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アナザーストーリーズ「ザ・ドリフターズの秘密 ~バンドマンが笑いを生んだ~」怪物番組「8時だョ!全員集合」を…
2020/10/20 22:19
出典:EPGの番組情報
2020/10/20(火) 21:00~22:00
NHKBSプレミアム
アナザーストーリーズ「ザ・ドリフターズの秘密 ~バンドマンが笑いを生んだ~」[字]
怪物番組「8時だョ!全員集合」を生み出したザ・ドリフターズ。その笑いの秘密は音楽にあった!数えきれないギャク誕生秘話、そして知られざる、志村けんの苦悩とは?
詳細情報
番組内容
半世紀前、視聴率50%超えの怪物番組「8時だョ!全員集合」を生み出したザ・ドリフターズ。今では珍しい、観客を前にしての公開生放送は16年続いた。その笑いの秘密は音楽にあった!ドリフはもともとバンドマン。リズムにテンポ…言葉に頼らず、体で表現して初めて笑える、いかりや長介の哲学があった。そして知られざる志村けんの苦悩とは?ドリフのメンバー3人が集結、彼らならではの笑いのカタチを解き明かす!
出演者
【司会】松嶋菜々子,【出演】加藤茶,高木ブー,仲本工事,【語り】濱田岳
テキストマイニング結果- 取材者
- 志村
- ドリフ
- 自分
- ウケ
- コント
- オチ音
- 全員集合
- 音楽
- 楽器
- ドリフターズ
- 加藤
- 仲本
- バンドマン
- リズム
- 時代
- 番組
- 本番
- 面白
- ダメ
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テレビ史の中で 最高視聴率といえば
「紅白歌合戦」 スポーツ ドラマ 事件が
並ぶ中
お笑いバラエティーで唯一
50%を超えた怪物番組があった。
「8時だョ!」。
(一同)「全員集合」!
最高視聴率…
(笑い)
毎週土曜の夜8時
ドリフターズ5人の生み出す笑いに
日本中がくぎづけになった。
それまで爆発的な人気を博したのは
コント55号。
(笑い)
そしてコント満載の…
お笑いの群雄割拠の中
「8時だョ!全員集合」がぬきんでたのは
一体なぜか。
一発勝負! 観客を前にしての公開生放送。
そこには 毎週
笑いと闘う男たちの執念があった。
ネタがはっきり決まるの 本番のね…
実は ドリフターズは
もともとミュージシャン。
笑いのプロではない。
(いかりや)ロカビリーバンドで
お客があまりにも入らないので
急遽 あとから
笑いを足したわけなんですね。
めちゃめちゃなんです。
バンドマンならではの笑いとは?
今回 ドリフのメンバー3人が集結。
リズムにテンポ… 音楽が生む
笑いの形を明かしてくれた。
(楽器を鳴らす音)
これでひっくり返る。
(取材者)なるほど なるほど
今でも その体がすぐ出るように…。
出ますよ。
どこできても大丈夫。
(取材者)どこいっても。
バンドマンの笑いの神髄に迫る!
?~
さて こちらをご覧ください。
数えきれない流行語のギャグ。
全て ザ・ドリフターズの
「8時だョ!全員集合」から
生まれたものです。
私も子どもの頃 毎週土曜日の夜は
ウキウキして見ていました。
?~(「『ヒゲ』のテーマ」)
(せきばらい)
今日まで受け継がれる笑いの基礎を築いた
ザ・ドリフターズ。
運命の分岐点は…
「8時だョ!全員集合」
放送開始の瞬間です。
いかにして 怪物番組は生まれ
時代をつくっていったのか。
その笑いの秘密に迫る
アナザーストーリー。
時代は 1969年 高度成長のまっただ中。
ものがあふれ 人々が豊かさを求める一方
世の中のひずみも露呈。
学生たちは権力と闘い
街頭デモを繰り広げた。
何かと難しい問題に直面する
そんな年の夏。
TBSのある赤坂
初の顔合わせはお寿司屋さんだった。
いかりや長介のボヤキから始まった。
相手は居作昌果 35歳。
人気番組「お笑い頭の体操」を手がけた
TBSの若き やり手プロデューサーだ。
だが 土曜8時枠では あえいでいた。
その時間帯 視聴率トップはフジテレビ。
コント55号の「世界は笑う!」が
軒並み30%超え。
日本テレビも
巨人戦ナイターで高視聴率を保ち
他局は蚊帳の外だった。
一方 当時のドリフターズといえば
この曲のヒットで人気上昇中だったが
お笑いでは レギュラー番組が立て続けに
打ち切りという憂き目に遭っていた。
そんなドリフに 居作は
「土曜8時」の白羽の矢を立てた。
いかりやは言った。
いかりやの本音が著書にある。
「だめだこりゃ」
…と つぶやいていたら
歴史は変わっていた。
そこには居作の考えた
「ドリフ必勝の策」があったのだ。
NGが出せない緊張感と臨場感。
それが新たなパワーになると信じていた。
まあ 僕のところには 長さんから
「どうする?」って話があったんですよね。
土曜8時 公開ナマ このリスキーな提案を
どう受け止めたのか?
