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精霊幻想記(Web版) 作者:北山結莉

第四章 再会、その裏で

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第57話 事情説明 その二

 傍目から見ると巨大な岩の塊にしか見えない岩の家だが、その中に入ると美春達は息を呑んだ。

 まず視界に入ったのは開放感のあるリビングダイニングだ。

 部屋の中央にはソファとラウンドテーブルが設置されており、部屋の片隅にはロフトへと続く階段がある。

 魔道具が室内を明るく照らしており、奥にいくつもの扉が設置されているのが見えた。


「こっちのソファに座ってください」


 率先して移動し、リオはリビングに設置してあるソファに座った。

 美春達もおずおずとリオの対面に置いてあるソファへと腰を下ろす。


「では、話を続けましょうか」


 言って、リオは三人を見渡した。

 三人が話を聞ける精神状態であることを確認すると。


「俺が貴方達を助けたのは大規模な時空魔術の反応を察知したからです」


 と、リオはそう言った。


「時空……魔術?」


 美春達が揃って疑問符を浮かべる。

 地球に魔術という言葉は存在していても、そういった技術が実際に存在するわけではない。

 当然の反応だろう。


「ええ、この世界には魔術が存在します。魔術とは術式に魔力を流して世界の事象を改変する技術なんですが、口で説明しても抽象的でわかりにくいですよね。なので……」


 言いながら、リオがテーブルに置いてあった筆記用具類から紙とペンを取り出し、幾何学文様を描いていく。


「極基本的なものですが、これが術式です」


 紙に書いた図を美春達に見せると、それを机の上に置く。

 美春達はその紋様を不思議そうに眺めていた。


「描かれている文字や図形の一つ一つに意味がありますが、今はその意味を説明することはしません。こうして描いた術式に魔力を流し込むと――」


 術式を描いた紙に手を当て、リオはオドを流し込んだ。

 すると、術式が光を発し、マナへの干渉が始まる。

 幾何学文様の上に数センチの小さな水球が現れ、重力に従って落下すると、紙を濡らした。


「こうやって世界の事象が改変されます。これが魔術です。今のは水を生み出す魔術ですね。流し込んだ魔力の量が少ないため出来た水も少量でしたが」


 三人は呆けたように水で濡れた紙を眺めていた。

 ちなみに、今は何の触媒も用いないでただ術式を描いただけだが、触媒を用いることで同じ魔力の量でも魔術の効果はさらに高まる。

 同じことは魔法にも言えることで、魔道士は触媒として良質な杖を持つことが多い。


「す……すげぇ!」


 我に返り、真っ先に反応したのは雅人だ。

 その眼を輝かせて、小躍りしそうなくらいに歓喜し、興奮を露わにしている。


「すげぇよ! ハルト兄ちゃん! なんだよ、これ!」

「うっさいわね。そんな大きな声を出さないでよ」


 すぐ隣で大声を出す雅人を亜紀が不快げに睨んだ。

 だが、雅人はそんな亜紀の咎めの視線を無視して――。


「だって亜紀姉ちゃん、今の見ただろ? 何もないところから水が現れたんだぜ! 魔術! これが魔術だぜ!」


 なんてことを、大声で語った。


「見たわよ。確かにすごかったけど、そこまで驚くほどのものじゃないでしょ」


 亜紀は呆れたように答えた。

 雅人の反応ですっかり冷めてしまったというのもあるが、この家の存在に対する驚きの方が勝っているのだ。

 ちょっと水が現れたくらいで驚いてたまるものか。

 亜紀はそう思った。

 美春がそんな二人の様子を微笑ましそうに眺める。


「話を進めたいから雅人君もそろそろ落ち着いてくれるかな」


 いまだにはしゃぐ雅人にリオが苦笑して呼びかける。

 すると雅人は恥ずかしそうにはにかんだ。


「わかった。ごめん!」


 頭を掻きながら謝罪する雅人に、リオは小さく笑みを送って応えた。


「今は俺が直接に魔力を送り込んだけど、勝手に魔力を吸い取ってくれるものもあるし、呪文を唱える必要があるものもある。まぁ、今はそれは置いておこうか。それで――」


 順番を追って、リオが説明を続けていく。


「最初に言った時空魔術だけど、これは水を作る魔術とは天と地以上の差があるくらいに高度なものだと思ってくれ。時間や空間に干渉するのがどれだけ困難かは漠然と想像できるだろう?」

