第95話 倫理の狭間
夜会の会場となっているホールの中では優雅な舞曲が奏でられていた。
ダンスの広場では多くの男女がペアになって踊りを披露している。
その中にはリオと沙月以外にも、弘明とリーゼロッテ、ガルアーク王国の王族であるミシェルやシャルロットの姿もあった。
注目すべき人物が多いせいか、ダンスを見物している人の数はかなり多い。
リオと沙月はお互いの手を優しく重ね合わせ、息のかかる距離まで身を寄せていた。
「そういえばまだ沙月さんの意志をちゃんと確認していませんでしたね。貴方も美春さん達に会いたい。間違いありませんか?」
軽やかに、そして優雅にステップを踏みながら、リオが呟いた。
「……そうね。会えるものなら会いたいけど」
と、沙月が少し物憂げに答える。
「なら話は簡単です。そのための段取りを話し合いましょう」
そう語るリオの口調は気軽なものであった。
すると沙月が僅かに目を細める。
「随分と簡単に言ってくれるけど、今、私が置かれている立場をわかっているのよね?」
「ええ、勇者として王城に暮らしている。行動の自由は可能な限り尊重されるが、何かしようとすれば間違いなく監視がつく。こんなところですか?」
答えて、リオが小さく肩をすくめる。
「……その通りよ。なら、どんなプランがあるのか聞いてもいい?」
「そうですね。沙月さんが美春さん達に会いたいと言えば、国は間違いなく再会を許してくれそうなものですが……」
リオがそこまで言うと、沙月の顔に落胆の色が浮かんだ。
リオは優しく微笑むと、
「ですが、どうやら沙月さんはそれが嫌みたいですね? 実は俺も同じです。危惧しているのは美春さん達が政治的な取引材料にされることでしょうか?」
と、沙月の心を見透かしたかのように尋ねた。
その表情はどこか穏やかである。
「なるほどね。だから、こうしてキミが一人で私に接触を図ってきたということなのかしら? けど……、そこまで理解してくれているなら、私と美春ちゃん達が会うことの難しさもわかっているはずよね?」
沙月が警戒と戸惑いが半々で混ざり合った表情を浮かべる。
一瞬、リオが美春達を取引材料にして沙月に何らかの交渉を仕掛けてくるのではないかと思ったのだ。
仮に美春達をガルアーク王国で保護するとなれば、リオは勇者である沙月の友人を保護した恩人となる。
となればリオはその功績を自らの手柄にして出世することができるだろう。
リオの隠れた狙いは美春達を上手く利用して出世することなのではないか。
一瞬とはいえ沙月はそう勘繰ってしまったのだが、やはりリオも美春達を国の政争に巻き込むのは反対らしい。
状況証拠からして話の筋は通っているのだが、そのまま素直に信用してもいいのかどうかは別問題である。
沙月にはリオの考えをすべて読みとることなどできないし、話を鵜呑みにして騙されましたでは冗談にならないのだから。
しかし、それでも沙月から踏み込まなければ、美春達の情報を得られないのも事実であった。
「ええ、もちろんです。あまり時間もないので、簡潔に言います。正攻法で会うのを避けたいというのなら、残された手段は一つしかありません」
言って、リオは沙月の背中へと右手を回し、その細身を軽く引き寄せた。
そして耳元でささやく。
「国に隠れて密会しましょう」
沙月は目を見開いた。
リオの言葉が彼女の脳内に何度も響き渡る。
「密会って……。それこそ本気なの? 仮にも今、私が暮らしているのは王城よ? お城の中で生活を監視されているに等しいのに密会だなんて無理よ」
少しだけ語気を強めて沙月が反論する。
「別にお城の中で会わせようとは考えていませんよ。沙月さんには城を抜け出してもらおうと思っています」
「城を抜け出すって……どうやって?」
「そこは現在の沙月さんに対する監視体制次第ですかね。お尋ねしますが、沙月さんは睡眠時まで室内を監視されていますか?」
リオの質問に、沙月は思案顔を浮かべた。
