第81話 騒乱のアマンド
アマンドが西門から魔物の襲撃を受けた時から、少し時刻は遡る。
今から訪れる混乱が嘘のように、都市の中は大勢の人で賑わっていた。
都市の通りにはいくつもの露店が並んでいる。
リオはそれらを眺めながら、時には足を止めて、買い物を楽しむ振りをしていた。
そんな真似をする理由は一つ。
ひっそりと自らを尾行する存在を察知したからだ。
おそらくはリーゼロッテの配下だろうと、リオは踏んでいる。
彼女の立場を考えれば、契約関係に立つ相手の素性くらいは詳しく知っておきたいはずだ。
そして、リオの素性を証明する身分証のようなものが存在しない以上、リーゼロッテの側で独自に情報を収集するしか方法はない。
ゆえにリオは屋敷を出た段階で尾行がないか警戒していた。
すると、案の定、屋敷を離れてから間もなくして、自らを追跡し始める存在に気づく。
気配を消して周囲に溶け込む技術は中々のものだが、相手の誤算はリオの警戒範囲が常人のそれを大きく超えていたことである。
人の少ない高級住宅街から尾行を開始したことも悪手であった。
流石のリオも人ごみに紛れて尾行を開始されたとしたら発見は難しかったはずだ。
先ほどからうろうろと市場を見て回ったが、ずっと一定の距離を保って貼りつかれていることから、行き先がたまたま一致しただけという可能性はないだろう。
リオは自らが尾行されていると断定した。
とはいえ、保険をかけて二重に尾行を行っている可能性もある以上、相手が一人と決めつけるのは早計である。
いざとなれば人のいない場所に駆けこんで、精霊術で姿を消して都市を抜け出すこともできるが、あまり行動に不可解な点を残して情報を与える真似はしたくない。
適当に時間を置けば人間の集中力などすぐに限界が来る以上、自然に見失うような形で監視を撒くことくらい容易いはずだ。
そう考え、もう少し散策を続けようと決めたところで、都市の中に鐘の音が鳴り響いた。
「お、おい。これって……」
「あ、ああ……」
その鐘の意味を理解しているのか、リオの周囲にいる群衆の中には示し合わせたように顔を見合わせる者達がちらほらと見受けられた。
鐘の音とともに、怒号が、悲鳴が、罵声が遠くから聞こえてくる。
「や、やばいのか?」
「何があったんだ?」
一時的に都市に滞在している者は鐘の意味を理解できていないようだが、周囲の喧騒によって危機感を抱き始めた。
しばらくすると、流れるように西側から大量の人が押し寄せてくる光景が見えて、あっというまに一帯が騒然となっていく。
「お、おい、あれ……」
「やだ、怖い」
「逃げろ……」
「逃げろ!」
波に押されるようにして、次々と走り出す市民達。
群集心理から、それまで平静を装っていた者達まで、恐慌状態に陥ってしまったようだ。
交易都市であるアマンドは人の流入が多く、例日のように市が開かれ、広場や路地には出店が立ち並んでいる。
店が人を呼び、リオがいる路地にも買物目当てで散策している人間が大勢いるのだ。
それだけの人間が一斉に走り出せば、どうなるかは結果を見るまでもない。
路地の中は瞬く間にごった返して、群衆は先を競い、東を目指した。
「逃げろー!」
「どけ!」
我先にと人を押しのけながら進む人々から逃れるように、リオが冷静に通路の端へと寄っていく。
警報の鐘が鳴り響き、群衆が避難しているということは、おそらく何らかの外敵が都市の西門に現れたのだろう。
ならば既に都市の兵士や冒険者達も迎撃に出ているだろうし、すぐにこの場に魔物が魔物がやって来ることはないはずだ。
ここで人波に紛れてしまっては、かえって動きにくくなるだけだと判断し、リオは一先ずは様子を見ることを決めた。
