カンボジアに行ったのは6年前の平成18年のこと。
翌年の平成19年の年賀状に下の写真のように、以下のような文章を書いて知人に送っていた。
「昨年四月にお仕事でカンボジアのプノンペンに行きました。
アンコールワットにも行きました。 国道沿いに和食のレストランがあったので寄って見ました。 年配の女性が経営するお店でした。 長い間マレーシアの日本食レストランで働き数年前に決意してアンコールワットのあるシェムリアプという街に自分のお店を開いたそうです。聞くとは無しに日本には二十代後半の孫がいるけれど六十才代では無いと話しくれた。ということは七十才代。グローバルな「がばい婆さん」がいたもんだ」
昨日(2012年2月17日)、東京テレビで「世界の秘境!日本の食堂」という番組があり、カンボジアの日本食堂が出てくるとあったので、もしかしてと思い、録画しておいた。先ほど、録画を見たら、案の定この婆さんのお店だった。今年で77歳になると言う。私がお店を訪れたときは6年前だから、71歳の頃だった。あの婆さんは70歳になっているという推測は正しかった。
「米咲(マイサ)」という日本食堂をアンコールワットの近くの村で経営するその婆さんは、津野朱美さんと言い、テレビによると若い頃はタカラジェンヌだったそうだ。いや、驚いたな、若い頃はタカラジェンヌだったのか。婆さんと話したときは、四谷あたりで料亭を任されていて、その後マレーシアにも出店することになり、そこを切り盛りしていたとカンボジアのお店では話してくれた。でも、テレビではマレーシアのことは出てこなかった。
米咲のお店で食事をしていた時に、二人の若い日本人女性が入ってきた。婆さんは、その方たちとしばらく親しそうに話していた。食べ終わってあの方たちはこちらに住んでいるのかと聞くと、日本から来ている看護の研修生だといっていた。こんなところに研修なんてくるのであれば、日本のODA(政府援助)か何かできているのかと思っていたのだけど、ちょくちょくお店に来るので親しくなったのかなと思っていた。
今日の録画を見たら、婆さんがお店を始めたきっかけは、医療環境が進んで無いカンボジアの子供を救おうと言うことからのようで、近くの小児病院に売り上げを寄付していて、その病院の顔でもあった。そんな関係であの看護研修生とも親しくなっていたのだろう。テレビを見て、点が線でつながった。それにしても、殊勝な心がけな人だ。そもそも、70近くになってから見知らぬ外国、しかもカンボジアのようなところで一人でお店を始めようなんて気にならないだろうに。カンボジア人は、概して優しい感じの人が多いから、国にほれ込んでしまったのだろうか。
77歳になる現在でも、月2回、一人でバンコクまで往復15時間半をかけて、日本の食材の買出しに行っている。カンボジアで日本食堂をやり始めたのも、60歳代後半からだ。すごい決断だ。
覚えているだろうか、昨年の同窓会の案内にこんな文章があったのを。あ、そう言えば幼馴染のさっちゃんが素敵な文章だと褒めていてくれた。さっちゃんにも会いたいな。
さて、こんな文章だ。
(引用)
「あのマッカーサー元帥は「青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。・・(中略)・・ 年を重ねただけで人は老いない。 理想を失う時に初めて老いがくる。」というウルマンの詩を座右の銘としていました。
夢をもち、勇気と冒険心をもち、目を輝かせ、子供のような好奇心をもち、胸をときめかせ、挑戦する喜びをもっていれば、いつでも青春です。
(引用終わり)
夢をもち、勇気と冒険心をもち、挑戦する喜びを持った「米咲」の婆さんはまるでこれを実践しているかのようだ。だから、今も青春をエンジョイする若者と同じようにエネルギッシュだった。テレビを見ていたら、婆さんに元気をもらいに、また、カンボジアへ行ってみたくなった。皆さんも、アンコールワットを見に行く機会があったら、アンコールワット近くには日本料理店がわんさかあるけど、「米咲」へ行って、オウナーの津野さんと話してみると良い。小さなことで頭を悩ましているなんてばかばかしくなってくると思うよ。
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