第111話 黒の騎士、その名は
手紙に書かれたすべての文章を読み終えた時、貴久は呆然と立ちすくんでいた。
頭の中が真っ白になりかけていて、口の中に苦いものが広がるのを感じる。
「なん、だよ。これ……」
貴久の顔が凍りついたように固まり、絞り出すように震える声が上がる。
何が何なのかまるでわけがわからなかった。
揺らぐ心を抑えることができない。
もう何年も一緒にいるのに、知らなかったのだ。
美春に自分以外の幼馴染がいたことも。
亜紀に自分以外の兄がいたことも。
そんな過去を抱えている素振りなんて、美春も亜紀もまったく見せていなかったから。
この世界に来るまで。
失うことなど、考えたこともなく。
与えられたもののことを何も知らず、何の疑問も抱かず。
誰かに守られて。
幸せだけを
「あ、あのタカヒサ様?」
尋常でない様子の貴久を心配して、キアラが声をかける。
が、彼女の声が貴久に届くことはない。
(彼は美春の幼馴染で、美春が好きで、亜紀の兄だった?)
貴久が
かつて天川春人であったリオが美春に告白したという。
もしかしたら美春の好きな人物とは天川春人のことなのではないか。
だから美春は無意識のうちにリオに天川春人の面影を感じているのではないか。
貴久はふと、本来自分がいるべき立ち位置に、リオがいる姿を想像した。
美春がいて、亜紀がいて、雅人がいて――。
「っ……!」
ひどく不快な拒絶感に襲われた。
事実を事実としてイメージしようとすることができない。
したくもない。
リオが、ハルトが、あんな人間が美春達のすぐ傍にいるなんて――。
「卑怯……そう、卑怯だ。卑怯じゃないか。彼のしていることは……」
貴久がおもむろに独りごちり始める。
「彼は嘘を吐いていた。美春と亜紀を騙していた」
恩で美春を縛ろうとしている――、同情で美春を引き止めようとしている――、表向きは『美春達の意志を尊重する』なんて耳触りの言葉を口にしておいて、その実は美春の意志を誘導しようとしていた。
そう、リオは美春達を騙し続けてきたのだ。
美春達を裏切っていた。
なんて自分勝手な人間なんだろうか。
「必要だからって人を傷つける? 人を殺す? ありえないだろ。そんなの!」
次第に感情が高まり、貴久が
必要だからといって人を殺せるような神経がまったく理解できない。
仮にも日本人だったというのなら、普通は必要があるからといってそう簡単に人を殺すことなんてできないだろう。
日本では正当防衛だって人を殺せば社会的に後ろ指を指されることもあるのだ。
生きるために必要ならば人を殺せるだなんて、そんな簡単に割り切ることは絶対に間違っている。
そんな人間に共感はできないし、美春達が言う良い人という評価にも違和感がある。
ましてやそんな人間が美春達のすぐ傍にいると思うと不安で仕方がない。
そうして強い
沸き立つ感情を抑えきれない。
混乱して、興奮して、頭がくらくらする。
まるで天地がひっくり返ってしまったようだ。
だが、それでも、はっきりと認識できる想いがあった。
「美春が人殺しなんかと一緒にいるなんて、許されるはずがない」
ぼそりと貴久はつぶやいたのだった。
☆★☆★☆★
貴久が苦虫を噛み潰したような顔で廊下に立ち尽くしていると、声をかける人物が現れた。
「タカヒサ様、どうかなさったのですか? このような場所で三人そろって……」
侍女のフリルを引きつれたリリアーナだった。
フランソワとの面談を終えて、部屋へと戻るために廊下を歩いていると、貴久の姿を目撃し近寄ったのだ。
「ああ、リリィ……。もう終わったんだ」
リリアーナの存在に気づきはしたものの、貴久の反応は鈍い。
心ここにあらずといった感じだ。
「ええ、後は正式に同盟締結の調印を済ませるだけでしたから……。キアラ、何かあったのですか?」
貴久に語りながら、リリアーナがキアラを見やり、状況を確認するべく尋ねる。
「も、申し訳ございませんでした! リリアーナ様。実は――」
キアラが青ざめた顔で謝罪すると、リリアーナに事情を説明し始めた。
主観的な評価は
そうしてキアラが説明を終えると、リリアーナは悩ましげに
「手紙の修復を図ろうとした心意気は……まぁ、
と、リリアーナが苦い顔つきで、キアラの非を責めるように言う。
「本当に申し訳ございませんでした! まさか
手紙を開封した時点で中身を見られたという推定はどうしても働いてしまう。
ならば、くしゃくしゃになった手紙をそのまま返すよりは、あらかじめ可能な限り修復した方が謝意が伝わると、キアラは考えたのだ。
だが、後になって冷静になって考えてみると、実際に手紙を取り出したことは明らかに悪手だったと言わざるをえない。
「まだ騎士になって日の浅い貴方が経験不足であることは百も承知のことです」
王族であるリリアーナの近衛騎士は家柄よりも性別、武力、忠誠といった項目を重視して選ばれている。
女性の騎士はもともと数が非常に少なく、結婚してしまえば引退してしまう者も多い。
そのため、年齢の若い者ばかりになってしまうことはやむを得ない人事でもあった。
とはいえ、性別が同じで年齢が近い方が何かと都合が良いというメリットもあるのだが。
「ですが、貴方が王女である私専属の近衛騎士であるという事実は変わりません。今回のように想定外の事態が起きたとしても、完璧な対応をすることが要求されるのです。こういうケースには落ち着いて対処しろと教わったはずでしょう?」
目上の人間が目の前で客観的に犯罪に該当しかねない行為を堂々と行い始めたら、動揺するのも無理はないことなのかもしれない。
何よりキアラは騎士で、武官であっても文官ではないので、今回のようなケースの対処は専門外と言えなくもないだろう。
だが、それでも王女の側近として仕えている以上は、常に完璧な仕事が要求されるのは当然のことだ。
「はい……」
キアラが消沈した様子で
結果が伴っていない以上、「落ち着こうとはしていました」などと反論することなどできるはずもなかった。
口でなら何とでも言えるのだから。
「規則を重んじる真面目な性格は貴方の長所ですが、短所でもあります。マニュアル外の事態が起きると途端に融通が利かなくなる傾向が見られますよ?」
そういう人間は概して他人が自分と同じ価値観を共有して決まった通りに動くものだと錯覚していることが多い。
「はい……」
「まぁ、本来ならば真っ先に事態を報告すべき私が不在であったが故の行動でもあったのでしょうが……、反省点は今は捨て置きましょう。それよりも――」
言って、リリアーナが貴久に視線を移す。
キアラが叱責されている姿を見て少しは冷静になっていたのか、貴久は顔をしかめながら、バツが悪そうにしていた。
「タカヒサ様」
凛と良く通る声で名前を呼ばれると、貴久の身体がびくりと震えた。
「今の話はお聞きになりましたか?」
「……うん。ごめん。でもキアラは悪くないんだ」
貴久が申し訳なさそうに頷き、告げる。
「いえ、今回の事態はキアラの責任でもあります」
リリアーナがきっぱりと
「悪いのは俺だよ。キアラを叱るなんて理不尽だ」
自分のせいでキアラが怒られるなんて嫌だ。
そう思って、貴久が反論する。
「キアラには私の不在時にはタカヒサ様の補佐を命じていました。いくら勇者とはいえタカヒサ様も私達のようにミスはすることでしょう。それを補うために私達は存在しているのです」
いつもならば無条件で貴久の意見を尊重するリリアーナであったが、今回はにべもなく貴久の主張を否定した。
「……でも、それでも俺が悪い。キアラは悪くないよ!」
貴久がムッとした表情で言う。
「タカヒサ様……」
リリアーナが困ったように嘆声を漏らす。
今まで彼女は可能な限り貴久の意志を尊重し続けてきた。
まだ大人になりきれていない子供ゆえに人生経験が不足していることも関係しているのだろうが、熱くなると考えるよりも先に感情が言動に現れてしまうのは貴久の悪い性質だ。
本人もそれを薄々と自覚しているようだが、それでこれまでの短い人生で取り返しのつかない致命的な失敗したこともなかった。
ゆえに貴久はそんな己の気質を直そうとは思っていなかったようである。
リリアーナもそんな貴久の一面を好ましいものとしても捉えていた。
だから、早急に矯正しようとは考えていなかったし、王女として与えられた役割上、貴久を引き込むために彼にとって都合の良い存在を演じてきた面がある。
だが、今回ばかりはこれまでと同じようにはいかない。
勇者だから何をしてもいいなどと、貴久をそんな傲慢な人間にさせるつもりはリリアーナにはないのだから。
勇者を国に引き込むことを重視するあまり、
何よりリリアーナも必要な場合を除いて権力ですべてを解決するという力技をあまり好んでいない。
それに、今回は力技で解決するのが悪手だと考えてもいる。
ここがセントステラであれば色々と融通も効くのであろう。
しかし、被害者であるリオはガルアーク王国の貴族であるし、ガルアーク王国内ではリリアーナも自由に権力を振るうことはできないのだから。
「親告罪ではありますが、貴族の書いた手紙の封を故意に破くことは犯罪です。それをご理解なさっていましたか?」
落ち着いた声で、リリアーナが尋ねた。
貴族が書いた手紙の中には重要な機密事項が書かれていることが多いため、故意によって手紙の封が破かれた時点で機密が侵害されたものと擬制され、処罰の対象とされている。
害された秘密の程度が著しい場合には死罪に値するほどの重罪となってしまうし、そうでなくてもプライバシーを侵害するという側面があるから道徳的に褒められた行いでもない。
なお、開封された手紙の内容を勝手に他者に伝えたりした場合は開封行為とは別に処罰の対象になっていたりする。
「え……?」
予想外の言葉に、貴久が動揺したように目を丸くする。
確かに他人の手紙を勝手に開けることはいけないことだ。
でも、それが犯罪になるなんて――。
封を破いてしまったのは不可抗力で、手紙の文章が目に入ってしまったのも不可抗力。
確かに、そこから手紙の内容を読み込んでしまったのは過失かもしれないけれど――。
などと、貴久が反射的にそんな自己弁護を内心で行いかける。
だが、すぐに気づく。
――だ、駄目です。貴族が封をした手紙を宛先人以外の者が勝手に開封することは犯罪なんですよ?
