六四天安門大虐殺
『ニンジャバットマン』観ました。
釘宮理恵の悪役は良いですね。悪くぎゅの声、もっと聞きたい。
次は『アメリカン・アサシン』と『ウィンチェスターハウス』を観に行く予定。
うほっ、物騒なタイトル!
このタイトルを見て無抵抗な人民を戦車で轢殺したり銃殺しまくる人民解放軍のゴアゴアな描写を期待した人には残念だが、そういうシーンはない。
だってそうだろう、自分がむごたらしく殺されたくだりを嬉々として話したがるやつなんているものか。
かといって完全スルーするわけにはいかない。俺がこうなった背景を少しは説明しないと、あらすじで「天安門で虐殺された青年です」て書いてあるだけじゃあ説明不足ってやつだ、感情移入できないだろう。
そんなわけで今回は一人称小説だ。そのほうが語りやすいからな。
香港人の俺がなんであの時、あの場所にいたのか。それは後世の歴史書に六四天安門事件と記される虐殺の一年前にある人に出逢ったからだ。
オーナーの趣味でわけのわからない作品をいくつも上映していて、GEEKの俺はよく入り浸っていた。本当にヘンテコな映画ばかり上映していたよ。ブルース・リーが地獄で座頭市やジェームズ・ボンドと死闘を繰り広げる版権ガン無視の自由すぎる映画や、地球に襲来した宇宙人を関羽が撃退するトンデモない内容の映画だ。
嘘だと思うなら『李三脚威震地獄門』、『關公大戰外星人』で検索してみるといい。本当にあるんだから。
その日はインドの映画を上映していた。字幕や吹き替えなんてお上品なものはなし。タミル語だかテルグ語だかでこまかい内容はわからなかったが、女神カーリーが女をいじめる悪い男どもをぶちのめす痛快活劇だ。
どこの国のどんな映画だろうと、いきがっているクソったれどもをぶっ殺す映画を観ると気分が良くなる。ニコニコしながら席を立った俺は、俺以外にももう一人客がいたことに気づいた。
女だ。
俺とおなじくらいの年齢の、若い女だった。
しかも、とびきりの美人だ。
いや、もちろんあの時代の俺はこのふたりを知らないよ。あの時はジョイ・ウォンやムーン・リーみたいな美人だと思ったっけ。
とにかくすごい美人てことだ。
「あー、おもしろかった!」
彼女は満面の笑みを浮かべて、俺に話しかけてきた。
嗚呼、俺に李白や杜甫のような詩才がないのが恨めしいぜ。闇夜に花が咲いただの、暗闇に月生じた月明かりがどうたらと、詩的に彼女の美しさを歌ってやるのによ。
雲想衣裳花想容――。てな具合にさ。
「インドでは中国以上に女性が虐げられているわ。男尊女卑なんて言葉が生ぬるいくらいに」
「あ、ああ。酷い」
「けど、男尊女卑というのは一種の交換条件よね」
「え?」
「女性は殿方の後を従い、可憐で従順な淑女でいることと引き替えに庇護される。これもひとつの生き方、選択、文化だわ」
「……それを良しとする人にとってはいいけど、そうじゃない人にも自立の道を選ぶ権利と自由はあるべきだ」
「そう! それよそれ!」
俺はゲロと小便の臭いがする糞汚い場末の映画館の中で、花の香りのする女子と論ずることになった。
「男女平等って言うけど、体の作りがちがうんたから完全に一緒にはならない。男には男の得意なことと苦手なことが、女には女の得意なことと苦手なことがあるんだから、たがいにたがいの苦手な部分を補うのが理想の関係じゃないかな。陰陽合一ってやつ?」
「他者から与えられた平等や優遇をあさましく求めるのは勘違いした女性特有の醜態だわ。真の男女平等とは言えないわね」
「ところでさっきのインド女性の話だけど、サティーという風習は知ってる?」
「ええ、知っているわ。コルセットや纏足も女性を虐げ束縛する悪しき習慣だけど、サティーはそれ以上に野蛮で愚かよ。イギリス人はインドを植民地支配したけど、タギーとサティーを撲滅したことは評価されるべきね。あ、タギーて知ってる?」
「知ってる。カーリーを信仰する殺人集団だろ。さっきの映画には出てこなかったけど」
「あなた、物知りね」
「君こそ」
「イギリス人は世界中を荒らして回って、中国にも侵略したけど少しは人類に貢献しているわ」
「円明園を破壊したのはゆるせないけどね」
「あれはゆるしがたい蛮行よ! けど阿片戦争は議会で賛成二七一票、反対二六二票の僅差だったから、まだイギリスにも良心は残っていたことになるわ。ベトナムに侵攻した中国はどうだったのかしら『懲罰』を理由に軍隊を動員して他国に攻め入るだなんて、近代国家のすることじゃないわ」
「同意だね。北京の連中は自分らがチベットやウイグルで
こうして公の場で政権批判ができるのは、ここは中国本土ではなく香港だからだろう。
あれこれ話し続けるうちに、俺たちはたがいに名乗っていないことに気づいた。
彼女が恥ずかしそうに自己紹介した。
「笑わないでね……、あたしの名前は
「藍蘭。とても良い名前だ! 韻を踏んでいて美しく芸術的な響きがする」
「そ、そうかしら」
「ダブル・イニシャルってのも良いね。クラーク・ケントやピーター・パーカーみたいでかっこいいよ」
「うふふ、ありがとう。貴方の名前は?」
「
「なによ、あなたこそダブル・イニシャルじゃない! ところであたし藍采和の六〇代目の子孫なの」
「ほんとうかい!?」
「嘘に決まってるじゃない。こんなこと信じるだなんて、あなたがはじめてよ」
