した。

 残り一通はキアラの足元にひらりと舞い落ちている。

 不味い、そう考えて、貴久が慌てて地面に落ちた手紙を拾おうと身をかがめた。

 すると、今度は腹に抱えていた手紙まで落としてしまう。


「わっ、とっ!」


 貴久が自らの足元に落ちた手紙二通を右の手のひらで押さえつけるようにして乱雑に掴んだ。

 続けて、左手でキアラの足元にある手紙も掴もうとしたが、こちらは先んじて彼女が手紙を拾っていたおかげで事なきを得る。

 亜紀は挙動不審な貴久のしゃがんだ後ろ姿を目を丸くしながら見ていて、


「お兄ちゃん、何しているの?」


 と、不思議そうに声をかけた。

 声に反応して貴久が立ち上がり、状態も確認しないで手紙を背後に忍ばせる。

 そうしておそるおそる振り返ると、


「えっと、亜紀、どうしたんだ?」


 引きつった笑みを浮かべて、尋ねた。

 先ほどある理由で亜紀を怒らせてしまった貴久であるが、今はそれよりも後ろの手に隠している手紙を見つけられやしないかと気が気でない。


「別に。……ハルトさんが来たみたいだから、挨拶しようかなって」


 少しぶっきらぼうに亜紀が答えた。

 どうやらまだ先のアクシデントを怒っているようだと、貴久が判断する。


「あ、ああ。もう行っちゃったけど、午後にまた沙月先輩と来るって言ってたな」

「そう……」


 と、そっけなく亜紀が言う。


(不味い。ハルトさんとの約束もあるけど、今、亜紀にこの手紙を見せるわけには……)