…できるんだったら まあ ねえ
すごいことなんで。
それの いきさつは よく分かんないけど
それは すごいなとは思ったけどね。
まず そんなことは まずなかったからね
当時 生でやるなんて。
僕らは 大体…
「よしっ! いってみようかぁ!」。
10月4日夜8時。 ついに番組スタート。
当時のメンバーは 荒井 注を含む5人。
(パトカーのサイレン)
(客席の悲鳴と歓声)
ステージは驚きと笑いで
一気に観客を巻き込んだ。
怪物番組は 半年を待たずに
視聴率27%に達した。
(峰岸)苦い思い出も こういうの見てると
思い出されてくるな…。
中継や演出を担当した峰岸 進。
盛り上がりの秘密を明かしてくれた。
一番最初の「お~っす!」っていうのは
「8時だョ!全員集合」って終わって
そのあと お~っすって…
あれも かなり練習して。
あれ ウケるんですよ 子どもたちも。
「お~っす」の練習をしようとか言うと
自分たちも参加できるわけだから。
(取材者)となると ほんとに
7時半すぎからもう 既に…。
(取材者)そうすると どんどん
お客さんの雰囲気も…。
もう のったまんまで。
テレビの向こうより
ドリフは会場のお客だけを見ていた。
カメラ目線で何かするっていうのは
最初の いかりや長介さんの
「8時だョ!」ってカメラ見る
それだけですよね。
あと カメラ目線ないと思いますよ
舞台上で。
その先にしかテレビはない。
いかりやと居作の作戦だった。
家庭や会社。
コントは身近な設定が多かった。
やめてちょうだいっての!
おい!
どうしてなるの!
(笑い)
何よ!
もうちょっと あんた
静かにしてちょうだいっつの!
やめろって言ってんだよ!
(笑いと拍手)
毎週 ドリフは
自分たち自身で笑いを練り上げた。
一応 台本なるものがあるから
それを見て。
(峰岸)長さんが う~ん…
大体 早くて夜の11時か12時。
僕 もう参加してるだけ。
台本を書いてきた作家はたまらない。
ドリフと数々の番組を共にした
田村 隆は…。
(田村)大変でしたね それはね 稽古。
なかなか納得しないんですね
いかりやさんがね。
一生懸命 書くじゃないですか 真剣に。
真剣に書いて あっ これ面白いぞっつって
持ってって それがボツになったときの
ショックと… だから放送作家で入って
随分 出はいり多かったんですね。
(取材者)出はいりってことは 結構
すぐ辞めてく…。
うん もう耐えらんない。
(取材者)最初から。
ええ。
いかりやは自分たちのコントを
「体戯」と呼んでいた。
これ いかりやさんの
造語だと思うんですよね。
「演技」の「技」かなと思って聞いたら
そうじゃない。
俺たち やってるのは
演技の技ほど 技を見せるとか
そういうんじゃないんだと。
それ 僕 妙に印象に残ってたんです。
なるほどな 体戯という言葉が
あるんだなと思ってね。
言葉に頼らず 体で表現して初めて笑える。
いかりやの哲学だった。
メンバー 一人一人が考えて積み上げる。
まさに全員集合。
それは 自分のところは みんな
自分で考えて。
考えつくまで吸うもんだから…
(高木)だってもう 次になになにやるとか
いっぱいあるじゃない。
(取材者)長さん 忘れるんですか?