ついでに自らを尾行していた者の正体を確認するべく、視線を張り巡らせる。
すると視線の先にリーゼロッテの屋敷の者と思われる侍従の恰好をした女性がいることに気づく。
侍従の服を着ているだけでは尾行を証明する何の証拠にもならないが、顔を覚えることはできた。
女性は突発的に起こったパニックを受けて、尾行を続行するべきかどうか、僅かに葛藤しているようだ。
だが、やがて何かを決意したような表情を浮かべると、人波から逃れるように通路の端へと避難した。
おそらくはリオと同じことを考えたのだろう。
他にも同じ判断をして通路の端に避難した者がちらほらとおり、そのいずれもが武装している人間であった。
都市の兵士もいるが、冒険者らしき恰好をした者達もいる。
数分ほど時間が経過し、ようやく人の流れが落ち着き始めたところで、
「よし、アマンド兵士団集合!」
突然、上質な装備を身に着け、端整な顔つきをした男性兵士が、きびきびとした声を出して、周辺にいた兵士達に招集をかけた。
すると近くにいた五人ほどの都市の兵士達が素早く集合し始める。
一緒にリオを尾行していた侍従――、ナタリーもその場に駆け寄った。
「冒険者の諸君も集合してくれたまえ!」
続けて、周囲に散らばっている冒険者達にもお呼びがかかる。
付近にいた総勢十名ほどの冒険者達が機敏に動き出した。
リオは面倒事に巻き込まれる前に立ち去ろうとしたのだが、
「おーい、そこの坊主! 君も冒険者だろ。早くこっちに来てくれないか?」
端整な顔つきの男性兵士がリオの背中に声をかけた。
兵士でも冒険者でもないのに都市の中で武装する人間など極めてまれな存在であり、男性兵士もその先入観からリオを冒険者と断定したのだろう。
やむを得ず、リオがそちらに顔を向ける。
すると、男性兵士が愛想の良い笑みを浮かべて手を振っている姿が見え、リオは小さく嘆息しながら歩み寄った。
集合に遅れているリオに対して、兵士や冒険者達から不機嫌そうな視線が向けられる。
「坊主は新人か? 冒険者は緊急時に滞在する都市の兵士として臨時採用される決まりになっているだろ。こういう時は素早く行動してくれないと周囲に迷惑がかかるぞ」
と、咎めるのではなく、諭すような口調で男性兵士が言った。
冒険者ギルドが存在する都市に外敵の襲来があった場合、代官はその都市に滞在している冒険者達に対して緊急依頼を発動することができる。
その依頼の内容は極めてシンプル――、都市の防衛だ。
理由もなく緊急依頼を断れば罰則が科せられ、最悪のケースではその都市から追放処分を受けることになるのだが、冒険者でないリオはそんな規則の存在は知らない。
「自分は冒険者ではないのですが」
と、リオは端的に自らの身分を打ち明けた。
心証は悪いだろうが、詳しく説明するより、こう言った方が手っ取り早いだろう。
すると男性兵士が困ったような表情を浮かべる。
「え、あー、そうなのか? 冒険者のタグは……着けてないようだが。そうか。なるほど……」
ちらりとリオの首筋に視線を移すと、男性兵士が悪びれたように言った。
冒険者は首に冒険者ギルドに所属していることを示すタグを身に着けることが義務付けられている。
タグには冒険者の個人情報が記載されており、身分を偽る意図でタグを外すと重い罰則が科せられる決まりとなっていることから、安易に嘘を吐く者はいない。
仮にリオが嘘を吐いていたとしても、今後もこの都市で活動するようなら、後になってギルドに照会すればすぐ判明することである。
この場にいる冒険者達に顔見知りはいないようだし、指揮官の男はリオの話が本当であると信じることにした。