 緊張して手に汗を握り、後ろに隠した手紙をぎゅっと掴む。

 手紙の状態を確認するように指を動かすと、何かがボロッとはがれたような気がした。

 貴久のすぐ背後ではキアラが手紙に視線を送りながら顔を引きつらせ、アリスが「おおっ」と目をみはっている。


「そういえば何か拾っていたの? 地面にうずくまっていたけど」

「い、いや、そんなことはないよ」


 貴久がぎこちなく笑って誤魔化す。

 手紙を握る力がさらに強まった。


「そうなの? ……何か隠してない?」


 亜紀がいぶかしそうに貴久を見つめた。


「だから、そんなことはないって」


 貴久が上ずった声で否定し、後ろめたそうに視線を逸らした。

 全身に冷たい汗が流れる。

 すると亜紀は「あ……」と何かに気づいたような表情を浮かべた。


「さ、さっき見たことは忘れてよね」


 羞恥しゅうちで顔を赤くし、亜紀が貴久をジトッとにらんだ。


「さっき……? あ……」


 訊き返してから、すぐに貴久が気づく。

 そして、思い出してしまった。

 朝から国王との会談に向かうリリアーナを送り届けて、部屋へと戻ってきた時のことだ。

 リビングルームに美春達がいなかったため、貴久は美春と亜紀が寝ているベッドルームにノックをしないで入り込んでしまった。

 すると、そこでは部屋着から余所行きの服に着替えている最中の亜紀がいて、貴久は義妹のあられもない姿を目撃してしまったというわけである。


「も、もちろんだよ」


 ぶんぶんと貴久が勢いよく首を縦に振った。


「だ、だから忘れてって……」


 顔を真っ赤にし、亜紀の視線の鋭さが増す。


「あはは……」


 そんなことを言ってもきっかけを与えたのは亜紀の方なのだから、少しくらい思い出すのは不可抗力なのではないか。

 そう言いたかったが、貴久は引きつった笑いを浮かべるだけだった。

 根本的にはノックもせずに女性の寝室に入り込んだ自分が悪いのだから。


「そりゃあ私は人様に見せつけられるような立派な身体はしてないけどさ。もしあの場に美春お姉ちゃんもいたら、ちょっと弁護できなかったよ」


 ブラが必要ないくらいの胸しかない亜紀と違って、美春は小柄ながらもそれなりに女性らしい身体つきをしている。


「う……」


 貴久は思わず言葉に詰まった。


「まぁ美春お姉ちゃんは優しいから、許してくれるかもしれないけどさ」

「は、反省してます。ホントに」


 貴久がぺこぺこと頭を下げる。


「まぁ、いいけど……。それよりさ。ハルトさんのこと、今は美春お姉ちゃんも雅人もいないから言うけど」


 と、亜紀がおもむろに話を持ち出した。

 本当は貴久と二人きりになってこの話をするため、亜紀は雅人を外に行くよう仕向け、美春にその保護を押し付けたのだ。

 だというのに肝心の貴久のせいでだいぶ遠回りしてしまったような気がして、亜紀が盛大に溜息を吐く。


「あ、ああ」