だからその ネタを作っていくっていう
そのエネルギーが
すごい かかったんですよね。
あれね 若かったから
できたんだと思いますよ。
(取材者)そうなんですか?
うん。 本番やって ウケてるときの
やっぱりその ウケた感じがね。
大変ですけど ウケたら そんなね
ウケた以上のこと ないから。
ミスのように見えたり アドリブのような
自然な会話 ご覧ください。
母さん またいだ~!
(笑い)
(笑い)
またいだね。
またいだな こりゃあ なかなか
見応えがあったな。
はっきり またいだ… 指踏んでやった。
(笑い)
アハハハハ!
親をまたいで どうすんだよ!
今 言ったよ そういうふうに。
おかあ… いてえんだよ お前の踏み方は
この野郎!
痛いの?
「母さん ただいま」って 言い方違うよ。
母さん まただいた!
(笑い)
母さん ただいま!
母さん まただいた まだだいた!
だからほら お前はあんちゃんなんだから。
ねっ ちゃんと そういう帰り方
ちゃんと教えてやんなさい!
ダメだよ お前 母さん!
か… 母さん?
母さん!
加トちゃん… ぺっ!
そうじゃねえよ!
(笑い)
加トちゃん ぺっじゃなくて。
これ おいといて?
そうそう おいといて 加トちゃん ぺっ!
(笑い)
長さんが もう 稽古どおりにやろう
稽古どおりにやろう。
(取材者)じゃ 徹底的に作り上げる…。
裏でフジテレビが
コント55とかやってましたけど
あっちはアドリブが多かったんだけど
それと対抗するっていうか
識別するっていうか 区別するって
いうのかな 差別化するためには
それなしと。
しかし 一人だけ違った。
ありましたね。
だから俺がやった うんこちんちんとか
それから ちょっとだけよとか 全部
あれアドリブからできてるんですよ。
(取材者)本番の?
ええ。
ワニと格闘するシーンがあって
で やることがなくなってくるんですよ。
それで ええいってワニの口にまたがって
うんこちんちんってやったら
すごいウケたんですよ。
うん なんかね 出たんですよ。
降りてきたんでしょうね きっと。
で またやったら またウケたんで
それがだから どんどん どんどん
続いていくことになったんですね。
加藤のギャグだけは生で生まれたのだ。
あんたも好きねぇ!
いいかげんにしろ!
ドリフのギャグの根底には
リズムがあった。
だから 意識して リズムがどうの
とかっていうのじゃなくて…
そういうあれになっちゃうわけですね。
だから 分かりやすい例が…
これも すごくテンポがいい。
やっぱり 本人たちが
意識してやるんじゃなくて
だから周りで あら
すごくテンポ面白いねって言うと
加藤さんなんかは
「そう?」って言うんですよ。
だから 気がついてないんですよね。
でも 染み込んじゃってるから
できるという…。
バンドマンならではのリズムが
笑いの間を生んだ。
(壁をたたく音)
あいたっ…。
(笑い)
母ちゃん 母ちゃん。
≪何だよ!
母ちゃん!
何だよ 今 忙しいんだから 母ちゃんは。
ちょっと こっち来て。
ご飯が今 炊けるとこなんだから。
面白いの ちょっと来て。
何が? 何が?
座って ここ座って。
何だよ?
ここ座って いいから いいから。
何がだよ。
いいから ここ座って いくよ!
(壁をたたく音)
(笑い)
(オチ音)
今回 ドリフの3名が集まり
楽器や鳴りものを どのように
生かしてきたのか 披露してくれた。
あのね コントで使ってるのは…。
(楽器を鳴らす音)
うるせえよ お前 バカ野郎!
(笑い)
(取材者)これは どういう形で?
音楽を演奏してて エンディングで
バーン…で終わるときに
バーンで終わって
…でひっくり返る。
(取材者)このバーンで コンっていうのを
どのタイミングでくるかっていうのは
皆さん 何となく
分かってらっしゃるんですか?
分かってますよ それは。
(仲本)それは大体分かってるね。
(加藤)分かってないと
ひっくり返れないから。
練習してるっていうか…
音楽のときの間ってのは
普通の間じゃないんですよね。
音楽のリズムあるじゃないですか。
その リズムを外す間なんですよ。
(取材者)どういうことですか? 例えば。
例えば だから… まあ 4つありますよね。
(楽器を鳴らす音)
これを 一つ 1 2…。
(楽器を鳴らす音)
これが間なんですよ。
(取材者)それを皆さん 体として
もう次 ある程度のタイミング
くるなっていうのは分かってる?
