最初の始まり方から間違っていたんだ……。
クロレス小説第一巻「私の愛するものへ」に収録。命題にもなった巻末の「私の愛するものへ」のクロードsideの物語です。ベレスsideからだけでは見えなかった彼の世界。
この物語を経て、三冊目「命が僕らのかたちを変えてゆく」へと繋がっていきます。
「私がこれから一年金鹿の学級の担任を務めさせていただく」
そう言われてクロードは頭の中が真っ白になった。
士官学校生活の始まりに教室に現れたのは紳士風の魔道が得意そうな知命の男性だった。名はハンネマン。ガルグ=マク大修道院で長きに渡り教師として指導を行ってきた男だ。
「これから一年間、きみたちを受け持つことになった。よろしく頼むよ」
穏やかな表情で上品な紹介を受けると、ショックのあまりに絶句するクロードの横顔を察した他のクラスメイトが少し焦る表情をみせながら「よろしくおねがいしまーす」と声をあげた。
その反応をみて満足そうにしたハンネマンは微笑を携えながら教壇へと歩いていった。
「ちょっとちょっとキミ、大丈夫?」
小声でそう言われながらヒルダという少女の肘を腰に受け、はっと我に返ると皆と同じように急いで席へと座った。自分が選んでもらえなかった悲しみなのかはたまた恨みなのかは分からないが、頭の中でぐるぐると彼女と出会った瞬間が駆け巡る。
金鹿の学級の級長が少し心ここに在らずの様子に、ハンネマンは「ふうむ」と、彼の様子を心に留めた。
「先生、やめてくださいっ! ほっといてください!」
座学がひけた後、教材を片手に自分の寮の部屋へと帰ろうとしていた時に、ふと聞こえて来たつんざくような甲高い声に耳を傾ける。訝しげに様子を伺うと、どうも座学をサボって寮の自室に引きこもっている生徒を説得する為に押し問答になっているあの傭兵教師の姿が見え、クロードは思わず足を停めてその一部始終の流れを黙って眺めた。
新任教師であるベレスは問題の部屋の扉をノックしながらドアノブを掴み、ガタガタと音を鳴らす。
「ひぃ~~~! 許してください!」
「ベルナデッタ、もう一週間も経つのに碌に座学に出ていないじゃないか。この調子だと留年してしまうよ」
「留年! それって実家に帰らなくてもいいって事ですよね? 願ってもないですっ私はずっとここに居たいんです! ベルの事は放っておいてください」
「君は私の生徒だ、放っておける訳がないじゃないか」
呆れたその光景を遠巻きから暫く眺めた後、クロードは瞳を細めて、ふうんと鼻を鳴らす。
家庭的な事情がありそうではあるが、あの教師の座学を拒絶するなんて随分とまあ「贅沢な話」じゃないか。
扉の向こう側の見えない生徒に対して、自分の中に生まれてくる不思議なぐらぐらとした嫌な感情を感じて気分が悪くなり、その場を直ぐにでも立ち去りたくなった。が、ベレスの困った表情を見たクロードは、見ちまったもんは仕方ないと「はぁ」とため息をつき、やれやれ仕方ないなといった様子で彼女へと歩み寄った。
堅く閉ざされた扉の前でどうしたらよいか分からないでいる彼女の腕をぐいっと引き寄せると、驚いた表情で振り返ったベレスに、そっと自分の唇に人差し指を立てて「静かに」と小声で囁いた。ベレスは距離の近いクロードの顔の瞳を見つめた後、小さくコクンと頷いてくれた。
それを見て気を良くしたクロードが、掴んだ腕をそのままにベレスを引っ張って歩いた。が……直ぐにクロードは足を停めた。 ベレスは彼の背中に顔が埋もれる様にぶつかり、痛む鼻を抑え込む仕草をしてみせると、それを見たクロードはふっと笑い思わず肩を震わせる。