「……あまり想像したくないけど、されてない……と思うわ。何度か眠れずに深夜まで起きていたこともあるけど、少なくとも就寝時以降に誰かが訪ねてくることはなかった。室内を盗み見ていることもないはずよ」
しばし逡巡して沙月が答える。
「なら狙い目は深夜ですね」
間髪を容れずにリオが告げた。
「そりゃ抜け出すなら深夜なんだろうけど……無茶よ。確かに、夜中なら寝ている姿まで監視はされてはいないだろうけど、それでも部屋の外には護衛がいるし、城の中にだって警備の兵士がうようよと巡回しているのよ?」
と、半ば反射で沙月が語る。
「もちろん。そんなことは百も承知ですよ」
沙月が語る危険性は当然リオも共有しているし、決して軽視しているわけでもない。
いかにリオといえども王城への侵入はそう簡単に決めて行いたいものではないのだ。
潜入時は周囲を警戒して神経を尖らせる必要がある。
また、人間の中にも魔力の感知がずば抜けて高い者もいることから、隠密用の精霊術を使おうにも周囲に漂う魔力の残滓で異変に気づかれるおそれだってある。
異変に気づかれれば間違いなく騒ぎになってしまうはずだ。
騒ぎになっても逃げ出すこと自体はさほど難しくないかもしれないが、代わりに以降は侵入して沙月に会うことがさらに困難になるだろう。
「ですが、そこら辺はなんとかします。虎穴に入らずんばというやつですね」
「な、なんとかって……」
沙月は頭を抱えたくなった。
こうもあっさりと言われてしまうと、それ以上の反対意見を述べる気も失せてしまう。
というよりも話の展開が急速かつ突拍子がなさすぎて、頭の処理速度が追いついていない。
「時間も押してますし、とりあえず沙月さんの部屋の位置だけ教えてもらってもよろしいでしょうか? 今夜、満月が南の空に浮かんだ頃に伺いますから」
投げかけられた質問に、沙月はマヒした思考回路で僅かに逡巡した。
リオの脳内にある侵入プラン、それに美春達のことについても尋ねたいことは色々とあるのだが、舞曲の演奏時間は刻一刻と終わりに近づいている。
残り時間で納得のいく答えをすべて問いただすことは無理だろう。
踊りを終えた後もリオとばかり長々と喋っているわけにもいかない。
そうすれば周囲からいらぬ不興を買うことになってしまうだろうから。
「……そこまで言うのなら、王城の東西南北に四つの
葛藤の末、沙月は自分の部屋の位置をリオに教えることにした。
どんな方法で侵入してくるのかは知らないが、美春達に関する情報を得る魅力には抗いがたい。
沙月はまだリオの素性すら知らない状態で、こんな短い時間では言葉以外に信じられるものは何もないが、ここまで話してみた限りで少なくともリオが理知的な人間であることは
リスクはあるがリターンと秤にかけて信用してもいいだろう。
だが、美春達の情報を入手することに気を取られ、いまいち計画の実現可能性も明確に見えてこないせいか、沙月は一つだけ見落としていた。
王城への侵入行為が判明すれば死罪にもなりうる重罪であることを。
つまりはリオが明確に法を破る行いを企てているということを。
それは平時における沙月の規範意識なら強い抵抗感を抱くものである。
だが、この時点では沙月が規範に直面して、反対動機を形成することはできなかった。
要は話の勢いに流されてしまったのである。
「話が早くて助かります。一応、断っておきますが、密会はそう何度も行える面会手段ではありません。あくまでも仮の処置です。再会したうえで今後どうしたいのかは話し合ってお互いの意志を確認してください」
「そうね。一緒にいるべきか、別々にいるべきか、答えを出さないといけないか……」
言って、沙月は小さく
「……はい。答えを出さないといけません」
リオがぼそりと呟く。
「え?」
声質の冷たさに沙月は思わず息を飲んで、ハッと顔を見上げた。
だが、何やらリオはやわらかく微笑んでいる。
あまり人間臭さが感じられない、感情を隠した聖職者のような笑み。
その笑みを見て、何だかこの人のことは信用はできそうだと思った。
しかし、何だかリオという人間のことはいまいち掴みきれない。
そんな得体の知れなさを、沙月は同時に感じた。