「そうか。引き止めて悪かったな。早く逃げるといい。出来れば逃げ遅れて襲われている市民がいたら助けてくれると助かる」
男性兵士は肩を竦めると、リオにそう伝えた。
「ええ、承知しました」
リオは小さく嘆息し、頷いた。
そのまま踵を返して立ち去る。
「けっ、腰抜け野郎が……」
「まぁいいだろ。ビビっている奴がいても役にはたたねぇからな」
「あんなもやし小僧がいても足手まといになるだけだ」
そんなリオの背中に、冒険者達から口々に揶揄する声が向けられた。
むろん彼達とて好き好んで戦いたいわけではない。
だが、武器を持ち戦いに身を置く職に就いてしまった彼達からすれば、戦闘すべき場面で真っ先に逃げ出すことは周囲から後ろ指をさされる程に恥ずべき行いであるという共通認識がある。
ゆえに、冒険者ではないとはいえ、仮にも武装していながら立ち去ろうとする姿を見て、やっかみからリオを臆病者と蔑むのも無理はなかった。
口にこそ出さないが、冒険者だけなく、兵士やナタリーもどこか釈然としない表情を浮かべている。
冒険者達の声は聞こえていたが、リオは眉を顰めることもなく、真っ直ぐと歩を進めた。
リオとしては周囲の目なんてどうでもよいのだ。
そんなことよりも美春達の方が心配なのだから。
美春達はアマンドからはそれなりに離れた場所にいるが、危険が及ばないという保障はない。
護衛としてアイシアがいることから滅多なことでは万が一の事態が生じることはないだろうが、それでも徒に時間を消費したい気分でもなかった。
「兵士でも冒険者でもない以上、彼に戦闘を強制することはできない。気持ちはわからんでもないが、その感情は敵さんにぶつけろ」
まとめ役の男性兵士が困ったように苦笑し、不満を抱く者達を宥める。
そのまますぐ傍に控えていた侍従――、ナタリーに視線を送ると、
「さて、ナタリーちゃん。情報が不足しすぎているが、とりあえず俺はこいつらを指揮して西門から都市の中心部に通じる大通りへ向かう。君はリーゼロッテ様に報告を」
そう言って、話を切りだした。
「はい。了解です。元よりそのつもりでしたが、マティスさん、御武運を」
敬礼して頷くと、ナタリーは毅然とした笑みを浮かべた。
「おお、いいねぇ。可愛いナタリーちゃんに応援されたとなると、俄然やる気が出るよ」
マティスと呼ばれた男がおどけたように肩を竦める。
「はいはい。馬鹿なことは侵入者を撃退した後に言ってください。私は急ぎますので、一足先に行かせていただきますよ。『
呪文を唱え、魔法陣の光が身体を覆うと、ナタリーは疾風ともいうべき速度でその場を後にした。
「流石、侍従隊の子なだけはあるねぇ。俺らも頑張らないと」
ひゅうと小さく口笛を吹くと、マティスはにやりと笑みを浮かべた。
「よーし、野郎ども! まずは中央広場に向かう。行くぞ! 付いて来い!」
と、マティスが大きく呼びかける。
すると、「おう!」と、兵士と冒険者達は力強く返事を重ねた。
☆★☆★☆★
先ほどまでいた都市の西側寄りの通りを離れ、リオは中央広場までやって来た。
都市の各地で魔物との戦闘が繰り広げられているが、西門から真っ直ぐに伸びている中央広場手前の大通りには防衛線が敷かれ、総勢で二百人近い兵士と冒険者達が魔物と乱戦を繰り広げている。
「おらおら、どんどん殺していくぞ! オーガは二対一、オークは三対一になるように連携を組め! 自信のない奴とあぶれた奴はゴブリンを狙え! 殺した魔物の魔石の回収は後回しだ! 人型以外の魔物は冒険者連中に任せろ!」
そこに部下の兵士や冒険者達に怒号を浴びせるように指示を下す指揮官と思われる男性兵士がいた。