 突然に変わった話題に、貴久が表情をこわばらせる。


「私ね。考えたんだけど、ハルトさんにも私達と一緒に来てもらえばいいんじゃないかなって思うの。そしたら美春お姉ちゃんも一緒に来てくれるだろうし」


 それは必然的と言うべきか、貴久が出した結論と同じものであった。


「ああ、俺もそう考えた。だから昨日言ったんだ。ハルトさんに」


 貴久がこくりと頷き、告げた。


「え、そうなの? いつ?」

「夜みんなが眠った後」

「そうなんだ……。ハルトさん何だって?」

「夜会が終わったら西の方で用事があるみたいなことを言ってた。亜紀は何か知らないか?」


 貴久が尋ねると、亜紀が思案顔を浮かべる。


「ううん。長い間ずっと同じ場所で暮らしていたし、どこかに用があるとは言ってなかったけど……。アマンドに用があるのかな?」


 亜紀がそう言うと、貴久は顔に疑問符を張りつけた。


「アマンド?」

「うん。私達がずっと暮らしていた都市だよ」

「ああ、そこか……。一応、その用が終わった後でもいいからセントステラ王国に来ないかって彼には言っておいた。ちゃんとした返答はまだもらっていないけど、感触は悪くないと思う」

「そっか。それならハルトさんがその用事を済ませている間は美春お姉ちゃんに私達と一緒に来てもらうよう説得できるかもね」


 亜紀の言葉に、貴久がきょとんと目を丸くする。


「ああ……そっか、そういうふうに説得もできるのか。すごいな、亜紀は……」


 自分は精神的な余裕の無さから視野が狭まって、そこまで発想が及ばなかった。


「少し考えればすぐに思いつくことじゃない。余裕なさすぎだよ、お兄ちゃん。今日の午後、ちゃんとその話をしなきゃだね。私が協力してあげるから」


 と、得意げに亜紀が言う。


「そうだな……」


 貴久が少し嬉しそうに頬を緩めた。


「それよりも、もしそうなったらその間にちゃんと美春お姉ちゃんの心を掴むんだよ。もう離しちゃだめだからね」

「は、離しちゃだめって……。な、何を言ってるんだよ。俺は、そんな……」


 貴久が顔を赤くして、話をにごそうとした。

 ひょっとしたら妹に自分の好きな人がバレているのではないかと気が気でない。

 そんな貴久の反応に、亜紀が大きく溜息を吐く。


「言っておくけど、お兄ちゃんが美春お姉ちゃんのことを好きって、私、知ってるからね。丸わかりだよ」

「え、な、なんで?」


 隠すことも忘れて、貴久が愕然がくぜんと尋ねた。

 ちなみに今の二人の会話は日本語で行われている。

 なので、すぐ傍で話を聞いているキアラとアリスは、神装による翻訳魔術が働いている貴久の言葉はともかく、亜紀が何を言っているのかはわからなかった。


「なんでって……。普段の態度を見ればバレバレだかんね。いつも美春お姉ちゃんと一緒にいようとする割には、妙に二人きりになるのを避けようとする節があるし、ちょっと二人きりになると気まずそうにしてたり、視線も合わせないようにしてるし」


