◇
体が目当てなんだろう、などとなじるつもりは毛頭ない。
あわよくば、という気持ちがまったくなかったとは言えないし、会えば『それ』ばかりというわけでもなかった。
店に置く商品のデザインを一緒に考えたり、家具につける装飾の一部を試しに作らせてもらったりもしている。
主とシモベではなく、趣味の共有もできる親密な関係は楽しかった。
ただ、いつも『それ』が先なのが少し引っかかっていただけだ。
(……っ)
鎖骨の上を、するりとデミウルゴスの指先がすべる。
羽をかすめるようなくすぐったさに首をすくめたくなるが、レイスの体はぴくりとも動かなかった。
体を動かせないのは、デミウルゴスの呪言のせいだ。
今日は「無し」でもいいんじゃないかと言いかけたとたん、にっこり笑って仕掛けられてしまった。
LV30の状態では抵抗のしようもない。
第七階層で不覚にも呪言をくらってしまったとき、細工物の材料にするつもりなんじゃないかとヒヤリとした。実際、赤熱神殿の作業部屋には人骨が大量に保管されている。
さすがに今はそんな心配などしなくなっているのだが──
椅子に座らされたまま、上半身の骨格のほとんどがデミウルゴスの目にさらされている。
まともに視線を合わせることもできず、レイスはかろうじて自由になる視覚を閉ざした。
肋骨の曲線を唇がたどる。
呼吸などしていないはずなのに、息があがるような気がした。
否、聞こえてくるのはデミウルゴスの呼吸だ。
荒い呼吸を押し殺しているような、途切れ途切れのかすれた吐息に、ないはずの心臓が跳ねる。デミウルゴスの硬い髪が胸元をくすぐった。
つい視覚を開いてしまう。見上げてきたデミウルゴスの表情には余裕がない。
慌ててまた視覚を閉ざしたが、それはしばらく心に焼き付いて離れなかった。
(こいつの性癖はよくわからんな)
どきどきしている自分を誤魔化すように、そんなことを考える。
視覚を閉ざしていると体中を這い回る指先や舌の感触がより鮮明になるようで、何も見えていないのにくらくらした。
「もう自由にしていいですよ」
言葉とともに、ふっと全身が軽くなる。
今日も上半身だけで終わった行為。自分がほっとしているのか物足りないと感じているのかもレイスにはよくわからなかった。
ただ、デミウルゴスのほうはこれでいいんだろうか、とふと思う。
上目遣いに見上げれば、微笑みとともに軽いキスが下りてきた。
額の辺りでリップ音が響く。
「あの……」
これで満足できてるんですか? という問いは気恥ずかしさで口にできなかった。
脱がされた時と同様に、丁寧な仕草で服を着せかけられる。
身を離し、眼鏡のブリッジを指先で軽く持ち上げる仕草が照れ隠しのように見えた。
◇
ナザリック地下大墳墓・第9階層。
磨きぬかれて黒光りする廊下に、きびきびとした足音が響く。
軽い緊張感と誇らしさをたたえた表情で歩くデミウルゴスは、自分の背後から追ってくる気配にふと気づいた。
「デミウルゴス様」
声をかけてきたのはセバスだ。デミウルゴスは足を止めて彼をふり返った。
「なんだい? 君から声をかけてくるなんて珍しいね」
「…………」
眉間にしわを寄せながら、セバスは探るようにデミウルゴスを見ている。
デミウルゴスが重ねて用件を尋ねようとした瞬間、ひゅっ、と空気が鳴った。
空を切ったセバスの蹴りが、音をたてて壁に穴をあける。
咄嗟に身を躱し、飛びずさって距離をとったデミウルゴスがセバスを睨みつける。その頬には一すじの切り傷ができていた。
「一体なんのつもりかな、これは」
デミウルゴスの全身から、殺気が膨れ上がる。
LVの低い者ならそれにあてられて心臓が止まりそうなほどだが、セバスはまったく動じていない。
「失礼いたしました。少しあなた様の気が衰えているように見受けられましたので」
頭を下げるセバスに、デミウルゴスが舌打ちした。
「ここのところ、万全の状態でないのでは?」
「余計なお世話というものだ。私が任務に支障をきたすような愚か者に見えるかい?」
「……重ね重ね、失礼を。ですが──」
「君に心配をされるようないわれはないよ」
「…………」
睨み合うように視線を合わせたのは、ほんの数秒。
やれやれと肩をすくめたデミウルゴスは、セバスにくるりと背を向けた。
「ここは後で直させておくように」
こんこん、と立ち去り際に壁の穴を叩いてそう告げる。
セバスの気配はその場にとどまったままで、彼がまだ自分の姿をじっと見送っているのだということがデミウルゴスにはよくわかった。
きっと、さっきのように疑いをこめた眼差しをしているのだろう。
(厄介な男だよ、まったく)
普段通りを装って歩きながら、デミウルゴスは心中でそうつぶやいていた。
◇
(ああ……)
浴槽の端に体を沈め、あたたかな感触を楽しむようにアインズは視界を閉ざした。
表情筋はないけれど、頬がゆるむような気分だ。
転移してきてからの数十年と比べれば、忙しさは随分とましになっている。
シモベたちの前でぼろを出すまいといつも気負っているのは変わらないが、立ち居振る舞いに慣れたぶんだけ精神的な疲労も軽減されていた。
だがそれでも飲食や睡眠という楽しみがないぶん、やはり風呂は天国だった。
(次はいつ、デミウルゴスのところに行こう?)