亜紀の手紙を読んだ時はともかく、美春の手紙を読む時、ひどく動揺したキアラから明確に犯罪になると
「……あ」
「どうやらご理解なさっていたようですね」
言って、リリアーナが深く息を吐く。
「いや、でも……。わざと破ったわけじゃないし」
納得がいかない様子で、貴久が表情を曇らせる。
今回の事態はあくまで過失によるものだと、強く思っているのだ。
だから、貴久には罪を犯していたという意識がなかった。
「確かに処罰されるのは故意による開封行為となります。今回のような過失による開封行為を処罰することはできないでしょう。ですが、タカヒサ様は開封後に修復の意図を越えて手紙を読まれてしまいましたね?」
「っ、それは……」
おっとりとした普段の調子とは異なるリリアーナの声色に、貴久が
「タカヒサ様が手紙を読んだ事実が明らかになれば、開封行為自体が故意であったと推定が働き処罰の対象となることでしょう。このままハルト様が訴え出れば、裁判が行われることになります。それを防ぐためにはハルト様から許しをもらう他にありません」
味方になってくれるはずのリリアーナから突き放すように言われ、貴久は思わず息を呑んだ。
「裁判って、そんな大げさな……」
「大げさかどうかは手紙の内容次第と被害者の意志次第ですが……、タカヒサ様は勇者であらせられますので、仮にハルト様が訴え出たとしても、政治的な事情が働き責任を問うことはできないでしょうね」
勇者に国の裁判権は及ぶのか。
根本的にはこの問題が争点となるのであろうが、これすらも政治的な事情で判断が回避され、最終的に貴久が刑事責任を追及されることはないはずだ。
他に問題が生じるわけでもなくめでたしめでたし、とここがセントステラ王国内であればそうなったのであろうが、ガルアーク王国内での出来事になるとそうは
仮に裁判が起きれば、おそらくガルアーク王国に対して借りを作ることになってしまうことは容易に想像がつく。
そうならないためにも、正式にリオに謝罪を行い、告訴しないように頼む必要があるだろう。
「で、でも、そ、そんな危険な代物なら、貴族の手紙なんて誰も預からないんじゃ……。今回みたいに過失で開封したら厄介だし」
貴久が
開封すればどうなるか、何の説明もなしに手紙を預けるなんて、なんて不親切なんだろう。
そもそも美春のことは俺だって好きなのに、恋敵にあんな内容の手紙を預けるなんて無神経すぎる。
自分の手で手紙を渡せば良いのに、どうして俺に預けたのか。
そもそも美春はリオの下に残ろうとしていたのだし、美春はリオのことが好きなのだ。
焦って渡さずとも自分で手紙を渡すことはできた。
なのに急ぐように手紙を渡そうとした理由がまるでわからない。
と、先の手紙の内容を思い出して眉をひそめながら、貴久が今回の一件とは別に逆恨みに近い感情をリオに抱く。
「今すぐにハルト様のもとへ謝りに参りましょう。私も一緒に頭を下げますから」
リリアーナが優しい声で提案した。
まるで悪いことをしでかした子供の反省を促すように。
「いや……」
貴久が露骨に心理的な抵抗を露わにした。
リリアーナがスッと目を細くする。
「では、どうなさるというのですか?」
「それは……」
貴久が返事に詰まる。
リオに謝罪すれば美春達にもこの手紙の内容が伝わることだろう。
もしこの手紙を美春に渡してしまったとしたら?
その先を想像して――。
駄目だ。
と、貴久が強い拒否感を覚える。
許してはいけない。
許されるはずがない。
だって、リオは嘘つきで、人殺しなのだ。
リオは美春達のことを助けて、生きる術すら持たない美春達を保護し続けてくれた。
美春達もリオには強い感謝の念を抱いている。
だから、貴久もリオに一緒に来てくれないかと誘いもした。
そうすれば美春も来てくれるだろうから。
美春とリオの距離が接近していることは薄々と感づいてはいたけれど、嫉妬してはいけないと感情を抑えようとしてきた。
なのにリオは裏切っていた。
歪んだ復讐心に捕らわれた人殺しだった。
そんな危険な男が美春と一緒にいたいなどと、虫のいい話が通るはずがない。
人を殺したことのある汚れた手で、美春を幸せにできるはずが、美春と一緒にいる資格があるはずがないのだ。
美春を近づけるわけにはいかない。
「まさか事実を隠せと?」
僅かに顔をしかめ、リリアーナが
「彼は……危険だ」
貴久が
リリアーナはその返答の真意を計りかねたが、貴久が言外に問いを肯定していることだけはわかった。
「仮に私がタカヒサ様に協力して事実を隠そうとしたところで、いつか必ず綻びが出るはずです。そのようなこと、私が申し上げるまでもなくおわかりでしょう?」
事実を隠すとなれば美春達がリオと接触する前に国に連れ帰るしかない。
だが、それはこの場限りの時間稼ぎにしかならないだろう。
無理に連れて帰ろうとすれば美春達が抵抗して騒ぎになるかもしれないし、上手く騙して連れて帰れたとしてもいつかは騙されていたことに気づく可能性が高い。
それに、リオが貴久に手紙を渡したことはシャルロットが目撃していたし、沙月もリオが手紙を渡そうとしていたことは知っている。
後日、沙月が美春達と会えば
「それでも……。きっとその方が美春達のためになる」
貴久が僅かに自信なさげにつぶやいた。
「彼は誠実さを持って私達に、いえ、タカヒサ様がミハルさん達と会うことをお許しくださいました。なのに貴方は犯した罪を隠蔽するという不誠実極まりない仕打ちをもって彼に応えるというのですか?」
リリアーナが問いかける。
リオは貴久のことを亜紀や雅人の兄として信頼してくれたのに、貴久は罪を犯してまでその信頼を裏切ってしまった。
悪いのは貴久を信頼して手紙を手渡したリオか、リオの信頼を裏切って勝手に手紙を読んだ貴久か。
どちらなのか、と。
「リ、リリィ……。それは違う」
リリアーナの真摯な訴えが、貴久の胸に深く突き刺さる。
彼女だけは自分の味方でいてくれると、貴久は心のどこかで当たり前のように思っていたのだ。
なのにどうしてわかってくれない?