そう だから…。
合わせてればいいわけだから。
これに合わせて…。
(楽器を鳴らす音)
これでひっくり返る。
(取材者)なるほど なるほど。
今でも その体が すぐ出る…。
出ますよ。
(楽器を鳴らす音)
こうなるからね。
バンドさんは みんな そうだと思う。
だから これに…。
(楽器を鳴らす音)
こればっかりじゃなくて
何でもいいんですよね。
例えば これでもいいし…。
(楽器を鳴らす音)
こういう感じでね。
音が違えばコケられるんですよ。
その人 そのものの間があって
だから 俺には俺の間があって
高木さんには 高木さんの間があって
仲本には仲本の間があるんですよね。
だから 一概にね 間がいいからとか
悪いからとかって それ言えないですね。
なんか高木さんに言ったとき
大体ずれて返ってくるんですよ。
そのずれて返ってくることも
間なんですよ。
だから それをこっちが分かってれば
そこでコケられる。
(取材者)練習して
うまくなっていったりするもの?
それとも もうそれは ある程度…。
弟子になる連中が 師匠を見て
その間をとるっていうのが
まあ 大体 教えですよね。
ミュージシャンだからこそできた
ドリフならではの「間」。
スタッフにも大事なことだった。
(取材者)たらいを落としてくるADが
上から落とすにしても
前後の微妙に… ほんとは
この間なのにとかって
微妙に毎回毎回違うわけですか?
だから 5人 その上に乗ってる人がいて
裏方さんが。
5人一斉に落とすんだけども
やっぱりそれもね 違うんだよね。
せ~ので落とすんだけども やっぱり
早い人と遅い人といて。
(取材者)
それが画面では そんな差に見えないけど
でもほんとに微妙に…。
微妙なの。
(取材者)違うわけですか。
裏方さんを座らせて
俺たちが一応落としてみせるの。
で その感覚をつかんでもらって
本番に挑むんだけど
やっぱ 本番になると
みんな緊張するじゃないですか。
そうすると やっぱり
人の見てて落とす人もいるしね。
この間でこい!っても なかなか…。
(仲本)なかなか難しい。
一番最初に
メガホンで殴ってたんだけど
この プラスチックになってから
ダメになったんだよな。
ダメだね 音はしないわ 痛いわ。
音はしないわ 痛いわで。
こんな音なんです。
これ頭 ガシンとくるんですよ。
一斗缶になったの。
底抜いたんでしょ あれ。
これは 底を抜いて
ベコンベコンにしとくと
いい音するんですよ こういうふうに。
だんだん派手にしてって 金だらいか。
(加藤)これ 大きいね もっと。
新しいうちだね。
後ろがね でこぼこになってると。
(取材者)どんどん新しいものでいかないと
ダメになる。
これあるんだ まだ。
あるんだね。
とってあるんだ。
綻びてるよ。
(仲本)ハハハハ…。
(加藤)へえ~ ほんとだ これ…。
このハゲヅラは違うんだよね。
俺がかぶったのと全然違う。
俺のはね 作ってもらって 中を…
殴られても痛くないように
あれ なんていうんだっけ 金?
そうだね。
殴られても痛くはなかったけど
首にはズシンとくるね。
昔はね この糊が悪くて
くっつきが悪かったんですよ。
本番で動いてると汗で取れてくる。
それを押さえてて 長さんに 「お前
鬱陶しいからやめろ」って言われて
鬱陶しい? あっ ちょうどいいなって
長さんが怒ってるときに ぺって
ぺってやってたの。
これがだから 長さんに
バカにしてるみたいで面白いっていうんで
ぺっがはやったの なぁ?