「君は仙女のように綺麗だから、仙人の子孫だって言われても違和感ないよ」
俺たちはすっかり意気投合して、その日からつき合いだした。
信じられるか? 場末の小汚い映画館でとんでもない美人と偶然に出会って恋人になるだなんてさ。まるでタランティーノが脚本を書いた映画みたいじゃないか。
それまでの俺の世界といったら、映画館と酒場くらいだった。だが彼女はもっと広い世界を案内してくれた。
西安の大唐芙蓉園の夜景と水幕映画、雲南省昆明の鍾乳洞、張家界の奇景、馬祖の一線天――。
あちこちを見てまわった。
あとで知ったが彼女の祖父は抗日戦争と中国革命の英雄で、巧妙な戦術で日本軍を翻弄した義勇軍の猛者だったようで、中国全土に知己がいるようだ。
国民党軍にも人民解放軍にも属さず、少数の私兵を率いて侵略者に立ち向かった勇者だ。
当時の中国は侵略してきた日本軍も、それと戦う国民党軍も各地で略奪や虐殺をおこない、ゲリラ戦で数多くの民間人を巻き添えにした人民解放軍も同様の兵匪だった。
そんななかで略奪も虐殺もせずに純粋に抵抗を続けた彼女の祖父は真の英雄だね。まさに岳飛さ。
だが良くも悪くもそのことで官に疎まれ、民に慕われて微妙な立場らしい。
彼女にもその血が色濃く流れていたようで、中国の民主化のための運動をしており、学生など若い連中からは『民主の女神』とか呼ばれているらしい。
よくイミグレーションに引っかからずにあちこち行けたものだよな。祖父のコネのなせる業かな。
でもなるほど、いきなり男女平等だとか政権批判したのはそのせいかと、妙に納得したよ。でも彼女は俺の前ではあまり政治的な話はせず、妙な集会に勧誘もしなかった。
あちこち旅行に行くか、香港で『ゴーストバスターズ』や『ネバーエンディング・ストーリー』『ラビリンス/魔王の迷宮』『ダーククリスタル』『銀河伝説クルール』『ミラクルマスター/7つの大冒険』『レディホーク』『ストリート・オブ・ファイヤー』『フットルース』とか、映画を見まくった。
ああ、『捉鬼敢死隊』や『Labyrinth』みたいな中国語タイトルや原題じゃなくて日本人の読者にわかりやすく邦題で言ってるんだからな、ファンタジーじゃがいも警察みたいな野暮なツッコミはするなよ。
映画鑑賞に旅行。まさに恋人同士だ。おたがいに楊過と小龍女なんて呼び合うほどラブラブだった日々は一年ほど続き、終焉を迎えた。
一九八九年の六月四日に。
その年の四月下旬。一〇万人を越す学生や市民が天安門広場で民主化を求めるデモを行った。その流れは西安や南京といった地方都市にも広まり、香港にいた彼女は居ても立っても居られず、北京へ向こうことにした。
一人で行かせるわけにはいかないよな。当然俺も彼女についていった。
荀子曰く。
君は船なり。
民は水なり。
水よく舟を載せるもまたよく船を覆す。
載舟覆舟や君舟民水という言葉があるが、まさにこの時の民衆は舟を覆す荒れ海原、大海嘯。圧倒的なパワーだった。
そう、力だ。
それはもう、数の暴力だった。
日本の軽小説にこんな含蓄のある言葉があっただろ。
暴力には二種類ある。支配し抑圧するための暴力と、解放の手段としての暴力が。
てさ。
そのことを実感したよ。
俺は、俺たちはその時に民衆の暴力を目の当たりにした。
中国人民解放軍のトラックが襲撃されて武器弾薬を奪い、兵士のひとりにガソリンをかけて燃やして橋から吊るしたんだ。
こんなことをしたら、どうなるか、もう彼らは考えることができなかった。
熱狂した人々は理性も想像力も失い、圧政に対する怒りと不満を爆発させたんだ。
俺と彼女は彼らを止めることはできなかった。
暴徒と化した人民に飲み込まれないようにその場から逃れようとした、その時。軍隊が人々に発砲をした――。
まぁ、やつらも怖かったんだろうよ。
共産党を弾劾する人々の姿に、権力者や知識人を吊し上げた、かつての紅衛兵でも思い出したんじゃないかな。
だからといって自分を殺したやつをゆるせることはできないがな。
そう。俺と彼女は混乱のなかで銃撃を受け、死んだんだ。
死体は人民解放軍の手によって焼かれ、まともに埋葬されることはなかった。
民主化を叫び暴徒と化した民衆。
それを武力で制圧した政府。
どちらに非があるのか、どちらが悪いか。
彼女は普段からよく言っていたよ、この世には絶対的な正義は存在しない。てさ。
それと、世の中で最も危険な思想は悪ではなく正義だともね。
悪には罪悪感という歯止めがあるけれども、正義には歯止めなんかないものだから、いくらでも暴走すると。
過去に起きた戦争や弾圧や反乱やテロリズムや大量虐殺も、多くの場合はそれが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだと。
まぁ、そうなんだろうな。
だが、こんなふうに達観できたのはわりと最近だ。死後の俺は怒りと憎しみでいっぱいだった。
民衆の一部が暴徒化したからといって、すべての人々を、無抵抗の自国民を戦車で轢いたり銃殺していいはずがない。そもそも
聞くところによると小説家になろうに投稿されている作品が中国のサイトに無断転載されているそうですが、天安門というワードがあったり中国共産党批判しているこの作品も、載せられることができるんですかねぇ。