センスデータは
クオリアではない
ご著書では、仮に人間と同じ脳をAIで再現できたとしても、そこに主観や意識は生まれない。人間には青いものを主観的に青いと感じたり、針で刺されたら痛いと感じたりする「クオリア」があり、AIには、このクオリアがないと書かれています。
クオリアについてはさまざまな考えがありますが、私がほかのクオリア論者と大きく違うのは、「視覚情報や音声情報などのセンスデータはクオリアではない」と断言している点です。それともう一つ、「クオリアには機能がない」と私は度々主張しています。
私たちが感じているリンゴの赤みは、リンゴの表面にあるように見えますが、そこにはありません。目から入ってくるリンゴの視覚情報にも、赤みの感覚そのものはありません。赤みの感覚を生じさせる情報があるだけです。
視覚情報は、脳の視覚野という部位で処理されますが、そうやって処理されるときに、初めてそれに随伴して赤みの感覚が発生するわけです。したがって、センスデータはクオリアではありません。センスデータをクオリアだと思っている人は恐らく、クオリアという言葉の意味を正確には理解できていないのだと思います。
また、ロボットの腕のセンサーに針を刺したとして、人間が受けた刺激に対する反応と同じものを数値で表すことはできますし、人間と同じタイミング、同じ声色で「痛い」と言うこともできるでしょう。私とロボットが同時に針を刺されて同じタイミング、同じ声色で痛いと言ったら、人間の脳とロボットの頭脳つまりAIは同じ機能を持つと判断できます。たとえ一方が主観的に痛いと思っていて、他方にはその感覚がなかったとしても。
AIは私が針を刺されたのと同じ主観的な意味で痛いと「感じて」いるわけではないけれど、人間と同じように振る舞っています。だとすると、人間にだけあるクオリアは「無機能」だといえます。人間と同じ機能を持つAIを作るのに、クオリアは必要ありません。センスデータを読み込ませれば事足ります。
クオリアは無機能なのだから、クオリアがなくても、物理的刺激や視覚や音声などのセンスデータ、つまり情報を取り込んで、人間と同じ反応を返せれば人間と同じということですね。
機能的には人間と同じです。なお、リンゴの赤みやスポンジの感触などのクオリアが、そうした対象物にではなく人間の主観的な意識の方にあるというこの考え方を拡大させていくと、自分が見ている世界を成り立たせているものすべては情報ということができます。
そして、世界=情報はクオリア抜きで成り立っていて、人間のような生命の意識にだけクオリアがある。
ご著書では、クオリアと情報の二元論と書かれていますね。
この二元論について、突き詰めて考えていくことが人間と同じAIをつくれるのかどうかということに関わってくると考えています。さらに考察を深めるつもりです。
先生はAIの到来とともにBIの導入が必要と説かれる、そしていま、マクロ経済学者としては珍しい哲学的な議論をなさろうとしています。そのユニークな視点はどうやって生まれたのでしょうか。
もともと大学時代にAIの研究をしていたのですが、その頃はAIが冬の時代で、研究の道には進みませんでした。ただ、並行して、現代思想の本を読み、人間とはなにか、意識とはなにか、というようなことばかり考えていたのです。
浅田彰氏や柄谷行人氏などが脚光を浴びていたニュー・アカデミズムの時代より少し後の世代なのですが、とくに柄谷氏の『隠喩としての建築』は何度も読み、その考え方に影響を受けています。
大学卒業後エンジニアとして働くなかで、企業の経理システムを作ったりしつつ、「こんなふうに人間の仕事が機械に置き換わっていけば、人間はいずれ必要なくなるのではないか」という疑問が膨らんできました。「技術が進歩すれば、雇用はなくなる。マクロ経済的にはどう考え、どういう政策を打てばいいのだろうか」と経済への関心が芽生え、経済学を専攻して現在に至ります。
そして折しもAIの飛躍的な進歩を目の当たりにし、汎用AIができれば、人間の失業は増えベーシック・インカムが有効になるだろうと考えるにいたり、AIと経済(BI)が自分のなかで結びつきました。
さらに、人間とはなにかという哲学的な関心は久しく封印していたのですが(笑)、AIの進化について真剣に考えるうち、自然と人間とはなにかという問いに逢着し、一周回って昔から自分が考えていた、「人間とはなにか」という問題に自然に重なったというわけなのです。
ある意味必然だったのですね。
今後もAIとは何か(=クオリア/情報の二元論)と、BIを含めたマクロ経済研究という二本の軸足をもちながら論考を深めていくつもりです。