思う存分浮わついた感覚にひたれるのも風呂のいいところだ。
不定期営業だったはずの店を、デミウルゴスは最近毎週開けているらしい。自分を待っていてくれるためかと思えば心が躍った。
しかし、だからといって毎週行くというのもどうなんだろうか、とは思う。
実際は隔週程度の訪問だ。
レイスとして会っている時にも、デミウルゴスからは毎週開けているという話を聞かされているので、レイスが毎週会いに行っても不審に思われることはない。
心配していたステータス異常も特に現れていないのだが……
(あんまりがっつくのもなあ)
浴槽のへりに腕をかけ、それを枕にアインズは床のタイルを眺めた。
湯気にかすむタイルの面に、ぼんやりとデミウルゴスの影が浮かぶような錯覚。
思い起されるのは何気ない会話や、考えごとをするときの癖。
他愛もないようなことばかりだが、主とシモベではない、遠慮のないやりとりを反芻するのは幸せだった。
愛されたい、という気持ちはあった。
だが
しかしこのごろは、このままでいいんだろうかと感じたりもする。
Change Avatar00を使用した作戦は予想外の結果をもたらし、アインズは求めていた状況を手に入れた。
だけど、デミウルゴスのほうはどうなんだろうか? と心配になるのだ。
先へ進むことに抵抗があるわけではない。もっと求めてこられても全然かまわないのだけれど、自分から言い出せるほど自信があるわけでもない……
(いやいやいやいや、何考えてるんだ)
あいつがそれでいいなら、気にしなくても、と考えなおした。
騙しているようで気が引ける、などという殊勝な感覚など最初からあまりない。
デミウルゴスは忠実なシモベとして作られたNPCだったのだから。主従以外の関係を求めるなら、手を変えなくてはいけないのは自分のほうだとわかっている。
なのに、心のどこかがすっきりしなかった。
浴槽から出れば、呼ばなくても三吉君が這ってくる。
丁寧に体を洗い始めたサファイア・スライムの蒼を視界の隅にとらえながら、アインズは無意識に記憶をたどっていた。
デミウルゴスの指先の感触……羽をかすめるようなもどかしい愛撫と、熱く湿った舌の感触が、少しずつ下へおりて──
「ひょえあっ⁉」
ざらついた感触に、思わず素っ頓狂な叫びが出た。
いつもと違う三吉君の動きに驚いて見下ろせば、蒼い粘体は体の一部を触手のように伸ばして、ここ、ここ、と訴えるようにモモンガ玉を指していた。
「え……?」
──傷が、ある。
それは本当に細い、人間の爪でちょっと引っ掻いた程度のもののようにも見えた。
だが、れっきとした亀裂だ。
ざわり、と悪寒がアインズの背骨を這いあがる。すでに一体化してしまっている
三吉君が心配そうに、ぷるぷると体を揺らしている。
「い、いや、この程度のものなど問題はない。気にするな」
アインズがそう言ったのは、三吉君に向けてだけだっただろうか。
慌てたように立ち上がり、浴室の外へ向かいながらアインズはおっかなびっくり自分の状態を確かめる。
数値化するなら1パーセント程度、最大魔力が低下していた。
(なんで今さら……。いや、でも落ち着け。たかが1%程度じゃないか)
脱衣所でメイドたちにバスローブを着せかけられながら、アインズは繰り返し同じことばかりを自分に言い聞かせていた。
「アインズ様」
脱衣所にまでやって来たセバスが声をかけても、ほとんど反応を示さない。
これまで、Change Avatar00によるステータス異常はまったく起こらなかったが、これはどういうことなのかと焦っていた。
(だけどなんで3%じゃなく1%なんだ?)
わからないことが不安をあおる。
鑑定魔法で得た情報に、間違いがあったとは思えない。なら自分は何を見落としたのか、と思う。
(あれは平均ってことで、低下する量はランダムだとか?)
そうであればこれまで無事だったぶん、ある日突然にごっそり低下するなどという可能性もあり得た。3%と思っていたものが、10%20%になったりしたら?
「おくつろぎのところ申し訳ございません。実は急遽──」
セバスの声が、どこか遠くで聞こえている。
(魔力最大値を上げるアイテム……)
そういうものも、この異世界にあるにはあった。
だがレアなものでもせいぜい0.2%程度の回復しか見込めないのでは? と思う。そもそもの魔力量が桁違いなのだから。
しかもナザリックに納められたそれらは経口制のいわゆる『食品』で、飲食不要のアインズには効果の見込めないものだ。
「しばしナザリックを留守にする許可をいただけないでしょうか」
「あ、ああ。わかった、許可する」
「ありがとうございます」
セバスが踵を返したところで、一瞬アインズの意識は引き戻された。
(ん…? セバスはどこに行くんだ?)
不安に埋もれて聞き漏らしていた。
だがそんなことは後でメイドにでも尋ねれば済むことだった。
アインズの意識はすぐにまた、目の前の大問題に引きずられてしまう。
自分はあと何回、レイスとしてデミウルゴスに会えるのだろうか──と。