精悍な身体つきをした壮年の男性兵士は歴戦の風格を漂わせている。
数は魔物の方が多いが、上手く指揮を行い、通路の狭さを上手く活用し、流入を食い止めているようだ。
とはいえ、流石にそのすべてを防ぐことはできていないようで、討ち漏らしている魔物が少しずつ都市の奥へと向かっている。
仕方なくリオも移動する片手間で襲いかかってくる魔物達を斬り殺していく。
戦闘員以外には人をほとんど見かけないが、魔物はリオの予想以上にアマンドの奥深くにまで侵入しているようだ。
先ほどからリオも何度か魔物に襲われており、すべて一刀の下に斬り伏せているが、防衛線を抜けた魔物の数が減ったようには思えない。
「ちっ」
緑色のゴブリン数体が襲いかかってきたため、小さく舌打ちをしながら、リオは剣を振って斬り殺した。
出来ることならば完全に
精霊術で身体能力と肉体の強度を強化し、足早に進んで行くしかないだろう。
おそらく東門は人でごった返していることから、適当に都市周辺の柵を飛び越えて抜けるのが一番だ。
そうして斬っても斬っても姿を現す魔物に辟易としているうちに、ようやく魔物の数も減ってきたのだが、
「や、こ、こないで! あっち行って!」
リオは十歳くらいの少女がゴブリンやオークと対面している姿を目撃してしまった。
何やら地べたに倒れて苦しんでいる女性を守るように立ち塞がっている。
「ミレーユ、逃げなさい!」
女性の両脚にはゴブリンが放った木の矢が突き刺さっており、身動きがとれないようだ。
「だ、駄目だよ! お母さんも一緒に逃げないと!」
ミレーユが肩越しに倒れる母の姿を確認する。
突き刺さった矢を抜こうにも激痛が邪魔をして上手く力が入らないようだ。
「私はもう歩けないの。ね、お願い。逃げて。お母さんなら大丈夫だから」
「っ、駄目だよ! 絶対に逃げないんだから!」
必死に逃走を促す母親に、ミレーユが泣きそうな声で反論する。
そんな彼女にゴブリンとオーク達が醜悪な顔を愉快そうに歪めて近づいていく。
その距離が残り数歩となり、目の前に立ちつくすオークの巨体に、ミレーユが恐怖で顔を引きつらせると、
「ゴフッ」
背後から一足で間合いを詰め、リオがオークの首に足刀を叩き込んだ。
強烈な蹴りによって、体長二メートル半を超えるずんぐりとしたオークの巨体が、砲弾のように軽々と吹き飛んでいく。
「へ……?」
目の前にいた巨体が一瞬で姿を消し、ミレーユが間の抜けた声を出す。
「ガッ」
続けて、リオは残りのオークの胴体に掌底を叩きこんだ。
オークの巨体が数メートルほど浮き上がり、地面に崩れ落ちる。
今度はゴブリン達の腕を乱雑に掴むと、明後日の方向に投げ捨てた。
高位置から地面に叩きつけられた衝撃で、ゴブリン達が痛みで悶絶する。
それぞれ当たり所が悪かったのか、やがて息絶えると、魔物達の身体がサラサラと灰になり、魔石を残して完全にこの世から消滅する。
リオはそれを確認すると、
「大丈夫か?」
そう言って、ミレーユに怪我がないか、目視でサッと確認する。
「は……い」
ミレーユはぽかんとした表情でリオの顔を見つめていた。
そんな彼女を尻目に、リオが倒れている女性に歩み寄る。
「……矢を抜いて治療します。少し痛いですけど我慢してください」
リオは女性の顔に僅かな既視感を抱いたが、すぐにそれを放棄して、そう伝えた。
「は、はい」
女性の返事を聞くと、リオはふくらはぎと太ももに突き刺さっていた木の矢を抜いた。
「っ……」
女性が痛みで顔を歪める。
「『
リオは小さく穴の開いた女性の脚に手をかざすと、カモフラージュ用の呪文を口にし、精霊術で手早く治療を開始した。
