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精霊幻想記(Web版) 作者:北山結莉

第五章 思い描いた未来の先で

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第85話 勇者と会うためには

「我が国の勇者様にお会いになりたい……ですか?」


 静謐せいひつな応接室の空間にリーゼロッテの心地よいソプラノ声が響いた。


「はい。その通りでございます」


 耳触りの良い声でリオが肯定する。


「……不躾な質問で恐縮ですが、それは何故でしょうか?」


 僅かな間を置き、リーゼロッテが尋ねた。

 皇沙月すめらぎさつき――、最近になってガルアーク王国に登場した勇者であり、最重要人物でもある女性だ。

 大した素性も知れない一般人が会いたいと言ったところで、当然ながらそう簡単に会える人物ではない。

 今や時の人である彼女に何の用があるというのか、その真意を見極めるべく、リーゼロッテは僅かに目を細めた。


「会って話したいことがあるからです」


 真っ直ぐとリーゼロッテを見つめ返し、リオが答える。


「その内容をお聞かせ頂くわけには?」


 表情、仕草、声からして嘘は言っていない。

 そう判断すると、リーゼロッテはリオに問いかけた。

 だが、リオはかぶりを振って、


「恐れ入りますが、詳しい話の内容を申し上げることはできません。まぁ半分は興味本位の物見遊山のようなものとお考えください」


 と、そう回答した。

 リーゼロッテは目を瞑り、しばし沈黙する。


「……結論から申し上げますと、ハルト様を勇者様にお引き合わせすることは可能です」


 再び目を開くと、生真面目な表情を浮かべてから、しかる後、厳かに告げた。

 だが、続けて済まなさそうな面持ちを浮かべると、


「しかし、大変心苦しいのですが、私の立場上、あまり素性の知れぬ人物を勇者様に会わせるわけにもいきません」


 リーゼロッテはそう言葉を付け足した。

 今の彼女はリオのことをほとんど何も知らない。

 何となく表面的な人となりはわかる。近隣諸国で生まれたとも聞いた。

 だが、リオが具体的にどんな生まれなのか、どこかの国や組織に所属しているのか、過去にどのような道を歩んできたのか、背後の人物関係に問題はないのか――。

 リーゼロッテはそういったリオの経歴について何も知らないのだ。

 それらを知るにはあまりにも付き合いが浅すぎる。

 マナーや言葉遣いなどからリオは平民とは思えぬ教養を身につけていることが窺えるし、グールとの戦闘からそこいらの騎士が裸足で逃げ出すほどの強さを誇ることもわかっている。

 こうした技能は決してそこら辺にいる一介の平民が持ち合わせているものではない。

 だからリーゼロッテはリオがやんごとない生まれなのではないかと睨んでいるのだが、いかんせんリオは謎が多いために推測の域を出ないままだ。

 もちろんリーゼロッテも個人としてはリオのことを信じたいとは思っている。

 だが、ガルアーク王国の貴族としては安易に信じることはできない。

 仮に二人を引き合わせて沙月に何かあれば、リーゼロッテの責任問題を越えてガルアーク王国の国益を害しかねないからだ。

 リオは沙月に話があるという。

 普通に考えれば異世界から現れた沙月に話すことがあるとは考えにくいのだが、いったいリオは沙月に何の話があるというのか。

 もし本当の狙いが沙月と話をすること以外にあるとすれば――。

 ガルアーク王国が勇者の存在を公表したのはつい最近のことだが、その存在はこれまで公然の秘密であった。

 だから他国の人間であっても少し耳が良ければガルアーク王国に勇者がいることを知るのはさほど難しくはなかったという背景がある。

 仮にリオが他の国に所属しているとしたら、沙月の暗殺を企てているとしたら、暗殺が目的でなくともスパイを行おうとしているとしたら、リオを沙月に近づけるわけにはいかない。

 リーゼロッテが瞬時にそこまで思考を巡らせたところで、


「それは当然のことかと存じます」


 リオが同意の言葉を返す。


「ですが私にガルアーク王国の勇者様を害する意思はございません。何なら牢屋に拘束して入れられた状態で話をしても結構です」


 そのままリーゼロッテの目を真っ直ぐに覗き込むと、リオは言葉を付け加えた。


(こちらが何を懸念するのかは見透かした上で発言しているというわけね。つまりこれは自分が潔白であることの遠まわしなアピール……)