「……そうですね。普通にありえないだろうなって思うくらいには」


 頭を抱えて亜紀が答えた。


「ああ、その認識でも構わない。ところで、地球には魔術が存在しないはずだし、君達は魔術を使うことができない。これもいいかな?」


 言って、一瞬の間を置き、リオは同意を得るように三人を見つめた。

 リオの視線を受けとめ、三人が小さく頷く。


「そうなるとほぼ疑いようのない結論を一つだけ導き出すことができる。それはこの世界の誰かが時空魔術を使って君達を召喚したってことだ」


 そうやって自らの推論を述べる。

 問題は誰が美春達を呼び出したかということだが、それはリオにもわからない。


「この世界に来る直前に何か異常はあったりしなかったかな。些細な事でも構わないから教えてくれないか?」

「心当たりというか、気がついたら草原に突っ立っていて……。あ、そういえば美春お姉ちゃんが光がどうこうって言っていたよね?」


 亜紀は美春に視線を移した。


「うん。貴久君と沙月さん……、私達の知り合いから光の渦が一瞬で広がって、私達もそれに飲みこまれたような気がします。本当に一瞬だったから自信はないんですけど……」

「光の渦……」


 おそらくは時空魔術に固有の現象だろうとリオは考えた。

 口で説明してもらうよりかは実際に見せた方がてっとり早い。

 そう考えると。


「それはこんな感じですか? 机の上をよく見ていてください」


 言って、美春達の注目を机の上に集めた。


解放ディスチャージ


 リオが呪文を唱えると、机上の空間が渦を巻いて小さく歪んだ。

 ほんの一瞬で、机の上に茶器一式が出現する。

 ポットの中には淹れたての紅茶が入っていた。

 室内は魔道具が明るく照らしており、歪んだ空間は僅かだが灰色に染まったように見えたはずだ。


「っ、は、はい。い、言われてみれば、似た感じだったような……。もっと範囲は大きかったと思いますけど」


 こくこくと勢いよく首を振って美春が答える。


「光の渦は男の人と女の人のどちらから現れていたか覚えていますか?」

「あ、えっと、二人から別々に渦が現れていたような気がします。それらがぶつかり合いながら私達の方に向かってきたんじゃないかと」

「なるほど……。どうぞ」


 美春の受け答えを聞きながら、リオが四つのカップに注ぎ分けていく。

 カップを渡していくと、三人は礼を言って受け取ったが、やや警戒したようにお茶を眺めていた。

 その姿にリオが苦笑し、紅茶を口に含んで見せると、おずおずと三人も紅茶を飲み始めた。


「美味しい……」


 紅茶を口にした瞬間、美春が目を見開く。

 その姿を微笑ましく眺めると、リオは話を先に進めることにした。


「そうなるとその二人もこの世界にいる可能性は非常に高いですね」

「ほ、本当ですか!?」


 亜紀が勢いよく身を乗り出して尋ねる。

 リオは亜紀へと視線を向けて。


「えっと、おそらくね。そもそも召喚の対象はその二人だったんだと思う。君達は完全に巻き込まれたという形になるのかな」


 と、そう答えた。


「巻き込まれた……。この世界にお兄ちゃん達がいる……」


 ぼそりと亜紀が呟く。


「たぶんね。君達が離ればなれになったのは、二つの時空魔術が干渉しあって、転移先の座標がめちゃくちゃになったからだと思う」


 亜紀の言葉を肯定するようにリオが説明を行う。


「じゃあ何処にいるかまでは……?」

「……正確な位置はわからないけど、おおよそどの国にいるかならわかるかもしれない」


 リオは六本の光柱のどれかに美春達の知り合いが存在する可能性が高いと考えていた。


「っ、本当ですか!?」


 亜紀の顔色がパッと明るくなる。


「ああ、ただ、すぐに見つけるのは少し難しいと思う。漠然とどこら辺に召喚されたのかしかわからないし、候補地が六個もあるんだ。その二人も既に動き回っているだろうし……」