打算というものを一切感じられないからだろうか。
行動の背後に打算がある人間ならばこんなことは感じないはずだ。
拍子抜けというか、なんだかすごくちぐはぐな感じがする。
沙月は内心で小さく
「……まだキミのことを完全に信用したわけじゃないけど、お礼を言わせてちょうだい。ありがとう」
リオの瞳をじっと見つめて、お礼の言葉を口にした。
もしかしたらリオの心の内を覗き込んでみたくなったのかもしれない。
自分から歩み寄らなければ、相手の心を
「いえ、俺は自分のしたいことを行っているだけですから」
答えて、リオは困ったように微笑んだ。
「そう」
短く言うと、沙月はリオに身体を預けるように歩み寄って、左手をそっとリオの頬に添えた。
そうして少し楽しそうな笑みを浮かべると、さらに至近距離からリオの顔を覗き込む。
「おお!」
お手本のフォームとは異なるが、それは扇情的なのに美しい動作だった。
観客の視線が二人に釘付けになる。
くるくると、回転しながら、二人がリズミカルかつ優雅にステップを刻んでいく。
「何だか楽しそうですね」
リオが尋ねた。
先ほどまで張りつめていた沙月の雰囲気が少し変わった気がしたのだ。
「そうね。折角少しは気の知れた相手と踊っているんだから、この後うじゃうじゃとダンスを申し込まれないように、キミと情熱的なダンスを踊ってみようと思ったの」
と、沙月が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「俺は男除けですか?」
リオは苦笑した。
「そうよ。面倒でしょ、戻ってまたすぐにダンスを申し込まれるのも」
答えて、沙月はちょっと頬を赤らめると、リオから視線を外した。
何だかんだでこうして密着するのは少し恥ずかしいのかもしれない。
「沙月さんと踊りたいと思う人は大勢いるはずですよ」
「嫌よ。知らない人と踊るのってあまり好きじゃないの」
沙月が小さく溜息を吐いた。
「俺も知らない人ですよ」
「キミは……まぁ色々と私のことを驚かせてくれたしね。最初に握手した時だっていきなり頭の中で声が聞こえて驚いたし。何だかお騒がせな人って感じかしら。その埋め合わせはしてくれてもいいと思わない?」
そう言って、沙月が愉快そうな笑みを浮かべてリオを見る。
「それは手厳しいですね」
視線が重なり、二人がくすりと笑う。
それから間もなくして、舞曲の演奏が終了する。
見物人から最も称賛の拍手が送られたのは、弘明とリーゼロッテではなく、ミシェルとシャルロットでもなく、リオと沙月の二人であった。
それを面白くなさそうに見つめる人間も一部いたが、以降も夜会はつつがなく進行し、初日は終わりを迎えた。
☆★☆★☆★
夜会が終わると、リオはリーゼロッテと一緒に滞在先であるクレティア公爵邸へと戻る。
帰宅の際にはリーゼロッテが何かをリオに尋ねたそうにしていたが、リオはあえてそれを無視した。
リーゼロッテも無遠慮に話を聞き出すことはせず、就寝時間を迎える。
そうして深々と王都の夜が更けていく。
やがて満月が南の空に浮かんだ頃、クレティア公爵邸にいる大部分の人間が寝静まった頃合いを見計らい、リオは屋敷を抜け出すことにした。
クレティア公爵邸の警備は厳重である。
屋敷に侵入するにしても、屋敷を抜け出すにしても、最大の障壁はリーゼロッテの侍従であるアリア=ガヴァネスであった。
アリアが気配に敏感であるのは確認済みだ。
昨晩、屋敷を抜け出すための下見を兼ねて、リオは夜風にあたりながら修業をする
アリアは何やら感心したような目つきでリオが模擬剣を振るう様を眺めていた。
とはいえ流石のアリアも夜を徹して起きているというわけではないようであった。
リーゼロッテの身の回りの世話をするという仕事柄、アリアの就寝時間は割と早めである。
もとよりこの世界に生きる人間の就寝時間は現代社会に生きる日本人よりもかなり早い。
灯りの費用も馬鹿にならなかったり、朝早くから準備をしなければならない仕事が多いからだ。
閑話休題。