 亜紀が呆れたように語る。

 全部、図星だった。

 シャイなのだ、要は。

 大好きなのに、相手を避けてしまう。

 二人きりになると、とたんにそっけない態度をとってしまうこともある。


「し……仕方ないだろ。普通の男ならそんなもんだよ」


 一瞬だけ面食らったものの、貴久が恥ずかしそうに言い捨てる。

 亜紀は小さく嘆息すると、


「気にならないの? ハルトさんと美春お姉ちゃんのこと。昨日の夜会でいなくなった時さ。何を話していたのか」


 じっと貴久を見つめて、そう問うた。


「それは……」


 そんなことは、貴久も強く思っている。

 昨晩、リオと美春が何を話していたのか、気になって仕方がないのだ。

 だが、けるはずもなかった。


「私はいてみたんだけど……」

「な、何だって?」


 亜紀の発言に意表を突かれ、貴久がぎょっとする。


「な、何を話したって?」

「別に大したことは話していないって。その前に私達が来ちゃったから……」

「そ、そうなんだ……」


 貴久が脱力するようにホッと息を吐いた。


「でも、あの二人、ちょっと怪しくない?」

「いや、ま、まぁ……、どうだろう……。ハルトさん、良い人みたいだからな」


 亜紀の質問に、貴久が余裕のない笑みを浮かべて答えをはぐらかす。

 そんな兄の態度に、亜紀が不満そうな表情を見せる。


「言っておくけど、ハルトさん、すごく良い人だよ。ちょっと不器用だけど優しいし、カッコいいし、頼りになるし、料理もできるし。それに……」


 貴久の不安心を煽ろうと、そこまで言って、亜紀が顔を曇らせた。

 ふと、脳裏にかつて兄だった春人の存在がチラついてしまったのだ。


「それに?」


 ごくりと唾を呑んで、貴久が尋ねる。

 亜紀は躊躇ためらいがちに、


「ううん。美春お姉ちゃん、好きな相手がいるかもしれないけど、その男のことを忘れて、もしかしたらハルトさんのことを好きになっちゃうかもしれないなって……」


 と、そう言った。

 すると、貴久が鈍器で頭を打ち付けられたような衝撃を受ける。


「好きな人……いるの? 美春に?」


 貴久が顔面蒼白になって尋ねた。


「いや、まぁ、うん。たぶんだけど……」


 忌々しそうに顔をしかめて、亜紀が頷く。


「そう、なんだ……」


 貴久はショックを受けて消沈してしまった。


「で、でも、その男はもう美春お姉ちゃんの前に現れることはないから。今はお兄ちゃんにもチャンスがあるんだよ!」


 亜紀が貴久を奮い立たせる。


「だからここで逃げるのだけは絶対にダメ! 確かにハルトさんには恩があるけど、あの二人の間にぐいぐい食い込んでいくくらいじゃないと。後で後悔しちゃうよ!」


 まくしたてるように語りかける亜紀。


「亜紀……」


 妹からの激励に、貴久が元気づけられたように声を震わせた。


「……そうだな。頑張ってみるよ。ちょっと自信がついた」

「うん、頑張って! お兄ちゃん!」


 言って、亜紀がぎゅっと拳を握る。


「ありがとう」


 貴久が亜紀に微笑む。

 すると、その時、


「タカヒサ様……そろそろ……」


 キアラが少し焦燥した声で告げた。

 その視線は貴久が後ろ手に隠した手紙に向けられている。


「え?」


 何か用事はあっただろうかと、貴久が疑問符を浮かべた。

 が、呑気に会話をしている場合ではないと、キアラから暗に視線で訴えかけられ、ようやく得心がいく。


「あ、ああ……そうですね。亜紀、ちょっと先に部屋に戻ってくれないか? 俺は用事があるんだ」


 どぎまぎした口調で貴久が語る。


「うん、わかったけど……。早く帰ってきてね?」

「も、もちろん」


 去り際にそんな会話をして、亜紀は部屋の中へと戻ったのだった。


「あのぉ、どうするんですか? それ」


 亜紀が部屋の中に入ると、アリスがいて、貴久の手に握られた手紙を指差した。


「う……」


 おそるおそる自分の手に握られた手紙を見て、貴久の顔が盛大に引きつる。

 二通ともぐしゃりと折れ曲がり、しわくちゃになって、封蝋ふうろうもバキっと割れていた。


「ど、どうしよう……」


 青ざめた顔で、貴久が救いを求めるようにキアラを見つめる。


「ど、どうしようって。可能な限り修復して、事情を説明したうえで、ミハル様達に渡すしかないんじゃないでしょうか? ハルト様にも謝罪なさらないと」


 動揺する貴久に、キアラが悩ましげに告げた。


「です、よね……」

「貸してください。これでは中の手紙もくしゃくしゃでしょう。封蝋ふうろうも役割を果たしていませんし、まずは一度取り出して、ちゃんと伸ばさないと。壁を使いましょう」


 本当は部屋の中に入って作業をしたいところだが、中には亜紀がいるし、部屋の前から離れて部屋の警備をおろそかにするわけにもいかない。

 キアラはやむを得ずこの場で作業を行うことを決めた。


「……お、お願いします。俺もやりますから」


 言って、貴久が封筒を一つキアラに手渡した。


「アリス、貴方はタカヒサ様を手伝いなさい」


 貴久から封筒を一つ受け取り、キアラが言う。


「はーい。貸してください。タカヒサ様」

「ありがとう」


 貴久が気まずそうな表情で亜紀宛ての封筒から手紙を取りだし、アリスに手渡した。

 案の定と言うべきか、中に入っていた手紙までしわくしゃになっている。


「破かないようにしてくださいね。決して読んではいけませんよ」


 自然とキアラが作業を指揮することになり、手紙を破かないように指示を出し、テキパキと行動が開始された。

 力を入れすぎず、丁寧な手つきで、しわくちゃになった封筒と手紙を伸ばしていく。

 アリス、貴久、キアラと三人で並んで、廊下の壁を利用して手紙のしわを伸ばす作業は傍から見ると少し滑稽だ。


(これは誰宛ての手紙なんだろうか)