(取材者)そのヒゲが落ちることで
ペだったんですか。
そう。
?~
1977年には 「ドリフ大爆笑」がスタート。
バンドマンならではの笑いに
ますます磨きがかかっていった。
立川談志がこう記している。
私が子どもの頃 「全員集合」で
ワクワクしたのは あの舞台セット。
最後には一気に崩れる屋台崩しには
本当に驚きました。
そして 欠かせないのが この軽快な音楽。
続いては
笑いを陰から支えたプロたちに迫ります。
「全員集合」には 20代 30代の
才能あふれるスタッフがそろっていた。
26歳にして全セットを任された…
愛称はマンローさん。
生前のマンローさんのインタビュー映像が
残っていた。
魔の木曜日のネタ会議にマンローさんも
参加し ドリフと熱い時を過ごした。
よいしょ。 よいしょ。
あ~。
(叫び声)
バカだね お前。
あ~!
あっ あっ あっ!
(叫び声)
うわ~ うわ~ うわ~ うわ~!
うわ~!
セットを全部崩すリハーサルはできない
一発勝負。
16年間 大きな事故は起こさなかった。
マンローさんと共に
ドリフのむちゃぶりと向き合った…
土曜日っていうのはね
神経がいかれちゃってね
下痢なんですよ 汚い話が。
(取材者)えっ どうして? 神経が?
今日やる番組の いろんなことがさ…。
(取材者)ストレスで?
うん ストレスで。
笑いのために 毎週 振り回された。
これ面白くないから
こうやろうっていうので変わるわけ。
(取材者)どんなものを欲しいって?
(取材者)当日も?
当日。
(取材者)木魚?
うん。
だから お寺っていうか
近くのお寺行って
他の番組だと説明しなきゃ
こういう番組で どうっていう…。
「全員集合」って言っただけで
理解してくれて
木魚を貸してくれました 川越かなんかで。
(取材者)お寺が?
お寺が。
(取材者)木魚そんなたくさんないでしょ?
ないんですけど…
使わなかったんでしょ?
マンローも 私も。
志村けんが 一気に食べたスイカ。
覚えてます?
その仕掛け。
客から見えない裏側は こんな感じ。
スイカといえば
「ドリフは 食べ物を
粗末にする!」と
PTAから ワースト番組として
非難を浴びてきた。
たかだか高いって言っても
1万円ぐらいのスイカじゃないですか。
これをドーンって爆発させて
何十万 何千万人の人が
ウケてるわけじゃないですか。
それを割ったら 1万円を割ったら
いくらになります?
むしろさ 僕らさ…
…って言ってくれんなら
話は分かるけどさ。
っていうことは…
やっちゃいけないことは。
それを面白がって
どんどん増やしていくわけじゃないから。
ドリフの笑いを支えたプロ。
音楽でも一流どころが
全員集合!
日本を代表する作曲家。
?~
?~
この軽快な入場マーチは 彼の曲だ。
セットの裏では
岡本章生とゲイスターズが
生演奏を担当していた。
?~
「ちょっとだけよ」 岡本の真骨頂だ。
(取材者)汚く?
濁ったような音で
いや~ うお~ って出すようなね
そういう感じかなと思ってね。
?~
こういうなのが…
ブロロロロロってやると。
これを汚くしろって言うんで…。
?~
こういう感じなんですけどね。
(取材者)この振動が分かりますね。
ええ 舌で。
?~
(拍手)
はぁ。
とても疲れるらしい。
5人で広島に営業に行ったんですよ。
夜 やることがなくて
ストリップ劇場 5人で行ったんですよ。
踊り子さんが出てくると
「待ってました」って声が上がって
踊り子さんが
「あら 今日もあんた来てるの?
あんたも好きねえ」ってやってたんですよ。
それをパクッたんですよ 俺。
(取材者)パクったっていうか
まんまですよ それはね。
まんま。 「ちょっとだけよ」ってやってた。
そのウケたあと
子どもがね ドーンとウケて
「待ってました」とか
「お願いします」とかって
子どもは言わないじゃないですか。
言うんですよ みんな。
(取材者)途中からは?
最初っからじゃないでしょ?
