第89話 それは呪縛のように
それはリオが夜会へと向かう日の前夜のことだった。
王都の人間がすっかり寝静まってしまった深夜。
既にガルアーク王国の王都に滞在してから数日が経過し、ようやく宿での生活にも慣れ始めて、少しずつ緊張もとれてきた。
まだ少し慣れないベッドに背を委ね、王都の宿屋に滞在している美春達も眠りに就いていた頃――、綾瀬美春は夢を見た。
セピア色の風景の中で、見覚えのある少年と少女が向き合っている。
見覚えがあるのは当たり前だ。
二人は幼馴染で、少女の方は美春本人なのだから。
夢の中だというのに、妙に頭は冷静で、意識がはっきりとしている。
美春は幼き日の自分と幼馴染の少年とが向き合う姿を横から眺めていた。
間違いない。
今見ている夢は美春が過去に体験した出来事を再現している。
それはある夏の日のことだった。
美春は思う。
あの頃の自分は気が弱くて、泣き虫で、幼馴染の少年の傍に付いて回るのが当たり前の日々だった、と。
人見知りが強くて、当時は少年以外に友達らしい友達もいなかった。
だからそれは当然だったのだろう。
幼馴染の少年が自分の前から消えてしまうと知り、当時の美春がわんわんと泣き出してしまったのは。
夢の中の美春は泣きながら必死に幼馴染の少年に抱き着いていた。
泣き止まない幼い自分とは対照に、夢の中の幼馴染の少年は気丈に美春を励ましている。
思い返せば幼馴染の少年はいつも傍にいて、いつも優しくて、誰よりも美春のことを守ってくれていた。
「次に会ったら結婚しよう!」
いつまでも泣き止まない美春に、幼馴染の少年が決然と呼びかけた。
絶対に迎えに行くから、と。
幼い美春がぼーっと幼馴染の少年の顔を見上げている。
横から見ている美春もなんだか恥ずかしくなってしまって、もじもじとうつむきながら二人の様子を道路の隅から眺めていた。
「……する。する。結婚する!」
夢の中の幼い美春が輝かんばかりの笑顔を浮かべて答える。
別れ際には思いきって幼馴染の少年にキスまでしているではないか。
果たして今の自分にそんな真似ができるだろうか。意外とこの頃の自分は大胆だったのかもしれない。
なんだかまたしてもちょっと恥ずかしくなってきてしまった。夢の中だというのに頬が赤くなるのを感じてしまう。
そのまま夢は進行していき、幼い美春が車で立ち去る少年を見送るシーンになった。
幼い美春は去りゆく車に向かって必死に手を振っている。
美春の人生で、この日ほど嬉しかった日はない。そして、この日ほど悲しかった日はない。
だが、この日から美春が前向きに強くあろうと誓ったのは確かなのだ。
そして、美春は良いお嫁さんになろうと努力する。
いつか彼が迎えに来てくれると信じて――。
(あれ?)
テレビ番組のチャンネルを変えたみたいに、美春の見ている場面が急に切り替わった。
ゆっくりと目を見開き、眼前に広がる光景を見る。
そこに幼馴染の少年がいた。
まるでダイジェストのようにシーンが移り変わっていく。
しかし、いずれも美春の知らない場所が舞台となっていて、少年の隣に美春はいなかった。
変わりゆくシーンの中で、少年は何やら一生懸命に色んなことに取り組んでいる。
勉強、家事の手伝い、農業の手伝い、武道と、少年は直向きに努力していた。
その姿が微笑ましくて、美春はつい夢の中の少年を応援してしまう。
少しずつ少年が成長していく。
何やら少年は美春と会うために努力しているらしい。
「次に会ったら結婚しよう!」
それは何の拘束力もない、
将来がどうなるかなんて全く知らない少年と少女が交わした誓い――。
普通は成長とともにそんな約束を忘れてしまうか、憶えていても守ろうなんて思わないのかもしれない。
だが、夢の中の少年は愚直なまでにその約束を果たそうと努力していた。
すべては美春のために――。
たとえ自分の願望が創りだした夢の中の出来事だとしても、美春はその事がとても嬉しかった。
ひょっとしたら現実の彼もこうして努力していたのかもしれない。
そう考えるとついついはにかみ、頬が緩んでしまいそうになる。
だが、もし本当にそうだとしたら、これから先、自分は少年と再会することができるのだろうか。
地球ではない、どこか遠い世界にやって来てしまった自分が――。
美春は名状しがたい不安を覚えてしまった。
そうしている間にも場面は移り変わっていく。