 封筒に出来たしわを伸ばしながら、貴久がそんなことを思う。

 そこにはシュトラール地方の言葉で亜紀の名前が書かれていた。

 もっとも、会話はできても、シュトラール地方の言葉で読み書きできない貴久では、何が書かれているかは理解できないのだが。

 貴久の左隣では、アリスが亜紀宛ての封筒に入っていた手紙のしわを伸ばしていた。


「んー、全然解読できませんね、この文字」


 アリスが手紙のしわを伸ばしながらつぶやいた。


「こ、こら、アリス! 人様の手紙を盗み見るんじゃないって言ったでしょ!」


 美春宛ての封筒のしわを伸ばしていたキアラが慌てて喝を入れる。


「えー、だって視界に入っちゃうんですもん。それに何が書かれているかもわかりませんよぉ。どこの小国の民族文字ですか、これ? 共通語で書けばいいのに」


 ぶつくさと言いながら、アリスが手紙のしわを伸ばしていく。


「裏面にしてしわを伸ばすとかあるでしょうに……。この子は……」


 嘆かわしそうにキアラがぼやいた。

 シュトラール地方には共通語と呼ばれる言語が広く普及し、大半の国で公用語として用いられている。

 が、一部の国や地域では共通語以外の言語も発達を見せており、共通語とは別に公用語として定められている場合もある。

 書かれている文字は理解できないであろうが、左右にいる二人の会話につられて、貴久はついアリスが持つ手紙へと視線を向けてしまった。


「え……? 日本……語……」


 目に映った文字を目にして、貴久が戸惑いの声を漏らす。

 てっきりシュトラール地方の言葉で手紙が書かれているかと思ったが、そこに書かれている文字は確かに日本語だった。

 この世界に来てからは読んだり書いたりすることはなかったが、貴久にとってはよく見慣れた文字である。


「あれ? タカヒサ様、この字が読めるんですか?」

「え……、あ、いや、うん……」


 貴久が戸惑い顔で頷き返す。


(何でハルトさんが日本語で手紙を書いているんだ? 亜紀達から簡単に習ったとは言っていたけど、たった数ヶ月でこれほどの文章を……)


 その手紙にはパッと見で、日本語を数か月くらい軽く学んだ程度では到底書くことができそうにない文章が並んでいる。

 ちなみに、文法的にはシュトラール地方の言語と共通点の多い日本語であるが、語彙の複雑さや文字の多さから、習得難易度は間違いなく日本語の方が高い。

 無意識のうちに目に入ってしまった一文から察するに、アリスが手にしている手紙は亜紀に向けて書かれたものらしい。

 正直、気ならないと言えば嘘になる。

 つい誘惑に駆られて視線が文章を追ってしまいそうになるが、


(だ、駄目だ! 読んじゃいけない!)