魔法陣が発生しない以上、女性が魔法に対して多少なりとも知識を有していれば違和感を覚えるだろうがやむを得ない。
幸い女性は痛みで目を瞑っており、ミレーユは背後で不安そうにその様子を眺めているせいで、魔法陣が浮かんでいないことには気づいていないようだ。
そうして二十秒ほどかけて完全に治癒を終えると、
「これで大丈夫です。本当は走るのは控えた方が良いんですけど、緊急時ですから止むをえませんね。とりあえず立てますか?」
と、そう語りかけた。
「は、はい。ありがとうございます! 何と礼を申し上げればよいのでしょうか……」
女性が恐縮したようにリオに頭を下げる。
すると、そこへ、
「レベッカさん。どうかしましたか?」
リーゼロッテの屋敷へ帰還する途中のナタリーが通りかかった。
レベッカと呼ばれた女性がぺこぺことリオに頭を下げる姿を見て、僅かに警戒したような視線をリオに向ける。
「このお兄ちゃんが魔物達から助けてくれたんだよ! お母さんの怪我も治してくれたの!」
そこでミレーユが横から嬉しそうに事情を説明した。
興奮して飛び跳ねるその姿に、ナタリーが呆気にとられたような表情を浮かべる。
「えっと……」
訝しげにリオを見やるナタリーだが、地面に転がる数本の木の矢、出血の跡、そしてミレーユの様子を見る限りは嘘を言っているとは到底思えない。
しばし視線を彷徨わせ、状況を整理し終えると、
「そ、そうだったのですか。申し訳ありません! あ、いえ、ありがとうございました!」
ナタリーは何故か謝り、続けて礼を告げた。
謝られたことに「ん?」と、リオが僅かに首を傾げる。
リオはナタリーが自分を尾行していた存在だと気づいているが、ナタリーはリオに尾行が気づかれていたとは思ってもいないはずだ。
ひょっとして尾行していたことでも謝っているのだろうかと考えたが、それは違うだろう。
実を言えばナタリーはリオのことを誤解していたのだ。
先ほどのリオとマティスとのやりとりはナタリーもすぐ傍で見ていたのだが、仮にも武装している身でありながら、都市の一大事に手助けをする気がゼロとしか思えない発言をして、逃げるようにその場を後にした薄情者――、それがナタリーがリオに対して抱いた印象である。
もちろん、それが八つ当たりに近い不満だとわかってはいるが、ナタリー個人としてはあの状況下でほとんど葛藤する様子も見せず、あっさりとあの場を後にしたリオのことはあまり好ましくは思えなかった。
だが、今のミレーユの話を聞く限りだと、リオがしたことは薄情者がする行いとは正反対の行動である。
必死にリオに頭を下げるレベッカの姿を目にし、もしかしたら良からぬことをしようとしているのではないかと邪推してしまった自分を恥じて、ナタリーは慌てて勘違いしてしまったことに謝罪、もとい都市の住民を守ってくれたことに礼を告げたのだった。
「いえ、たまたま通りかかっただけですから」
まさか誤解されていたとは露にも思っていないが、小さく苦笑し、リオは
「それじゃあ俺はこれで。貴方達も東門に避難するのなら一緒に来ますか?」
何となく微妙な雰囲気が漂い始めたことを察し、リオはナタリーに断りを入れてさっさとその場を後にしようとした。
ついでにレベッカとミレーユの二人に声をかける。
出来れば人と一緒に行動などしたくはないが、流石にこの親子二人を放置して自分一人で先を進む真似ができる程にリオも非道ではない。
「あ、待ってください!」
呼び止めようとナタリーがリオに声をかけたその瞬間――。
リオは背後から急接近する気配を察知した。
とっさに振り返ると、そこには灰色の肌をしたグールがナタリーに襲いかかろうとしている姿が映る。