リオは黒装束を着込むと、夜闇に紛れて王城へと向かった。
月明かりが王城を照らし、城内の随所には薄っすらと魔道具の明かりが灯っている。
時刻はとっくに深夜に突入しているが、他国からの外賓も迎えて、現在、ガルアーク王国の王城には普段以上に厳重な警備が敷かれていた。
城内は静まり返っているが、分厚く高くそびえる堅牢な城門と城壁には多数の兵士が配置され、ネズミ一匹の侵入も許さぬように神経を尖らせている。
こんな状況で誰にも見つからずに部外者が城に忍び込むのは、常人でなくとも至難の業である。
だが、音も立てずに空を飛べるとなれば話は別だ。
夜間に空を飛行する魔物や生物を警戒して、兵士達は目と耳を研ぎ澄ませてはいるが、流石に羽音も立てずに暗闇に紛れた飛行物体を発見するのは困難である。
沙月の部屋は王城にそびえる高い尖塔の最上階であるという。
それゆえ、精霊術で空を飛べるリオにとって、忍び込むことはさほど難しいことではなかった。
☆★☆★☆★
沙月はワンピースの寝間着を身に着けて、体育座りでベッドの上に座り込み、南のバルコニーから
(……本当に来るのかな?)
リオは満月が南の空に浮かんだ頃合いに向かうと言っていた。
今はちょうど満月が南の空に浮かんでいる。
夜会が終わり、冷静に考えてみて、沙月はやはり侵入は無理なんじゃないかと思うようになったのだが、宣言通りならリオはいつ来てもおかしくはない。
(修学旅行で男女の部屋を行き来する生徒がいたけど、こんな気持ちだったのかしら? 何だか今ならその気持ちがちょっとわかるかも……)
沙月は口許に小さな笑みを
何故だか不思議と胸がドキドキと高鳴る。
隠れて何かいけないことをしているせいか、アドレナリンが放出しているのだろう。
高校では周囲から良い子ちゃんと言われていた彼女にとっては初めての経験であったが、沙月は自らの高揚感をそう理屈づけた。
(いけないこと、か。そうよね。忍び込むといってもバレたらかなり不味いわよね。下手すると死刑とかになるんじゃ……)
王族が暮らす城に無断で侵入しようというのだ。
挙句、勇者である沙月を連れ出そうとしている。
ひょっとしなくとも、ガルアーク王国の法に照らせばまぎれもない犯罪行為だろう。
日本ならば住居侵入は軽い罪だが、この世界で王族の暮らす城に侵入する行為が軽い罪とは決して思えない。
間違いなく重罪だろう。
最悪、死罪だってありえる。
ふと、沙月はそんなことを想像してしまった。
「っ……」
美春達の情報に意識を奪われていたり、話の現実味が薄いと思っていたせいで、感覚がマヒしていたが、沙月は冷や水を浴びせられたような気になってしまった。
(本当に来る……のかしら? 冗談? でもあれだけ自信満々だったし……)
沙月は先ほどまでとは明らかに異なる心臓の高鳴りを覚えた。
今まで彼女が法を犯したことはない。
日常生活では社長の娘として周囲の目を気にしながら生きろと教えられてきた。
高校では生徒会長として周囲の模範でなければと自分に言い聞かせてきた。
そうやって彼女は日本で育ち生きてきたのだ。
規範意識など人それぞれであろうが、沙月は法やルールを破るというタブーに対して、一般人よりも強い抵抗感を覚えずにはいられなかった。
ましてや死刑に値しうる禁忌となれば猶更である。
(塔の中には警備の兵士が何十人も巡回している。この部屋の外にも兵士が何人かいる。彼はどうやって来るつもりなの? 内通者がいる? でも深夜にフリーパスでこの部屋まで案内できる人間なんて……)
リオがこの部屋へとやって来る方法を模索する。
だが、常識的に考えて導き出される答えは一つしかなかった。
不可能だ、と。
塔の中を移動すれば必ず巡回している兵士の目につく。
部屋の前にいる兵士は正当な理由なしに部屋の中に人間を通すことはしないだろう。
深夜となればその正当な理由も大幅に限定されてくる。
(まさか塔の中にいる兵士を気絶させるわけないわよね? そんなことしたら後で大騒ぎになるし……。けど、他にどうやってこの部屋に入ってくる手段が……っ!)