いや、リリアーナは知らないだけだ。
リオが美春達を騙してきたということを――。
「ち、違う、違うんだ……。彼をみんなと、美春と会わせちゃいけないんだ」
何とか事情を説明しようと、貴久が必死に訴えかけようとする。
だが、リリアーナは悲しそうに瞳を揺らすと、
「タカヒサ様、私達はハルト様に約束したはずです。ミハルさん達の意志を尊重すると。それすらも裏切られるのですか?」
貴久の顔を深く覗きこみ問うた。
「違う。意志が、その意志が……誘導されているのが問題なんだ! 美春達は騙されている!」
「意志が……誘導されている?」
穏やかならざる貴久の物言いに、リリアーナの反応も僅かに変わる。
もちろん貴久の言い分を聴かなければ詳しい事情を判断できない。
だが、突っ込みすぎれば手紙のプライバシーを侵してしまうことになりかねない。
普段は凛と咲いた花のようなにこやかな笑みを覗かせているリリアーナであったが、この時ばかりは逡巡するような表情を覗のぞかせていた。
「……彼がみんなと一緒にいることで不幸になるかもしれない」
貴久が内容をぼかすようにして告げた。
天川春人は過去に死んだ人間だ。
でも、綾瀬美春は今を生きている。
なのに、死んだ人間が生きている人間のことを好きになるなんて、許されるはずがないだろう。
幸せになれるはずがない。
死はそんなに軽いものじゃないはずだ。
リオにはその意識が欠けている。
美春だって春人が死んだことを知れば悲しむだろうし、あえて春人の過去を伝えるなんて、そんなの春人の、いやリオの自己満足にすぎないだろう。
貴久が己の中でそう理屈づける。
「間違っている。そう、間違っているんだ。彼のしていることは間違っている……」
「その手紙にそれだけの秘密が書かれていたのですか? 知ればミハルさん達が不幸になると?」
「うん……」
貴久が首肯した。
「そうですか……」
その文章を、その手紙をどのような意図で書いたのか、それは書いた本人しか知らないことだ。
どのような受け取り方をするのかは読み手次第――。
今回、手紙に書かれた事実に主観的な評価を与えて結論を出しているのは貴久である。
だから、本当は貴久が言うような危険なんてないのかもしれない。
リリアーナはそう思った。
とはいえ、もしかしたら本当に貴久の言う通りの危険がある可能性だってある。
下手をすると美春達の生命、身体、精神に害が及ぶ危険性が――。
しかし、それはリリアーナ自身も手紙を読まなければ判断できないことだ。
「ではハルト様の下へ参り、謝罪をしたうえで、その真意を
謝罪は必須、そのうえで真相を
この場で部外者が勝手に詮索するべき事柄ではない。
仮に貴久が間違っていれば事態は悪化するだけなのだから。
リリアーナはそう判断した。
「だ、駄目だ! それは駄目だ!」
貴久が色を失い叫ぶ。
そんなことをすれば美春が――。
「どうかなさいましたか?」
傍を巡回していた騎士が歩み寄って来て、尋ねてきた。
先ほどから声を荒げて廊下で喋っているため、他国の王族と勇者とはいえ不審に思ったのだろう。
「いえ、なんでもございません。どうぞ警備に戻ってくださいませ」
「……承知しました。現在、城内は物々しくなっておりますゆえ、不審な行動はお控えください」
「ええ。わかっております」
リリアーナが笑みを浮かべて言うと、騎士は深く突っ込むことはせずにその場を立ち去った。
「タカヒサ様、あまり大きな声はお出しにならないでください。今、お城の警備は準戦闘態勢で敷かれており、兵士達は皆殺気立っています。それにアキちゃんに気づかれますよ?」
「ご、ごめん。でも駄目なんだ。彼を美春に近づけちゃいけない」
「つまり……ハルト様に事実を伝え、謝罪されるおつもりはないと?」
「……ごめん」
貴久が後ろめたそうに視線をそらした。
「謝罪すべき相手は私ではありません」
リリアーナが嘆息しながら告げる。
「俺は、俺は……」
貴久が何かを言おうとするものの、すらすらと言葉が出てこない。
何から、いや何を喋ればいいというのだ。
「彼が美春達を――」
それでも貴久が説明しようとすると、
「お待ちください。今それを私が知るわけにはいきません。当事者の許可があるまでその手紙の内容は差出人と宛先人だけのものです。無闇に口外すれば今度こそ犯罪になってしまいますよ?」
リリアーナがストップをかけた。
貴久が面食らう。
「先にハルト様に手紙を渡せないのなら、今からミハルさん達に手紙を渡しませんか? その上で彼女達に判断してもらうべきとも思うのですが……」
手紙が及ぼす影響に関する貴久の主張には、彼の主観による評価が多分に含まれているはずだ。
貴久が評価した結論と美春達が評価して出す結論が必ずしも一致するとは限らない。
リリアーナはあくまでも冷静にそう考えていた。
だが、
「だからそれが駄目なんだ!」
と、貴久が悲痛な面持ちを浮かべて声を荒げた。
「タカヒサ様。ハルト様に謝りたくもない。ミハルさん達に手紙も渡したくない。そんな都合の良い真似ができるとお思いですか? ハルト様から手紙を預かったのでしょう?」
「でも、そうしないと……」
美春が善人の皮を被った人殺しのもとへ行ってしまう。
貴久がそう言いかけたが、リリアーナに止められて、それを口にすることはできない。
どうしてわかってくれないんだ?
いつもなら俺の言うことを何でも信じてくれたのに、なぜ?
貴久の顔が今にも泣き出しそうに歪む。
彼の脳裏を支配するのは美春を奪われるという恐怖とリオへの軽蔑だけだった。
「タカヒサ様、貴方はミハルさん達のことを大切に思っているのでしょう? ならば信じてさしあげませんか? ミハルさん達のことを。そしてミハルさん達が信じているハルト様のことも。私は信じております」
リリアーナがやわらかく語りかける。
「どうしてそんな簡単に大して知らない他人のことを信じられるのさ?」
貴久が疑心的な表情で尋ねた。
「ミハルさん達がハルト様を信頼しているからです。タカヒサ様はミハルさん達を信頼されているのでしょう。大事な人が信頼している人の事ならば、私はできる限り信じたいと思っておりますから。タカヒサ様もそのようにしていらっしゃると思っていたのですが……」
確かにこの手紙を読むまではリオのことを信じようと思っていた。
だが、今は――。
「それは……」
後ろめたそうに逸らしていた視線をリリアーナに向けると、貴久が唖然と言葉を呑んだ。
目の前にいる彼女はいつものように優しく微笑んでいる。
しかし、今のリリアーナから感じられる雰囲気はいつもとはまるで異なるように思えた。
貴久のよく知る無邪気で和やかな優しいリリアーナではない。
今の彼女は人の上に立って導く指導者としての顔をしていた。
「私はタカヒサ様を信頼しております。この三ヶ月間、
「リリィ……」
たった三ヶ月で俺の何がわかるんだと、貴久は言わなかった。
「ミハルさん達が信頼しているタカヒサ様だからこそ、ハルト様はタカヒサ様に手紙を託したのではないですか?」
「そんなこと……」
貴久が辛そうに表情を歪める。
「おそらくハルト様は私のことを完全に信用しきってはおりません。ですが、アキちゃんやマサト君の兄としてのタカヒサ様のことは信用されていると思いますよ。こうして再会を許してくれたことが何よりの証拠のはずです」
リリアーナが柔らかく微笑んだ。
美春達が望んだから、沙月も望んでいたから、リオは彼女達と貴久を信じたのだろう。
そうでなければ、美春達のことも、貴久のことも信用していないのなら、自分の考えだけを信じて、リオは独自の判断で美春達を連れてガルアーク王国から立ち去っていたはずである。
「貴方は信じられませんか? 大事な人達が信頼している人のことを」
「…………」
貴久が苦々しい表情で黙り込む。
本当に今の自分の考えは正しいのか?
