第67話 波瀾が終わって
アイシアが目覚めたその日、夕食を食べ終え、風呂に入り、夜の
「今日はここまでにしてそろそろ眠りましょうか」
シュトラール地方の標準語のレッスンに区切りがついて、程よく睡魔が襲ってきたところで、リオが美春達に告げた。
今日の講師役にはアイシアにも参加してもらっている。
アイシアはリオと同じくシュトラール地方の標準語と日本語を喋れるため、リオの補佐役を務めてもらうことになったのだ。
彼女は口数が少ないので教師役には不向きだが、聞かれたことにはきちんと答えてくれるので会話相手としては不足がない。
むしろわからないことは日本語で質問もできるため、立派にサポート役を務めたのだった。
「はい。今日もありがとうございました」
慣れない言葉の学習に疲れた様子の美春達。
ぺこりと礼儀正しくお辞儀をする美春と亜紀に対して、雅人はぐったりとして机の上に突っ伏した。
「お疲れ様。アイシアも」
リオが美春達とアイシアを
「うん」
アイシアはこくりと頷く。
その姿を見て、リオがそっと笑みを浮かべた。
今日はアイシアが目覚めたことによって多少の騒乱はあったが、何とか平穏に一日を終えることができたようだ。
「セリア先生はもう少し起きていますか?」
ソファに座って紅茶を飲みながらゆったりと本を読んでいるセリアに、リオが尋ねる。
「ええ、私はもう少し起きているわ。先に寝ていてちょうだい」
ちらりとリオに視線を移し、セリアは微笑を浮かべた。
セリアは夜更かしをすることが多い。
今日もこのまま夜中まで本を読んでいるのだろう。
「わかりました。夜更かししすぎると健康に悪いですから早めに寝てくださいね。それではまた明日」
「ええ、おやすみなさい」
セリアと就寝の挨拶を交わすリオ。
「美春さんもおやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
続けて、美春とも就寝の挨拶を交わす。
亜紀と雅人はキッチンで冷たい飲み物を飲んでいるようだ。
後は各々が好きなタイミングで寝室に向かうだろう。
「アイシアもおやすみ。部屋はさっき教えたから大丈夫だよね?」
すぐ傍にいたアイシアにリオが声をかけると、
「うん」
アイシアは小さく頷いた。
そもそも精霊にどの程度の睡眠が必要なのか、その生態系は謎に満ちているが、アイシアにも個室を与えてある。
ちなみに食事は食べる必要はないらしいのだが、食べて魔力に変換することもできるそうだ。
「今日はもう寝ても大丈夫だよ。俺はそろそろ寝ようかと思ってるけど、アイシアはどうする?」
「うん、私も寝る」
どうやらアイシアも眠るようだ。
「そっか。じゃあまた明日。おやすみ」
「うん。おやすみ」
アイシアとも就寝の挨拶を交わし、薄く微笑みかけると、リオは踵を返した。
そのまま寝室へと向かい、部屋の扉に手をかける。
すると、そこで、
「……って、ちょっと待ちなさい!」
セリアがギョッとした様子でリオを呼び止めた。
大声を出したセリアに目を丸くして、リオが振り返る。
美春達も何事かとセリアを見やった。
「そこはリオの部屋よ。アイシア」
どうやらセリアが呼び止めた相手はアイシアだったようだ。
アイシアはさも当然のようにリオのすぐ後ろに立っていた。
「アイシア?」
目を
非常に気配が薄く、これといった害意も感じないため、リオ自身もまったく気づけなかったのだ。
そのあまりにも自然な動きは周囲の者達が違和感を覚えないくらいに馴染んでおり、声をかけたセリアも思わずそのまま見送ってしまうところだった。
「えっと、もしかして部屋の場所を忘れたとか?」
「ううん。覚えてる。でも寝るのは春人と一緒」
と、さも当たり前のように答えるアイシア。
「なっ……」
リオが口をぱくぱくとさせる。
一瞬呆気にとられて、すぐに頭を抱えたくなった。
「いや、そういうわけにもいかないというか……」
困ったようにリオが答える。
「そ、そうよ! 駄目よ! け、結婚もしてない若い男女が同じ部屋で寝泊まりするなんていけないの!」