その反応をみて、咎めるような視線を送るベレスに「まあまあ、単なる事故だ」と諫めながら、足元に積み重ねられていた屋根の修復用の短めの一枚の板を手に取ると、くるりと体の向きを変えベレスを自分の影へと匿った。そして問題の生徒の自室の扉から死角になるように身を隠すと、物陰から顔だけを覗かせ、自分の口の横に手を添えて拡声するように大き目の声をあげた。
「先生! 丁度良かった。教室で教えて欲しい事があるんだ。いいのか? ありがたいよ」
突拍子もなくそんな事を言うクロードに驚いてベレスが彼の顔を見上げると「どうしても掴まえたいってんなら、エサはばらまくもんだって」と彼は笑った。
こそこそと寮の壁の物陰に隠れると、しばしの沈黙ののちガタガタと部屋から物音が聞こえてきた。直ぐにかちゃりという施錠が解除される音と共にキィと扉が開き、部屋の主が首だけをにゅっと出した。ベレスがその場を離れたか確認する為だろう。
クロードの読み通り、まんまと罠に引っ掛かった黒鷲の学級の生徒であるベルナデッタはおびえた様子で左右を確認しつつ屋外へと歩き出した。その瞬間にクロードは手に持っていた細長い板を「ほいっ」と言いながら下手投げをすると、彼女の部屋の扉の取っ手の隙間に上手く入り込み、かんぬきのように扉を嵌め殺した。
物音に驚いたベルナデッタは蒼白になりながら辺りに響き渡る様な奇声を上げた。
「ひゃぁあああああああああ、自分の部屋なのに、入れない! 入れないですぅ!」
開かなくなった扉にパニックになったベルナデッタがじたばたと妙な動きで体をバタつかせ悲壮な悲鳴をあげている。少し落ち着けば、扉が開かないのはこの板のせいだと分かるようなものだが、恐怖に陥っている彼女は周囲が完全に見えない状態だ。
あわあわと悶えているのを見たクロードが、「ぶはっ」と笑いながらベレスの方へと振り返ると、舌をちろりと出して見せ少年の様なとてもいい笑顔で「やったな」と声をかけた。
そんなクロードの顔を少し驚いた表情で見つめているベレスに苦笑し「早くしないとまた逃げられるぞ」と背中を押した。ひらひらと手を振って微笑んでくれるクロードにベレスがはっとした表情を見せ、すぐさま「ありがとう」と声をかけて、腹を抱えて屈んで笑う彼の肩に手をかけた。
そこに残る温もりが、残影となってクロードの身体に染み付いた。
つらい。
突然浮かんだ言葉に、クロードは何だ? と我ながら疑問を感じた頃には、もうベレスの温もりは大気に溶け、熱の主はベルナデッタの首根っこを掴んでいた。
「他の生徒は居ないから、二人だけで講義を行おう?」と優しく諭すと、涙目だったベルナデッタは涙目になりながらも「二人きり……本当ですか? それだったら出来るかも……」と言ってくれた事に安堵した。
ベレスは我にかえり周囲を見渡すと、もう其処にはクロードの気配は何処にもなかった。
あの人はきっとこれからも、担任ではない学級の生徒であるこの俺の為には、ああやって一心にその身を捧げてくれはしないのだろうな。
さぁと黄昏に包まれ始めた世界が送る冷たい風は心許ない彼の体温を容赦なく奪っていく。切なさに身を焦がしながら心が歪な形に軋んで、呼吸が苦しい事に気が付いた時、ある妙案が舞い降りた。
俺に夢中になってもらえばよいのだ。
天からの啓示の如く浮かび上がった言葉にクロードは感動した。
つまらん事でグダグダ悩まなくてもこんな単純な事で良かったんだと思うだけで胸がワクワクして、今までの葛藤は何だったのかと自分でも驚くくらい心が軽くなり溜飲が下がったのを感じたのだった。回りくどいのはきっと通じないと分かっていたから、ハッキリと分かりやすく「性欲で苦しんでいる」と言ってやった。
どうよと思っていた。怒るのか? 誘いに乗るのか? 未知数過ぎて読めなかった。この行為はクロードにとっては大きな賭けだった。
するとどうだろう、彼女は意外にも擦れていない反応を見せるかの如く頬を赤く染めた。