いつの間にか少年は今の美春と同じくらいの年齢になっていた。
(やっぱり女の子にモテるのかな……)
夢の中の少年はとても格好良く成長している。
昔の面影を残していて、本当にこんな風に成長しているんじゃないかと思えるほどだ。
驚くことに少年は美春と同じ高校に進学するらしい。
(本当にそうなら良かったのにな。一緒に高校に通って……)
もし同じ高校の同じクラスに在籍していたら、その時は伝えたいことがいっぱいあったのだ。
だが、現実はそう上手いものではなく、かつて美春が在籍していたクラスに少年はいなかった。
美春がこの世界にやってきたのは入学してから間もない頃だ。
まだクラスメートと仲が良くなる前で、同じ中学から一緒に入学した者達以外には友達といえる人間もいなかったが、流石に同じクラスに在籍していれば気づいていたとは思う。
(まだほんの数か月前の出来事なんだよね)
そう、美春達がこの世界にやって来てからまだ数か月しか経っていない。
あっという間だったが、とても密度の濃い時間だったと美春は思う。
あのまま地球にいたら今頃は夏休みだったのではないだろうか。
(帰れる……のかな?)
先の見えない不安を打ち消すように、美春は強く
目の前の光景に集中する。
どうやら少年は見事に美春と同じ高校に合格し、入学式の日がやって来たようだ。
ほんの数日も通っていないけれど、そこは間違いなく美春が通っていた高校だった。
少年は自分のクラスを見つけようと校舎の庭に設置された掲示板に視線を走らせている。
ふと、少年の視線がある一点で固定された。
(あ、自分のクラスを見つけたのかな)
夢の中とはいえ、自分と同じクラスだったら、それはとても嬉しい。
美春は胸を高鳴らせながら、そっと少年の隣に立ち寄り、その視線の先に書かれている名前を見ようとした。
(え……私の名前?)
どうやら少年は美春の名前を発見して視線を止めたようだ。
確かに美春は最初のクラスに在籍しているから、少年が自分の名前よりも先に美春の名前を発見したことは不思議でない。
少年は目を丸くしてじっと美春の名前を見つめている。
口元にはそっと微笑を覗かせていた。
それから少年は自分のクラスを発見し、周囲にきょろきょろと視線を走らせた。おそらく美春がいないか探してみたのだろう。
だが、入学式のために周囲には大勢の人がおり、少年はやむを得ずその場を後にした。
(えっと、この日は貴久君と雅人君が寝坊して、登校するのが遅れちゃったんだよね……)
現実に準拠するのならば、おそらく美春がこの場にやって来るのは入学式開始の割とギリギリの時間だろう。
美春は千堂家の三人――貴久、亜紀、雅人と一緒に登校するのが慣習となっていた。
もともとは亜紀と二人で小学校に登校していたのだが、そこに途中から亜紀の母の再婚相手の連れ子である貴久と雅人が加わるようになり、それが慣習化したのだ。
どうせ夢なのだから、現実通りじゃなく、都合良く同じ時間にやってくればいいのに――、変なところで融通が利かない夢である。
美春は思わず苦笑してしまった。
そして、入学式が始まる。
そこで美春の中学時代からの先輩である
沙月は学園の生徒会長を務め、全校生徒の顔的存在なのだ。
才色兼備の秀才で、学業も運動も常にトップの成績をとり続け、周囲からは憧れの的として注目を浴びている。
(流石だなぁ、沙月さん)
新入生達は男女問わずみな沙月に対して羨望の眼差しを向けていた。
美人なのに格好が良くて、凛々しくて、同性なのに思わず憧れてしまう輝きがある。
少年も沙月に見惚れているのだろうか。
そんなことを思い、美春はおそるおそる視線を少年に向ける。
だが、少年は何やら美春がいるクラスの方を気にしているようで、沙月の挨拶は耳に入っていないようだ。
沙月のことなど見向きもしていない。
声は出ないけれど、それが嬉しくて、美春は思わず可笑しくなってしまった。
それから、少しばかり退屈な校長の話も聞き流して、美春は少年の横顔を眺めることにする。
入学式が終わり、少し長引いたホームルームも終わると、少年は真っ先に美春がいる教室へと向かった。
去り際に傍に座っていた男女混合のグループからカラオケに誘われていたが、少年は丁重にお断りしていたりする。
美春の教室の前で立ち止まると、少し緊張しているのか、少年は小さく深呼吸をした。
(頑張って!)