 困ったようにリオが答える。

 あえて言わなかったが、もしかしたら美春達のように悪意のある者に捕まっている危険性もあるのだ。


「あ……」


 その可能性に思い当たったのか、亜紀の顔色が再び不安げなものになった。

 美春と雅人も沈痛な表情を浮かべている。

 そんな三人を見つめると。


「……俺は訳があってここら辺の国を旅して回っているんだ。その過程で二人の情報を調べてみるよ」


 と、リオはそう言った。

 あれほど目立つ出来事だったのだ。

 目撃情報だけでも多数寄せられるはずであるし、旅をしていれば何らかの情報が手に入るかもしれない。


「ありがとうございます。お願いします」


 三人が深く頭を下げた。

 だが、顔を上げた後も漠然とした不安に苛まれているようで、何となく気落ちしているように見える。


「さて、そうと決まれば食事にしようか。ご飯を食べなきゃ生きることもできないからね。これから料理を作るから」


 暗くなった気分を入れ替えるように、リオが言った。


「一応、食材は一通りあるから、リクエストには応えられると思うよ。何がいいかな?」


 せめて美味しい料理を食べさせてあげたい。

 今の自分にはそれしかできないのだから。

 三人はやや呆けたようにリオを見つめていたが――。


「え、あ、えっと……、私も手伝います! その、二人の好みはよく知っていますし」


 やがて美春が慌てて手伝いを申し出た。


「あ、はい。えっと、じゃあ、お願いしてもよろしいですか?」


 思わぬ美春の申し出に、リオが僅かに硬直し、すぐに笑みを浮かべて答える。


「はい。頑張りますね!」


 ぎゅっと手を握って美春は意気込んだ。


「あ、わ、私も手伝います!」


 すると美春の横にいた亜紀も慌てて手伝いを申し出る。


「や、やめときなよ。亜紀姉ちゃんは料理下手なんだから。この前ハンバーグを作った時なんか黒焦げだったじゃん」


 横から雅人が焦ったように亜紀に言った。

 亜紀はムッとした表情を浮かべて。


「う、うるさいわね! あれは偶々よ! それにお兄ちゃんは美味しいって言ってくれたし!」


 と、そう反論した。


「いや、兄貴のあれはどう考えてもお世辞だから。他の料理だって――」


 だが、雅人も負けていない。

 先ほどまでの雰囲気が霧散したようにわーわー騒ぐ二人。

 いつの間にか場の雰囲気は明るくなり、リオと美春は亜紀と雅人を微笑ましく眺めていた。

 亜紀を擁護しないあたり、美春から見ても亜紀はあまり料理が得意でないようだ。


「四人分の料理を作るだけだから、手伝いは美春さんがいれば大丈夫だよ。二人は先に風呂にでも入ってくるといい」


 二人をなだめるように、リオが提案する。

 お風呂と聞いて亜紀が目を丸くした。


「お、お風呂まで付いているんですか、ここ?」


 どんだけ快適な場所なんだろうか、この家は。

 亜紀としてはあのまま草原で野宿をするのではないかと漠然と思っていた。

 だというのに風雨を凌ぐどころか、家があって、風呂にまで入れるという。

 驚きの連続で戸惑うばかりだが、風呂に入れるというのは非常に嬉しい。


「ああ、あそこの扉が露天風呂に繋がっている。タオルは脱衣所に置いてあるのを自由に使っていいよ」


 なんて言われて――。


「え、あ、はい。じゃあお言葉に甘えて……。ありがとうございます」


 亜紀はおずおずと礼を告げた。


「おー、ありがと! ハルト兄ちゃん!」


 横で何の疑問も抱いておらず、無邪気に礼を言った雅人のことが、亜紀は羨ましくなった。


「じゃあ、細かい道具とかの使い方を教えるから、とりあえずみんな付いて来てもらっていいかな? 美春さんもお願いします」


 そのまま四人で風呂場へと移動し、置いてある魔道具や石鹸等の簡単な使用上の注意事項を説明すると、亜紀から風呂に入ることが決まった。

 雅人は先に家の中を探索したいようだ。

 ちなみに、家の中には空間拡張の時空魔術が張られており、家の中の面積は岩のサイズよりもやや不自然に広くなっている。


「じゃあ、作りましょうか。最初に台所の使い方を簡単に説明しちゃいますね」


