12.下準備
あっという間に、サージェント辺境伯家当主のジェイムズ様と夫人のアリエル様が隣の領地へと出かける日がやってきた。
屋敷じゅうのものたちと総出でお見送りをする。
馬車の小窓から手を振る養母のアリエル様に、頭を下げると斜め後ろにいたフェリクス様のお付きのメイドが話しかけてきた。
「チェルシー様は本日、お出かけになられますか?」
わたしはその言葉にコクリと頷いた。
そのときのメイドのニヤッとした笑みは背筋が凍るようなものだった。
「いいな……ぼくも出かけたい」
真横に立っていたフェリクス様がそうつぶやくとメイドが大げさに首を横に振った。
「フェリクス様は本日、剣術の稽古がございます」
「姉上だけ出掛けるなんてずるい!」
フェリクス様はそういうと屋敷の中へと走っていった。
メイドはその場で大きなため息をつくとあとを追っていった。
初めて姉上って呼ばれてくすぐったい気持ちが湧いたけど、すぐに気を引き締めて部屋へと戻った。
部屋ではメイドたちが待ち構えていた。
数日前にこっそりと出かけることを伝えてあったので、すぐに出かける準備が始まった。
上質なクリーム色のワンピースに着替え、その上からワンピースがすっぽりと隠れる深い緑色のケープを羽織る。
髪はゆるく一つ結びにしてもらった。
鏡に映る自分の姿を確認すると、わたしはメイドたちにお礼を言い、子猫姿のエレを抱えてグレン様の部屋へと向かった。
グレン様の部屋へと入ると、護衛たちがメイドを追い出して部屋の扉を閉めた。
この護衛たちは王都から一緒にきた第一騎士団の人たちなのでとても信用ができる。
グレン様はわたしの格好を見るとうんうんと頷いた。
「お忍びっぽい格好だね」
この日、着ていく服装はジェイムズ様とグレン様とわたしの三人で決めたものだった。
フェリクス様のお付きのメイドに、こっそりと街へ行くのだと思い込ませつつ、王都を訪れてもおかしくない格好となると、羽織るものでごまかすしかないだろうということになった。
わたしはグレン様の言葉に小さく微笑みを返した。
「それじゃ、さっそく始めようか」
グレン様がそう言うと、子猫姿のエレがわたしの腕の中から飛び降りて、地面に着地する前に精霊姿へと変わった。
見たこともないほどキレイな顔をして、薄い布をまとっただけの半透明な男の人の姿は、見慣れないのでなんだか目がチカチカする。
初めて子猫姿から精霊姿へと変わったのを見た護衛たちは、目を見開いて驚いていた。
精霊姿のエレは、護衛たちに不敵な笑みを見せたあと、わたしを抱え上げ、そしてくるっと指先を一周させた。
すると、徐々にわたしと精霊姿のエレの体が透けて見えなくなっていく。
この数日、何度か試しにかけてもらったけど、これは目くらましの魔法で、他の人には見えなくなるもの。
声を発することでもとの見える姿に戻る。
「いってきます」
わたしは見えなくなる直前にグレン様にそう声を掛けた。
これ以後は、王都の王立研究所へ到着するまで声を発することはできない。
グレン様は何度か驚いたように目をパチパチとさせると嬉しそうに笑い、力強く頷いた。
そして、聞き取れないほど小さな声で何かをつぶやいた。
すべての窓や扉が閉まっている部屋の中、わたしの真横に小さな風が吹くとわたしそっくりな幻が生み出されていた。
それはグレン様のスキルによって生み出された幻で、グレン様の思い通りに動くそうだ。
これもエレの目くらましの魔法と同じように、この数日、何度か試しに見せてもらった。
わたしそっくりに動くか確認するため、わたしと幻とでジェイムズ様の執務室をウロウロして微妙な顔をされたのは一昨日のことだった……。
幻のわたしは一度、グレン様のそばまで行くとコクリと頷き、無表情のまま扉を開け、外へと出て行く。
その後ろを護衛の一人がついていった。
メイドたちも幻のわたしについていったようだ。
それを確認したあと、精霊姿のエレに抱えられながら部屋を出た。
普段とは逆だな……と思いつつそのままでいると、すぐに屋敷に植えてある精霊樹の前についた。
空間跳躍を使って、王都の王立研究所の前へと出ると、自然と肩に入っていた力が抜けた。
これから、グレン様と護衛たち、いろいろな人の力で邪教を追い詰めるらしい。
わたしは今回は何もできないから、王都で無事であることを祈ることにしよう。
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チェルシーがエレの魔法によって、姿が見えなくなった。
見えなくなる直前につぶやかれた言葉が意外だったため、素の表情が出てしまった。
『いってきます』
その次に聞ける言葉は、『ただいま』だ。
俺のもとに帰ってくるんだ、と錯覚してしまった。
サージェント辺境伯家に帰ってくるという意味で使ったんだと頭では理解しているけど、感情は別物らしい。
俺は大きく深呼吸をして、気を引き締めた。
部屋の窓からチェルシーそっくりな幻影が馬車に乗り込んだのを確認した。
その直後、フェリクス付きのメイドが御者に何やら耳打ちをしている。
こちらからだと御者の表情はわからないが、メイドがニヤッと笑ったのは見えた。
やっと、あのメイドを捕まえることができる。
「さあ、ここからは狩りの時間だな」
俺は部屋に残っていた護衛たちにそう声を掛けると黒い笑みを浮かべた。