 大きくかぶりを振って、貴久は手紙から視線を外そうとした。

 貴久のモラル意識が反対動機を形成したのだ。

 犯罪にはならないだろうが、他人のプライバシーを侵害するなんて駄目だ――と、そう思って。

 だが、久々に目にした日本語の文章があまりにも意外だったのか、貴久は無意識のうちに視線を動かしてしまった。

 伊達に貴久も地元で有数の進学校に進学したわけではなく、手紙に書かれた文の意味を瞬時に読み取ってしまう。

 そうして、つまみ食いするように視界に映った文章が、貴久の心を大きく揺さぶってしまった。


「え……?」


 貴久の顔が凍りついたように表情を失う。

 偶然に視界に入れてしまったのはほんのわずか。

 だが、驚愕で思考が鈍るほどに、読み取ってしまった文の内容は衝撃的だった。


「亜紀の……兄? 前世?」


 呆然とした眼差しで手紙を見下ろしながら、貴久がぽつりとつぶやく。

 手紙にはハルトこと天川春人なる人物が、亜紀の兄だったと書かれている。

 それだけなのだが、貴久にはまるでわからなかった。

 何かの読み間違いではないかと、じっと手紙を凝視ぎょうししてしまう。

 けど、そこに書かれていた文章は貴久が理解した通りのもので――。


「……ちょっと貸してくれるかな?」

「へ……? あ、はい」


 貴久に言われるがまま、アリスは呆気にとられた様子で手紙を渡してしまった。

 ごくりと唾を呑んで、貴久が手紙を読み始める。

 何故この世界の人間であるハルトが亜紀の兄なのか。

 意味がわからない。

 心拍数が増加し、脳内でアドレナリンが分泌されていく。

 それが劇薬げきやくとなって、他人の手紙を盗み見るという罪悪感すら薄めてしまう。

 貴久は無言のまま、食い入るように手紙を読みこんでいた。

 アリスは呆気にとられた様子で貴久を見つめており、キアラは貴久があまりにも堂々と手紙を読んでいたせいか気づくのが遅れてしまう。


「え? あ、タ、タカヒサ様! 何をなさっているんですか?」


 ようやく気づいたところで尋ねたが、貴久はせわしなく視線を動かしていた。

 時には驚きで目を見開き、一度ですべての事実を受け止めきれないのか、その意味を咀嚼そしゃくするように何度も何度も読み返している。


「タカヒサ様、いけません。おやめください」


 キアラが顔を青白くして注意する。

 だが、もう手遅れだった。

 貴久は既に手紙に書かれた内容を理解し終えている。

 今は少しずつ手紙に書かれた内容を受け入れ始めているのか、顔がだんだんとこわばり始めていた。


「なん、だよ……これ」


 そうつぶやいてから、貴久がキアラの足元にそっと置かれていた手紙に視線を移す。

 それは美春宛ての手紙だった。

 貴久がしゃがんでスッと手を伸ばす。

 気がつけば、身体が動いていた。

 好奇心という名の誘惑に突き動かされて。


「あ、だ、駄目です! タカヒサ様!」


 貴久の手を阻止しようとキアラも咄嗟にかがんだが、果たして一瞬の差で手紙を掴みとったのは貴久であった。


「き、貴族が封をした手紙を宛先人以外の者が勝手に開封することは犯罪なんですよ? ましてや中の手紙を読むなどと……」


 立場上、勇者である貴久に逆らうことはできないが、キアラがきっぱりと正論で説き伏せようとする。

 だが、既に手紙を読むことに集中しており、貴久は聞く耳を持たない。

 力強く手紙を握りしめているため、無理に取り返そうとすることもできなかった。


「か、返してください! 本当に犯罪になっちゃうんですよ!」


 周囲に視線を配りながら、キアラがあたふたと声を潜めて告げる。


「先輩、手遅れですよ。最初の一通はもう読んじゃっているんだし」


 事態の深刻さを理解していないのか、アリスの呑気な声がむなしく響いた。

 キアラは青ざめた表情で、引きつった笑みを浮かべて、


「もう、知りませんよ。どうなっても……」


 と、そう、つぶやいたのだった。


 ☆★☆★☆★


 綾瀬美春さんへ。


 昨晩は誠に身勝手で中途半端な告白をしてしまい、いたずらに美春さんを混乱させる結果になってしまったと、深く反省しております。

 本当に申し訳ありませんでした。


 勝手ついでで大変恐縮なのですが、これから昨晩伝えきれなかったことを伝えさせてください。

 ただ、おそらくですが、これから書く文面にはあまり面白くない話が含まれているはずです。

 本当は伝えるべき事柄ではないのかもしれません。

 伝えることで美春さんを困惑させてしまうだろうから。

 けど、それでも、伝えたい、伝えなければならない。

 だから、俺の自己満足にすぎないのかもしれないけれど、この手紙を書こうと決意しました。


 でも、もし途中で読むべきではないと判断したのなら、最後まで読む必要はありません。

 本当に自分勝手な話ですが、その時は、この手紙のことも、俺のことも忘れて、貴久さん達と一緒に暮らすなり、地球に帰る方法を探してください。

 できる限り協力をするつもりですが、今後は俺に関わらないでほしいのならば、意図的に美春さんに近づくことはしないと約束します。


 それでは、前置きが長くなってしまいましたが、これから順を追って書いていきます。


 まず、既に薄々とお気づきかもしれませんが、俺は前世で美春さんと会ったことがあります。

 前世の俺の名前は天川春人、貴方の幼馴染でした。

 幼い頃に俺が呼んでいたみーちゃんというあだ名を言えば信じてもらえるでしょうか?

 美春さんは俺のことをはるくんと呼んでくれていたと記憶しています。


 俺が天川春人として美春さんと一緒にいたことがある期間は人生で二度ありました。

 まず、小学校に入学したくらいまでの七年間、そして高校に入学した直後の本当に極僅かな時間です。

 もっとも、高校の頃は俺が一方的に美春さんのことを見かけただけなんですが。


 覚えているでしょうか? 