 キッチンへ戻って来て、二人きりになったところで、リオが美春に話しかける。


「はい。よろしくお願いします!」


 美春は丁寧にお辞儀をして返事をした。

 そのまま調理器具の配置、調味料の保管場所、食材の冷暗所、火や水を出す魔道具の使い方などを美春に教えていく。

 それから何を作るかを決めると、二人は調理に取り掛かった。

 メニューは、ご飯、味噌汁、から揚げ、野菜炒め、きんぴらごぼう、おひたし、サラダと和食が中心となっている。


 調理を始めてみると、不思議と、お互いがお互いの邪魔にならずに効率的に作業をこなしていく。

 それが何となくリオには嬉しかった。

 前世も含めて二十年以上前に離れ離れになってしまった少女とこうして肩を並べて料理をできているのだから。


 ちらりと横目で美春を覗き見る。

 リオが貸したエプロンを着けてすぐ隣にいる美春の姿はとても家庭的だった。

 料理慣れしているようで、その動作には迷いがない。


「美春さん、料理がお上手なんですね」

「いえ、私なんか。ハルトさんこそお上手ですよ。男の人でこんなに料理ができる人は初めて見ました」

「俺は必要に駆られて覚えただけですから。大したもんじゃありませんよ」

「いえいえ、下処理がすごく丁寧ですし、気配りが行き届いているなって思いますよ」

「いや、それを言うなら――」


 お互いを褒め合って謙遜する二人。

 収拾がつかなくなり始めたところで顔を見合わせると、お互いに小さく噴き出した。


「えっと、何かわからないことがあったら言ってください」

「はい。今のところは大丈夫ですよ。ありがとうございます、ハルトさん」


 くすくすと笑いながら礼を告げる美春。


「それに先ほどはありがとうございました」

「さっきですか?」


 何について礼を言っているのかわからず、リオは首を傾げた。


「暗くなった雰囲気を払拭しようとしてくれたじゃないですか。ご飯を食べようって。すごく助かりました」

「ああ、別にそういうつもりじゃ……」


 答えて、リオは気恥ずかしそうに笑みをたたえた。


「色々と気遣って頂きありがとうございます。私に出来ることがあれば何でも手伝いますから、言ってくださいね」

「……はい、ありがとうございます」


 嬉しそうに笑みを浮かべてリオは返事をした。


 ☆★☆★☆★


 その頃、亜紀は髪を結わいて、岩の露天風呂に身を沈めながら、ぼんやりと夜空を見上げていた。

 今日は驚くことばかりだ。

 異世界にやって来たかと思えば、奴隷にされかかって、だけどすぐに助けられて、挙句の果てにはこうして面倒まで見てもらって。

 ただ一つ言えることは、リオには頭が上がらない。

 それだけは確かだ。


「ハルト、かぁ。春人……」


 その名前を呟き、亜紀は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 天川春人。

 自分の兄だった人。

 泣き崩れる母を捨てて家を出て行ったあの男の息子。

 母を捨てて父に付いて行った人。

 美春の想い人かもしれない少年。

 様々な情報が頭の中で複雑に絡み合い、亜紀の心の中で名状しがたい感情が渦巻く。


 亜紀は母が大好きだ。

 優しくて、自分に愛情を注いでくれる。

 離婚したのは母が悪いと聞いているが、離婚後、母はすごく苦しんでいた。

 それを表には出さないようにしていたが、昼間は自分に笑みを向けて気丈に振る舞っていても、夜になると一人で泣いていることが多かった。

 亜紀はそんな母の姿をまだ四歳になる前からずっと見守ってきたのだ。

 亜紀が小学校中学年くらいの頃にようやく再婚して、ようやく夜に泣くことはなくなったようだが、それでもまだ立ち直れたかどうかはわからない。

 そんな母を捨てて出て行ったあの男のことを亜紀はどうにも好きになれない。

 あの男に付いて行った春人のことも気に食わなかった。

 これは理屈なんかじゃない。

 家の中では春人達の話題を出さないようにしているから、家族は亜紀が春人達を嫌っていることを知らないはずだ。


 でも、美春だけは亜紀が春人を嫌っていると知っている。