 そう考えて、リーゼロッテはリオの視線を正面から受け止めた。

 そのままじっとリオの顔を見つめ返すと、口元に苦笑を覗かせる。

 ややあって小さく嘆息すると、


「ハルト様にそこまで仰ってもらえたとなると信じざるをえませんね。わかりました。一対一での対面は少々難しいですが、お二人をお引き合わせいたします」


 と、リーゼロッテが告げた。

 リオがスパイだと仮定して、潜伏先からあえて注意を惹いた上で信頼を勝ち取るというやり方もないわけではない。

 だが、これまでの客観的な行動からして暗殺者やスパイである危険性は低いだろう。

 その僅かな危険性と先の一件における恩を秤にかけ、リーゼロッテはリオを信じることにした。


「よろしいのですか?」


 少しばかり意外そうな面持ちでリオが尋ねる。


「はい。近々ガルアーク王国の王城で勇者様のお披露目会が開催されます。そこには国内の貴族はもちろん国外からも大勢の来賓をお招きすることになっているのですが、私の権限でその場に一名くらいなら外賓をお招きすることができます。一対一の面談とはいかないのですが、いかがでしょうか?」

「願ってもないことです。是非よろしくお願いいたします」


 リーゼロッテの提案に、リオは恭しく頭を下げた。


「承りました。では、そのように手配いたしましょう。日程はちょうど一ヶ月後となっておりまして、当日は私にお付き添い頂くことになりますが、何かご質問はおありでしょうか?」


 リーゼロッテからの質問に、リオは僅かに逡巡する素振りを見せると、


「そうですね。では、確認させて頂きたいことがございます。王都までの移動はリーゼロッテ様にお供させて頂くことになるのでしょうか?」


 リーゼロッテに質問を投げかけた。


「そうですね。ご都合がよろしければそのようにお取り計らい頂けないでしょうか?」

「承知しました。よろしくお願いいたします」


 それからいくつかの事項を確認し終えると、話は酒の供給に関する契約に移った。


「一年に二回。ご希望の酒を決まった量だけリーゼロッテ様の下へお運びするということでいかがでしょうか? 先日に決めた通り、契約は一年間を期限とした更新制で、更新を行う場合は当事者のいずれかから期限の半年前までに申請を行うということで。私から他の方に業として酒を供給することはいたしません」


 既に契約書の雛型は完成しているため、確認の意味を込めて条件を提示する。


「はい。お酒の製造に関してはシーズンもあるでしょうから、結構ですよ。ですが輸送に関してこちらからお手伝いさせていただくことは本当にないのですか?」


 値段が値段ゆえに注文するのは極少量の酒になるが、それでも運送には馬車が必要になるだろう。

 馬車というのは整備や馬の手入れを小まめにしなければならない関係上コストがかかり、商人でもなければ個人で所有する者は少ない。

 そこでリーゼロッテは運送の際には御者付きで馬車を貸し出すと提案したのだが、リオはそれを断っていた。


「ええ。問題ありません。とはいえ、こうして契約が成立段階に入った以上は、こちらの運送手段を明らかにしておいた方が望ましいかもしれませんね。ですが、出来れば現時点ではリーゼロッテ様以外に申し上げたくはないのですが……」


 そう告げると、リオはちらりと室内に黙って控えているアリアとナタリーに視線を移した。

 秘密主義も行き過ぎれば不信を買うだけだ。

 リーゼロッテからの信頼を得るには、差支えのない範囲でなるべく情報を開示することが望ましいだろう。

 とはいえ、リオが持つ時空の蔵は公に存在が知られれば良からぬ輩を引き寄せることになりかねないため、教えるのならば信頼すると決めた相手に限定することが望ましい。

 だからこそ一先ず教える相手はリーゼロッテに限定するべきだ。


「……なるほど。アリア、ナタリー、二人とも一度部屋の外に出ていきなさい」


 顎に手を当て、考える素振りを見せると、リーゼロッテが言った。

 護衛を残さずに密室で二人きりになって会うなど非常にリスクの高い行為だ。

 ゆえに僅かに目を見開くアリアとナタリーだったが、


「畏まりました。扉の前にて待機いたします」


 そう告げて、スッと頭を下げると、扉の外へと出ていった。


不躾ぶしつけなお願いをお聞きくださり、ありがとうございます」


 小さくお辞儀してリオが礼を告げる。


「結構ですよ。ですが、運送手段を伏せておきたいという理由について、早速ですがお聞かせ頂けますか?」

「承知しました。私は時空の蔵と呼ばれるアーティファクトを所有しております。手短にご説明いたしますと、荷物を時間的、場所的に隔離された亜空間に収納することができるという代物です」


