スズキ金物店メインイラスト

T O P 会社概要 商品紹介  焼 印合カギ D  I  Y 千代鶴系譜 道具の歴史リ ン ク




(三) 東京墨壷



三代目 「壷豊」作  明治時代の中頃までに、東京でも墨壷彫り専業の人達が現れました。その一人に「壷福」と呼ばれた人がいました。大工職あがりの彼は、明治時代のはじめ頃から、墨壷を彫っていたと思われます。

 二代目「壷豊」の小見庄吉氏が、生前に書いた東京墨壷の系図による
と、この「壷福」には二人の弟子がいて、「壷清」・「壷仙」といいました。

三代目 「壷豊」作 装飾彫刻 「壷清」は関東大震災前にある事情で新潟の三条へ行き、新潟で最初に墨壷製造を始めた栗山源資のもとで世話になり、東京の装飾彫刻墨壷を伝授しました。これが三条における装飾彫刻墨壷の始まりとなりました。「壷清」は二代目まで続きましたが、太平洋戦争が始まる頃には廃業したと思われます。

 「壷仙」は80数歳まで長生きし、太平洋戦争が終わる前後に亡くなった
と思われます。この「壷仙」には初代「壷豊」・広田・成田(兄)・成田(弟)・
加藤の5人の弟子がいて、一番弟子であった「壷豊」は3代目まで続き、
加藤は2代目正清まで続きました。

三代目 「壷豊」作 装飾彫刻 亀 初代「壷豊」の小見豊吉は明治8年神奈川県に生まれ、農家出身で細工仕事が好きなことから、当時名人といわれた「壷仙」に24歳のときに入門しました。「どうにか壷らしい形が作れるようになるには3年、一人前の手間が稼げるようになるには7年」という精進をして独立し、「壷豊」銘で彫り、墨壷彫りの名人と言われるまでになりました。初代の子である小見庄吉は、明治37年亀戸に生まれ、11歳の頃から父のもとで墨壷彫りに従事し、やがて後を次いで二代目「壷豊」となり、精進を重ねて父同様に名人と言われるようになっていきました。特に二代目の彫る亀は「まさに生きている」と高く評価されました。その後二代目「壷豊」は、大正14年に葛飾に移り、4人の弟子を育てましたが、戦後は一人をのぞいて廃業しました。昭和38年60歳前後で高血圧で倒れたあと、長男の嘉一郎、次男の英一、三男の庄司の兄弟が墨壷彫りに従事していましたが、その後嘉一郎は同地で金属プレス板金加工業を営み、英一が三代目「壷豊」として茨城県取手で墨壷を彫っていました。しかし、昭和40年代
後半に廃業しました。
三代目 「壷豊」作 装飾彫刻 鶴
 このほかに「壷為」という人もいました。「壷為」については「壷豊」の弟子であったとの話もありますが、資料がないためによく分かりません。昭和40年代前半に廃業したようです。

 東京墨壷は高級品志向のために大変に高価であって、なかなか手に入れ難く、貴重なものでした。美術品的価値がありました。それはそれなりに墨壷三代目 「壷豊」作 刻印彫り職人の心意気の現れを意味しました。当時東京墨壷を収集している愛好家も少なからずいました。しかし、時代の流れが東京墨壷の継続を許さなかったのです。

←前ページ   このページのトップ   次ページ→ 

トップイラスト

Copyright (C) 2006 Suzuki Kanamono. All Rights Reserved