客人はマレビトと訓む
同じ釜の飯を食うという言葉があります。寝食をともにするというのは、言い知れぬ親近感と共に、深い絆が結ばれるのだなと思います。
夏の3ヶ月間、私は郷里より1000キロメートル以上も離れた越中富山の、更に3000メートルの高さに位置する雄山神社頂上峰本社にて奉仕しております。
富山にかくもご縁を頂くことになるとは思いもよらぬことで、伊勢に次いで第3の故郷と呼べるかもしれません。殆どが立山頂上の生活ですが(笑)
山の上では麓2社の雄山神社職員は本より、富山県下の神主や全国各地の様々な人と日々共同して大神様に仕えています。家族と変わらぬ距離で濃い時間を過ごしますので、下界に戻った後も親交が続き、また毎年夏に再会できるのが楽しみになります。
そうした日々を過ごす中で、たまにお客人が来ます。誰かの友人であったり、また作業等で来られる業者の方であったり。何しろ雄大な景色を臨む場所とはいえ、行動範囲も人間も決まった単調な日々ですから、こうしたマレなる人の来訪を皆喜びます。空気の入れ替えであるとか、新しい空気が入ってくると表現していますが、有難い場所ながら長くいると、ともすれば鬱屈としてくる雰囲気を一変せしめるのがお客の存在です。昔々の、村に不意に現れる客もこうしたものだったのかと思い巡らしたりします。
神社では信仰上の尊厳を維持する目的で、一部において普段一般に通用する言葉を避けて言い換えることがあります。
神社では基本的に、参拝者に対して「ありがとうございます」「お疲れ様」「お客様」を使いません。神社にお参りすることが、神社サイドで有難いとはおかしいという意味です。また同じ意味で疲れに来てるわけでもなく、神の客でもないので違う言い回しとなります。
特に「お客様」は、いかにも商売気があるように感じられるということで、若手の頃は厳しく指導されました。
勿論、その考えは全く正しいと思いますから私もそこにイチャモンをつける気は更々無いのですが、客人といえばその訓読みは「マレビト」つまり稀なる人ですから、殊更に忌み慎む言葉でも無いかなとも思うのです。
そんなご奉仕の日々を送る中、九州より私を訪ねてマレビトが参りました。
去年久留米駐屯地で寝食を共にし訓練を受けた予備自衛官仲間で、佐賀県武雄市から夫婦でお越しになりました。
帝国陸軍歩兵第七連隊の石碑でツーショットは、予備とはいえ国防を担う後輩として誇らしく思います。
大きな荷物から出てきた沢山のご奉納の品々はその後の酒肴となり、参籠の夜は大いに盛り上がりました。
神仏混淆の名残多い山岳信仰の山ですが、お寺ではありませんので存分に頂戴しました。これもまた大神様の御恵みと嬉しく喜ばしきことです。
古い時代に客人はマレビトであり、またそのマレビトは来訪神として歓迎されました。もてなす我々は恵みをもたらしたマレビトに感謝し共に食事を楽しみ、そして一夜の床を用意してお休み頂き、無事に送り返すのです。信仰的にはここでマレビトは居心地よくもてなしながらも長居させることなくお帰り頂くというところが、神社における祭礼のプロセスとお客様への対応がリンクしており趣深いなと思います。
夏山の奉仕もお盆が過ぎると折り返し地点となり、あと半分になりました。一時下山で何日間かリフレッシュの時間も頂きますが、またそのうちにマレなる人が頂上に現れて良い風を吹かせてお帰りになるのをお待ちしております。とはいえ、稀なるはずがちょくちょくとなると有り難みが薄れますので、その辺の機微は空気を読んでいただいて、換気はほどほどにして欲しいなどと戯言で本稿締めさせて頂きます。