心の内に微かな疑問が芽生え始めたが、苦悩を捨てきることができない。
嫉妬も合わさってリオに対する複雑な不信感を拭うことができないのだ。
人の心はそんなに都合良くできていない。
そんな貴久の戸惑いを察しているのか、
「謝りましょう。ハルト様に。信じましょう。皆さんのことを」
リリアーナがたたみかけるように言った。
「……駄目だ。……やっぱり駄目だ」
貴久が震えた声で告げる。
「タカヒサ様……」
リリアーナが顔を曇らせて、
「……ならば私はタカヒサ様の代わりにありのままの事実をハルト様にお伝えしに参らねばなりません。何も今回の出来事はタカヒサ様とキアラだけの責任ではありませんから、私も謝罪を行います。その後、ミハルさん達にも事実をお伝えせざるをえません」
と、そう宣言した。
「リリィ!」
最も待ち望んでいなかった言葉に、貴久がハッとして悲痛に叫ぶ。
すがるような目つきでリリアーナを見つめた。
何故そんなことを言うんだ、と言わんばかりに。
「タカヒサ様、どうか私にそのような真似はさせないでくださいませ。私はタカヒサ様の口からお伝えになってほしいのです」
リリアーナが真摯に訴えかける。
貴久は追い詰められたように顔を歪めた。
数秒ほど、二人が黙って見つめ合う。
「なら、なら……」
やがて貴久が焦燥した様子で口を動かし始めた。
次の瞬間、
「俺は勇者を止める! 止めて美春達を連れていく!」
貴久が怯えたように宣言した。
「なっ……」
貴久の衝撃の発言に、流石のリリアーナも驚愕して目を見開く。
黙って話を聞いていたキアラとアリスも呆気にとられている。
「我が国の勇者になってくださると、私に仰ってくれたではないですか。私と一緒に国を良くしてくれると……。あの誓いは、あの誓いすら嘘だったのですか?」
リリアーナが悲しそうに言う。
「嘘じゃない! 嘘になんかしたくないし、させないでほしい! 俺だってそんな真似はしたくないんだ。でもっ……!」
貴久が必死にわめいた。
「こうしなきゃ駄目なんだ。平気で人を殺すような男の側なんかに、美春達をいさせるわけにはいかない!」
貴久の発言に、リリアーナの表情にわずかに動揺の色が走る。
――平気で人を殺すとはいったいどういうことか?
リリアーナは貴久とジッと視線を交わして、しばし
「直近の発言は聞かなかったことにしておきます。……が、ご自身の発言に実現可能性があるとお思いですか? 勇者を止めて、ミハルさん達を連れて生きていくと?」
と、そう尋ねた。
「やるさ。いや、やらないといけないんだ」
貴久が気負うように答える。
不安定で、危うい。
己の考えが絶対に正しいと信じきっているのか、耳を貸そうとするつもりはまったくないようだとリリアーナは判断した。
今の状態では多少時間をかけたところで説得できるかはわからないし、このままでは
「……現実はタカヒサ様がお考えになっているよりもはるかに過酷なことでしょう。仮にその選択肢を選べば、そう遠くないうちに後悔する時が必ずくるはずです」
「……やってみなければわからない」
「やらずともわかりきっていることです」
リリアーナがばさりと切り捨てる。
「そんなことはない。リリィも知っているだろう。勇者としての俺の力は。俺の力なら大切な人達を守ることはできる」
「単純な力だけでは守れないものもあるのです。私が言うのもなんですが、王侯貴族はそういった
「……これ以上はお互いに平行線だよ、リリィ。君が言うような事態に俺はさせないし、このまま美春達を彼に会わせるわけにもいかない。リリィが邪魔をするというなら、俺はこのまま亜紀を連れて美春達も一緒に連れて行く」
貴久が言外にこれ以上は話を続けるつもりはないと匂わせた。
いつ美春と雅人がこの場に戻ってくるかもわからない。
その目からは最悪、手荒な真似も辞さないという不穏な決意が感じられる。
「リリアーナ様……」
物々しい雰囲気を察して、キアラとアリスが一歩前に出た。
「おやめなさい」
リリアーナが二人を制止する。
「タカヒサ様、譲ってくださるおつもりはないのですか?」
「……ない。俺はみんなを守らないといけないから。みんなが安全に生きていけるように」
貴久が苦々しい顔つきで、静かに語った。
リリアーナが悩ましげに顔を歪め、
「それは……。タカヒサ様の……」
何かを言おうとして、中断した。
それを口にしてしまえばこれまで築いてきた貴久との関係が完全に決裂してしまうように思えたから。
リリアーナが小さく息を吸い、数秒の沈黙が降りて、
「いえ、そうですね。……わかりました。タカヒサ様の要求に従いましょう」
ぽつりと、言った。
その声は小さく震えている。
本当にそれでいいのか?
と、――そう自身に問いかけるように。
「リリィ……」
貴久がホッと安堵したように息を吐いた。
「ただし、いくつか条件があります。それを絶対に破らないと約束していただきます。今後似たようなことは繰り返させはしません。万が一そうなった場合やタカヒサ様が仰ったような事実が存在しない場合には、私は容赦なく罰を与えます。後になって決して後悔してはなりません。それを身命に賭して誓ってでも貴方はこの選択肢を選び取りますか?」
覚悟のほどを問うように、リリアーナが冷ややかに尋ねる。
一瞬、貴久はその迫力に押されかけたが、
「……選ぶ。美春達が安全に暮らしていけるのならば」
決然と誓いの言葉を告げた。
「その言葉、確かに
リリアーナが静かに言う。
それから小さく深呼吸をすると、
「では、時間がないので詳しい条件は後ほどお伝えしますが、まずはそちらの手紙を渡してください。こちらで処理しますので」
続けて、そう語りかけた。
「この手紙を?」
「ええ、いかように処分なさるおつもりだったのですか? 中途半端な仕事をされても困りますので、こちらで処理したいのですが」
おずおずと
「いや、でも……」
「その手紙をこちらで処理することも私がタカヒサ様に協力する条件とさせていただきます。時間がないのでお早めにご決断ください」
「……わかった」
どこか渋る様子を見せていた貴久であったが、結局は急かされて手紙を渡すことに同意した。
リリアーナは協力してくれるのだし、どうせ彼女ではこの手紙を読むことはできやしない。
貴久から手紙を受け取ると、リリアーナがそのまま傍に控えていた侍女のフリルに手紙を手渡す。
「フリル、わかっていますね?」
「はい、姫様!」
フリルが元気よく頷き、手紙を
リリアーナはそれを確認すると、貴久に視線を戻した。
「タカヒサ様、必要な段取りをご説明します。三人のうち誰かの協力が必要不可欠となりますが、説得できる方はいらっしゃいますか?」
「……亜紀なら、俺が頼めば、たぶん」
少しだけ気おじした様子で貴久が答えた。
「では説得をお願いします」
「わ、わかった。やってみる」
「お願いします。では――」
☆★☆★☆★
リリアーナから必要な段取りを聞くと、貴久は即座に部屋へと戻った。
途中で美春達が戻ってきて話が中断しては不味いため、そのまま亜紀をリリアーナの寝室へと連れていく。
「亜紀、話があるんだ」
貴久がおもむろに開口した。
同席しているリリアーナは少しだけ難しい顔をしてじっと黙している。
「うん……。どうしたの?」
何となく重たい雰囲気を感じとったのか、亜紀がおずおずと尋ねた。
「実は今日の昼にこの国を出ることになった」
貴久が端的に告げる。
すると、亜紀が目を丸くした。
「ええ? ご、午後はハルトさんと沙月さんに会うんじゃないの?」
「ごめん。無理になったんだ」
動揺した様子の亜紀に、貴久がバツが悪そうに言う。
「無理になったって、まだ話もまとまっていないのに……」
亜紀が戸惑い顔を浮かべる。
「なぁ亜紀、俺と一緒に来てくれないか?」
すがるような顔つきで、貴久が単刀直入に
「も、もちろんお兄ちゃんとは一緒にいたいけど……」
話が唐突すぎるのか、流石に亜紀の反応は鈍い。
「なら頼めないか?」
貴久が焦燥した形相で頼みこむ。
「……美春お姉ちゃんと雅人はどうするの?」
亜紀にはまるで話がわからなかった。
あれほどみんなで一緒にいることにこだわっていたというのに、まさかこの二人をガルアーク王国に残していくというのか。
