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真鍮製の香炉は、デミウルゴスの作品なのだという。
レイスはシンプルなソファに掛けたまま、慣れた手つきで香を焚く彼の立ち姿を不思議な気持ちで見つめていた。
かすかな甘さを含んだ花の香りが、ゆっくりと香炉からたちのぼる。
「お嫌いでなければいいのですが……いかがです?」
ブランデーグラスを持つようにして、デミウルゴスが香炉を差し出した。
近づけてもくどい感じがしない、上品でどこかエキゾチックな香りは心地がいい。
「……いい香りです」
「それはよかった。用意した甲斐があるというものです」
穏やかな微笑みを向けられてどきどきする。
香炉をテーブルに置いた彼は、覆いかぶさるようにレイスの左右に手をついた。
熱の籠ったようなまなざしと、意味深な沈黙。辺りに満ちる甘い香りとあいまって眩暈がしそうだ。もとより呼吸などしていないのに、息苦しい。
「あの……何も聞かないんですか?」
「何を?」
「その、私があなたのご主人の城にどうやって入ったのか、とか」
「迷い込んだのではなかったのですか? 何が起きたかも貴女には理解できず、そもそもあの場が地下迷宮であるとすら思っていなかった」
「その通りなんですけど……。どこかほかの国からのスパイかもしれないとか、疑わないんですか?」
「おや、では私がそうなのかと尋ねれば教えてくれるんですか?」
笑い含みに指摘されて、レイスは言葉を失う。
確かに、自分がスパイなら聞かれて答えるような真似はしないだろう。
しかし目の前の状況があまりにも出来すぎていて、心のどこかが現実を否定しようとする。デミウルゴスには何か狙いがあるんじゃないかと考えるほうが自然に思えた。
うつむきかけた頬に、デミウルゴスが触れてくる。
視線を上げれば、真剣なまなざしとかち合った。
「聞いてしまうと……私は貴女を罪人として処断しなければならなくなります」
(──……‼)
「それは望むところではありませんので」
生身ならきっと、顔が真っ赤になっている。
ナザリック第9階層にある自室で、レイスは性懲りもなくじたばたと悶え、沈静化によって大人しくなり、の繰り返しだった。
何度めかの沈静化のあと、不意に起き上がる。
着ているローブの前を引っ張り、肋骨の並んだ自分の胸部をしげしげと見下ろした。
女性体だとはいっても、そこは骨である。貧乳も巨乳もあったものではない。
腹部に埋めた
(でも、『とても魅力的』だなんて……)
のぼせかけた頭を振って、脇に置いてあったChange Avatar00を取り上げる。
いくら自室にいるとはいえ、いつまでもこの姿でいるのはさすがにマズいだろう、と。
アインズに戻り、鏡に自分の姿を映せば冷静になっていく気がした。
支配者としての立場を意識すると、自然、心に引っかかってくるものがある。
デミウルゴスにとって、レイスはナザリックに侵入した不心得者だ。
第七階層で捕まった時に言っていたように、本来なら即刻排除が当たり前のはずだった。
それが何故、と考えてしまう。
(まあ、セバスの時のことだってあるからな)
あいつに限って、忠誠心を忘れるようなことはないだろう、と思い直した。
セバスが自分の命令に従ってツアレを殺そうとしたように、デミウルゴスも『アインズ』に命じられればきっと同じことをするはずだ。
(今回はそんなことになりようもないけど)
アインズ・ウール・ゴウンは唯一にして絶対の支配者。
守護者をはじめとするナザリックのシモベたちは、ひとたび命令が下されれば、自分の気持ちがどうであれ必ず従う。
……従ってしまう。
(だから、これでいいんだ)
何回か通って、少しだけ楽しんで──
デミウルゴスが飽きるまでの間だけだ。その後はまた、何事もなかったかのように元に戻ればいい、と。
アインズは言い訳のようにそう考えていた。