第55話 綾瀬美春
天川春人の初恋は物心がついた時だった。
相手は綾瀬美春という同い年の可愛い女の子だ。
たまたま家が隣同士で、たまたま同じ年の春に生まれた。
春に生まれたから春人、春に生まれたから美春。
二人は赤ん坊のころから一緒に育って一緒に遊んだ。
幼馴染。
何も珍しいことはない。
ただそれだけのありふれた関係だ。
だが、春人にとって美春は特別な存在だった。
当時は恋とか愛なんて言葉の意味は知らなかったけど、美春は本当に特別な存在だったのだ。
只々、美春のことが好きだった。
どういう仕組みで彼女のことを好きになったのかなんてどうでもいい。
彼女が喜ぶと自分も嬉しくなった。
彼女が怒ると自分も怒りを抱いた。
彼女が泣くと自分も哀しくなった。
彼女が笑うと自分も楽しくなった。
だって、その人が大好きだから、春人は美春に夢中だったから。
好きになったことに、理由なんかあってもなくても、どうでもよかった。
だが、二人が一緒だったのは七歳の時までだ。
天川春人は平凡な家庭に生まれた。
父と母がいて、春人がいて妹が一人いる。
普通の家庭だ。
だが、そんな家庭は春人が七歳の時に崩壊した。
両親は離婚し、春人は父に引き取られ、妹は母に引き取られる。
離婚の理由は春人が成長した時に聞かされた。
父から聞いた限りだと母の浮気が原因らしい。
春人の妹は父の娘ではなかったのだ。
しかし、そんな理由は当時の春人には関係がない。
美春と離ればなれになるなんて想像できなかった。
だから、春人は泣いて父と母に懇願する。
離婚しないで、と。
父は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべて黙り、母は泣きながら春人に謝った。
まだ物心がついたばかりの妹は何もわかっていないようだったが、母のことを大好きだった彼女は悲しそうな母の姿を見て泣いていたのを覚えている。
二人の離婚は決定的で、覆せない絶望的な運命を悟った時、春人は震えた。
春人は美春の傍にいられれば、それだけで嬉しかったのに、それすら叶わないなんて。
自分の無力さを嘆いた。
それが現実だと知って、悔しくて、虚しくて、震えを隠しきれなかった。
「ハル君、行っちゃやだ!」
別れを告げた時、美春は泣いた。
泣いて、行かないでと、懇願された。
どうしたらいいかわからない。
自分にはどうすることもできない。
思わず春人も泣きたくなったが、何の根拠もなく必死に強がった。
また会おうとか、迎えに来るからとか。
色んなことを言って、美春を泣き止ませようとした。
それでも泣き止まない彼女に――。
「次に会ったら結婚しよう!」
と、春人はそう言った。
すると、はたと泣き止んで、美春が春人の顔をぼーっと見上げる。
「……駄目、かな?」
おずおずと春人が尋ねる。
「……うん。する。する!」
ようやく美春が笑った。
それがとても嬉しくて――。
絶対にこの約束を叶えよう。
春人はそう思った。
どんなに歳月が流れたってかまわない。
守ろう。
この笑顔を守ろう。
そう誓って、春人は美春と別れた。
☆★☆★☆★
今、リオの目の前に美春がいた。
見間違えるはずがない。
何年経ったって、生まれ変わったって、高校の時に僅かに見た彼女の顔は、絵に描いたように思い出すことができるんだから。
「っ……」
頬を濡らす感覚で、リオは我に返る。
理由はわからないけど、今、目と鼻の先に美春がいる。
それだけで胸が熱くなり、幸せな気分になった。
どくんと、心臓が高鳴るのを感じる。