そこまで考えて、沙月はハッとした表情を浮かべた。
そして窓が開きっぱなしになっている南のバルコニーを見やる。
(まさか塔の壁をよじ登るなんて真似はしないわよね?)
塔の高さは数十メートルもある。
よもや塔の壁をよじ登ってくることはないと信じたいのだが――、
(……結局、私はどうしたいのよ)
色々と頭の中がごっちゃになってきて、沙月は自分の心が何だかよくわからなくなってきた。
法を犯すのには抵抗がある。
だが、美春達には会いたい。
方法は二つ、自分が会いに行くか、美春達に来てもらうか。
仮に美春達をこの城に呼ぶにしても、事前にリスクについてきちんと話し合いたい。
呼べば美春達に迷惑をかけるかもしれないから、来るなら危険があることを承知で来てもらいたい。
そして、その危険があることは自分の口から伝えたかった。そうしないことは卑怯に思えてしまうから。
でも、どうやってその話し合いを行えばいいというのだ。
リオが提案した通りルールを破って美春達に会いに行くか、侵入できるというのなら手紙でも書いてリオに届けてもらうか。
「はぁ……」
答えが導き出せず、沙月が小さく嘆息する。
結局はリオに頼らざるを得ないのがもどかしい。
すると、その時、ふわりと何処からともなく南側のバルコニーに人影が現れた。
次の瞬間、ひゅるりと音を奏でて、ふわりと優しい風が室内に舞い込んでくる。
風は部屋の隅々まで撫でまわすように行き渡ると、循環してバルコニーへと戻っていった。
「……え?」
室内に舞い込んだ不可思議な風の動きに、沙月が困惑する。
月明かりに薄っすらと照らされてはいるが、真っ暗で人影の正体はわからない。
かろうじて黒っぽい服を着てフードを被っているのだけはわかった。
「失礼します。探知の……魔法を使いました。扉の外に警備の兵士はいるようですが、室内が監視されている様子はありません。迎えに上がりました」
すると室内に若い男性の小さな声が響いた。
声の主がスッと室内に入ってくる。
「……ハルト君、よね?」
沙月は身構えて、おそるおそる尋ねた。
「はい。そうです」
聞き覚えがある声だ。
沙月はホッと息を吐いた。
だが、すぐに胸の中で罪悪感が込み上がってきて、
「本当に……侵入してきたのね……」
沙月が少し苦々しい声で言った。
「ええ、言ったでしょう。なんとかするって」
そう答えるリオの声は落ち着いていた。
「そうだけど、一人でここまで忍び込んだの?」
「はい」
事も無げにリオが返事をする。
「……キミ、本当は他国のスパイとかじゃないわよね? こんな暗闇の中で壁をよじ登ってくるなんて、誰にもできる真似じゃないでしょう?」
沙月が訝しげな視線をリオに送る。
真っ暗闇の中で塔の壁をよじ登り数十メートル上の最上階にまで忍び込んでくるなど、常人に為せる業ではない。
それを可能とするのはそういった仕事を専門とする厳しい訓練を積んだ者だけなのではないか。
映画やドラマの見すぎなのかもしれないが、沙月はそんなことを思った。
「違いますよ。正真正銘、ただの一般人にすぎません」
リオが苦笑して首を左右に振る。
「いやいや、ただの一般人はそう簡単に王城に侵入なんてできないから……」
沙月は顔を引きつらせた。
「確かにそうかもしれませんね」
リオがフッと笑みを浮かべて同意する。
「…………」
沙月はリオの言葉に何も返さず、室内に数瞬の沈黙が降りた。
「……ねぇやっぱり止めない? もしこのことがバレれば君は死刑になるかもしれない。今なら引き返せるし、そんなリスクを冒すわけには……」
やがて沙月が気まずそうにそんなことを語り始める。
暗闇の中ではあったが、リオは何となく沙月から放たれる後ろめたい雰囲気を感じとった。