美春は少年の隣に立って心の中で応援の声を送った。
これから少年と再会するであろう夢の中の自分が少し羨ましい。
なんだか傍から眺めている美春も少し緊張してきた。
美春のクラスも既にホームルームを終えたようだが、大半の生徒はまだ教室に残っており、廊下までがやがやと喧騒を響かせてお喋りに花を咲かせている。
開きっ放しになっている教室の扉からそっと中の様子を
きょろきょろと教室を眺めていたが、すぐに目当ての人物を発見して視点を固定させた。
(あ、いた。私だ……)
そこに座っていたのはまぎれもなく美春だった。
何を考えているのか、美春はぼんやりと椅子に座って前を見ている。
(うう、私浮いてるよぉ……)
既にできあがっているいくつかのグループが仲良く談話する中で、美春の周囲には空白地帯が出来あがっていた。
人見知りの強い性格は昔とあまり変わっていない。
初対面の相手と話すのはどうも緊張してしまい得意でないのだ。
相手が女性ならば必要に応じて自分から話しかけたり話しかけられたりしてもあまり緊張することはないが、男性相手だと話しかけることはもちろん話しかけられても言葉に詰まってしまい会話に困ることがよくあった。
幼馴染の少年が転校して以降の小学校時代によく男子生徒からちょっかいを受けることがあったことや、今の世界に来る直近の頃に街中を歩いていると馴れ馴れしく男性から話しかけられたことが異性に苦手意識を持っている原因かもしれない。
中学時代からは亜紀の義兄と義弟である貴久や雅人くらいとしか話すことがなかったことも異性にあまり免疫を持っていない理由の一つだろう。
美春にとって妹分である亜紀と一緒に過ごすうちに必然的に一緒に行動する機会が増えて慣れていったが、年下の雅人はともかく、貴久とは出会った当初は多少なりとも苦手意識を持っていたという経緯もあったりする。
(そう言えばハルトさんと話した時はあまり緊張しなかったな……)
初めて出会ったのが緊急時だったということもあるが、その後の生活において二人きりで話す時もさして緊張することはなかった。
それは美春が無意識のうちにリオと春人を重ねあわせていたからなのかもしれないが――。
「すみません。あの子って綾瀬美春さんですよね?」
少年が教室の入り口付近で喋っていた女子生徒の一人に尋ねた。
「え? ……あ、ああ、えっとどうだろう。あ、ちょっと名簿で確認してくるんで待っててくれます?」
声をかけられた女子生徒は少し目を丸くして少年に答えた。
そのまま教卓に置いてある名簿と座席表のもとへと向かう。その間に残った女子生徒達が興味深そうに少年の名前やらクラスを尋ねていた。
「ただいま! 待たせてごめん。さ、帰ろうか。亜紀や雅人を迎えに行こう。あっと、……沙月さんからメールが来てる」
すると、そこに一人の青年がやって来て、親しげに美春に声をかけた。
彼こそが亜紀の義兄である
貴久が教室に入ってきたことによりクラス内の女子生徒達が僅かに色めき立った。
貴久は長身で整った顔つきをしており、人当たりの良さそうな雰囲気を放っている。
入学初日にして女子生徒から目をつけられたのは当たり前なのかもしれない。
「ああ、やっぱり付き合ってるのかなぁ。千堂君とあの子」
「美男美女でお似合いの二人だよねぇ」
「恋人同士で同じ高校に入学するとかマジ羨ましいんですけど!」
などと、女子生徒達が
その光景を目にして、少年はやや呆気にとられたような顔を浮かべていた。
(え、あ……)
嫌な予感がして、美春は血の気が引いた。
確かに今の二人のやり取りを見ると恋人のように見えてしまう。
入学初日だからと、亜紀と雅人も交えて一緒に帰ろうと約束をしていただけなのに。
もしかしたら少年は勘違いしてしまったのではないか。
すると、そこに、
「あの子が綾瀬さんですよ」
と、名簿と座席表を確認していた女子生徒が戻ってきて、少年に告げた。
「……そうですか。ありがとうございます」
少しぎこちない笑みを浮かべて、少年が礼を告げる。
そのまま
(ち、違っ! ま、待って!)