それとも今からでも説得しようというのか――、雅人はともかく、美春は明確にリオの下に残ると言っているのに。
「連れて行く」
貴久が硬い声で告げると、亜紀が
「ど、どうやって?」
「それを亜紀に協力してほしいんだ。頼めないか?」
「ええ? む、無理だよ」
流されがちに見えて、美春は一度自分で決めたことは簡単に譲らないところがある。
とても昼までに二人を説得できるとは思えない。
「頼む! あまり時間がないし、亜紀しか頼れる相手がいないんだ」
「で、でも、協力って言われても何をすれば……」
貴久が必死に頭を下げると、亜紀が気後れした様子ではあるが協力する姿勢を見せた。
「まずはこれから俺とリリィと一緒に王様に挨拶をしてほしいんだ」
「お、王様に?」
「ああ、亜紀は基本的にその場にいるだけでいいから」
不安げな亜紀に、貴久が語りかける。
「……美春お姉ちゃん達は?」
「戻ってきたら部屋を移動するからって言って、荷物をまとめてもらう」
「だ、騙して連れて行くの? ハルトさんと沙月さんは?」
亜紀がどぎまぎして尋ねる。
そんな真似、あの二人が聞いたら黙っているはずがない。
まだちゃんとした話し合いだってしていないのだから。
「……大丈夫だ。後日、沙月先輩と……ハルトさんにも、セントステラ王国に来てもらうことにするから。話し合いはその時にできる」
貴久が気まずそうに視線をずらし、争点をそらすように答えた。
だが、亜紀はそれでリオと沙月がこの話に関与していないと察する。
「ハルトさんと沙月さんに何も言わずにお別れなんてできないよ。心配させちゃうよ?」
「だから心配させないように、亜紀には王様の前で話がまとまったと言ってほしいんだ。あと、二人を納得させるために手紙を書いて欲しい」
「そんな……」
「昨晩、みんなが俺と付いてきてくれそうだって、沙月先輩とハルトさんには言っておいた。亜紀が手紙を書けば信じてくれると思う」
「そんなこと……言っちゃったの?」
今日の午後になればわかるような一時しのぎの嘘だったはずだが、確かにそれならリオと沙月を納得させることはできるかもしれない。
亜紀からの手紙だけでなく、王に挨拶もすれば平穏に去って行ったことになるから、説得力も増すだろう。
だが、それでも話が急すぎるし、そんな不義理を働くような真似をしていいのだろうか。
亜紀はひどく思い悩んだ。
「頼む! 俺はもう帰らないといけない。でも、せっかく再会できたのに、このまままたお別れなんて嫌なんだ。次はいつ会えるかもわからないのに!」
貴久が必死に頭を下げて訴えかける。
「お兄ちゃん……」
腰を低くした兄の姿を見て、亜紀は何だかいたたまれない気持ちになってしまった。
このまま貴久と別れたくないのは亜紀だって同じだ。
大切な家族とようやく再会できたのだから。
それに貴久にとって美春は初恋の相手だ。
きっかけは一目惚れだったかもしれないけれど、貴久は出会ってからずっと美春のことを好きでい続けてきた。
単純に容姿だけで美春のことを好きというわけではないし、その想いが本物であることに間違いはない。
だから亜紀には貴久の気持ちが痛いほどに理解できた。
「……わかった。いいよ。お兄ちゃんに協力する。私にできることなら」
じっと頭を下げ続ける貴久に、亜紀が思わず流されてしまい折れた。
いまだ悩ましげな表情を浮かべてはいるものの、明確に協力することを宣言する。
「亜紀……! ありがとう!」
貴久の表情がパッと明るくなる。
「でも、ちゃんとハルトさんと沙月さんを説得して、なるべく早く二人に会えるようにしてね。いくら緊急で帰らないといけないからって、そのままじゃみんなは絶対に納得してくれないと思うから」
亜紀が最低限譲れないラインを明らかにした。
「……ああ、そうだな。ハルトさんは用次第だと思うけど、沙月先輩とはなるべく早く再会できるように取り計らってもらうよ。なぁ、リリィ」
言って、貴久が少し気まずそうにリリアーナに水を向けた。
「……はい。国同士の関係もございますが、同盟国となりましたので、善処します」
リリアーナが
「ありがとうございます」
亜紀がおずおずと礼を言う。
リリアーナは少しだけぎこちない笑みを浮かべて返すと、
「それではタカヒサ様、あまり時間もございませんので。必要な説明に入りたいのですが……」
と、そう話を切り出す。
だが、貴久が僅かに逡巡した表情を見せて言った。
「ごめん。最後に一つだけ。なあ、亜紀、いいか? まったく関係のない話なんだけど……」
「うん、いいけど?」
亜紀が小首を
貴久は妙に尻込みしながら、
「天川春人なのか?」
ぼそっと、そう尋ねた。
「え……?」
あまりにも予想外な名前が聞こえたせいか、亜紀が呆然と顔に疑問符を浮かべる。
貴久の隣ではリリアーナがピクリと表情を動かしていた。
「美春の好きな人。その、もしかしたら天川春人っていうんじゃないのか?」
貴久がおそるおそる質問を補足した。
すると、亜紀は今度こそ質問の内容を理解したようで、
「な、なんでお兄ちゃんがその人のことを知っているの?」
泡を食ったように詰問し始めた。
その目つきは少しばかり、いや、だいぶ険しい。
「いや、まあ……」
不快さを隠そうともしない亜紀の反応に、貴久が呆気にとられた様子で言葉を濁す。
「もしかして美春お姉ちゃんに直接聞いたんじゃ……」
亜紀が情報の出処を特定しようとする。
「いや……、昔聞いたことがあるんだ。親父から。その、亜紀のお兄さんだったんだろ?」
貴久が誤魔化すように嘘を吐くと、
「違う!」
亜紀が断言した。
「あんな奴、兄なんかじゃない! 私のお兄ちゃんは貴久お兄ちゃんだけだから、やめて! そんなこと言わないで!」
ひどく怯えて焦燥した様子の亜紀に、貴久がびくっと震えた。
やや斜に構えている面はあるが、大人しい亜紀からはまるで想像できない反応である。
それだけ亜紀にとって、天川春人という存在は明確な地雷なのかもしれない。
貴久が悟った瞬間だった。
同時に亜紀にあの手紙を見せなくてやはり正解だったのかもしれないと自信が湧いてくる。
貴久は気づかぬうちにホッと安堵していた。
「亜紀……。ごめん。変なことを聞いた。忘れてくれ」
すまなそうに貴久が言う。
「あ、ううん。ごめん。私の方こそ……、急に叫んで」
亜紀もハッと我に返り、バツが悪そうに謝罪する。
リリアーナは目を丸くして二人の様子を見つめていたのだった。
☆★☆★☆★
午後、昼過ぎ。
シャルロットとの昼食を終えると、リオは沙月と一緒にその足で美春達がいるはずの部屋に向かった。
扉の前にはフリルが一人で待ち構えており、顔パスで室内に通されることになる。
「お待ちしておりました。どうぞ座ってください」
貴久の言葉とともに、一同がリビングの中央に置かれた椅子に腰を下ろした。
「美春ちゃん達はいないの?」
人の気配が感じられない室内を見渡しながら、沙月が尋ねる。
すると、一瞬、貴久が少しだけ顔をこわばらせて、
「すみません。実は
と、そう答えた。
一拍置いて、リオと沙月が呆気にとられたように、きょとんと目を丸くする。
「えっ? そうなの? な、なんで?」
沙月が泡を食ったように
「詳しいことは機密で言えないんですが、実は新たに成立した防衛同盟の件で早急に……」
貴久が硬い声で答える。
すると、沙月が納得しかねた表情を
「機密って……」
それだけの説明ではまるで要領を得ないではないか。
とはいえ、国の機密と言われてしまえば、尋ねたところで教えてくれるとも思えない。
沙月は戸惑い顏を浮かべた。
「……美春ちゃん達のことはどうするつもりなの?」
冷静たらんと心を落ち着け、沙月が最も肝心な質問を投げかける。
「俺と一緒に帰国してくれることになりました」
貴久が静かに告げた。
ということは、つまり――。
「じゃあ今、美春ちゃん達は……?」
沙月が焦った様子で尋ねる。
「荷物をまとめて、先に魔道船に向かったところです」
「そんな……」
突然の展開に沙月の心がひどく揺さぶられた。
まさか話し合うどころか、何の挨拶もなしに行ってしまうというのか。
美春達が、本当に?