「おっ」と心が動いた。興味を持ってくれたか? もう少し踏み込んでも良さそうだな。
「俺の事をどう思ってくれている?」の問いに「可愛い教え子だよ」ときたもんで、卒なく「そうきたか」と応えはしたが、実際にはまだ何一つ教えてもらってはいないんだがなと内心苦笑した。
これから色々教えてもらうつもりだった。いや、教える側か? 座学でも、剣技でもない。男と女の関係ってやつだ。都合の良い事に自分たちは異性だ。年もそれほど離れてはいないと思っている。何かしらの感情を挟めば卒業した後でもきっと俺達は繋がっていられるはず。
溺れてくれ。夢中になってくれ。クロード=フォン=リーガンに……。
こう言っては何だが、容姿には自信があった。性格は好みが分かれるだろうが、何はなくともあの人を繋ぎ止めることが出来ればきっと自分の夢は実現するのではないか。根拠はないが予感がした。確証が得られるまでは決して行動に移さないクロードにとってはこの件に関しては異例中の異例の出来事だったのだ。
闇夜の中を頼りない蝋を片手に現れた彼女は、寝着として薄手のワンピースを身に纏い、多感な年頃の青年を刺激するには格好の獲物だった。早く、早くその仕切りを越えてこちらの領域へと飛び込んでこい。敢えて純朴な青年を演じて、自分の部屋にまんまと誘い込む事に成功した時は歓喜に身が打ち震えた。
もう、無垢のままではいさせない。最初からそのつもりだった。自分がこんなにも狡猾で打算的で計算で生きているなかで、対極に位置するかのように彼女はとても純粋で無欲で、孤独に咽ぶ自分の欠けたものを埋めてくれるかのように、拙い唇ながら自身の無茶な要望に応えてくれた。
桃色の唇に含むのは欲望にまみれた情けない自分自身だ。
彼を包み込むのは、申し訳ない程度の罪悪感と、世界を変える力を手にいれた最初の一歩という感情だった。
初めて異性に放った精は、彼女の頬に髪に衣類に、そして唇へと浸透してクロードの気配を刻み込んでいった。
「先生から、精液の匂いがする」
通りすがりざまに聞こえてきた言葉に耳を傾けた。他学級の男子生徒数人が、すれ違いざまにふわりと感じた彼女の残り香の中に漂う男の気配を感じ取り、興奮した面持ちで猥談に花を咲かせている。
ああ、そうだな顔にだけじゃなくて髪や服にもかけてやったからな。俺の気配を纏う先生をせいぜい手の届かない遠くから羨望の眼差しで眺めていろよ。
そんなことを思いながら、昨夜のベレスの見上げる潤んだ瞳を思い出すだけでゾクリと背中に自分が知らない何かが迸った。
だが、クロードの思惑に反してあのような事が起こった翌日でも、彼女は彼女のまま無垢で穢れず美しいままだった。普段と変わらない様子の彼女を見てクロードは焦燥感を感じた。
忘れられないのは俺だけかよ。随分と余裕のある大人なんだな。
彼女から「俺がいい、俺じゃなきゃ駄目だ」そう言わせたい。
さてどうしたもんかと策を練る事にした。
雨音が強い夜、今夜だなと根拠なく確信した。
深夜、彼女が夜警に現れた時、躊躇せず手にかけようと思った。暗闇に不似合いな光のような存在に手を伸ばすと、灰色の悪魔と呼ばれるには程遠い怯えた表情を見せたベレスに、クロードは少しだけ胸が痛んだ。
こんなに美しいものをこの手で握りつぶしてしまっていいのか?引き返すならここが最後の分岐点だ。そんな事を思いながら、部屋に引きずり込んだ。自分が怖いと思った。
そんな気持ちとは裏腹に、この前とは大きく異なる姿でその身を豹変させた。前は、クロード自身を丁寧に丁寧に時間をかけていつくしむように愛してくれた。
今日はその姿を全く異なるものへと変貌させ、舌を絡ませて扇情的に激しくクロード自身を攻め立てた。