セリアもソファから勢いよく立ち上がって声高に口を挟んできた。
すると、アイシアは不思議そうに首を傾げて、
「どうして?」
と、端的に尋ねた。
「うっ……」
あまりにも純粋な目でアイシアが不思議そうに見つめてきたため、セリアは思わず言葉に詰まった。
だが、すぐに気を取り直すと、
「ど、どうしてもよ! だいたいどうしてリオと一緒に眠るのよ? 自分の部屋があるでしょう?」
と、強く反論した。
「精霊は契約者からオドの供給を受けている。距離が近いほどその効率は良くなる」
「なっ……」
なるほど。
確かに理に適っている。
だが、道徳的には問題ありだ。
それに自分を差し置いてリオと一緒に眠るなんてずる――、いやこれは倫理の問題である。
セリアは年長者として風紀の乱れを取り締まらなければならないのだ。
自らにそう言い聞かせて、セリアは断固として徹底抗戦を行うと決意した。
「四六時中リオからオドを供給されないといけないの?」
だとしたら確かに考慮に値する。
だが、そうでないというのならば寝る時まで一緒にいさせるのは認めがたい。
「ううん」
返ってきた答えはノーだった。
セリアは小さく息を吐いて、
「だったら自分の部屋で眠りなさい」
と、そう告げた。
「より快適な環境で眠りたいと思うのは人間が有する原始的な欲求のはず」
だが、ここで引き下がるアイシアではなかった。
「あ、貴方は精霊でしょう?」
精霊にもそんな欲求があると言うのか。
いや、確かに知的生命体である以上はそういった衝動が生じてもおかしくはないのかもしれないけど。
「精霊だって眠る。居心地が良い方が好き」
そんな二人の言い争いを顔をひきつらせて見つめるリオ。
いつの間にか雅人がすぐ傍に近寄ってきていて、
「ハルト兄ちゃん……、アイシア姉ちゃんと一緒に寝るのか?」
と、不安と
アイシアとセリアの会話は理解できていないのだろうが、場の雰囲気から事情を察したようだ。
無理もない、と言うべきか、雅人はアイシアを強く意識していたりする。
それはもう挨拶をした時に思わず「すげぇ、綺麗だ……」などという台詞が口からポロッと漏れてしまうくらいに。
きっと一目惚れというやつなのかもしれない。
ちなみに、その時、すぐ傍にいた亜紀から「あんた一目惚れしすぎ」という呆れのこもったお言葉とともにわき腹にエルボーをもらっていたりもする。
「いや、寝ないよ」
リオはこめかみを押さえて答えた。
すぐ側には美春と亜紀がいて、リオに同情めいた苦笑をたたえている。
「でもアイちゃんも譲りそうにないですよね」
食ってかかるセリアをのらりくらりと交わしているアイシアを眺めて、美春が言った。
喋っている内容はわからないが、二人の様子を見る限りではセリアの説得が難航しているのは一目瞭然である。
ちなみにアイちゃんというのはアイシアのことだ。
美春はアイシアのことをそう呼んでいる。
「そう……ですね」
依然として二人の論争は続いている。
リオは頭痛がより強くなったように感じた。
とはいえいつまでもこのまま放置するわけにもいかない。
そう考え、リオはアイシアとセリアのもとへ歩み寄ると、
「二人とも、少しいいですか?」
やや
「ちょうど良かったわ。リオからも言ってやりなさい」
セリアがリオに助力を願う。
リオは小さく頷くと、
「アイシア、セリア先生が言う通り親しくない男女が一緒に寝るのはあまり好ましくないことなんだ」
アイシアの説得に加わることにした。
「春人と私は親しくない?」
ぼんやりとリオを見つめて、アイシアが尋ねる。
その瞳には寂しそうな感情が浮かんでいるように思えた。
「いや、親しくないことはないけど、俺達はまだ出会って間もないというか……」
リオは思わず言葉に詰まった。
「出会って間もない……」
ぼそりとアイシアが呟く。
「よくわからない」
続けて、アイシアはゆっくりと首を振った。
「うーん」
リオが困ったように
一定の関係にない男女が一緒に眠るのが好ましくないというのは人間社会の中で共有されている常識だ。
精霊の彼女には理解しにくいのかもしれない。