最初から。
(取材者)あっ 最初から。
だから 不思議に思ったんですよ。
あの雰囲気を
子どもが何で知ってるんだろう。
あの「ちょっとだけよ」を
20年ぐらいやってたんですから。
ちょっとだけじゃないですよ。
20年やってますから。
ちょっとだけよ。 あんたも好きねえ。
(笑い)
ラテン音楽の名曲だった この曲は
「ちょっとだけよ」
専用の曲になってしまった。
そして 通称「盆回り」と呼ばれる この曲。
スタッフが
セットを片づける時に流され
学校で これをかけると
児童が張り切って掃除をすると
評判になった。
手がけたのが 山本直純のあとを継いだ…
ドリフのコントのほとんどに
たかしまの曲が使われた。
合計3, 000以上。
毎週4~5曲 コントに合わせて
書き下ろすというこだわり。 例えば…。
?~
いかりやは よくあるオチ音…。
(オチ音)
…では納得しなかった。
そこで たかしまは
ドリフならではのオチ音を
いくつも作曲した。
(オチ音)
たかしまのオチ音は
その後の手本になった。
オチ音のテクニックっていうのは
やっぱり…
映画 ドラマ 舞台と幅広いジャンルで
楽曲を手がける…
たかしまならではのオチ音を
解説してくれた。
聴いてもいいですか?
(オチ音)
?~ …っていうメロディーが
あるわけですよね。
更に もう一発… ついていて。
?~
自分で始めて 自分で オチも…
リアクションもしてる
っていうことなんですよ。
1小節の中に アクションと
リアクションと両方入ってる。
しかも…。
(オチ音)
?~
…っていうフレーズでしょ?
これだけだったら
まあ いい子ですねっていう。
ドリフターズって困った人たちでしょう。
そういう感じはしないんじゃないか。
?~
で これと…。
?~
…っていう2つのキーを同時にやると。
?~
これがですね… 非常に困った人に。
(取材者)あ~ なるほど なるほど。
今 分かります。
?~
どうですか? これ。
(取材者)今ちょっとずれた感じ。
はいはいはい。
五線の位置を半音分ずらした
っていうことです。
?~
まあ 最後の和音は
高い方に譲ってるんだけどね。
あの… 全部がめちゃくちゃだったら
あの… 収拾つかないっていうか
それはもう使えないじゃないですか
コントのオチには
ならないじゃないですか。
(取材者)表現しようとすると…。
理屈で説明しようとするとね。
更に…。
(オチ音)
これは 和音 用意してないですね。
いわゆるね 俗に言う
「クラスター和音」というやつで。
(取材者)どういうことですか?
みんな じゃあ 適当でいいから
高い音出して。
バーン。
止める時は ちょっと
ダウングリスにしましょう。
ドラムどうしますか?
じゃあ 適当に始めて
一応 バンッて
最後は短く切って下さい。
はい いきますよ。 せ~の! ウワーン。
トランペット 上は すごい高い…。
?~
こんな感じですよね ピアノで弾くと。
っていうことは もう…
この時代は 全員 ビッグバンド…
16人編成のビッグバンドが現場で
あ~ これいらないわ ジャンは。
ドラムさん ごめんねって
ちょっと黙ってて。
ギターもいらなかったわ じゃあ
トランペットだけでいくよって言って。
現場の臨場感が すごく
これで読めちゃうから
倍ぐらい この音だけで
ニヤニヤしちゃうんですけど。
文殊の知恵って言うけど
みんな やっぱり
ミュージシャンじゃないですか。
みんな それぞれの好きな音楽とか
かっこいいとか ここが泣けるとか
そういうのを持った人が
20人近く集まり
すごい真剣に大人が遊んでいる
っていうことを
なんか 物語ってるんですよね。
たかしまは 芸大で学んだ
クラシックの素養の上に
ジャズやソウルなど
幅広い楽曲を取り入れ
ハイレベルなテーマ曲やオチ音を
作っていた。
(宮川)「俺はこれを作ったんじゃ~」的な。
この時代の作曲家には
必ずあったと思うんだけど。
笑いは 一瞬のはかないもの。
だからこそ 細部までこだわった
デザイン サウンド アクション。
それを真剣に遊ぶ男たち。
それがドリフの世界だった。
ドリフターズにも転機がありました。
「なんだバカヤロー」でおなじみの
荒井 注さんの脱退です。
そして 志村けんさんが
大抜てきされるのですが
そう簡単にはいきません。
それが どうやって ドリフに欠かせない
人気者になっていったのか
3人のメンバーが初めて明かします。
「体力の限界」
荒井 注は そう言ってドリフを離れた。
新加入したのが
いかりやとは 19歳年が離れた
志村けん 24歳だった。
志村けんによって
ドリフに何が起きたのか?