 俺の隣には美春さんがいて、美春さんの隣には俺がいる。そんな当たり前の日々が続いていたことを。

 だからなのか、俺は美春さんのことが大好きでした。どうしようもなく、馬鹿みたいに、貴方のことが好きでした。

 でも、そんな日々が続いたのは小学校に入学した直後までだった。

 俺は引っ越しをして、美春さんとは離れ離れになってしまって、以降は連絡がとれなくなってしまって。


 美春さんにとっては九年前のことでしょうか。

 俺達は別れ際にある約束を交わしたはずです。

 子どもの頃にした約束なんて、普通は成長するうちにどうでもよくなって忘れたり、諦めてしまうものなのかもしれません。

 ましてやそれを叶えようなんて、愚かなのかもしれないし、異常なのかもしれない。


 でも、美春さんとの約束は天川春人にとって拠りどころでした。

 貴方のことが好きだったから。

 美春さんの笑顔がもう一度見たかったから。

 美春さんとの思い出は俺にとってかけがえのない宝物だったから。


 当時の俺はまだ小学生で、具体的に何をどうすれば美春さんとまた会えるかなんて、遠い将来のことなんて、まったくわからなかった。

 けど、頑張れば会えると思ったんです。

 そして、何でもいいから頑張らないと、美春さんの存在がさらに遠くなってしまうような気がした。

 だから、俺は美春さんとの再会を願って、ただその一心で馬鹿みたいに色んなことに取り組みました。


 そうやって成長して、少しは頑張った苦労が報われたのか、俺は美春さんと一緒に暮らしていた街にある高校に進学することができました。

 美春さんも進学した高校です。

 そこで偶然に美春さんが同じ高校に進学したと知って、貴方の姿を見つけて、身体が震えてしまったことを今でも覚えています。


 けど、美春さんの隣で知らない少年が親しそうにしていて、とても情けないことに、天川春人だった俺は怖くなって逃げ出してしまった。

 もしかしたら美春さんは俺のことなんてとっくに忘れているんじゃないだろうかって。


 そうして俺が逃げている間に、美春さんは急に消えていなくなってしまいました。今だからわかることですが、この世界に転移したのでしょう。


 美春さんが失踪して以来、俺はずっと後悔したままでいました。

 貴方に自分の気持ちを伝えなかったことを。

 そうやって悔いながら生きて、死んで、この世界に生まれ変わりました。


 だから、ひどく驚いたけど、本当に嬉しかったです。

 とても過酷なこの世界で貴方に出会えたことが。

 もう二度と美春さんに会うことはないだろうと思っていたから。

 歓喜しそうなくらいに嬉しかった。


 なのに、俺はまた美春さんから逃げだしてしまった。

 気持ちを伝えないで後悔するのは嫌だ。

 そう思っていたはずなのに。

 怖くなってしまった。


 前世でも、今世でも、俺は臆病で、無気力で、そのくせ自分勝手で、意地汚くてみにくい人間です。

 時を重ねて、想いを重ねて、追い求めてきた淡い夢が砕け散って、それでも未練がましく砕けた夢や希望にすがって生きてきた。

 そのくせ希望が消えてしまうことが怖くて、迷って、勇気を出せなくて、ウジウジと悩んでばかりいる。


 俺は、天川春人は既に死んだ人間です。

 何が起きているのかは俺自身にも理解できていませんが、天川春人という人間は美春さんが日本で失踪した四年後に交通事故で死んだ。

 そして、死んだはずの天川春人はこの世界でリオという名の孤児に生まれ変わった。

 だから、今は事情があってハルトと名乗っていますが、この手紙を書いている俺は天川春人ではありません。

 肉体は別物だし、天川春人を構成していた記憶や人格も、混ざりものとして存在しているだけで。


 この世界に生まれ変わった時、俺は不思議なくらいに自分がリオであるという事実を受け入れていました。

 もちろん自分が天川春人だったという自覚もありますが、やはり今の俺が天川春人だとは思えない。

 いくら記憶や人格は残っていても、記憶を取り戻してからの九年間で、天川春人という人間はまったくの別人に変わってしまったから。


 今の俺は傷害とか、殺人とか、手を振るうことで相手の身体や生命を脅かすことがわかっていても、必要だから、たったそれだけの理由があれば、ためらいなく手を動かせてしまうようになってしまいました。