そして沙月がこの状況で何を思っているのかも薄々と察する。
「もしかして怖くなりましたか?」
と、リオは淡々とした口調で尋ねた。
「っ……」
図星を言い当てられ、沙月が思わず息を飲む。
「すみません。説明が不足していましたね。
俺が城へ侵入する行為は明らかに罰せられるべき行為ですし、勇者である沙月さんが城から抜け出す行為は……罰せられることはないでしょうが、道徳的にはルールに反する行いかもしれません。
別に挑発するつもりはありませんが、罪を犯してまで美春さん達に会うつもりがないのならば引き返してくださってもかまいませんよ。
貴方が望んで、美春さん達も望めば、彼女達を城に呼ぶことだってできますから。俺が急ぎ足であることは確かですし」
そう語って、リオが沙月が立っている方向をじっと見据える。
暗闇でお互いの顔すらくっきりと認識できないのに、沙月は何だかリオに心の底を見透かされたような気がしてならなかった。
「……キミは間違っていると思わないの? 罪を犯してまで美春ちゃん達に会うことが」
沙月がおそるおそる尋ねる。
心臓がどくんどくんと鼓動を鳴らしていた。
「間違い……ですか。よくわかりませんが、特にそのようなことは思いませんね。後になって悔いが生じないよう、必要に応じて最善の手段を選ぶ。もちろん自分の倫理観が警鐘を鳴らさない範囲での話ですが、それだけです」
リオの答えは実に淡白なものだった。
それは必要性さえ認められれば国が定めた法を犯すことも
事実、今のリオは実際にガルアーク王国の法を犯しているのだから。
これまでの会話で沙月はリオのことを理性的な人間だと受け止めていたのだが、そんなリオに対する印象が塗り替えられた瞬間であった。
「今の事態はキミの倫理観には抵触しないの?」
「していたらここに来ていませんよ」
平然と答えて、リオが苦笑いを浮かべる。
「キミは……そこまでわかっているのに……」
罪悪感に
自分の行いが違法であることを認識しながら、あえてそれを踏み越える。
これまで沙月はそんな真似をしようと思ったことはなかった。
「軽蔑しますか?」
と、リオが静かに尋ねる。
「っ……。そんな……こと……」
沙月は自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。
嘘だ。そんなことがある。
そう、沙月はリオのことを軽蔑しそうになってしまったのだ。
必要とはいえ、こうもあっさりと犯罪を行ってしまうリオのことを。
リオが自らの常識の外にいる人間にしか見えなかったから。
しかし、そのことをリオ自身に見透かされてしまい、沙月は何だか急に恥ずかしくなってしまった。
(今、彼がここにいるのはどうして? 美春ちゃん達のため、私のためでしょ。彼自身のためじゃない。なのに彼はここにいる……。選択肢を提示してくれた。なのに私は……)
本当に軽蔑するべきは自分だ。
無関係のリオにここまでお膳立てをしてもらった。
なのに、止める機会はあったのに、土壇場になって危機感を覚えて自己保身に走っている。
自分の事なのに、安全地帯からあれこれ考えるだけで、何も行動に移していない。
沙月はそんな自分がたまらなく恥ずかしかった。
「軽蔑すべきは私ね……」
ぼそっと呟いて、沙月は
だが、すぐに真面目な表情を浮かべ直すと、
「ごめんなさい。私を美春ちゃん達に会わせてください。お願いします」
深々とリオに頭を下げた。
まだ罪を犯すことは正しくないと感じている自分がいる。
それは確かだ。
だが、それ以上に美春達に会いたい。
そう思うことが間違いだとも思えなかった。
もちろんずっと密会を続けていくことは無理だろうし、問題を先延ばしにしているだけなのかもしれない。