 その説明にリーゼロッテが目をみはる。


「荷物を収納できる亜空間……ですか? 今のお話からすると収納された荷物、例えば食物を腐らずに保存しておくことも可能であると?」

「ええ、その通りです」


 流石のリーゼロッテも目に見える形で驚きを露わにしてしまった。

 本当だとすれば商人からすれば喉から手が出るほどに欲しいものだ。

 話を聞いただけでは眉唾物まゆつばものの道具だが、この状況でリオが嘘を吐く必要は皆無である。


「実際にお見せいただくことはできませんか?」

「もちろんです。では、実際に時空の蔵からこの場に荷物を取り寄せましょうか。『解放ディスチャージ』」


 リオが時空の蔵を発動させる呪文を唱えると、応接室の机の上に小さな空間の渦が巻き起こり、小さく切り分けられたチョコレートの載っかった皿が現れた。

 リーゼロッテはもはや驚きを隠そうともせずにその様子を食い入るように見つめている。


「ほ、本当のようですね」

「ええ、よろしければどうぞ。自家製の生チョコです。お口に合うかどうかはわかりませんが」


 リオは備え付けのフォークでひんやりと冷えた生チョコを口に運ぶと、リーゼロッテに皿を差し出した。


「では、お一つ頂戴しますね。……っ、これは!」


 おずおずと生チョコを頬張ると、リーゼロッテは目を見開いた。


「……香り高いチョコレートですね。口いっぱいに上品な甘さが広がります」


 自然と笑みを浮かべて感想を告げるリーゼロッテ。


「お口に合ったようで良かったです」


 お菓子の作り方は精霊の民の里でハイエルフの少女オーフィアから教えてもらったものだ。

 以前に美春と一緒に作ってセリアや亜紀から大絶賛を受けたもので、今出したのはその時に余った分を保存しておいたものである。


「しまう時は『保管ストレージ』と唱えます」


 リオがそう告げると、皿を包み込むように空間の渦が巻き起こり、スッと皿が姿を消した。


「あ……」


 消えてしまったチョコレートを目にして、リーゼロッテが残念そうな声を漏らす。

 その姿にリオはくすりと笑った。


「『解放ディスチャージ』」


 再びリオが呪文を唱えると、チョコレートの載っかった皿が机の上に現れる。


「よろしければどうぞ」


 リオは改めてチョコレートをリーゼロッテに差し出した。


「あ、ありがとうございます」


 顔を紅潮させながらリーゼロッテが礼を述べる。

 上手く隠してはいるが、その目は嬉しさで輝いていた。

 心理的に食べやすいようにとリオがチョコレートをつまむと、リーゼロッテも手を伸ばし始める。


「ほんのりと後を引く甘さがたまりません」


 口に含んだチョコレートの味に可愛らしく顔を緩ませるリーゼロッテ。

 そんな彼女の反応に、リオは柔らかな笑みを浮かべたのだった。


 ☆★☆★☆★


「沙月さんの居場所がわかりました」


 リーゼロッテとの対面を終えて帰宅すると、リオは美春達に沙月の居場所が判明したことを伝えた。

 リビングのソファにはリオ、美春、亜紀、雅人の四人が座っている。


「本当ですか?」


 美春達がパッと晴れやかな表情を浮かべる。


「はい。予想通りといいますか、やはり勇者になっているようです。彼女はここガルアーク王国の王城にいます」


 と、リオは今の沙月が何をしているかを教えた。


「勇者かぁ……。良いなぁ」


 勇者という響きに憧れている風に、雅人がぽつりと呟きを漏らす。

 まだまだお年頃なせいか、そういった存在に無条件で憧れを持っているのだろう。

 とはいえ、リオとしては彼女が置かれている立場を想像すると少しも羨ましくはないし、何とも厄介な立場にいてくれたものだと思わずにはいられなかったりする。


「あんたガキね」


 やれやれと呆れたように、亜紀が嘆息する。


「いいじゃねぇか。姉ちゃんだってまだ子供だろ」


 雅人は口を尖らして反論した。

 平常運転な二人に見えるが、その表情はいつも以上に明るい。

 魔物が襲来してからここ一ヶ月は家に閉じこもって言葉の学習や剣術に棒術の習得に専念していたことから、ようやく舞い込んだ吉報にホッと一安心することができたのだろう。

 美春も二人の様子を嬉しそうに見つめている。


「ちょっといいかな?」


 そのまま二人の間で恒例のじゃれ合いが発生しかけたところでリオが言葉を挟む。


「あ、はい。ごめんなさい」

「わりぃ」


 ばつが悪そうに謝罪する亜紀と雅人。

 リオは小さく首を振って問題ないと伝えると、


「居場所が分かった以上、早速みんなをその沙月さんと会わせてあげたいんだけど……、彼女の立場上そう簡単に会うことはできない。わかるかな?」

「ん? 普通に会いに行けばいいんじゃないのか? 門番の人に事情を説明すればいいだけだろ?」


 首を傾げて雅人が尋ねる。


「……そんなに簡単にいくかな?」


 すると、ぽつりと美春が疑問を呈した。


「無理とは言いませんが、考えなしというか博打的な要素が強いです。それにリスクも高い」


 と、リオが難色を示す。

 美春達はもちろん、長年この世界で暮らしているリオも、ガルアーク王国での身分は平民と変わらない。

 そんな者達が会いたいと言ったところで、国賓として王城に滞在している沙月と簡単にお目通りが叶うことはないだろう。

 城の門番に事情を説明したところで門前払いされる可能性の方が高い。


「リスクって?」


 雅人が尋ねた。


「良くて魔力の豊富なみんなが国の魔道士として囲われて利用されるくらいかな。最悪のケースを考えると、沙月さんに命令を従わせるための保険として君達を人質にとる」

「っ……」


 辛辣なリオの予想に美春達が顔をひきつらせた。

 美春達の魔力はこの世界で暮らす人間族の比ではなく、魔道士として育てて使うだけでもその利用価値は非常に高い。

 勇者である沙月との関係も踏まえて、そう簡単に死なせるような危険な場所には向かわせないだろうが、王侯貴族の中には権力争いで美春達を利用しようとする者もいるだろう。

 そう考えると、正規の手段で会うにしても、考えなしに美春達を沙月のもとへ連れて行くわけにはいかない。


「いくら何でもそんな真似は……しない、ですよね?」


 おずおずと亜紀が問うた。


「どうかな。この世界に人権なんて認められていないからね。民衆のために権力を歯止めするシステムもない。だから権力さえあれば弱者に何でも言うことを聞かせられる。権力者が集まる場所は窮屈で住みづらい場所だよ」


 困ったように微笑して、諭すようにリオが答える。

 冗談ではないということが伝わってきて、亜紀は息を呑んだ。


「で、話はここからが本題だ」


 亜紀達を見渡すと、リオが話を切りだした。


「実は一ヶ月後にガルアーク王国の王城で勇者のお披露目パーティが開かれるらしい。俺はその会に招待してもらえることになったんだけど……」


 そこまで言うと、リオはいったん言葉を切って小さく息を吸った。


「俺はそこで沙月さんに会って話をしてこようと考えている。それで可能ならばみんなが沙月さんと会えるように取り計らおうと思っているんだけど、みんなは留守番をしていてくれないかな?」


 流石のリーゼロッテもさして素性も知れぬ一般人をぞろぞろと沙月のお披露目会に招くことはできず、出席できるのはリオだけだ。

 そういった夜会に出席するとなると色々と作法を身につけていなければならないのだが、貴族の学び舎に通っていたことのあるリオはともかく、美春達はそういった作法は何も知らない。

