1章 34話 記憶(他視点)
『こりゃ思った以上に深刻だったね』
「……そうですね」
シリルに言われファルネも自分の腕の中で寝てしまったリーゼを見つめる。
リーゼの心の闇は思っていた以上だった。
無力化しなければまた自分やファルネに人間は危害を加える。
そう思い込んでいるから怖くて排除したい。
それができないとあのように震えてしまう。
あのような状態で人間の暮らす場所に戻っても、日常生活が送れるわけがない。
……もし仮に、これから少しずつリーゼのその恐怖を取り除いてあげたとしても。
今度は人の優しさを知れば知るほど。
自分が人を殺した事に罪悪感を憶えてしまうだろう。
『私が止めてやるべきだった。
悪かったよ』
言ってシリルは俯いた。
あの時は、リーゼの虐待された記憶を覗いたせいで、人間が憎くてしかたがなかった。
よくよく考えればあとでリーゼが苦労するのはわかっていたはずなのに。
人間を殺す事をよしとしてしまった。
リーゼが聖女であるがゆえに、聖女なら時には聖樹を守るために人を殺す非情さを持たねばならないと思っていた。
もともとファラリナの件で人間に対する憎悪が人一倍だったのも強いだろう。
シリルはファラリナの聖女と交流があった。
ファラリナの聖女、聖獣クラウは人間に騙され人間達と戦い、自らの子どもーーリベルを守り死んでしまった。
リベルの母聖女クラウは息絶え、ファラリナは荒野化し、リベルはシリルに託されたのだ。
人間はリベルの故郷の仇でもある。
それ故、人間に対する恨みは他の聖女よりも強いだろう。
リーゼに今までの恨みをはらせと思っていた部分もあった。
だが結局殺したのは赤の他人で。
リーゼの力ならあそこまでする必要はなかっただろう。
殺さなくても容易に無力化することができたのだ。
そのことで後にリーゼ自身が苦しむことになるかもしれない。
冷静なふりをして冷静さを欠いていた。
リーゼのためといいつつ、リーゼの事など何も考えていなかったのだ。
すべて聖女と自分の獣の基準で考えてしまっていた。
「……シリル様。
聖樹……カルディアナ様は……人の記憶を消す事はできるのでしょうか?」
『……この子の記憶を奪うのかい?』
「以前、今まで生きてきた中で楽しかったことを聞いた事があります。
それが全部私との記憶なんです。
どこかに出かけたわけでもなく。
私が看病していた時の事が一番の幸せだったと。
シチューを食べた事。
温かいお風呂に入れたこと。
ゆっくり寝る事が出来たこと。
普通の家庭なら普通にしてもらえることが彼女にとって幸せな記憶で。
生きてきたほぼすべての記憶が……折檻の記憶なんです。
実の両親との思い出もほとんど失ってしまっている。
私に介抱された記憶だけの為に、彼女はこれからまだ辛い思いをしないといけないのでしょうか」
つい、涙がこぼれそうになりファルネは俯いた。
このままファルネにシリルやリベルとだけ暮らせていけるなら、倫理観など教えずに人と会わせなければ無邪気に生きていけるかもしれない。
けれど彼女は聖女で。カルディアナに戻らなければいけない。
戻らなければ人類が飢える。
実りが消えカルディアナの地が飢えれば、大勢の難民が生まれる。
新たな緑地を探してカルディアナの住人が他の聖樹の地を荒らすだろう。
それが例え聖樹の意思に反したとしても、餓死するくらいならと他の地に攻め込むのは想像がつく。
そしてその標的に最も適しているのが、人間も住んでおらず動物しかいない緑豊かな地エルディアの地なのだ。
カルディアナに近い為、まっ先に狙われる。
助けてくれたエルディアとシリルに迷惑をかけることになるだろう。
リーゼがそれを望むとは思えない。
カルディアナに戻る運命は変えられないだろう。
人と会わせれば恐怖で震え、それに慣れたとしても、今度は人を殺した事の罪悪感に蝕まれる。
どちらにしても苦しむのなら、いっそ記憶を全てなくしたほうが幸せだと思ってしまうのは傲慢なのだろうか。
『……あんたの言うとおりだよ。
リーゼはカルディアナに戻って記憶を消してもらうのが一番いいのかもね』
記憶がなくなり、一時は苦労するだろうが根は素直ないい子だ。
人に対する恐怖と憎しみさえなければすぐに人と打ち解けて、幸せな生活を送れるだろう。
虐待の記憶に苦しむこともない。
11年間、つらい人生を歩んでしまったが彼女は聖女だ。
普通の人間より若いまま長く生きられる。
今からそれを補っていけばいい。
「……では」
『ああ、カルディアナなら消すことも可能だ。
だが、カルディアナに戻るならやっておかなきゃいけない事がある』
「……シャーラ達ですね」
『ああ、あの子を返すにしてもあいつらを八つ裂きにしてからだ。
もちろんただですまさないよ。
やるなら徹底的にだ』
シリルの言葉にファルネは頷いた。
リーゼの幸せを願うならあの二人を排除しなければならない。
すべての元凶はあの二人なのだから。