そんなにさっさと済ませたいのかよ。いやいや、つまらない事でいちいち傷つくなよ俺は。葛藤がクロードの中で鬩ぎ合っていく。どうしても、この女教師の前に立つと幼稚な人間性が前面に出てきてしまう事が嫌だった。
あふれんばかりの自分の欲望を飲み込んだ彼女を見て、「まじかよ」と大変驚いた。
理由はどうあれ、彼女の深い所まで自分に染まって行く姿を見て、謎の支配欲が己を満たしていく事に戸惑った。
変だ。おかしい。こんなの俺じゃない。声を聞かせないでくれ……。更に多くを望んでしまう。自分が自分じゃなくなる感覚が空恐ろしかった。
俺じゃない……のはいつもの方だったのかも知れない。こっちが本当の顔なのか。彼女に招き込まれた柔らかな女の世界にクロードは理性と狂喜の狭間で漂って行き先を完全に見失った。
「どうして……どうして……あんたは……俺じゃなくて……あいつをっ……」
潤んだ瞳で咎める柔らかな彼女を男として抱きながら、目をそらし続けて蓄積されていた自分の心の声が……思わず漏れ出たかも知れない。
彼女の最奥に放った精に、しまったとも思ったが、これで決定的な関係を築けたと達成感を抱けた。子供が出来れば責任を取ればいい。いやそんな訳があるか、許される訳がないだろう。 クロードの思考の海に矛盾が駆け巡る。
我に返って彼女を見つめると、涙目でありながらも優しく抱きしめてくれるベレスに、胸の中にふつふつと湧き出す愛おしさを感じて思わず本音で抱きしめた。
処女ではなかったな……。と気付いたのは男女の関係を持ってから数日が経過した頃だった。
何度抱いても、彼女は無垢のまま美しかった。体は随分お互いに馴染んでは来たが、他の男が自分よりも先に、乱れた彼女の姿を知っているのだと思うと頭の中が苛々した。自分が彼女にとって様々な形での「初めて」になりたくて随分無茶なことをさせたかもしれない。
そんな日々に転機が訪れたのは、何気ない会話だった……。
「あんたの初めての男ってどんなやつなんだ?」
空気が変わった気がした。触れてはならない琴線ってやつだったか? 驚いた表情を見せた彼女はみるみる表情に影を落とした。
「別にどうでも……君が知る必要なんてないじゃないか」
「……………………なに?」
初めての拒絶だった。これはクロードにとっても非常にショックな出来事だった。彼女はクロードが望む事に対していつも包み込むように優しく受け入れてくれていたからだ。
ベレスはクロードに視線を送ることなく彼の自室の机に付属している椅子に腰を掛けて瞳を伏している。
冬が訪れて雪がちらちらと舞う中、隙間から寒い風と空気が部屋に充満していく。暖炉にくべた木のパキッと崩れる音が室内に異様に木霊して居た堪れない空気に包まれた。
なんでこんなに不機嫌になってんだ俺……と分からない感情が渦巻いている中で「そんなに大切な思い出なのかよ」と拗ねてみせた。
するとベレスはゆっくりとクロードの方へと面を上げるともの言いたげな瞳を送った。
「なんだよ」少し語気は強かったかもしれない。初めての喧嘩だなとそんな事を思っていると、ベレスはクロードに歩み寄り「抱きしめてほしい」とぽつりと呟き両手を拡げた。
それを見て気を良くしたクロードも「先生はしょうがないな」と言い両手を拡げて迎え入れた。自分の腕の中で震えるベレスに初めて違和感に気が付いたクロードは「どうしたんだ?」と努めて優しく声をかけた。
だが、その後の展開は自分の世界を覆すものだった。
「戦場でその時最後に持っていた武器も壊れて……男たちに……」
「は?」
乱暴された。
そう呟いたベレスの言葉に頭が真っ白になった。
女傭兵にはよくある事だと耳にしたことはあったが、遠い世界の話だと思っていた。