アイシアは言葉を喋れるけど、情感とか道徳といった人間社会の常識に欠けている面があるように思える。
とはいえ、きちんと説明して理解してもらえれば話は通じるのだ。
問題はどうやってそこら辺のことを上手く説明するかである。
「セリアもちゃんとした理由を言わないで駄目って言う。どうして春人と一緒に寝ちゃ駄目なの?」
特に親しくもない若い男女が一緒に寝てはいけない。
その帰結を導く前提常識が欠けている以上、頭ごなしに一緒に寝てはいけないと伝えても論理に飛躍があり納得はしにくいのだろう。
「それは……」
しかし、その理由を説明するために生々しい話をするのは
おそらくはセリアも同じ壁にぶち当たったのだろう。
「説明できないなら春人と一緒に寝る。行こう。眠い」
アイシアは言葉に詰まったリオの腕を掴んだ。
そのままリオがいつも眠る寝室へと歩き始めたところで、
「だぁぁ! もういいわ! こうなったら私も一緒に寝る!」
と、セリアが特大級の爆弾を投下した。
「え、ええ?」
リオが唖然とした面持ちを浮かべる。
それはもっと不味いのではないだろうか。
いや、確実に不味いだろう。
「何よ。アイシアとは一緒に寝るのに文句あるの? わ、私は何かあったらいけないと思って監視するんだからね」
ジロリとリオを睨むセリア。
捨て鉢になっているのか、セリアの目は妙に据わっていた。
リオの背筋に冷たい汗が流れる。
「いや、文句があると言いますか」
問題が大有りでしょう。
そう突っ込みたかったが、セリアの雰囲気がリオに有無を言わせなかった。
「ほら、行くわよ」
アイシアの反対側に回って、セリアがリオの腕を掴む。
いけない。
このままじゃ本当に三人で川の字になって眠ることになってしまう。
そこでようやくリオは反論する踏ん切りがついた。
「ちょ、待ってください! 先生はまだ寝ないんじゃないんですか?」
「う、煩いわね。気が変わったのよ」
顔を紅潮させて、セリアが言い放つ。
リオは自分の顔が引きつるのを感じた。
何とかしなければ――。
「……そうだ! アイシアは霊体化できるんだよね? じゃあ霊体化した状態で眠ればいいんじゃないかな」
思考を巡らせ、咄嗟に思いついたアイデアを、妙案だと言わんばかりにリオは告げた。
「霊体化?」
セリアが
「今アイシアはこうして実体化していますけど、精霊は霊体化することができるんです。基本的に精霊は人前に姿を現すのを嫌いますから」
そう、精霊は人前に姿を現すのを避ける傾向にある。
とはいえ、中にはドリュアスのように人と交流を行っている精霊もいるので、絶対に姿を現したがらないというわけではないのだが。
現にアイシアも契約者であるリオはおろか美春達の前にも平然と姿を現している。
「つまり人の姿じゃなくなるってこと?」
「と言うよりこの世の物理法則から干渉を受けない存在になると言った方が正確でしょうか」
リオがそう言うと、セリアは手を口元にあてて悩むそぶりを見せた。
「なる……ほど。それなら……まぁ、いい……のかしら?」
納得したような、納得していないような、微妙な表情を浮かべて、言いよどむセリア。
そもそも実体化して一緒に寝ることが問題なのか、実体化していなくとも一緒に寝ること自体が問題なのか、リオも問題の核心をいまいち掴み切れてはいない。
リオとしては本来なら一人で眠るのが望ましいのだ。
だが、背に腹は代えられない。
自らの安眠と美春からいらぬ誤解を受けることを避けるためにも、二人と一緒に眠ることだけは絶対に避けなければならなかった。
だから、チャンスは今しかない。
リオは一気にたたみかけることを決めた。
「アイシアもそれでどうかな? 霊体化した状態でならセリア先生も納得してくれるみたいなんだけど」
セリアが心の底から納得していない様子であることはリオにもわかっていたが、リオはアイシアに問いかけた。
「わかった」
すると、アイシアがこくりと頷く。
そのままスッと姿を消すと、契約者であるリオ以外にはアイシアの姿が認識できなくなった。
「……これが霊体化したってこと?」
