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医を担う 過疎地の命守れ、親子二代で奮闘――第11部〈台湾脈脈〉

2010年3月30日15時51分

写真生まれたばかりの女の子を抱く池田陽子院長(右)。父親の李錦璋さんがとり上げた子が妊婦になって来ることも多い=2月、長崎県五島市、林写す

写真故・李錦璋さんは福江島で30年余り、1万人近い新生児をとり上げた=84年、長崎・福江島(池田陽子さん提供)

表台湾出身の医師・歯科医師の人数と時期

 高度経済成長の時代、医師不足に悩む過疎地を支えた台湾人医師たちがいた。日本の暮らしに希望を抱いて海を渡った彼らは年老いて、医療の現場から姿を消しつつあるが、その子らが今も日本各地の命をつないでいる。

 「今日は船、揺れなかったですか」

 長崎県の五島列島。福江島の港近くの福江産婦人科医院で、池田陽子院長(39)が離島から検診に来た60代の女性に声をかけた。女性は「孫が生まれた時は、お父さん先生に診てもらった。娘さんも話しやすさがそっくりだ」と顔をほころばせた。

 「お父さん先生」とは、昨年12月に亡くなった池田さんの父、李錦璋さんのことだ。

 1933年、日本占領下の台湾で生まれ、小学5年まで日本語で教育を受けた。長崎大に留学して産婦人科医になり、73年に大学から島に派遣されてきた。島にとどまって一家で日本国籍を取り、77年に開業した。

 2年前に引退するまで、1万人近い赤ちゃんの出産に立ち会った。達者な日本語で患者と話し込み、しけが心配だと離島の妊婦を早めに入院させ、その分の費用を求めないような人だった。

 五島市内の産婦人科医は五島中央病院の勤務医2人と池田さんだけ。「帝王切開と別のお産が重なったら医師2人では対応できない。万が一を思うと、島を離れられない」。島の周産期医療も綱渡りだ。

 この島で育った池田さんは、中学から長崎市に出て医師になり、大学医局から派遣されて大村、諫早など各地の病院で働いた。島に戻ったのは03年に李さんが心筋梗塞(こうそく)で倒れたから。この先も、島に残るべきか。子供の教育を考えると気持ちは揺らぐが、「いてくれて助かると言ってもらうと、力になれているのかなって」。

 JR福島駅前にある「アートクリニック産婦人科」。体外受精などの不妊治療が専門で、福島県各地や宮城県から祈るような思いで患者が集まってくる。

 呉竹昭治院長(43)は、顕微授精の研究で国際競争の最前線にあった福島県立医大で学び、日本受精着床学会の学会賞を3度受賞。04年の開業以来、約870件の妊娠を成功させてきた。

 呉竹さんの父も台湾から同じ大学に留学し、福島市で開業した産婦人科医だ。よく夜中に電話で起こされ、診療に駆けつけていた。その父からは「会社員になるならハンディを覚悟しろ。医者は患者と向き合えば生きていける」と言い聞かされて育った。

 福島で開業したのは「自分を受け入れてくれた地元への感謝があるから。日本一より、この地域一の不妊治療医になりたい」。

■「国籍関係ない」地域の光に

 2月初め、北海道奥尻町は分厚い雲から吹き付ける横殴りの雪に包まれていた。函館と島を結ぶ1日1便の飛行機は飛ぶだろうか。患者の緊急搬送に備え、町国民健康保険病院の職員は毎朝、パソコンで気象情報をにらむ。

 島唯一の医療機関であるこの病院で、30年余り勤めた台湾出身の医師が昨秋、引退した。172人の死者を出した93年の大地震では、次々と運ばれてくる泥まみれの患者の処置に奔走した。常勤医の定員3人の病院を、1人で支えた時代もあった。町は定年を延ばして引き留めてきたが、心筋梗塞を患った老医師にこれ以上の無理は言えなかった。

 後任は町長らが奔走する姿をテレビで見た日本人医師が名乗り出てくれたものの、それでも常勤医は2人だけ。一日おきに当直をこなす状態だ。「来てくれるなら国籍なんて関係ない」。禿(かむろ)義広事務長の言葉は悲痛だ。

 「過疎地の首長の仕事は医師確保の歴史。この30年来、全く変わっていない」。全国自治体病院協議会医師求人求職支援センターの小国圭三企画課長は、そう言い切る。

 これまでの国の政策は一貫性を欠いた。

 地方の医師不足を背景とする73年の「一県一医大構想」で医学部は増えたが、86年、厚生省の「将来の医師需給に関する検討委」は、「将来の深刻な医師過剰への強い危機感」を表明。新規参入の削減にかじを切り直した。81年度に8280人だった医学部定員は、2003年度は7625人まで減った。しかし近年、地域や診療科ごとの医師の偏在が顕在化。08年度から定員を急増させ、10年度は過去最高の8846人に上る。