嬉しさで思わず我を失いそうになったが、何とか踏みとどまった。
今はこの場所からいち早く美春を連れ出すことが先決だ。
美春のことは自分が守らなくてはいけない。
どんなことからも守ってみせる。
そう誓って、天川春人は生きてきたのだから。
馬車の荷台に乗り込み、リオは美春のもとへ歩み寄った。
怖がらせちゃいけない。
だから、リオは薄く笑って――。
「助けに……来ました」
優しく、そう言った。
大好きで、大好きでたまらない美春を怖がらせないように。
「あ……はい。ありがとうございます」
呆けて、自分を見つめる美春に、リオはそっと手を差し出した。
周囲の奴隷の少女達が呆然とその様子を眺めている中、美春がリオの手を掴んだ。
温かくて、柔らかい手だった。
白く、か細い、綺麗な手だ。
剣ダコでごつごつした自分の手とは違う。
ついさっき初めて人を殺したばかりの自分の手とは……。
人が絶命する瞬間の表情、吐き気を催す死の香り、初めて人を殺した手の感触が、脳裏に焼き付いて離れない。
だが、もう引き返すことはできない。
もう覚悟は決めたのだ。
どんな地獄も背負ってみせると。
それにこの残酷な世界から美春を守らなければならない。
小さく
そして美春の手を優しく引っ張る。
「亜紀ちゃんと雅人君が外で待っています。行きましょう」
そう言って、連れ出そうとすると――。
「あ、えっと、彼女達は……」
馬車の中に取り残された周囲にいる奴隷の少女達を見つめて、美春が言った。
リオは困ったように微笑する。
「彼女達は奴隷です。おそらくですが貴方と違って正規の手続を経て奴隷になっています。勝手に助ければ犯罪者になってしまう」
奴隷は物扱いされている。
だから、盗めば窃盗、詐取すれば詐欺、奪えば恐喝か強盗だ。
「そんな……」
呆然と、美春は少女達に視線を送った。
彼女達の視線が美春とリオに突き刺さる。
「行きましょう」
そんな視線から引き離すように、くいっと、リオは美春の手を引っ張った。
されるがまま、黙って美春は歩き出す。
そのままリオは美春を連れて馬車から立ち去った。
決して後ろを振り向かせないようにして、近くにあった岩場まで連れて行く。
「ここで少し待っていてください。危ないですから顔は絶対に出さないで」
言って、美春を岩場に隠すと、リオは再び馬車へと戻った。
ぎこちなく行動を再開した奴隷商と護衛達だったが、リオが戻って来たのを見てギョッとする。
「な、なんだ……?」
明らかに狼狽した様子で、奴隷商が尋ねた。
この男達は美春を娼婦として売り払おうとした。
絶対に許せない。
リオは本気で殺意を抱いた。
だが、今は用事を済ませて一刻も早く美春のもとへ戻る必要がある。
こんな男達を殺している場合ではないし、それをして近くにいる美春を怖がらせたくもない。
だが、制裁は受けさせるつもりだ。
リオは奴隷商を刺し殺すように冷たい殺気を浴びせた。
「ひっ、ひぃぃ」
奴隷商が情けない悲鳴を漏らす。
美春達が受けた恐怖はこんなものではない。
せいぜい恐がればいい。
リオはそう思った。
「拉致した三人の荷物を持っているんだろ? 返せよ」
冷たい声で、リオが命令する。
「あ、ああ! 返す! 返すから!」
答えて、奴隷商は慌てて馬車へ走り込んだ。
すぐに荷物を抱えて戻ってきて、リオに三人の所持品を手渡す。
「これで全部だろうな?」
荷物を受け取ると、感情の籠っていない目で奴隷商を見据えて、リオが尋ねる。
「も、もちろんだ! すべて入っている! か、金も入れておいたから! 信じてくれ!」