アイシアが突然に姿を消したことに目を丸くし、セリアが尋ねた。
「はい。今もすぐ側にはいるんですけどね。この状態からさらに契約者の体内に潜りこむことができるみたいです」
リオがアイシアの現状を伝える。
「えっと、これなら問題はないですよね?」
そのまま小さい息を吐いて、リオは言葉を続けてセリアに問いかけた。
「ぐ……」
口元をひきつらせ、セリアは言葉に詰まる。
そのまま目を閉じてしばし葛藤しているような表情を浮かべると、やがて観念したように、
「はぁ、わかったわよ」
と、小さくうなだれて言った。
その言葉でホッと安堵の息を吐くリオ。
しかし、そこで、
「でもいつの間にか実体化して一緒に眠って今朝みたいなことになるのは駄目なんだからね」
スッと目を細めて、セリアが言葉を続ける。
「ええ、もちろんです。アイシアには俺からも言い聞かせておきますから」
リオは力強く頷いた。
何かあってたまるものか。
今朝のような心臓に悪い出来事はリオとしても避けたいところなのだから。
「何よ。私とは一緒に眠れないってこと?」
リオがホッとしている一方で、セリアが口をもごもごさせている。
その言葉とは裏腹に、セリアも安堵していたりするのだが。
そんなセリアの声が耳に届くことはなく、リオは寝室へと足を運び、リビングから姿を消した。
リオは寝室に入ると、ベッドの上に寝転がって暗闇に染まった天井をぼんやりと眺めた。
眠気はすっかり覚めてしまい、代わりに精神的な疲労だけが蓄積している。
その根源ともいうべき精霊の少女はリオの体内で沈黙しており、室内にはリオ一人しかいない。
「はぁ……」
今日一日を振り返って、大きく溜息を一つ。
すると、そこで、
『春人』
と、アイシアがリオの心に語りかけてきた。
心の中に響いた美声に驚き、リオが目を見開く。
アイシアはさらに続けて、
『心の中で私に呼びかけて。そうすれば伝わるから』
そう告げてきた。
――こうかな?
リオは言われたとおりにおずおずと心の中でアイシアに呼びかけてみる。
『うん。そう』
返ってきたのは肯定の返事。
どうやら霊体化しているアイシアとは念話のようなもので意思の疎通を図れるらしい。
――どうかした?
この一日を通してわかったことだが、アイシアは寡黙な性格をしている。
というよりも感情が物凄く希薄であると言った方が正しいかもしれない。
言葉が通じて事象の意味を理解できても喜怒哀楽といった感情はほとんど表に出さないし、自分から他者へ不必要に言葉をかけることもない。
とはいえ、一緒にいて沈黙が苦になるというわけではないのだが。
こうして語りかけてきたということは何か用があるのかもしれない。
ちょうどいい。
自分からもあらためてアイシアに先ほどの件を言い聞かせておかなければ。
リオがそう考えていると、
『私に教えてくれる……?』
唐突にアイシアがそんなことを言ってきた。
――何を?
少し意外に思いながら、リオがアイシアの言葉を促す。
自分の体内にいるからだろうか、リオはアイシアの感情が僅かに揺らいだように感じた。
その感情を一言で表すのなら戸惑いという言葉がふさわしいように思える。
『人がどういう生き物なのか。私、知りたいの。春人のことも』
その瞬間、リオは自分の中にいるアイシアの存在がざわめいたのを感じた。
この感情は何なのだろう。
例えるのなら――。
――いいけど、教えられるかな。俺に。
リオは少し自嘲めいた笑みを漏らした。
人はどんな生き物なのか。
ひどく
両者は矛盾しているようで、裏表の関係にあるようにも思えた。
リオにはそんな人間が傲慢な生き物に見えて仕方がない。
そう思って、ひどく
『できるよ。春人ならできる。春人と一緒にいれば何だって叶う気がするの』
相変わらず感情のこもっていない声。
だが、気がつけば、ぽかぽかとリオは胸が温かくなるのを感じた。
つい今しがた感じていた胸のざわめきが嘘のようだ。
温かい。
まるで子守唄を謡ってくれているような。
そんな気分だ。
気がつけば睡魔に誘われて、リオは間もなくして安らかな眠りに落ちた。