 そんな状態で無理を承知で強引に夜会に連れていくのは得策ではないだろう。


「それはもちろんと言いますか。私達のためにハルトさんに面倒事を押し付ける形になってしまい……、その、申し訳ありません」


 美春は恐縮した様子でリオに深く頭を下げた。

 きっと美春達だけではスムーズに事態を進めて沙月と面会する段取りをつけることはおろか、こうしてまともに生活をしていることすらできなかっただろう。

 恩は返すどころか溜まっていく一方で、それが申し訳なくて、もどかしくもあった。


「面倒だなんてことはありませんよ」


 そう言いながら、リオはいつの間にか空になっていたカップに紅茶を注いだ。

 かぐわしい香りが漂ってきて、気分をリラックスさせてくれる。

 顔を上げると美春が済まなそうな表情を浮かべていて、リオは小さく微笑んだ。


「俺が沙月さんのお披露目会に出席している最中は、美春さん達にも宿をとって王都に滞在してもらおうと思っています。期間は二週間もかからないはずです」

「あ、はい。わかりました」


 美春が返事をすると、亜紀と雅人もこくりと頷いた。

 すると、そこで、


「あの、お兄ちゃんの詳細はまだわからないんですよね?」


 と、亜紀がおずおずと尋ねてきた。


「ごめん。貴久君だったかな。彼の消息はまだ掴めていない。沙月さんが勇者になっている以上、彼も勇者になっている可能性は高いと思うけど……」

「そう……ですか」

「噂レベルだけど、ガルアーク王国の南にあるセントステラという王国にも勇者が存在するという情報が流出している。貴久君も国に所属しているのなら、いずれ沙月さんみたいに存在が公表されると思うよ。何か情報が入ってくればすぐに伝えるから」