ぶんぶんと勢いよく首を縦に振って、奴隷商は答えた。
ちらりと受け取った鞄を覗き込むと、確かにその一つに少なくない量の金貨が詰め込まれている。
慰謝料のつもりだろうか。
「そうか。もし嘘をついていたら戻って来るからな」
そう言い残すと、リオはその場から立ち去った。
リオの姿が見えなくなって、奴隷商の膝が崩れ落ちる。
「行きましょう」
美春の所に戻ると、リオは薄く微笑んで声をかけた。
奴隷商と接している時の冷たさは微塵も感じられない。
温かい笑みだった。
「は、はい」
そんなリオの姿を目にして、美春はようやく我に返ったように、ホッとした表情を浮かべた。
「あ、荷物、ありがとうございます! その、鞄持ちます!」
自分達の荷物を取り戻してくれたことに気づき、美春は礼を言った。
そして小走りでリオに駆け寄る。
「いえ、自分が持ちますよ。ここから少し歩きますから」
「でも……」
「大丈夫です。任せてください」
「えっと、すみません。じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「はい、任せてください」
譲りそうにないリオのきっぱりとした態度に、美春は頭を下げて頼むことにした。
そして、二人は歩き出す。
いつの間にか日は傾きかけ、アマンドを出た時には青く澄んでいた空が、暖かみのあるスカーレットに染まり始めている。
日本では見ることのできないとても綺麗な光景だ。
美春はそう思った。
先を歩くリオと、その後を追う美春。
そうやって少し先を歩くリオの後ろを、美春が三歩下がって歩く。
何となく、それが自然な距離だった。
リオの歩く速度に追いつけなさそうになる度に、小走りをして、美春がその距離を保つ。
「…………」
二人の間に会話はない。
先ほどからリオがちらちらと自分の方を窺っていることに気づいているが、美春は何を喋ったらいいのかわからなかった。
それはリオも同じようで、時折、後ろを振り返る以外は何となく気まずそうに空を仰いでいる。
これは夢なんだろうか。
今の美春は夢の中にでもいるような気分だった。
だって、これまでに起きた出来事にはまったく現実感がない。
気がついたら文明の存在しない見知らぬ草原にいて、そこを彷徨い歩いて、時代がかった者達に拘束されて、実は奴隷にされかかっていたなんて。
とても信じられない。
だが、ここが夢の世界だとしても、リオに助けてもらったのは事実だ。
きちんとお礼を言いたい。
強くそう思っているのだが、何故だかリオに話しかけようとした瞬間に夢から覚めてしまいそうな気がして、怖かった。
(怖い?)
美春は自分が何を恐れているのだろうかと疑問に思った。
それはお礼も言えずにこのまま目の前にいる少年が消えてしまうことか。
確かにそれは嫌だ。
でも、何故だかそれとは少し違うような気がする。
ふと、美春は最初に少年と視線を交わした時のことを思い出した。
少年は何かをボソリと呟いていたが、残念ながらそれを聞き取ることはできなかった。
少年が何を言っていたのか、何故かとても気になる。
なんて、ぼんやりと色々なことを考えていると――。
ふとした瞬間、美春はいつの間にか自分が小走りをする必要がなくなっていることに気づいた。
(もしかして……)
美春は目の前にいる少年の背中をじっと見つめた。
先ほどからチラチラと後ろを振り返っていたのは、美春の歩く速度を掴むためだったのではないか。
今のリオの歩調は当初よりも緩く、自分に合わされたものだとわかった。
(私の歩く速度に合わせてくれたんだよね?)