17歳で いかりやの元へ
弟子入りをした志村。
7年後 付き人生活の下積みから
ついに メンバー入りを果たした。
ただ一人 バンドマンではなかった。
メンバーになった年の初々しい志村。
しかし 舞台では 驚くほど…
(志村)なんかね
客が お客さんが
初めはこうやって見てるのが 僕出ると…
僕は 僕で 一生懸命やってるつもりが
自分では こう伸ばしてるつもりが
まだこのくらいなんですね。
一生懸命っていうのが見えちゃうんだよ。
だけど ドリフは
一生懸命って見えないじゃないですか。
なんか 遊んでるような感じで
どんどん進んでいる。
そこへ 一生懸命な志村が入ってきたから
浮いて見えたんだろうね。
もう練習も終わって
酒飲んで紛らわすっていうことが多くて。
一緒に飲みに行って
いろいろ話したことがありますからね。
ドリフに入った以上 やっぱり…
…っていうことは言いました。
(取材者)
高木さんがアドバイスしたりとか。
だから 彼は いろんな人に相談するとか
そういうんじゃなくて
そういう時 自分で
アメリカのハリウッドのB級映画とかね
向こうでやってるテレビショーの
面白いバラエティーショー。
何とか…
関西の桂 枝雀さんという
はなし家さんの
しば~らく 何となく
枝雀っぽい言い回しみたいな
ものもやってましたけどね。
加入して 1年半がたった頃
ネタ会議の最中 志村はよく
えたいの知れない歌を口ずさんでいた。
「志村! 何だ その歌!?」。
?「東村山」
地元の町の盆踊りの歌。
「それ 今度やってみろ!」。
?「東村山 庭先ゃ多摩湖」
?「一丁目 一丁目 ウワーォ!
ヒガシ…ワォ!」
「東村山音頭」は
ジワジワと人気に火がつき
志村をドリフの中核に
押し上げていった。
東村山駅には
町への貢献をたたえ
志村けんの木が植えられた。
「東村山音頭」でブレーク。
一般的には そう語られている。
しかし 実は その前に
加藤が大事な大オチを志村に譲ったと
明かしてくれた。
東村山音頭より
もうちょっと前ですよね
よし…
志村に全部オチを持っていったんですよ。
みんな4人も売りになって
で 志村で落とすっていうね。
それを 今度…
それが だから成功して
志村が ガーッといったわけですよ。
やっぱり 自信がついてくると
志村も やっぱり 自分の意見言って。
じゃないとね あのままね 志村 しぼんで
しまったんじゃないかと思いますね。
それ やってなかったら。
チームだからこそ 生まれたカタチ。
新たなドリフのスタイルができていった。
ほっ!
(笑い)
なんで? ほっ!
(笑い)
≪頑張って!
(笑い)
この野郎 敏感だな。
(笑い)
よ~し 勢いつけてやりゃよかったな!
せ~の… よっ! あら!
(笑い)
志村は 新しい風を吹き込んだ。
そうですね いつも 僕そうなんですけど
原点に帰るんです。
なるべく できれば 今度は
ベンチ1個でやろうとかね。
ベンチ1個だけで
コントやろうとかって考えるんですよ。
今でもそうなんですけど それは。
煮詰まってくると。
そうする時に なんか しゃべらなくて…
なんか しゃべらなくて
音楽でできねぇかなと思って考えて
出来上がったのが
ヒゲダンスなんですよね。
?~
音楽マニアの志村が
持ち込んだ原曲がこれ。
これを たかしまが
アレンジした。
?~
しゃべりを減らし 軽快な動きだけ。
爆発的なブームとなったのは
言うまでもない。
今まで だから うちがやってたことと
また全然違う新しいことだから。
やっぱり いかりやさんのアイデアも
結構 出尽くして…。
…っていう そういう時代に入ったよね。
バンドマンでなかった志村が
人一倍 音楽に こだわりが強かった。
志村は 著書の中で…。
やがて 志村の人気は
加藤をしのぐほどになった。
(取材者)一番ウケるところのポイントを
志村さんに持っていかれた部分も
あるかもしれないですけど
そういった意味で 嫉妬というか…?
