かつて「鋼」研究の第一人者として知られた新潟三条の岩崎航介氏が、4人の東京鑿鍛冶名人が鍛った鑿を鑑定し、第一として推したのが「清忠」の鑿で、「清忠」の鑿は日本一の東京の第一なのであるから正真正銘の日本一の鑿であるとの話が残されています。 |
この「清忠」は初代が島村忠五郎で、明治23年現在の横浜市港北区日吉に生まれ、15歳のとき名古屋の野鍛冶のところに弟子入りし、鎌・鍬・鋤などの農具造りを修業しましたが、やがて鑿などを鍛つことに興味をおぼえ、独学でいろいろと努力と工夫を重ね、鑿鍛冶として自立する決心と自信をつけて東京に出てきました。(注2参照)
はじめは浅草の橋場に仕事場を持ち「清忠」銘で鑿を鍛ちましたが、その後日本橋の岡崎町、中央区月島へと仕事場を移しました。
※写真 |
左 千代鶴是秀 74歳作 突鑿 |
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中 千代鶴是秀 75歳作 突鑿 |
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下 千代鶴是秀作
鉋の溝堀り用に造られた鑿 |
※三点は鉋の台入れ用に、
故 左喜雄のため造られた鑿です。 |
(注2)
三代目左久作の池上喜幸氏からお聞きしたところによりますと、「初代清忠さんは明治から大正時代にかけて東京で活躍した江戸刃物鍛冶の「千代弘」の最後の弟子」とのことです。
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やがて大正13年生まれの息子の幸三郎が、15か16歳頃に父である初代「清忠」のもとで鑿鍛冶の修業を始め、二代目としての研鑽を積みました。二代目は父に似て寡黙で仕事熱心、そしてきわめて謙虚な性格の持ち主で、ある時二代目にあった千代鶴是秀は、紹介した人に「あの人はいい人だ。あの人のお父さんならきっといい人だろうし、いい仕事をするに違いない。」と後で言ったという逸話も残っています。 |
すべて手作業でやって来た「清忠」は、昭和33年頃からスプリングハンマーやグラインダーを使い出しましたが、多くの鑿鍛冶のようにグラインダーをかけただけで荒仕上げを済ませるのでなく、さらに手でヤスリやセンをかける鍛冶職としてのこだわり、律儀さがありました。このような父子二人の細やかな一つ一つのことが、日本一という「清忠」鑿伝説を作り出した源なのかもしれません。 |
初代「清忠」が亡くなった後、二代目「清忠」は息子の清忠と一緒に鑿を鍛っていましたが、平成16年頃に鑿を鍛つのをやめました。 |
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