そうだ、何故自分はその可能性に思い至らなかったのだろう。何故彼女の口からそんな事を言わせた? ベレスの口から紡がれた言葉がクロードの全身を駆け巡りぞわりと鳥肌が立つのを感じた。
自分が闇に包まれるのを感じ、思わずベレスの体を強く抱きしめると、それに安堵を感じたのかクロードに体を預け彼の首筋に頬を摺り寄せた。ときめきとは違う早鐘を打つような鼓動に恐怖を感じた。
俺も何も変わらない……先生にとっちゃ多分きっと、俺自身もそいつらと同じだ。
「そいつらは、どうした?」
震える声で発した言葉と共に、よせ、やめておけ、踏み込んではならないと頭の中で警鐘を鳴らすような声がした。
「さあ……気が付いたらいなくなっていた。体中の痛みの方が辛かったし、命がある事に驚いて、どうでもよかった」
「どんなやつだ……」
クロードから滑り出た意外なその言葉にもベレスは押し黙っていたが。
暫しの沈黙の後小さく呟いた。
「同盟領の……兵士……だった……」
世界が崩壊する音を聞いた。
足元の大地が薄い硝子で出来ていたんじゃないかと思える位、破片が激しく飛び散る残響音が木霊して薄く暗い世界に落ちていくような感覚をかんじた。
それまで茫然とベレスを見つめていたクロードだったが、言葉の意味を理解した瞬間に思わず自分の口を手で覆った。
んぐっ……と何かが込み上げて、ベレスをその場に置き去りにして、部屋を飛び出し薄暗い廊下に備え付けられている流しで盛大に嘔吐した。
最初から彼女に選んでもらえる筈がなかったじゃないか。
そう思うとさらに吐き気が増して行く。
急いでベレスが後を追ってクロードの背中を擦った。深夜だというのに声を上げて吐き戻している声を聞いて、眠そうに目を擦りながら部屋の扉を開けて様子を伺う生徒が何人かいたが「少し具合が悪くなっただけだ、君たちはもう休んでいなさい」ベレスが声をかけると「食あたり? お大事に」と声をかける者「こんな時間に? 二人で?」と勘繰るような眼差しで見つめる者など様々だった。
嘔吐が辛くて溢れ出る涙なのか、自分の叫びから漏れ出る涙なのかは分からなかった。
フォドラに舞い散る雪は、自分を取り巻く世界を白く美しく塗り替えてくれた。
だが、自分の犯した罪は美しくなんて塗り替えられる事などは決してない。
その日初めて、ベレスはクロードの部屋で朝を迎えた。膝枕をしてクロードの髪をずっと撫で続けてくれた。呆然とする彼が心配で一人には出来ず彼を置いて部屋に戻る事は出来なかったからだ。もう廊下には人の気配があるというのに、この状況をなんて説明する気なんだ? と思う反面、そんなリスクを背負ってでも自分の傍にいてくれる事がとても嬉しかった。
クロードは思わず膝枕をしてくれるベレスの腹部に顔を埋めて両手でしがみつく様に抱きついた。
座学があるというのに、寝ずに看病をするように傍についていてくれたこの人を、だからこそこれ以上自分の我儘で穢してはならない。手放す事に決めた。クロードは漸く腹を括った。
「私達って恋人同士……なのかな?」そう聞かれて、最初、彼女が何を言っているのかが理解できなかった。あんなに最初は、俺じゃなきゃ駄目だと言わせてみせると決めていたのに。今は違う。俺に染まっちゃ駄目だ。ぼんやりとそんな事を思っていた。
あんたは俺みたいなやつの傍なんかにいちゃだめだ。
最初の始まり方から間違っていたんだ。
「参ったな、そんなつもりじゃなかったんだがな」は心の底からの本音だった。突き放した。俺の事なんか嫌いになってしまえと酷い言葉を投げた。こんな自分なんかの為に、正面から向き合い戸惑う表情を見せる教師らしからぬ焦がれた人に、言葉の意味が分からないのであれば、残酷だが決定的な言葉を与えなくてはならない。
「そうだなあんたが黒鷲学級から金鹿学級へと担任を変わってくれるっていうんだったら、考えてやってもいい」