そんな不器用な優しさに気づき、美春がくすりと笑みを浮かべる。
何故かとても懐かしい気がした。
どうしてだろう。
だが、今はそれよりも。
(ダメだな、私……)
先ほどからリオに気遣わせていてばかりだ。
それに気づき、美春は自分の未熟さを恥じた。
あれこれと考える前に、自分にはしなければならないことがあるはずだ。
まずは名前を聞いて、きちんとお礼を言おう。
そう決めると、ほんの少し先を歩くリオの背中を眺めながら、美春は小さく息を吸った。
「あ、あの、すみません。よろしいでしょうか?」
急に話しかけられて、リオの身体がびくりと震える。
おそるおそると後ろを振り返り、二人は向き合った。
「えっと、はい。何でしょう?」
「いきなりすみません。あの、私は綾瀬美春といいます。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
何故だか高まっている胸の鼓動を押さえて、美春が尋ねた。
「あ、はい。えっと、……ハルト、といいます」
ぎこちない日本語の発音で、リオが答えた。
その瞳にはどこか期待するような想いが籠められている。
「ハル……ト……」
呆然と美春がリオの偽名、いや、かつての彼の名を口にした。
美春の幼馴染である少年の名前を。
「……自分の名前が何か?」
「あ、いえ、私の幼馴染と同じ名前で……」
懐かしそうな笑みを浮かべ、美春が答えた。
その笑顔にはほんの少しの憧憬が籠められているように思える。
いや、リオはそう思いたかった。
「そう、なんですか……。すごい偶然ですね」
曖昧に笑って、リオが答える。
思わず後先を考えずに自分がその幼馴染だと口にしそうになった。
自分は天川春人で、死んでしまったけど生まれ変わって、この世界で貴方のことを想って生きてきた。
もちろん、仮に美春が他の者を好きだというのならば諦めるしかないのだろうが、それを確認するためにもこの想いは伝えなければならない。
天川春人は自分の想いを告げる前に美春から逃げ出したことをずっと悔いていたのだから。
だが、この場でいきなりそんな荒唐無稽な話を伝えて信じてくれるだろうか。
不気味に思われたりしないだろうか。
下手をすると異常者扱いされかねない。
少なくとも戸惑うはずだ。
仮に信じてくれたとしても、自分の気持ちは重すぎて美春は受け止めることはできないのではないか。
リオは美春に対する自分の想いが偏執病染みていることを自覚している。
美春に対する想いは誰にも負けない自信があるが、それを一方的に押し付けることがストーカー行為でしかないこともわかっていた。
考えなしにその想いをぶつければ美春を怯えさせたり不快にさせるだけだ。
そう考えると、急に怯んでしまった。
あれだけ美春に会って伝えたいことを強く想い描いていたというのに、いざ目の前にいると上手く立ち回ることが出来やしない。
なんて不器用な男なんだ、自分は。
そんな男が一人前に人を好きになっているんだから笑うしかない。
リオは自分の首を絞めてやりたくなった。
少し頭を落ち着ける必要がありそうだ。
その間に、ゆっくり、ゆっくり、仲良くなればいいじゃないか。
今はこうして目の前に美春はいるんだから。
これからは自分が美春を守っていくつもりなんだから。
まだ焦る必要はない。
「………はい。そう、ですね」
しばし沈黙し、寂しそうに微笑みながら、美春は答えた。
その笑みにリオが引きこまれそうになる。
「それで、その、ハルトさん」
呼ばれて、リオは震えた。
昔とは少し呼び方は違うけれど、名前を呼ばれることがこんなにも嬉しいことだったなんて、知らなかった。
「は、はい!」
いつになく舞い上がっているリオが、勢いよく返事をする。
その勢いに押されて、美春がたじろぐ。
「あ、えっと……、なんでしょうか?」
美春を驚かせてしまったことに気づき、リオがバツが悪そうな笑みを浮かべて返事をする。
何故だか美春はそんなリオの様子が可笑しくて、くすくすと笑い始めた。
「ごめんなさい。……ハルトさんがいなければ私はどうなっていたかわかりません。それに亜紀ちゃんや雅人君も。本当にありがとうございます」
笑ったことに対して小さく謝罪をすると、美春はリオに深く頭を下げた。
「いえ、当然のことですから」
そう、当然のことだ。
自分が美春を助けるのは息を吸うのと同じくらいに当たり前のこと。
美春さえいれば、美春さえいれば、ただそれだけで、自分はこんなにも幸せを感じられるのだから。
ひょっとしたら自分が生まれ変わった意味は今日この日に美春を守るためなんじゃないか。
そのために自分はこんな世界で生きてきたんじゃないか。
そう思えて仕方がない。
「本当にありがとうございます」
再び礼を告げて、美春がリオに柔らかな笑みを向ける。
それがとても嬉しくて。
「行きましょうか。二人をいつまでも待たせるわけにはいきませんし。すぐそこです」
胸の高鳴りを覚え、リオは少し逸るように言った。
「はい。そうですね」
微笑して美春が頷く。
それから、二人は再び無言で歩き出した。
だが、先ほどのようなぎこちなさは存在せず、どこか温かな空気が二人の間に流れている。
その色を完全に緋色へと変えて、陽光が二人を優しく照らしていた。