でも、一先ずは何の気兼ねなしに美春達と会えるのだ。
これ以上に最高な再会があるのだろうか。
その機会を目の前にいる少年が用意してくれた。
ならば自分はこの少年に感謝しなければなるまい。
軽蔑するなどもっての他だ。
沙月はそう思った。
「……いいんですか?」
リオが少し意外そうに尋ねる。
「うん。だって美春ちゃん達に会いたいもの。会って話したい。キミはその場を用意してくれたんでしょう?」
「ええ、まぁ、そうなんですが……」
そう答えるリオの声は少し歯切れが悪い。
おそらく沙月の態度の変化に戸惑っているのだろう。
「私は美春ちゃん達に会いたい。その気持ちに嘘は吐けない。吐きたくない。後で悔いが残らないようにね」
そう語って、沙月は穏やかな笑みを浮かべた。
リオが僅かに目を見開く。
「悔いが残らないようにですか?」
「うん。キミの言葉だけどね」
「そうですか」
その理由は何故だかリオの心にシンプルに響いた。
「だからお願いします。今更手のひらを返すようで本当に申し訳ないのだけれど、私を美春ちゃん達のところに連れて行ってください」
と、沙月が
「わかりました」
少しだけ口元をほころばせて、リオは言った。
「けど、今更ですが、先ほど沙月さんが言ったように俺がスパイだって可能性もありますよ? それでも構わないんですね?」
尋ねて、リオは沙月を見据える。
すると、沙月はくすくすと笑いだして、
「何言っているのよ。スパイがそんなこと言うはずがないと思うんだけど?」
と、そう答えた。
「そういう作戦かもしれませんよ?」
「その時はその時よ。全力で抗わさせてもらうから」
答えて、沙月が小さく肩をすくめる。
リオは微笑を浮かべてそれに応えた。
「わかりました。なら行きましょう。美春さん達の場所へ」
「うん。お願いします。……でも、キミどうやって塔の壁を登ってきたの? 帰りも塔の壁を降るわけよね?」
と、沙月はリオがこの部屋までやって来た手段を尋ねる。
塔の高さを考えると、正直なところ壁を伝って降りるのはご遠慮願いたい。
だが、リオから返ってきた答えは沙月の予想に大きく反していた。
「登ってきたんじゃありませんよ」
「え?」
一瞬、言葉の意味が理解できず、沙月が首を
「降りてきたんです」
沙月の気のせいか、そう答えるリオの声は少し愉快そうに聞こえた。
☆★☆★☆★
バルコニーで沙月を抱えると、リオは夜の
二人の身体がふわりと浮きあがっていく。
(う、嘘? 何で飛んでるの? 浮力?)
重力の法則を完全に無視した現象に、沙月が目を疑う。
静かに、だが急速に、二人の身体は大空へ舞い上がった。
「うっわー! 嘘! すごい!」
見る見るうちに王城の姿が小さくなったところで、沙月が
遥か眼下の王城には小さな灯りの色がぽつぽつと見えるが、沙月の声など城に届きもしないだろう。
「すごい! すごい! ねぇ、すごいよ!」
沙月が歓声を上げる。
今まで彼女が見たことがないくらいに空が近かった。
上を仰げば無数の星がキラキラと浮かんでいて、下を見渡せば満月の光が優しく世界を照らしている。
それが無性に楽しくて、嬉しくて、仕方がなかった。
「ねぇ、見える? ほら! あそこ、星が綺麗、月が近い!」
沙月が無邪気に笑って、子供のようにリオの服を引っ張った。
「ええ、見えていますよ」
今までに何度も見た光景である。
リオは苦笑して答えた。
「ふふ、そうだよね。知ってるか。ふふふ」
沙月は実に楽しそうに笑っていた。
まるで今まで抑圧されていたストレスから解放されたように。
リオがそっと沙月の顔を覗き込む。
その表情はこれまでリオが見た彼女の中で最も純粋で無邪気なものだった。
夜会で大衆に見せていた気丈な彼女の面影はみじんも感じられない。