どーだ絶対無理だろ。もう歩み寄ったらだめだ。俺はあんたを駄目にしてしまう。傷付いた顔を見せないでくれ。漸く覚悟を決めた決意が揺れそうになるから。
俺以外の、あんたにふさわしい知らない誰かとどうか幸せになってくれ……。
彼女を失った世界は自分が思っていた以上に彩を失い、とても苦しくて、苦しくて。
フォドラで初めて経験する舞い散る冬の雪の光景はとても切なく身も心も凍えそうだった。
「リーガン君少し話が出来るかね?」
ある日、座学が引けた後、担任のハンネマンにそう声を掛けられると士官学校校舎より少し離れたハンネマンの自室へと招待された。教室では話しにくい事なのだろうなと分かっていた。
「君とはまだ打ち解けてあえていない気がするが、学校生活はどうだね?」
温かい紅茶を淹れてくれながら、ハンネマンがクロードに目配せすると「え? そうですか? ハンネマン先生の座学はとても興味深いですし、ガルグ=マク大修道院では学ぶことが沢山あって、毎日楽しくやらせて頂いていますよ」ころころとした表情で答えるクロードに、ハンネマンは話の本題に乗り出した。
「複数の生徒から少し伺っているのだが、君が不特定多数の女性と不純な関係を持っているようだと耳に挟んだのだが本当かね?」
その言葉に、「え?」と言葉を漏らし目を見開いたが、直ぐに視線を落とした。
対面する長椅子に座りながら、クロードは伏し目がちに自分の膝の前で手を絡ませて握ると人差し指を親指の腹で撫でていた。座して沈黙を保っている。
いつも根明な彼が見せた 異なる表情にハンネマンは根も葉も無い噂だと思っていた話は事実なのだと悟った。
思春期を迎える若い青年には色々あるのだ、ましてやレスター諸侯同盟という大国を担う未来の盟主になるこの青年にのしかかるプレッシャーの大きさは理解していた。
だから多少の些事は目を瞑ってきた。彼の立場になんとなく共感する物を感じていたからだ。ハンネマンは咎める気などはあまりなく、あくまでも事実の確認としてクロードに問いかけたのだ。
きっと彼に必要なのは、叱責ではなく、苦しみを理解してやることだと長年の教師として導く者の経験から何が今一番彼に必要であるかを分かっていたからだ。
目の前の青年を眺めていると、血筋は勿論のこと、とても容姿にも恵まれていて、自分が請け負った教師生活の中でも指折り数える程に優秀であり、快活で、人気もあり、そして誰よりも本心を見せない男だった。
彼の回答を待とう。少し冷めた紅茶をすすると、クロードは様々な表情を浮かべながらポツリと口を割った。
「不特定多数ではありません……特定多数です」
「まあ……なんにせよ事実はあまり変わらないようだな、士官学校ともなれば厳しく律しなくてはならない場所だというのは聡明な君ならばわかる筈だね? ただ長年教師をやっていると、貴族の苦労というものも良く分かるものだから、ある程度は目を瞑っているものなのだよ」
「その件に関しましては、これから先ハンネマン先生を悩ませることは無いと思います」
ハンネマンのいう言葉を自分の胸に刻みながらも、クロードは瞳を伏したまま「もう、関係を終わらせました」力なくそう呟いた。
「どうして?」ハンネマンの反応は意外なものだった。クロードは思わず顔を上げた。
叱責され、素行の悪さを身内にも報告されるかと思っていたからだ。
「どうしてって言われてもですね……参ったな」
俯いて言葉を濁しているクロードをハンネマンはただただ見つめ続けた。
自分の言葉で誘導して答えを引き出すのではなく、ちゃんと自らの意思で真実を述べて欲しかったからだ。
クロードは自分の中に断片的に散らばった言葉をかき集める事にした。窓から見える激しさを増した降雪が、ただただ静かに時間を流れさせ積雪で吸収された音が静寂の世界をより強く際立たせた。