確かに、昨晩、美春達が貴久に付いて行くことに対して前向きであるという話は聞いていたけれど――。
せめて一言くらい挨拶があってもいいのではないのか。
それだけ急いでいるということなのだろうか。
と、沙月が疑問に思う。
それはリオも同じだった。
「いきなりそんなことを言われても……」
必要な手順が省略されすぎていて、話を受け入れる心の準備ができていない。
こういった大事な話はもっと前もって伝えてくれないと。
まさか貴久が嘘を吐いているとは思っていないが、話を信じるに足る証拠がなく、現実味が湧かない。
「ごめんなさい。ギリギリまで待ってはみたのですが、出国手続の関係であの三人は先に送らないといけなくて」
流石に悪いと思っているのか、貴久が気まずげに謝罪の言葉を口にした。
主に沙月に視線を向けて――。
「まぁ、確かに私の方もなかなか一緒にいられる時間を作れなかったから、まだ時間はあると思ってちょっと油断していたし……」
沙月が渋々と語る。
昨日の夜の時点では今日の午後に全員で集まって話をすることになっていた。
だから、セントステラ王国へ帰らなければならないという話が出たのは本当に突然の事なのだろう。
でも、それなら、シャルロットの部屋にまで足を運んで知らせてくれれば良かったのに――。
沙月がそんな不満を覚えた。
「すみません。本当につい先ほど決まったことで、本国の事情で予定を変更してしまうことになってしまい……」
貴久が弁明すると、
「……そうなんですか?」
沙月が貴久の隣に座るリリアーナに尋ねた。
「はい。本国から緊急で連絡が届きまして。魔道船の見学を終えて、貴族街の見学も行っていた最中だったので、ちょうどお昼前の事でしょうか」
と、リリアーナが説明を補足した。
その表情はどこか申し訳なさそうで、そして悩ましげにも見える。
「本当に急なことだったんですね……」
沙月が嘆息するように言う。
昼前ならまださほど時間は経っていない。
「先ほど急ぎフランソワ陛下の下へ謝罪と別れのご挨拶に伺いました」
「先に亜紀が準備を終えていたんで、一緒に挨拶に行ったんです。美春と雅人には部屋で荷物の準備をしてもらって。もしかしたら先輩達が来るかもしれなかったし」
リリアーナの言葉を引き継ぐように、貴久が説明を補足する。
「そう、なんだ……」
沙月がどこか事態を受け入れきれていない様子でつぶやく。
確かに、昨晩、貴久から話を聞いて、美春達がセントステラ王国に行くかもしれないと予想はしていた。
だが、もう少し、せめてあと一日くらいは、美春達とゆっくり語り合う時間があると思っていたのだ。
もとより美春達が考えて出した答えならば、沙月も無理に引き留めるつもりはない。
最初から美春達の意思を尊重しようとリオと決めていたことだし、昨晩、貴久から話を聞いた後に、帰り道であらためてリオと確認していたから。
だから、今日この時間に、美春達と一時の別れを惜しむことになるかもしれないと覚悟はしていた。
勇者としての立場はあるけれど、お互いの居場所が分かっている以上、会おうと思えばまた会えるだろうから。
寂しくないと言えば嘘になるが、また会えるとわかっていて、ちゃんとお別れを済ませば、そう辛くなることはないだろうと思っていた。
だが、流石にこれほど急に別れが来てしまうとは――。
「挨拶くらいしたかったのに、次にいつ会えるかは不明確だし……」
言いながら、沙月が
別に怒っているというわけではないが、ちょっと不満を抱いているのだ。
「実は亜紀が手紙を書いてくれたんです。急いでいたんで、大したことは書けなかったみたいですが……」
言って、貴久がこのタイミングで亜紀の手紙を取り出した。
封筒には確かに亜紀の字で日本語で沙月が宛先人として書かれており、
「……見せて」
封筒を受け取ると、沙月が
そうして中から手紙を取り出すと、リオと一緒に見られるように手紙を広げる。
短時間で書いたのか手紙の文面は簡易であるが、亜紀なりに丁寧に書こうとしている雰囲気が伝わってきた。
手紙には美春達も別れを惜しんでいること、別れの挨拶も言えずにセントステラ王国へ向かってしまうことの謝罪、そう遠くないうちに会えるようだから心配しないでほしい旨等が記載されている。
沙月が素早く視線を動かし、およそ数十秒で手紙を読み終えると、
「亜紀ちゃん……」
と、少しだけしんみりとした声を出した。
沙月の手がいとおしむように手紙を握る。
だが、ややあって、何かに気づいたように首を
「でも、これ……、私に向けて書かれた手紙?」
と、そうつぶやいた。
手紙には沙月の名前こそ書いてあるが、リオ――ハルトという名前は一度も書かれていなかったのだ。
「ええ。二人別々に手紙を書こうとしていたんですが、時間がなかったので……。なので、ハルトさんには直接、メッセージを預かっています」
貴久がややこわばった笑みを浮かべて言う。
「メッセージ、ですか」
リオがぼそりとつぶやいた。
「はい。その、手紙の件もありますので、二人きりの方がいいですか?」
と、貴久が遠慮がちに提案する。
リオが即座に得心し、ちらとリリアーナに視線を送った。
一方で、話の流れがいまいち掴めていないのか、沙月は顔に疑問符を浮かべている。
「失礼ですが、お二人は手紙の内容について?」
「……リリィは何も知りません」
リオが尋ねると、貴久が
「なるほど。では、この場で一つだけ確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
と、リオが言う。
すると、貴久がぴくんと肩を震わせた。
てっきりリオは沙月にこの話を聞かせたがらないと思っていたのだ。
貴久にとって沙月に詳しい話を聞かれるのは少しばかり都合が悪い。
後日、沙月が美春達に会った時にややこしい事態になりかねないからである。
そもそもリオが美春達に手紙を送ったことさえ知ってもらいたくはない。
だが、不自然に話を隠すわけにもいかなかった。
「はい、何でしょう?」
いったいリオは何を確認しようというのか。
心臓の鼓動が速まるのを感じる。
「三人はちゃんと手紙を読んでくれましたか?」
リオが貴久の瞳を深く見据えて問うた。
すぐ傍にはリリアーナだけでなく沙月もいる。
仮にこの場でイエスと答えたら、後になってノーだったと言い逃れすることはできなくなるだろう。
だが、イエスと答えざるをえない。
少しは読んだ時の反応も伝えた方がリアリティがあるだろうか。
そんなことを考え、貴久は天川春人の名を出した時に見せた亜紀の反応を思い出した。
「ええ……。とても驚いていました。特に亜紀は……その……取り乱してしまったというか……」
顔をこわばらせ、貴久がたどたどしく答える。
「そうでしたか……」
リオが納得したように言った。
沙月はいまだに核心を察することはできずにいたが、リオが美春達に手紙を渡したのであろうことは理解できたようで、黙って話に耳を傾けている。
「……亜紀がどんな反応を見せるか、わかったうえで手紙を渡したんですか?」
リオの反応に、貴久が思わずムッとした様子で尋ねた。
「ええ、漠然と予想はしていました」
リオが弱々しく微笑んで頷く。
その笑顔は残酷にさえ写った。
貴久だけでなく、リリアーナですらも息を呑んでしまうほどに。
亜紀がどんな反応を見せるかはリオも薄々と予想していたことである。
わかったうえで手紙を渡して、亜紀が予想通りの反応を見せた。
それだけのことだ。
そして、それでも渡そうと思った。
「っ……」
悪びれた様子はなく、落ち着き払ったリオの態度に、貴久が息を呑んだ。
心の中に沸き起こる不快さを確かに感じる。
おそらく――。
いや、間違いなく――。
理屈なんかじゃなく、この男とは相いれることができない。
貴久はそう思った。
「それではメッセージを伺ってもよろしいですか?」
リオが尋ねた。
「ええ……。では、あちらの部屋へ行きましょうか」
そうして、リオと貴久は寝室へと席を改めたのだった。