 嬉しそうに春人のことを話す美春の前で怒ってしまったことがあるからだ。

 あんな奴のことなんて好きにならないで、と。

 それ以来、美春は変わらずに亜紀と仲良くしてくれたが、春人のことを話すことはなくなった。

 けど、もしかしたら、美春はまだ春人のことを好きなのではないか。

 亜紀は漠然とそう思っていた。


 美春は中学校時代から多くの男達に告白されてきたが、そのすべてを断っていた。

 告白はしていなくとも美春のことを好きな男は多かったはずだ。

 亜紀の兄である千堂貴久も美春のことを好きな人物の一人である。

 貴久の美春に対する態度を見ていればすぐにわかる。

 美春に他の男が近寄らないように平時から守護神の如く美春の傍にいるのだから。

 告白を断り続ける美春を見て、周囲の者は美春が貴久のことが好きなんじゃないかと噂するようになったが、亜紀は何となくそうは思えなかった。


 それは亜紀が春人という存在を知っているからだ。

 亜紀は美春と春人がとても仲が良かったのを覚えている。

 とにかく、やたらと距離が近く、仲が良かったのだ。

 まるで新婚の夫婦のような雰囲気が二人の間にあり、妹である自分の入り込む隙間がなく嫉妬してしまうくらいに二人は仲良しだった。


 だが、美春と貴久の間にはそういった雰囲気はないように思える。

 そもそも美春が貴久と仲良くなったのは亜紀という存在があったからだ。

 亜紀の母親が再婚した相手の連れ子が貴久と雅人である。

 春人がいなくなった後も美春を姉のように慕っていた亜紀を経由して、貴久は美春と知り合ったのだ。

 当時から亜紀は美春を姉として慕っていたため、貴久と雅人がそれに付随して美春と仲が良くなったのは自然なことだった。

 貴久は美春に一目ぼれしたようで、以来、告白はしなくともずっと露骨にアピールし続けている。

 亜紀としては兄である貴久を応援しているが、美春にとって貴久がどこまで特別な存在なのかはわからない。

 だが、貴久はあれだけ一途に美春のことを想っているのだから、美春もそれに応えてくれればいいのにと思わずにはいられなかった。

 少なくとも春人なんかには絶対に負けて欲しくない。


(そう、あの男の息子なんかに……)


 久々に天川春人という存在を思い出してしまい、思わず亜紀は不機嫌になった。


(今日はハルトさんに申し訳ないことをしたな。……雅人の馬鹿がハルト兄ちゃんって連呼するからよ)


 自分達を助けてくれたハルトが天川春人でないとわかっていても、その名前を聞くと複雑な感情が渦巻かずにはいられなかった。

 大きく溜息を吐いて、その感情を吐きだす。


(……そういえばハルトさん、本名はリオって言っていたけど、どういうことなんだろ?〉


 ふと、亜紀はリオが偽名を名乗っていることを疑問に思った。


(うーん、個人情報は漏らさないでほしいって言っていたけど、聞いてもいいのかな?)


 リオの情報を許可なく第三者に教えるなという約定を思い出し、必要以上にあれこれと聞いてもいいものか考える。

 自分達のことを保護してくれるのはリオしかいない以上、あまりプライベートなことに突っ込んで気分を害させるのは上手くない。

 それに、自分だって聞かれたくないことはあるのだから、好奇心で詮索しようとは思えなかった。

 何かやんごとなき事情があるのかもしれない。


(……それにしても、お母さんにお父さん、心配してるよね)


 この地にいない者達のことを想い、亜紀の表情が曇る。

 もしかしたらもう二度と家族に会うことはできないのだ。

 そう考えると非常に辛い。


(それにお兄ちゃんと沙月さんも……)


 この世界にいるであろう二人の存在も心配だった。

 沙月は貴久と美春の中学時代からの先輩だ。

 歳は美春達の一つ年上で、次期生徒会長と目される程に優秀な人物で、有名な企業の社長令嬢である。

 亜紀も何度か会話をしたことがあったが、隙のない完璧超人というイメージがあった。

 この世界にやって来る前はたまたま下校が一緒になったのだ。


(それがこんなことになるなんて。まぁ沙月さんなら心配はなさそうだけど。あの人、何処に行っても順応できそうな気がするし……)