「はい。よろしくお願いします!」


 亜紀がぺこりと頭を下げる。

 何はともあれ、沙月の所在と安全を知ることができただけでも、美春達の不安の種も半分は解消されたことになる。

 後は亜紀と雅人の兄である千堂貴久の安否であるが、リオが彼の居場所を知るのはもう少し先のことであった。


 ☆★☆★☆★


 立てかけた梯子はしごから岩の家の屋根に登り、美春はぼんやりと夕暮れに染まった空を眺めていた。

 地球にいたままではそうそうお目にかかることはできないであろう綺麗な空である。

 ふわりと吹いた風に揺られて、美春の長い髪が波を打つ。


「……と見たかったな」


 風が奏でる森のざわめきに、美春の呟きが吸い込まれる。

 凛としたその瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。


「……さん?」


 下の方から声が聞こえた気がして、慌てて涙をふき取ると、美春は屋根の端まで歩いて眼下を見下ろした。


「ハルトさん……」


 そこには美春を見上げるリオの姿があった。

 リオの眼差しを受けて、美春の綺麗な目が見開かれる。

 そのままじっとリオを見つめていると、


「寒くないですか?」


 美春の身を案じるように、リオが言葉を投げかけてきた。

 季節は春前で、夕方となればまだまだ冷え込む時期だ。

 美春はシンプルなレースの付いた黒いチュニックワンピースを着ているだけだから、風邪を引かないかとリオは心配したのだろう。


「はい。少し夕焼けを眺めていただけですから、大丈夫ですよ」


 美春が穏やかな微笑を浮かべて答えた。


「ハルトさん。いつもありがとうございます」


 続けて、背筋を引き伸ばし、真摯しんしな表情を浮かべると、美春がリオに礼を告げる。


「はい……?」


 何に対して礼を言われたのか疑問に思って、リオは首をかしげた。


「ふふ」


 その様子を見て、美春がくすりと笑う。

 リオは思わずそんな彼女に見惚れてしまい、馬鹿みたいに突っ立ったまま、声も出せずにじっと美春を見つめていた。


「きゃ」


 その時、周囲に少し強い風が吹いて、美春が小さく悲鳴を漏らした。

 美春のスカートが悪戯に揺れて、リオの視界に純白の布切れが映る。


「へ」


 と、二人の声が重なる。


「っ……」


 すぐにリオが顔を赤く染めて視線を逸らす。


「ふ、ふぇ?」


 美春のすっきりとした頬も、夕焼け空のように真っ赤に染まっていた。

 慌ててスカートの裾を押さえるが、リオの反応からして見られてしまったのは明白だ。


「お、お、お、お見苦しいものをお見せして……」


 くるくると目を回して美春が物凄い勢いで頭を下げた。


「い、いえ、俺の方こそすみませんでした!」


 所在なさげに視線を外したまま、リオも謝罪の言葉を口にする。


「うう~」


 リオが横目でちらりと美春を見やる。

 美春は僅かに顔をうつむけ、恥ずかしさで身体を震えさせながら、自分の足元を見つめていた。

 その仕草はリオの――。

 いや、天川春人のよく知る幼馴染のものとまったく変わっていなかった。

 すると再び強い風が吹いて、美春があたふたとスカートを押さえる。


「は、早く下に降りた方がいいですよ。もう暗くなりますし、風も吹いてきたようなので」


 上ずった声でリオが告げる。


「は、はい! そうします!」


 気が動転しているせいか、美春がぎこちない動作で足を動かす。

 リオはサッと背を向けて、明後日の方向に視線を走らせた。


「きゃ」


 背後から美春の悲鳴が聞こえて、リオはとっさに振り返った。

 するとつまづいて転びそうになっている美春の姿が視界に映る。


「あ、危ない! みーちゃ……!」


 バランスを崩す姿を見て、リオは無意識のうちに幼い頃の呼び方で美春を呼びかけてしまった。

 とっさに口をつぐみ、身体能力を強化して屋根の上に飛び移ると、そのまま美春の身体を抱きかかえるようにしてそっと支える。


「あう……」