☆★☆★☆★
そこはつい昨日まで貴久が寝泊まりしていたベッドルームだ。
「雅人はともかく、美春も亜紀も貴方にはもう会わないそうです」
リオと二人きりになったところで、貴久が硬い声で告げた。
声色に突き放すような冷たさが含むのを抑えられない。
だが、それだけでリオは得心した。
美春達がリオに会わない理由など二つに一つしかない。
会いたくないか、会うことができないか。
亜紀の協力を得て、滞在国の王と平穏に別れを済ませ、沙月に別れの手紙を送っている時点で、前者と考えるのが自然な状況はお膳立てされていた。
加えて言うならば、貴久から聞いた亜紀の反応が実にもっともらしかったということも状況の信憑性を補強している。
「そうですか……」
リオが陰りのある笑みを
そうしてから、貴久をじっと見つめて、
「つかぬ事を伺ってもよろしいでしょうか?」
ぽつりと、
「はい」
貴久が重い声で頷く。
「タカヒサさんはミハルさんと付き合っているんでしょうか?」
リオが尋ねると、貴久が意外そうに目を丸くした。
自分と美春がそんなふうに思われていたことが意外だったのだ。
貴久は僅かに動揺したものの、
「……そうです。付き合っています」
と、気がつけば反射的にリオの質問を肯定していた。
「なるほど……。昨晩の夜会であったことは美春さんから聞きましたか?」
「……告白されたとだけ」
貴久が
「すみませんでした。恋人に言い寄る男がいると聞いて、心中穏やかではなかったでしょう?」
「いえ、まぁ……」
貴久が顔をしかめて返答を濁す。
「俺が言うべき事柄じゃないのかもしれませんが、ミハルさん達のことをよろしくお願いします」
「……もちろんです。これからは俺が三人のことを守ります」
感情を抑えるように努めて、貴久がきっぱりと言い切る。
「よろしくお願いします」
リオが丁寧な口調で言って、頭を下げた。
「っ……、貴方は……」
この期に及んでも動じた様子を見せないリオに、貴久が苛立ったように語気を荒げた。
どうしてそんなに簡単に諦められるのか。
プライドがないのか。
美春のことを好きなんじゃないのか。
かき回すだけかき回して、そんな聖人みたいな態度をとって、いったい何がしたかったというのだ。
反論の一つでもすればいいのに――。
これじゃまるで腑抜けだ。
だが、
「ぁ……」
リオの拳が力強く握りしめられていることに気づき、貴久は言葉を呑んだ。
感情を押し殺しているのだと、知ってしまった。
すると、今度は途端に罪悪感が押し寄せてくる。
貴久は気まずそうに視線を逸らして、
「じゃあ、それだけなので……」
と、会話を打ち切ろうとした。
「美春さんは他には何か言ってませんでしたか?」
だが、リオが尋ねかける。
「……ごめんなさいと」
「そうですか……。伝言ありがとうございました。それでは」
後ろめたそうに立ち尽くす貴久を背にして、リオは先に歩き出し、リビングルームへと続く扉を開けた。
それから数分ほど別れ話を兼ねて必要な会話を済ませると、貴久達は急いだ様子で城を立ち去って行ったのだった。
☆★☆★☆★
慌てて帰国する貴久達を城門まで見送ると、
「見送りに行かなくて良かったんですか?」
リオが隣に立つ沙月に
「うん。まぁ私は手続の関係でこれ以上先へは行けないだろうしね。今から許可を取りに行っても遅いだろうし」
「なるほど」
リオが頷き、しばしの沈黙が降りて、
「……ねぇ、これで良かったんだよね?」
沙月がおそるおそる疑問を口にした。
「良いも悪いも本人達が望んで貴久さんに付いていきましたからね」
言って、リオが肩をすくめる。
「確かに、そう、なんだけど、ちゃんと話もできないまま別れちゃったのよ? 正直、何が何だか……」
沙月が釈然としない様子を
どうにも事態が急展開すぎる。
まるで必要なイベントをスキップしてエンディングを迎えたような――。
問題を解く過程を省略して解答だけを与えられたような――。
そんなえも言われぬ消化不良を起こしてしまった。
現実なんてそういった事象ばかりだと考えてしまえばそれまでなのかもしれない。
だが、本来なら踏むべき手順を省略されてしまった身としてはいまいち納得がいかなかった。
いくらまた再会できることが約束されているとしてもだ。
「だいたい国の機密って何なのよ?」
沙月がワケがわからないという表情になる。
最低限の説明と挨拶だけして、さっさと立ち去られても、別れた実感なんて湧きようがない。
本当ならば今頃は美春達と歓談していたはずなのだから。
沙月は苛立たしげに嘆息した。
「沙月さんはまたみんなと会えるじゃないですか」
リオが沙月をなだめるように語りかける。
すると、沙月が思案するようにしばらく黙り込んだ。
やがて、ふと突然に、
「……決めた! 私、できるだけ早く美春ちゃん達の後を追うわ! 王様に掛け合ってみる」
と、沙月が決然と宣言した。
突然の事態に困惑しているのはきっと美春達も同じに違いないのだ。
相手の置かれた状況を知ろうともせず不満ばかり言うのは性に合わない。
ならば自分から会いに行って話をすればいいはずだ。
そうと決まれば話は早い。
「ねぇ、ハルト君も一緒に行きましょう! このままこんなモヤモヤした状態でいたくないもの」
と、沙月がリオに提案する。
だが、リオは穏やかに首を左右に振って、
「すみません。俺は一緒に行けないんです」
と、静かに答えた。
期待が外れて、沙月が面食らう。
「な、なんでよ? 気にならないの? 美春ちゃん達のこと!」
沙月が勢い込んで尋ねた。
その目はジトッと不満を訴えている。
「……俺は済ませないといけない用事がありますので」
正面から答えずに、リオがはぐらかすように告げた。
「用って昨晩、言ってたやつ? 西の方に行かないといけないって……
」
「ええ、知人との約束ですので。先延ばしにするわけにもいかないんです」
「だったらそれが終わった後でもいいじゃない。別に私と一緒じゃなくたっていいわ。行ってあげましょうよ」
沙月がなおも食い下がって語りかける。
「……でも、俺はもうみんなに会わない方がいいですから」
リオが寂しそうに笑みを浮かべて言った。
その笑顔には言葉以上の説得力がある。
「な、なんでよ? そんなはず……」
戸惑い尋ねる沙月に、
「振られちゃいました。美春さんに。告白したんですけどね」
リオがさらりと告げた。
「え……?」
沙月の表情が凍りつく。
だが、そんな彼女の動揺に気づかず、リオがさらに続けて語る。
「付き合っていたんですね。貴久さんと美春さん。ご存知でしたか?」
「え、ああ、う、うん。中学時代から噂されていたみたいだし、付き合っててもおかしくはないなと思っていたけど……」
戸惑い顔を浮かべて、沙月が上ずった声で答えた。
「やっぱりそうでしたか」
沙月が言うのなら、いよいよ間違いはないのだろう。
美春はもともと貴久のことが好きで、リオの告白を受けることはできなかった。
そういうことなのだろう。
「勝負が決まる前に告白して、振り向かせようとしたんですが、最初から勝負は決まっていたみたいですね」
リオが
昨晩、美春が貴久に付いてこうとしているという話を聞いた時に、薄々と予想はしていた。
告白してみたものの、既に手遅れなのかもしれないと。
いや、美春と貴久が付き合っているかもしれないと思っていたのは前世からのことだ。
天川春人が後悔し続けてきたのは美春に想いを伝えることができなかったということである。
だから、仮に美春が貴久と付きあっているとしても、告白しようと決めて、春人は生きてきたのだ。
その気持ちはリオになった後も変わらずにいたはずだった。
けど。
それでも、自分の前世のことを打ち明ければ、万が一にでも可能性があるかもしれないと淡い希望を抱いてしまった。
早く伝えたい。
早く伝えなければならない。
今日の午後になれば別れ話をされて、本当にすべてが手遅れになってしまうような気がしたから。