「危ない!」
リオは叫ぶと同時に駆け出し、グールとナタリーの間隙に潜りこんだ。
反応する間もなく動いたリオにナタリーが「え?」と疑問符付きの声を上げる。
鋭い爪を用いた貫手でナタリーの心臓を突き破ろうとしていたグールの手を掴み、思いきり捻ると、リオはその勢いを利用し相手の体勢を崩して投げ飛ばした。
「ガッ……」
水平に飛ばされ、やがて地面に落下すると、グールの口から小さく
リオに捻られた腕は人体構造上ありえない曲がり方をしていたが、グールはその腕を掴むと無理やり向きを正した。
そうしてみるみるうちに損傷が修復していく。
「な、なんですか。あの化物は……」
その光景を目にし、呆然とナタリーが呟く。
リオは油断なくグールを見据えたまま、
「さて、俺も知りませんが、おそらくは魔物でしょうね。厄介なことにどうやらまだまだ元気なようです」
面倒くさそうに、そうぼやいた。
肩越しにちらりと後ろを確認すると、レベッカとミレーユが不安そうに寄り添っている姿が見える。
リオは小さく嘆息すると、
「貴方は後ろの二人の護衛を。アレの相手は俺がします。ダガーを装備しているということは少しは戦えるのでしょう?」
決然とした表情で、ナタリーに言った。
「で、ですが、あの魔物は明らかに他の個体とは異なります。とんでもない身体能力と治癒能力を持っているようですし、二人で連携して戦った方が……」
ナタリーが眉を
彼女は侍従ではあるが、戦闘訓練も受けていることから、そこいらの騎士に負けないくらいの強さはあると自負している。
だが、先ほど一瞬だけ見えたグールの速度は、魔法で肉体の限界ギリギリまで身体能力を強化したくらいのものであった。
加えてあの再生能力である。
勝てないとは思わないが、初見の相手である以上、他に何らかの厄介な能力を持っていないとも限らない。
ゆえに、ここは安全策をとって、慎重を期して戦うべきだろうと判断したのだが、
「まぁ、あれくらいなら大丈夫でしょう。お互いの戦闘スタイルも知らない状態では連携のしようもありません。様子を見て危なそうだったら援護してください」
リオはナタリーに向かって、心配無用とばかりに
ちょっと散歩にでも行くと伝えるように、気軽に言って見せたリオに、ナタリーがぽかんとしてしまう。
すぐに悩ましげな表情を浮かべ、心の中で葛藤すると、
「……わかりました。ではお任せします」
ナタリーは断腸の思いでリオにグールの相手を任せることにした。
リオの発言内容には一理あったし、レベッカ達の護衛が必要なのも事実であるからだ。
「ええ、貴方は後ろにいる二人に危害が及ばないように、よろしくお願いします。他に魔物が襲い掛かってこないとも限りませんから」
「はい。承知しました」
答えて、ナタリーは背後にいるレベッカとミレーユを見やった。
二人は後輩の家族であり、ナタリーも個人的に付き合いがないわけではない。
何よりも彼女の主であるリーゼロッテの大切な市民達だ。
絶対に守らなければ――。
生真面目なナタリーは言われた通り、絶対に二人の身を守ると心の中で誓った。
「お兄ちゃん頑張って!」
「ああ」
リオがひらひらと手を振り、ミレーユに応える。
グールは完全に腕の回復を終えたのか、警戒したようにリオを威嚇していた。
だが、リオは悠然とグールに歩いて近づいていく。
ナタリーはそんなリオの背中をじっと見つめていた。
彼ならば大丈夫かもしれない――。
鍛えた兵士や冒険者達と比べると少し華奢な身体だが、どうしてだろうか。
ナタリーの目にはその背が絶対的な安心感をもたらしてくれるように映った。