慌てて美春は呼び止めようとしたが、言葉が出てこない。
この夢の中では考えることはできても、登場人物に干渉することはできないのだ。
尋ねるだけ尋ねて立ち去ろうとしたため、その場にいた女子生徒達も呼び止めようとしたが、少年は「ごめんなさい。急いでいるので」とだけ言ってその場を後にした。
(違う。違うの。ねぇ、お願い! 待って!)
すがりつくように呼びかけるが、少年の足取りが止まることはない。
少年は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべていた。
その横顔に美春は心臓を締めつけられるような感覚を覚える。
すると、またしても夢の場面が変わってしまった。
今度は少年が暮らすアパートが舞台となっているようだ。
引っ越したばかりなのか、あまり生活感のない部屋の中で少年はぼんやりと寝転がって天井を眺めている。
先ほどからずっとこの調子だ。
いったい何を考えているのだろうか。
無表情なその顔からは一切の感情が読み取れない。
美春はいたたまれない気持ちで少年の様子を眺めていた。
だが、ここが夢の中だからか、美春は重大な出来事を失念していた。ほんの数日後に待ち構えているそれはすぐそこに迫っているのに――。
何度目だろうか。
プツリと場面が切り替わった。
いったいどれだけ時間が進んだのだろう。
少年は先ほど美春が見た時よりもすっきりした顔を浮かべている。まるで何かを決意したかのような――。
どうやら今は高校に通学する時間帯のようだ。
少年は新品の制服で身を包んで通学路を歩いている。
間もなくして学校に到着すると、少年は美春のいる教室へと赴いた。
きょろきょろと視線を走らす。
だが、どうやらまだ美春は登校していないようだ。
小さく嘆息すると、少年は一度教室に戻った。
そのまま場面が切り替わる。今度はお昼休みの時間だった。少年はまたしても美春のいるはずの教室を訪れたが、やはり美春はいない。
そうして何度か場面が切り替わり、似たようなシーンを繰り返したところで、少年は美春が学校を休んでいる事実を教室にいた生徒から聞いた。
どうやら欠席に関して何の連絡もないらしい。
その話を聞いて、少年が少し不安そうな顔を覗かせる。
(もしかして――)
嫌な予感がして、美春は顔を引きつらせた。
(この夢って私がいなくなった後の話なんじゃ……)
ぞくりと、背筋が凍るような感覚が美春を襲う。
もしそうだとしたら――。
先を想像するのが怖い。
嫌だ。
見たくない。
これから先は見たくない。
見るのが怖い。
だが、無情にも淡々と夢は進行していく。
ある日、美春を含む一部の生徒が失踪した事実が生徒に向けて明らかにされた。
その一人は生徒会長の沙月であったことから、校内では既にかなりの噂が横行していたため、学校側もこれ以上は隠しておくことができないと判断したのだろう。
この日を境に少年はほとんど笑顔を見せることがなくなる。
校内では美春達の失踪の理由について好き勝手な噂が飛び交ったが、生徒達もすぐに興味をなくしていった。
行方を探そうにもたかが高校生の少年に出来ることなど何もなく、やり場のない感情を抱えたまま、悶々とした日々を過ごすことになる。
美春は顔を背けることも出来ず、飛び飛びに変わりゆく少年の日々をただ眺めていた。
失踪した美春のことなど忘れて楽しく人生を
自分を忘れて他の女性と親しく過ごす姿を見せつけられるのは辛いが、自分のことを引きずったまま生きる姿を見せつけられるのはもっと辛かった。
(まだ続くの……?)