 自分の知る沙月のイメージからすると、言葉が喋れない世界でも沙月なら何とかしてしまいそうに思えた。


(それにお兄ちゃんも優秀だしね。雅人と違って)


 同じ兄弟でも出来がずいぶんと違うちぐはぐな二人を思い出し、亜紀は小さく笑った。

 貴久も雅人も亜紀にとっては大切な兄弟だ。

 雅人は少し憎たらしくて抜けているところはあるが、それでも大事な存在であることに違いはない。

 亜紀の知る貴久は文武両道を地で行く人間だ。

 優しくて、正義感が強くて、隙がないように見えるけど、雅人に似ているのか実はけっこう抜けているところもある。

 それに美春のことになると、少しばかり嫉妬深くなるのが玉に傷かもしれない。

 けど、それにしたって文句なしの理想の兄だった。


(うん、きっと無事だよ。それにハルトさんも探してみてくれるって言っていたし)


 気分を入れ替えるため、顔の下半分を風呂の中に沈め、亜紀はじっと息を止めた。

 そしてリオのことを思う。


(ハルトさん、すごく良い人みたいだし、大丈夫だよね)


 美春と同い年で、整った顔立ちをしていて、非常に落ち着いた雰囲気がある。

 パッと見ると強そうには見えないけれど、物凄い身体能力を持っていて、すごく頼りになる。

 ちょっと色々と想像の斜め上を行くところがあるけれど。

 亜紀はそういう印象をリオに抱いていた。


(美春お姉ちゃん、あの人のことをどう思っているんだろ。まぁ別人だし、名前が一致しているくらいでどうってこともないんだろうけど……)