「思っていたよりも、自分が何もわかっていないガキだったと気付かされたんです」
「分かっていなかった? 何をだね?」
「相手にも感情がある事をです……」
「感情……?」
「俺は、いつも最善を導き出す様にしていました。自分の都合の良いように物事を進めれば、みんなにとってもそれは良い事だと思っていたからです。でも違ったんです。人の心は成長するものであり、成長すればもっと上が欲しくなる、欲しくなったら、手に入れたくなる。でも、俺のその欲望を叶える為に、相手が何かを諦めなければならない事があるという事に初めて気が付いたんです」
ハンネマンが視線を送り、足を組みなおした。鉄壁のクロード=フォン=リーガンという人となりを象るものが形を変え始めたからだ。
彼は自分が予想していたよりもずっと高い所に身と心を置いていた事に正直驚きはしたものの、彼の抱えるその痛みは、似たような経験のあるハンネマンには、とても「わかる」事だった。
「彼女は無欲で、ただ俺の事だけを最優先に考えてくれて、でも俺は随分と欲張りで欲しがってばかりで、一体彼女が何を求めているかなんて考えず、彼女が一体何を背負っているかなんて、何を我慢しているかなんて考えた事も無くて……俺といちゃダメだって思ったんです」
「それでも変わらず綺麗な存在な彼女を見てほとほと嫌になったんです、俺という人となりが」
ぎりと握りしめる拳が震えていたのをハンネマンはただただ黙って見つめていた。
彼は、嘘偽りなく本心を語ってくれていると分かっていたからだ。
「もう良いんです……。もう羽目を外す事はありません。座学にも修練にも真面目に挑みます」
騒がせて、心配おかけして申し訳ありませんでした。
クロードが震える声でそう呟くと、ハンネマンは持っていた紅茶の入ったカップをソーサーへと重ね、テーブルの上へとそっと丁寧に置くと、ふうむという声を出した。
「私にもそんな風に悩み苦しんだ時期もあった」穏やかな口調だ。
「先生がですか?」
「意外かね?」という言葉に「いえ」と言葉少なく返してクロードは椅子に深く腰掛けると入学してから初めてハンネマンとまともに視線を交らわせた。ハンネマンも優しい眼差しでクロードを見つめてくれていた。瞳は逸らさなかった。
「恋をすると、分かって欲しい、知りたい、一緒に居たい、毎日が楽しい、そんな気持ちになる。まあ私はここ数十年ご縁がない状態ではあるがね……」
苦笑するハンネマンを黙って見つめた。ハンネマンもこういう話には疎いのかいつもは饒舌に講義を行ってくれているのにもかかわらず打って変わって丁寧に言葉を選んで発していく。
「そういう燃え上がるような時期を越すと、今度は相手の後ろ側が次第に見えてくるようになる。そうなると、ドキドキワクワクする様な物だけではなくなってくる、相手を思うと苦しくなったり、悲しくなったり、幸せな事だけではなくなっていくものだ」
クロードは思い当たる節があるのか、こくんと首を縦に振った。
「だんだんと自分がいない方が、相手にとって幸せなのではないか……とさえ思えてくる。笑顔を守りたくてもそれが出来ない自分が苦しくなって、何が正しいのか自分でもうよく分からなくなる、その人が本当に幸せになるなら、苦しくても身を引く事も出来る……君は今そういう所にいる、そうだね?」
「はい……」
ハンネマンの言う事は、間違いなく自分が経験したそれだった…。
クロードがそうだと伝えると、ハンネマンはそうかそうかとにっこりとほほ笑んだ。
「君は、その人を愛しているんだね」
頭が真っ白になった。
クロードは震える手で口元を押さえた。そうだったのか……。