 「余ると言われた医師が、本当に困っている所には充当されなかった。制度には現場の実態と感覚が反映されなければ」。厚生労働省第11次へき地保健医療対策検討会で座長を務める自治医大の梶井英治地域医療学センター長は、86年当時の国の判断を疑問視する。

 講演で呼ばれる先々で、かつてその地で働いていた台湾や韓国出身医師の話を聞く。そのたびに「彼らが地域医療の最前線に光をともしていた」との思いを強くする。

■誇り胸に秘め、根下ろす

 アイヌ文化復興の拠点として知られる北海道白老町。台湾出身の歯科医師、本郷英彰さん(66)は76年から、この海辺の町で臨床を通じた総義歯の研究を続け、成果を全国に発信してきた。

 北海道ウタリ協会理事長を務め、アイヌ民族の権利運動を率いた故・野村義一さんも本郷さんの患者だった。

 20年ほど前のある土曜日。診療室で2人だけになった時、野村さんが突然、「本郷さん、私たちは同じマイノリティーだ」と話しかけた。言葉に詰まる本郷さんに、野村さんは「気負うことはない。いい仕事をしていれば人は認めてくれるから」。穏やかな笑顔でそう言った。

 本郷さんは違和感のない義歯を作るため、歯が抜けて微妙に変形した口の中の筋肉を本来の姿に戻す治療法を発表し、東京や札幌、台湾などに呼ばれて講義もする。「どうして都会で開業しないのですか」。参加した同業者は不思議がる。

 本郷さんの祖父も父も、台湾海峡をのぞむ海辺の小村で医療を続けた。父は日本の占領下で「武田」と改姓させられたが、戦後も日本びいきだった。「人に感謝される仕事をしろ」。口癖にかつての日本の価値観がにじんでいた。

 もう一つ、父が言い続けたことがある。

 「財産はすぐに没収される。教育と技術は奪われないから、それを身につけろ」

 国民党が台湾民衆を弾圧した47年の2・28事件の後、父は警察の事情聴取を受けたり、徴兵に反対して田舎の校医に左遷されたりした。医の道は、日本の支配や蒋介石率いる国民党の独裁を受け入れるしかなかった台湾人が見いだしたひとつの活路だった。

 新天地を求めて来た台湾の医師たちを、日本は常に温かく迎えたとは言い切れない。

 人気漫画「Dr.コトー診療所」の題材になった鹿児島・下甑(しもこしき)島。主人公のモデルになった診療所長が来る前に台湾人を招いたが、続かなかった。当時、下甑村(現薩摩川内市)の民生課長だった西秀人さん(77)は、医師が去り際に残した言葉が忘れられない。

 「やはり日本人を雇った方がいい。村の人は外国人にはうち解けてくれません」

 本郷さんも最近まで、外で酒をのむのを控えてきた。衝突したり、傷ついたりするのを避けるために「一歩引いて生きる。日本という社会で生きていくための知恵であり、手段だった」と言う。

 日本に残った医師の多くは台湾人の誇りを胸にしまいこみ、日本社会にとけ込もうと努めた。国籍を変え、子を日本人として育てた。その仕事はほとんど記録に残ることなく、歴史に埋もれつつある。(林望)

     ◇

 〈台湾出身の医師〉 人口が都市に集中し始めた1950年代末以降、医師の流出に悩む市町村などが、戦時中に日本の免許を取った台湾や韓国の医師らを招いた。当時の台湾は国民党の独裁時代。来日の背景には、日本の医療技術や安定した収入などがあったが、圧政への反発を抱えた人もいた。

 北海道・根室半島、東京・青ケ島、沖縄・西表島など彼らが働いた地域は全国に散らばるが、その数を示す正確な統計はない。名古屋大大学院生だった今野卓美氏の博士論文調査(98~99年)や、都道府県、国民健康保険団体連合会への朝日新聞の取材で、台湾人医師の数が一部でも把握できたのは16都道県にとどまる。記録がなく、「不明」と回答した府県が多い。

 72年の日台断交などで台湾に戻った人も多いが、日本に残った医師・歯科医でつくる「日本台医人協会」の会員は現在約300人。加入者の少ない九州、四国の医師や子の世代を含めると、その数は数倍に膨らむとみられる。

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