夢の中の少年――いや、青年は東京の大学に進学した。
どうやらこの夢はまだ終わらないようだ。
いったいどこまで続くのだろうか。まるで彼の生涯をダイジェストでまとめたようなこの夢は――。
彼の傍には誰もいない。
青年は何度か女性から告白を受けたこともあるようだが、そのすべてを断り続けていた。
一人暮らしをして、アルバイトをして、傍から見ると充実した大学生活を過ごしているようにも見えるけれど、青年は人と距離を置くようにして生活を送っている。
それでも道端で困っている老人を手伝ってあげたり、バスで乗り過ごして泣きそうになっていた少女を助けてあげたりと、生来の彼の優しさは残っていて、そういう姿を見せつけられる度になんだか美春はやるせない思いに駆られた。
会話が出来なくたっていい。自分の存在が気づかれていなくたっていい。ここが夢の中だとしても、それでも彼の傍にいたい。
美春は覚悟を決めて青年の生きざまを眺めることにした。
変化のない日々が続く。
すごく、とてつもなく、途方もなく長い夢に感じる。
それは悲しい物語だった。
挫折して、絶望して、苦悩して、何の当てもなくただ生き続けるだけの話。
せめて最後はハッピーエンドになって欲しい。
自分でなくてもいい。青年が誰かと結ばれて、幸せに生きていく未来を匂わせるような終わり方であってほしい。
だが、美春の願望が叶うことはない。
(あ……、あ、あぁ……)
青年が乗ったバスが事故に遭ってしまった。
そう、あっけなく、青年は死んでしまったのだ。
即死――、絶対にそうとしか思えないくらいに
青年が座っていた席の位置はもはや原形を留めていない。
横転してグシャグシャになったバスの残骸の一部が血で紅く染まっている。
(い、嫌……。嫌、嫌、嫌ぁぁぁぁぁ!)
美春は夢の中で絶叫し、
「っ!」
そこで目が覚めた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
目覚めと同時に、美春は強い動悸を感じ、軽い過呼吸になってしまった。
寝汗でびっしょりと寝間着を濡らし、どくんどくんと張り裂けそうなくらいに心臓が鼓動している。
生きた心地がしないくらいに全身が冷たかった。
身体の震えが止まらない。
美春は半身を起こすと、上掛けをぎゅっと手繰り寄せて、暗闇の中をじっと眺めた。
「夢……だよね」
ぼそりと呟く。
そう、夢。これは夢だ。
夢に違いない。
そうでなければあまりにも彼が救われない。
あんな――。
あれでは、まるで――。
(私のせいなのかな……。私が泣き止んでれば、あんな約束しないで……)
幼い頃の約束など、普通は成長と共に風化していくものだ。
律儀にその約束を果たそうとするなんて、愚か者か異常な人間のすることなのかもしれない。
だが、少年も美春もその淡い約束を拠り所として真っ直ぐに成長してきた。
美春は少年を待ち続けて、少年は美春を追い続け、美春が失踪した後もその影を追い続けて――。
もしかすると少年にとってあの約束は呪縛だったのかもしれない。
あの時、美春が泣き止んで綺麗に別れを済ませていれば、少年はあんな約束を言いださなかったのではないか。
そうすれば少年が約束に縛られて生きることはなかったのではないか。
美春はそう思ってしまった。
そう、あそこまで彼を不幸にしてしまったのは――。
「私が我儘を言ったからなのかなぁ……」
その言葉を口にして、美春はぽろぽろと泣き出してしまった。
あれがただの夢だということはわかっている。
だが、ただの夢のはずなのに――。
あれは本当に起きる出来事なのではないかと――。
まるで
「……誰?」
すぐ傍で布擦れの音が響いて、美春は暗闇に向けて反射的に
この方向に眠っていたのは確か――。
「美春」
「アイ……ちゃん? 起きてたの?」
果たしてそこにいたのはアイシアだった。
黒いワンピースを着ているせいか、闇に紛れてアイシアの存在感はいつもよりさらに希薄になっている。
音もなくスッと近づいてきて、アイシアはそっと美春の頬を撫でた。
温度を感じない冷たい手だ。
だが何故だろう。
なんだか美春はぽかぽかと温かい気持ちになれた。
すぐに心地よい眠気が襲ってきて、美春の意識が急速に途切れていく。
「おやすみなさい。美春」
今度は良い夢が見れますように――。
至近距離でアイシアがそう呟いた気がして、美春は安らかな眠りに就いた。