かたくなに唇を赦さなかったのは、彼女の温もりに触れた瞬間に、どうしようもない本音が溢れるほどに漏れだしてしまいそうだったからだ。
口を真一文字に固く結び、震えながら零れそうな涙を必死で押さえこんだが、誰がどう見たって泣きそうなのを堪えているのはバレバレだった。
ハンネマンはそんな彼を見て、誰にも本心を明かさないで一人で耐えながら、士官学校生活を送っていたのだと思うと、同じ男として同志に近いような感情に包まれた。まだたった十八の少年と青年の狭間だ。誰しも経験していく事とはいえ、彼はあまりにも孤独であり孤高であった。
「このことは大目にみるので、できれば後悔しない選択をするように。君はまだ若い。いくらでもやり直しが出来る……私と同じようになってしまってはいけないよ」
立ち上がったハンネマンを見上げると、クロードの右目からたった一筋だけ涙が頬を伝った。
ちゃんと伝えないと。「傷つけてごめん」「愛している」のだと。
だが、ガルグ=マク大修道院士官学校の卒業を目前に、突然の帝国軍によるフォドラ統一の発起によりクロードの決意は永遠に実現できないものとなった。
この世には、神も仏もあったもんじゃないな。もう偶像など絶対に信じはしない。
デアドラのリーガン邸宅前で手を拘束され吊るされるように膝立をさせられ、帝国の兵士に殴られたり力任せに蹴られたり、いたずらに刃で皮膚に傷をつけられたり、笑いながら勢いよく冷たい水をぶっかけられたりもした。
領民たちは最後まで身を挺して守ってくれていた愛すべき自国の盟主のその痛ましい姿に震え呻く声を漏らし溢れる涙を拭おうともせずただただ体を震わせながら嗚咽する。
エーデルガルトもなかなか容赦ないな。と思うが苦笑する気力すらもない。
沢山血も流した、喉も焼き付いてカラカラだ。目もはれ上がってあまりよく見えない。
朦朧とする意識の中でふと、逢いたくて焦がれた人を思い描いた。
どうせ最後だ、愛してると伝えられて良かった。
意識は途切れ途切れだ。あまり覚えていない。
クロード……と声が聞こえた気がした。
夢か現か最早区別が付かなかったが、手枷と足かせが外された衝撃で自分の体は思い切り地面に叩きつけられたのを感じ、力を振り絞って薄目を開けた。晒されて汚れた自分を抱きしめているのは、あの人だった。泣いているのか、名前を呼び続けながら嗚咽を上げている。
周囲が騒がしくなってきたことに気付いたベレスは直ぐさま顔を天に向けると、クロードを抱えたまま勢いよく立ち上がった。だが、クロードにはそこまで動けるほどの体力は残されていなかった。何度立たせても力なく崩れ落ちるクロードに、ベレスは声を荒げた。
「生きるんだ!」
生きる……? 何処で? あんたはどうする気なんだ?
……ずっと傍にいてくれるっていうのか?
あの日と同じ言葉が浮かんだ刹那、ベレスが持つ天帝の剣が同じ同胞である帝国の兵士を容赦なく打ち付けた。悲鳴と共に充満する血の匂いに、一瞬何が起こったのかが分からなかったが、まさか、この状況で俺を選ぼうとしているのか?
次に気が付いた時には、もう周囲はデアドラの街の景色ではなく、フォドラの喉元を通り過ぎていた。
白竜が自分の故郷へと導いてくれるのをみて、あっちのやつらに盛大に馬鹿にされんだろうなと嫌な気持ちに包まれたが、あれほど欲しかったこの人が傍に居てくれるというならば乗り越えられそうだと思った。
「あの時、本当に選びたかったものを選べなかった。だから同じ過ちは繰り返さない。君が生きてくれているなら、フォドラも捨てる事が出来る。もう迷わないよ………」
かみさまってのは、干渉せず生かすも殺すもせず、俺達の事をただ見守ってて……
でもたまに、ちょっとだけ奇跡をくれる……そんなもんなんだな……と
クロードはベレスの体温を感じながらそっと瞼を閉じた。