そう、リオの腕の中にいるのは見た目通り歳相応の、どこにでもいる普通の少女だった。
「ん? 何?」
自らに向けられた視線に気が付くと、沙月は嬉しそうにリオへと身を寄せて尋ねた。
「楽しそうですね」
リオが尋ねると、
「うん、楽しいよ!」
沙月は少しだけ気恥ずかしそうに、だが満面の笑みで答えた。
「けど、ちょっと寒いかな」
今のシュトラール地方は時期的に春を迎えているが、夜の肌寒さは日本と比べものにならない。
しかも上空ともなれば骨に凍みるような寒さが容赦なく襲い掛かる。
リオから借りた外套を上に羽織っているとはいえ、その下に着ているのはただの寝間着だ。
いくら興奮してアドレナリンが出ているとはいえ、沙月が寒いと感じるのも無理はなかった。
「合流地点までもう少しですから、ちょっとだけ我慢してください」
「ええー?」
と、沙月が少し
「仕方がないなぁ。じゃあ急行便でお願いね」
沙月はリオに寄り添った。
「暖かい」
そう、呟いて。
そんな彼女にとって夢のような時間はあっという間に終わりを迎えることになる。
「着きましたよ」
王都を抜け出した空域に進んだところで、おもむろにリオが到着を告げた。
「そうなの? ここ、森の中みたいだけど……」
沙月が地面に着地する際に周囲を見渡しながら、おずおずと言った。
ここら辺は王都の周辺に広がる穀倉地帯からさらに進んだ森の中にある開けた空間である。
こんな森の中に美春達がいるというのだろうか。
奇跡のようなフライトを終えて、沙月の頭が少しずつ頭が冷静になってきた。
(やっぱりこれって罠なんじゃ……)
不安に押されて、沙月がたらりと冷や汗を流す。
その時のことだ。
「沙月さん!」
沙月の名を呼ぶ声が響いた。
反射的に沙月がそちらへ視線を送る。
すると暗闇の中で複数の人影が近寄ってくるのが見えた。
聞き覚えのある声、懐かしい声。
暗闇の中だけど、沙月にはわかる。
そう、すぐ目の前に、美春、亜紀、雅人の三人がいるのが。
「みんな……」
沙月が感慨のこもった声を漏らした。
間違いない。
それはまぎれもなく沙月の友人達である。
そうして果たされる感動の再会のはずなのだが、何やら美春達が残り数歩というところで足を止めてしまった。
「ん? どうしたの?」
微妙な距離感の理由を尋ねて、沙月が首を
美春達はそれぞれ
何となく雅人はにやにやとしているのがわかるし、亜紀は気恥ずかしそうな笑みを浮かべているのが薄っすらと見える。
そして、美春は僅かに困惑したように、ぎこちない笑みを浮かべていた。
何かがおかしい。
そう思って、沙月は自分の姿を確認してみることにした。
「あ……」
そうして気がついた。
リオが沙月をお姫様抱っこしているという事実に。
安全に運ぶためにある程度密着するのはやむを得ないのだが、それにしたって二人の距離は妙に近かった。
それは沙月がリオに抱き着くような恰好をしているのが原因である。
「ねぇ、いつまで抱えているつもり?」
尋ねて、沙月はジト目でリオを見つめた。
「えっと、そうしたいのは山々なんですが、手を放してほしいなって……」
乾いた笑いを漏らしながら、リオが答える。
そこでようやく沙月は自分の方からリオに寄り添っていた事実に気づいた。
興奮していたせいか、無意識のうちに無防備になっていたようだ。
「っ……!」
沙月が慌ててリオの身体に回していた手を放す。
すると、リオはすぐに沙月を地面へと降ろした。
沙月がリオからサッと距離を取る。
この状況で何と開口すればいいものかわからず、少し微妙な沈黙が降りた。
やがて小さく咳払いをすると、
「えっと、やっほ。みんな元気だった?」
そう言って、沙月は誤魔化すような笑みを浮かべた。