 目を瞑って身体を硬直させていた美春だったが、リオの胸に顔を押し付けられてびくりと反応した。


「大丈夫ですか?」


 美春の顔を覗き込んでリオが尋ねる。


「は、はい」


 おそるおそる目を開くと、美春はこくりと頷いた。

 ぱちぱちとまばたきをしてリオの顔を見つめる。


「良かった……」


 リオがホッと息を吐く。

 形の良い鼻梁びりょうに長い睫毛まつげに彩られた美春の美貌びぼうが至近距離からくっきりと視界に映る。

 腕の中で身体を小さく強張らせている様子は小動物のようだった。


「えっと、その……」


 じっとリオの顔を見つめている美春だが、どことなくその顔が赤い。


「どうかしました? 足でも捻ったとか?」


 美春の顔色を機敏に察して、リオが安否を再確認する。


「あ、いえっ、そのっ、あのっ……えっと……」


 しどろもどろに言葉をつむごうとする美春。

 その顔はますます赤くなっている。


「あ、ごめんなさい!」


 いつまでも密着したままでは恥ずかしいだろう。

 顔を赤くするのも当たり前だ。

 それに気づいて、リオは慌てて美春から距離をとった。


「あ……」


 美春の口から小さな声が漏れた。

 伸ばしかけて、引っこめたようにも見えた手で、所在なさげに衣類を正す。

 そのまま美春は様子を窺うように、そっと上目づかいでリオの顔を見上げた。

 それは思わず男の保護欲をくすぐる様な素振りで、意識してこれをやっているのならば罪作りだが、そういうわけではない。

 美春があまり男慣れしていない感があることはこれまで生活で何となく察していることから、リオは無意識でやっているのだろうと判断した。


「…………」


 二人の間に何となく気まずい沈黙が流れる。

 その間にも断続的に微風が二人の周囲を吹き抜けていた。


「くしゅん」


 ふと、美春が可愛らしいくしゃみをする。

 リオはその様子を目にすると、自らの首元に巻かれていたストールに視線を移した。


「えっと、寒いですから……」


 そう言って、身に付けていたストールを外して、美春の首に巻きつける。


「あ、ありがとうございます……」

「い、いえ……」


 二人は照れくさそうに頬を染めた。


「温かいですね」


 そっと首元のストールを両手で握りしめて、顔に引き寄せると、美春が言った。


「そう言えば美春さんはマフラーやストールを持ってなかったですよね。もうすぐシーズン外になっちゃいますけど、今度外出する時に買いに行きましょう。男用ですけど、良かったらその時までそれで間に合わせてください」

「え、あ、はい。いいんですか?」

「ええ、その、俺はまだ何個か持ってますから」


 そっとはにかんでリオが告げる。

 しかし、ちょうど太陽は地平に落ちかかっており、周囲は急速に夜へと移り変わっていため、美春にはリオの表情はあまりよく見えなかった。

 そのまま無言の時間が十秒ほど流れて、


「あ、あの!」


 おもむろに美春が口を開いた。


「は、はい」


 リオが姿勢を正して返事をする。


「あの、ハルトさん、さっき……」


 何かを探ろうと話しかけた美春だったが、後半になるにつれて尻すぼみになっていく。

 二人の間にある一メートルほどの空間が見えない壁となって、美春の声をさえぎった。


「美春さん?」

「あ、いえ。何でもありません」


 微笑を浮かべて、美春は言葉を呑みこんだ。


「そう、ですか?」

「はい。家の中に戻りましょう。そろそろ雅人君がお腹を空かせているでしょうから」

「そうですね」


 くすりと笑ってリオは同意した。


「そういえば雅人君がラーメンを食べたいと言っていたんですけど……」

「じゃあ今度作ってみましょうか。凝ったスープは作るのが難しいでしょうけど。あ、こっちの世界だとラーメンはカムタンというんですよ」


 そんな会話を繰り広げながら、二人は完全に周囲が闇に包まれる前に家の中へと戻った。

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