 考えることはリスクとリターンだけで、それらを秤にかけるだけで、倫理的な抵抗は度外視して物事を考える時があります。

 実際、そうして人を傷つけたり殺したりしたことがあるし、他にも日本人なら倫理的に忌避感を抱くであろう行為を行ったこともあります。

 復讐したいと思っている男もいます。

 おそらくその人物に会えば、俺は必要がなくとも相手を殺そうとするでしょう。

 その男のことが殺したいくらいに憎いから。

 そんな自分がみにくくて、どこか壊れているとわかっていても、変わろうとはまったく思えない。

 もう後戻りはできないし、俺自身がそんな自分を既に受け入れてしまっているから。


 だから、最後に見た時から何も変わっていなかった美春さんにこの世界で出会えた時、俺はどうしようもなく怖くなってしまいました。


 前世の俺は本当に天川春人だったんだろうか。

 その人格と記憶は誰かに与えられた偽物なんじゃないか。

 仮に俺の前世が天川春人だったとしても、今の自分は前世の自分とは別人なんじゃないのか。

 変わり果てた俺が貴方のことを好きでいる資格があるのか。

 死んだ人間が生きている人間のことを好きでいてもいいのか。


 要は自分という存在がよくわからなくなったんです。

 美春さんのことを好きだと思う気持ちは確かにある。

 でも、天川春人だった頃の俺はほとんど何も残っていないから。

 貴方への想い以外は、何もかも天川春人ではなくなっているから。

 肝心なその想いですら混ざりモノなんじゃないのかと、心のどこかで疑ってしまったから。

 怖くて仕方がなかった。

 事実を打ち明けることで、貴方に拒絶されてしまうんじゃないかと。

 美春さんが俺という人間を知れば嫌われるんじゃないかと。 

 そうやって恐れて、怯えて、流されるまま自分の気持ちも前世のことも隠して、俺は美春さん達と生活を送ることを選んでしまった。


 伝えたい、伝えなければ何も変わらない。それはわかっていました。そうしないと貴方がいつかまた俺の傍からいなくなってしまうことも。

 でも、仮初めの生活だとわかっていても、それが不謹慎だとわかっていても、俺は美春さん達との生活が幸せだった。

 想いを伝えたら、ようやく掴めた仮初めの幸せすら、すべて嘘みたいに消えてしまいそうで、すごく怖かった。


 結局、美春さんに自分の気持ちを伝えるのはこんなギリギリになってしまったけど、同じ過ちだけは二度もしたくありませんでした。

 貴方は地球に帰りたいと思っているかもしれない。

 他に好きな人がいるかもしれない。

 それでも、自分勝手でも、美春さんがまた俺の前から消えて、気持ちを伝えないで後悔することだけは、最初から諦めてしまうことだけは嫌だから。

 絶対に後悔することだけはもうわかっているから。

 また気持ちを伝えられずに美春さんがいなくなって後悔するなんて、もう一度あの気持ちを味わうなんて、絶対に嫌だった。

 それは美春さんに嫌われることよりもずっと怖いことだと思ったんです。


 だから、告白するなら、真っ先に美春さんに好きだという気持ちを伝えたかった。

 気持ちを伝えずに後悔しないよう、まずは美春さんに好きだと伝えたかった。


 それに、貴方と一緒に過ごした時間は短かったけれど、気づくこともできたんです。

 俺の気持ちが誰のものなのかは関係ない。

 天川春人だとか、リオだとか、そんなことは関係なく、俺は美春さんのことが好きなんだと。

 そんな簡単なことに気づくのに随分と時間がかかってしまったけれど。

 美春さんのおかげで、気づくことができました。

 なので、あらためて言わせてください。

 俺は美春さんが好きです。


 かつての約束はもう果たせなくなってしまったけれど、これから先も俺と一緒にいてくれないでしょうか?


 神聖暦千年、春の月、某日。

                          リオ/天川春人


 追伸 次に会えた時、美春さんに誕生日プレゼントを渡させてください。

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