その思いに突き動かされて――。
リオは焦ってしまった。
美春の口から別れの言葉を告げられる前に、どうしても手紙を送りたかったのだ。
「難しいものですね。人に想いを伝えるのって」
その声は疲れ切った響きを含んでいた。
理屈でああだこうだ手順を考えたところで、現実で役立つことは少ない。
いざという場面になると、緊張して冷静な思考を保つことも難しくなる。
表面を取り繕うだけで精一杯だ。
「ハルト君……」
沙月がリオをいたわるように声をかけた。
「すみません。変なことを言って」
穏やかに微笑んで、リオが謝る。
しかし、その拳は力強く握られていた。
「そう言えば沙月さんには言っていませんでしたね。貴方にはちゃんと説明しないといけない」
今後、美春達に会うというのならば、知っておいた方がいいのかもしれない。
だからリオは沙月に教えることにした。
「俺の前世のことを――」
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国王の執務室にて、リオはフランソワ=ガルアークと面談していた。
フランソワは上座に置かれた豪華な座椅子に深く腰を下ろしており、そのすぐ傍には壮年の近衛騎士が一人たたずんでいる。
下座ではリオが椅子に腰を下ろし、他にも若い近衛騎士が何名か控えていた。
「陛下、このたびは
リオがフランソワに
「うむ。よくぞ参った。シャルロットが随分と世話になっているようだな」
フランソワが愉快そうに笑みを浮かべて言った。
「恐れ多いことでございますが、シャルロット様には格別のご厚情を賜っております」
「ははは、サツキ殿とも随分と親しくなったようではないか。そなたさえ良ければ今後も定期的に城に顔を出し、二人の話し相手になってやってくれ」
「はっ。不肖の身ではありますが、お二方のお望みとあらば……」
と、リオが
(この王様が命令してシャルロット王女に動かせていたんだろうな)
リオがフランソワの策を推察した。
実際にその真意を尋ねることなど不敬
今やリオは名誉騎士となり形式的にはガルアーク王国の一員となった。
そんなリオと沙月の仲を近づけることで、ガルアーク王国が沙月を縛り付けようと目論んでいるとか――。
そのためにシャルロットはフランソワに命じられてリオと沙月の仲を近づけるように動いていたとか――。
今思い返せば、夜会二日目の時点でシャルロットとミシェルがリオに友好的に接近してきたのも、その一環だったのかもしれない。
ミシェルなど、初日ではリオと沙月が一緒にダンスを踊ることを
他にも監視の目があったり、見えないところで手回しがあった可能性もある。
意思を尊重するという建前があったとはいえ、美春の身柄を素直にセントステラ王国へ明け渡したのは少しばかり意外であったが、ひょっとしたらリリアーナとの間で防衛同盟締結の件とは別に裏取引があったのかもしれない。
やはり相当な食わせ物なのだろう、この人は、と、リオはそう思った。
そして、これだから王侯貴族とはあまり関わりたくないと呆れがちに思う。
何事も起きぬよう無難に立ち振る舞っていても、気がつけば王侯貴族に利用価値を見出され、思惑に乗せられ、動かされているのだから。
スティアードやアルフォンスといった十代の若い貴族は己に与えられた権力を過信して行動しがちであるが、二十代、三十代と歳を重ねていくにつれてそういった手合いも減っていく。
一流の王侯貴族は手回しを悟られぬよう狡猾に人を動かしているものだ。
そうして利用価値がある者から巧みに
顔に友好的な笑みを貼りつけ、右手で握手を求めながら、左手にナイフを隠すくらいの芸当は平気でやってくるのだから。
「それで、今日はどのような用で余に
リオが自身の意図を察していることには気づいているのか、いないのか、フランソワが尊大な言葉遣いで語りかけた。
ここでリオが恨み言の一つをつぶやいたところで何かが変わるわけではない。
むしろ王に喧嘩を売ったとして、いらぬ因縁を吹っかけてくるおそれすらある。
「我が身を名誉騎士に叙任くださった返礼の品を献上しに参上しました。それと家名も考えましたので、そのご報告を」
と、リオが愛想笑いを貼りつけ、用件を切り出す。
「ほう。家名も気になるが、その手にした品がそうであるか?」
「はっ。陛下は愛酒家であらせられると伺いましたので、ヤグモ地方から伝わる酒を持参いたしました。お口に合うか不安ではありますが、現時点では市場に出回っていないため、非常に珍しい品であることは保証いたします」
リオがそう言うと、フランソワの瞳に好奇の色が灯った。
「ほう。随分と粋な計らいをするではないか。それは楽しみであるな」
「恐れ入ります。実はこちらの品はリーゼロッテ様がご経営なさっているリッカ商会に
「なるほどな。リーゼロッテが扱う酒となればますます期待が持てるではないか。市場に出回る前に飲めるというのも興が乗る。近いうちに飲んでみるとしよう」
「ありがたき幸せ」
今回リオがフランソワに献上した酒は、精霊の民の酒造知識とカラスキ王国の酒造知識を借りて、リオなりにアレンジして作った酒である。
なのでヤグモ地方から伝わる酒というのもあながち間違いではない。
「うむ。して、家名は何と名乗るつもりなのだ?」
大仰に頷いて尋ねると、フランソワが真っ直ぐとリオを見下ろした。
家名は貴族の顔ともいうべき重要な役割を果たす。
リオはこれまで偽名としてハルトという名前を用いていた。
最初は死んだ人間の名前を名乗ることに微かな抵抗感を抱いていたものの、偽名として使用するのならば、
こうして偽名で爵位をもらってしまっていることも、止むにやまれぬとはいえ、あまり好ましい事態ではないのかもしれない。
だが、ここで家名を報告して、フランソワに裁可されれば、以降、ハルトの名は家名と共に偽名ではなく、正式な通名として扱われることになるだろう。
そして、その家名を何にするか、家名を決めろと言われた時、リオの脳内で即座に一つの候補が思い浮かんでいた。
だが、本当にその名前を用いていいのか。
リオは悩んでもいた。
それを名乗ってしまえば、本当に死者が蘇ってしまうような気がしたから。
肉体を失い記憶という曖昧なものしか拠りどころのない自分が本当に天川春人だったのか、アイデンティティが揺らいで、自信がなかったから。
しかし、美春に告白をして、手紙を書いて、あまり難しく考える事柄でもないのかもしれないと、ある程度は吹っ切れることもできた。
大事なのは自分が何者なのかではなく、自分の気持ちだと思えたから。
だから、リオは名乗る。
「アマカワ――」
リオが短く告げると、聞き慣れぬ響きに、フランソワが小さく目をみはった。
「今後はハルト=アマカワと名乗ろうと考えております」
続けて、決然とした口調で宣言する。
フランソワはスッと目を細めて、リオの顔を凝視した。
ややあって、フッと笑みを浮かべると、
「よかろう。ハルトよ、ガルアーク国王フランソワの名において、そなたにアマカワの家名を名乗ることを正式に許可する」
フランソワがリオにアマカワ姓を名乗ることを許可した。
「心より感謝いたします。フランソワ国王陛下」
リオが深々とフランソワに頭を下げる。
神聖暦一〇〇〇年、春、某日。
この日、この時より、リオは名実ともにガルアーク王国の名誉騎士となる。
黒の騎士、ハルト=アマカワが誕生した瞬間であった。
今回は1話あたり文字数が過去最多となりましたが、第5章はここで終わりです。大変モヤっとする展開になってしまい、申し訳ございませんが、ここまでご覧くださり、ありがとうございました。
書籍版では9巻と10巻がちょうど夜会編に該当しますが、書籍版はWeb版とは内容が大きく異なっているので(4章に該当する4巻以降は特に)、また違った展開がご覧になれます。Web版の話は以降も続いていきますが、このWeb版の展開に納得できない方は書籍版をご覧いただくとよろしいかもしれません。