それはないですね。 グループですから。
やっぱり…
サックスならサックスが
アドリブやってると
みんなが 全員こう 下に落として。
ピアノになったら
ピアノを今度は持ち上げろっていう。
そういうことがあるんですよ。
バンドの中でね。
(取材者)そういうルールというか。
ルールが。
だから よく言われたんですけども…
志村に対して 嫉妬してるとか
なんかっていうのは 全然なかったです。
だって…
それは当たり前でしょ。
自分だけがウケればいい
っていうわけじゃなくて やっぱり…
(取材者)そうなんですね。
うん。 だから グループだから
「全員集合」という
ああいう番組もできたし
「大爆笑」もできたし。
まあドリフターズ入ったらさ
郷に入ったら郷に従えでさ
自分のやりたいことを主張しても
ダメだよ。
やっぱり…
?「エンヤー コラヤット
ドッコイジャンジャン コーラヤ」
?~
?「ハァー ドリフ見たさに
ハァー どうした どうした」
ドリフターズが
これほども長くウケた理由を
本人たちは どう思っているのか?
やっぱり あの… 見せたいものを
やってほしいことを見せてあげた
っていうことじゃないですかね。
僕たち作ってるのは
子どもたちにウケようと思って
作ったんじゃないんですね。
ほとんど やっぱり
自分たちの年齢に合わせて
作ってたわけですよ。
子どもってのは賢いから
大人が笑うものを見て喜ぶんですよ。
子どもにこびて作ると
子どもにバカにされるんですよね。
それをね 守ってきたからじゃないかと
思うんですよね。
僕はね…
分かった! 僕らの場合は
テレビのいい時代ですよ。
それこそ…
…っていうところじゃないのかな。
あれは どうして
こんなんでおかしいのかな
このおかしさは何かな?
なんて考えたら 笑えないんじゃない。
まあ せいぜい言えば
何か悪いことをしたら
怒られるくらいのもんで。
ドリフ5人っていうのはさ オヤジがいて
社会をつくっていったように
結局 そういう日本の社会の
家族ないし会社と
自分たちの… 見てる人たちの
生活基準というのが
リンクしてたんじゃないのかな。
だから オヤジは
こういう存在だっていうのもさ。
(仲本)そう思うね。
昭和の日常や貧しかった
懐かしいあの日々をコントにしたドリフ。
笑い飛ばす たくましさ 心の豊かさが
そこにあった。
ドリフには やり残したコントがあった。
志村が亡くなる前に言ってたんですよね
僕がね。
同じコントをやっても
全然違うと思うから。
昔やったもんでもいいから
70になって こんなことをやります。
見てくれると思うんですよ お客さんは。
若い時 こんなふうにできたんだけども
今やると こんだけ 間が空きますと。
その間が 味になるんですよね。
年とってくると。
まあ いわゆる
名人っていうことになるんです。
志村が やっぱり… よし これからだな
みんな名人になれるなっていうんで。
志村 よし 70になった
いいぞって思ってたら
志村が コロナで
亡くなっちゃったんですよね。
これがね やっぱり一番つらかったですね。
今年の3月 私たちに衝撃を与えた
志村けんさんの突然の訃報。
日本国内だけでなく 海外からも
その死を悼む声は絶えませんでした。
ドリフの笑いが 言葉の壁を超えた
笑いだったことの証しです。
こんな言葉があります。
50年も前から 笑いのためなら
どんな苦労もいとわず
見る者全てを笑顔にしてしまう男たちが
そこに確かにいました。
?~
?「夏の夕暮れ 光る海」
番組で紹介したイラストは
高木ブーさんが
何年も書きためてきたもの。
自分がドリフの一番の大ファンだという。
僕の場合はね
ドリフ以外の人は出てこないの。
5人は 東京オリンピックや
コロナ禍の中でも
いつまでも ずっと一緒だ。
仲本工事さんは 居酒屋経営を続けている。
なんか やるんなら
居酒屋だなと思ってた。
っていうことは
若い人と接することができる 一番。
(取材者)料理したりするわけですか?
料理は…。
全く。 仲本さんは全く。
全く。
おつかいぐらいです。
(笑い)
ちょっと足りないものを
買いに行ってもらったりとか。
まだまだ 発信し続けるエネルギーは
変わらない。
そして 加藤 茶さんは。
僕自身は やっぱり
生涯コメディアンでいたいんで。
やっぱり いくつになってもね
笑ってもらいたいって気持ちが
あるんですよね。
だから やっぱり
まあ 死ぬまでバカでいたいですね。
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