 と、そこで。


「ぷはっ」


 息を止めるのが限界になり、亜紀が風呂から顔を出す。

 大きく息を吸って、周囲に広がる風呂場を眺めた。


「それにしても、この露天風呂もたいがいおかしいわよね……。明らかに外から見た感じと中の面積が一致してないし」


 規格外な設備に対する驚きと呆れから呆然と呟く。

 露天風呂というだけあって、脱衣所は家の中にあるが、この風呂は屋外に設置されていた。

 種類は岩風呂と檜風呂の二種類で、それぞれ湯の温度が異なる。

 入り口にはリオの遊び心で暖簾がかかっており、まるで旅先で貸切のお風呂にでもやって来たような気分だ。

 周囲を岩壁に囲まれていることから景観を楽しむことはできないが、天井は吹き抜けになっているので夜空を楽しむことはできる。

 また、寒かったり、雨が降った時は、天井を覆うこともできるようにもなっていた。

 ちなみに、霊具によってお湯が常に清潔な状態に保たれており、定期的に手入れをする以外は小まめな掃除をする必要はない。

 浴槽の周りには木の板床が敷き詰められ、ちょっとした隠れ家みたいな雰囲気がある空間で、年甲斐もなく亜紀はわくわくしてしまいそうになった。

 正直に言えばだ。

 すごく心地良い。

 だというのになんか釈然としない。


「もう、何があっても驚かないわ……」


 引きつった笑みを浮かべ、亜紀はそう呟いた。

 これまでに起きた常識外れな出来事の数々を思い出す。

 人を二人も抱えて人間が出せるとは思えない速さで走る。

 何もない空間から家やお茶を取り出せる。

 露天風呂付きの隠れ家を持ち運んで野営をするのが、この世界の標準スタイルに違いない。

 そう、この世界ではこれが普通なんだ。

 そう思おう。


「はぁ、良いお湯……」


 先ほど髪を洗った時に使ったシャンプーの甘い花の香りが鼻孔をくすぐり、亜紀は気持ちをリセットした。

 気持ち良すぎてついつい長湯をしてしまったが、そろそろ出ないといい加減のぼせてしまいそうだ。

 そう考えて、亜紀は風呂から上がった。

 着替えを終えてリビングダイニングへと戻る。

 キッチンを覗き込むと、リオと美春が仲睦まじく料理をしていた。


「…………」


 声を掛けようとしたが、何故かそんな二人の様子をじっと見つめてしまった。

 何となく二人が一緒にいる後ろ姿にデジャブを感じたが、すぐにその既視感は消え去る。

 小さく首を横に振ると。


「ハルトさん、お先にありがとうございました。すっごく良いお湯でしたよ」


 明るい声で、亜紀はリオに話しかけた。


「ああ、それは良かった。じゃあ雅人君に入るように伝えてくれるかな?」

「あ、はい。わかりました」

「あと、そこの箱の中に冷えた飲み物が入っているから自由に飲んでいいよ。コップはそこの棚に入っているから」

「あ、ありがとうございます」


 おずおずと頭を下げて、亜紀は礼を告げた。

 本当に至れり尽くせりだ。

 そのまま雅人を呼びにいって風呂に入れさせると、亜紀はリビングでアイスティーを飲んで待機していた。


(良い香り。なんかトロピカルな感じだなぁ)


 なんて、コップに入ったお茶の香りをぼんやりと楽しむ。

 すると、やがて雅人が風呂から上がってきた。


「じゃあそろそろご飯にしようか」


 ちょうど料理も出来あがったようで、リオが亜紀と雅人を呼び出した。

 リビングダイニングには食欲をそそる香りが立ち込めている。

 ずっと良い匂いだと思っていたが、何となく料理をしている二人に声をかけることができず、メニューを確認することはできなかった。

 ソファから立ち上がってダイニングテーブルへ移動すると、そこには美味しそうな料理が拡げられていた。


「和食?」


 出された料理の数々を目にして亜紀が固まった。


「うぉ、すげぇ美味そう!」


 雅人が涎を垂らさんとばかりにテーブルの上のメニューを眺める。


「じゃあ食べようか。好きな席に座っていいよ」


 それを合図に全員が席に座っていく。

 亜紀、美春、その向かい側に雅人、リオという並びで座ることになった。

 美春が味噌汁をよそって、リオがご飯を盛って配っていく。


「じゃあ、いただきます」

「いただきます」

「いっただきま~す」

「いただきます……」


 最初から何を食べるか決めていたのか、雅人が迷わずに唐揚げに箸を伸ばした。

 ほくほくと湯気を立てる唐揚げを頬張り噛みしめる。


「んめぇ~!」


 質の高い鶏肉で作った唐揚げの肉汁が口の中に広がり、雅人の顔が幸福に満ちた。


「この唐揚げ凄ぇ美味い! 表面はカリッカリで中はジュワ~ってしてる! これ、美春姉ちゃんが作ったの?」

「ううん、これはハルトさんが作ったんだよ」

「そうなんだ。ハルト兄ちゃんすげぇなぁ。こっちのきんぴらごぼうも凄い美味いや」

「そっちは美春さんが作ったんだ。味と固さのバランスが絶妙だよな」


 言って、リオも美春の作った手料理の味を堪能する。

 白米との相性は抜群で、箸の進みも早い。

 野菜炒めもシャキシャキでご飯によく合った。


「ありがとうございます」


 照れたように微笑する美春。


「このお米も凄く美味しいですね」


 野菜から食べていた亜紀がご飯を口にし、目を丸くして感想を述べた。

 そう、白米の質が凄く良い。

 さもありなん。

 リオが持っているお米はドリュアスの協力を得て精霊の民の里で栽培されているものだ。

 いくつか種類はあるが、その中でも日本人が好みそうな種類を選んで持ち運んでいる。

 日本で長年を経て品種改良された米と比べても、これに勝るものはそうそうないと断言できる程に品質が高い。

 この世界の人間族でこれほど美味い米を食べられるのはリオ達しかいないはずだ。

 そもそもシュトラール地方では米が主食でないため一部の地域を除いて米の栽培はまったくされていない。

 ごく少量だけ栽培されている米も、日本人が好みそうにない大粒で粘り気のないものだけで、サラダやスープの具材用に育てられているだけだ。


「たくさんあるから遠慮しないで食べていいよ」


 美味しそうにご飯を食べる亜紀を眺めながら、リオが微笑む。

 すると、亜紀は嬉しそうに。


「はい! ありがとうございます!」


 と、そう返事をした。

 これがこの四人の初めての食事である。

 こんな幸せな時間がいつまでも続くのならば良い。

 何も言うことはない。

 食卓には終始、和やかな空気が流れていた。

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