コールというのはレスポンスがなければ成立しない。レスポンスをして、そしてレスポンスをし続けて、仲間を集めて自らコールし始めたのが日下部将之さんだったのだと思う。反原発から反差別、反安倍内閣と、彼は3.11以降の運動を体現し、愚直なまでに押し広げてきた男だった。
2017年7月、都議選の応援に来ただけの安倍晋三から「こんな人たち」のひと言を引っ張り出した1日の秋葉原での街宣抗議から、9日に行われた「安倍政権に退陣を求める緊急デモ・MARCH FOR TRUTH」に至る一週間は3.11以後の総決算とも言うべき巨大なデモになった。9日に中心となって参加したデモグループは「未来のための公共」、「エキタス」、「怒りのドラムデモ」、そして日下部さんたちは「怒りの可視化」でデモの隊列を編成した。コール中心、と言うよりもコールのみ。怒声のみ。壮観だった。平野太一が制作中だった映画『STANDARD』の最後のクライマックスとして描かれるのがこのデモであった。これで安倍は終わったと思った。終わったはずだった。いや、終わっているのだが。
それから3年、ほとんど砂上の楼閣となりながらも、安倍内閣は信じられないことにまだ続いている。そして、それから3年、官邸前で、国会前で、そして路上で、ニュースになったりならなかったり、それでも最前線で怒りを表明し続けたのは日下部将之とその仲間たちだった。
日下部さんとは一回だけサシで、「取材」したことがある。平野太一が映画の編集で四苦八苦していた時期に、同時並行で参考になればと個人的に知人のプロテスターに声をかけ、話を聞き続けた。そのひとりが日下部さんだった。こんなことになるとは思いもよらなかったが、しっかりと彼の言葉を残しておかなければならないと思っていたのだろう。形にしておかなけばならない言葉がまたひとつ増えた。
今日、最後に顔を見に行ってきた。いまだに信じられず、現実感もないが、明日はお別れです。
最後の歌はblackbirdはどうだろうね、日下部さん。
到着。橋本治は「30代後半までに自分の思想を作らないと、その後の仕事の時間がなくなる。作っちゃえばそれに寄りかかれるし」と言っていた人で、この本はその「30代後半になるまでに」広告批評に掲載された、一般に言われるところの哲学の辞典ではなく、ここにマンガとして描かれるのは文字通りの「橋本治の哲学」である(「意味と無意味の大戦争」のみ83年、その他はバブルの真っ只中の88年から連載された)。
その直後に昭和の終わりと自民党と55年体制の終焉を書いた大著『89』を出したあたりから、「もう時評はやらない!」と言い続けていたような気がするが、請われるままに、また治ちゃんの一身上の都合で時評は書き続けられた。「自分の思想があれば寄りかかれるし、楽ちんだもの」と言っていた彼はそのまま古典芸能や小説の世界には行けなかった。それは商人の息子として生まれた彼のサービス精神だったのかもしれない。治ちゃんを始めとして、今や少なくない関係者が物故者となってしまったから書くけれども、あるインタビューで会った糸井重里は「広告批評はずるい」と言っていた。毎月、巻頭に治ちゃんのステイトメントが掲載されるのだから、それは、確かに、「ずるい」。
80年代の勢いそのままに猛烈に刊行点数を増やしていた、それなりに元気だった90年代まではともかく、21世紀以降の時評は評価が難しく、痛々しく感じられることすらある。特に新書系は。
オレ自身は86年の橋本治の講演会での体験に今もって多大な影響を受け続けている人間なので、まず「そうか、40歳までにどんな形でもいいから本を出そう」と決めて、41歳で思想とはまるで関係ないけれども本を出した(一年遅れたのは諸般の事情なのでノーカウントである)。そして、その後の行動のベースには、上記の講演会をまとめた『ぼくたちの近代史』がある。橋本治はバブル期に地上げ屋が跋扈する東京に戦後復興期の「原っぱ」を見て、オレは3.11後の路上に「原っぱ」を見たのだ。
だから昨日TwitterのTLに流れてきた韓国人シンガーソングライターのイ・ランのインタビュー記事にあった「人間関係はピラミッドではなく原っぱで考えよう」のフレーズを読んだ時には驚いてしまった。若い韓国人の彼女は確実に橋本治を読んでいないと思うのだが、何で「原っぱ」という言葉が湧き出てくるのだろう(素晴らしい)。たぶんオレがこれから書くテキストもそういう内容になるだろう。
「橋本治の哲学」が凝縮された一冊を手にして胸が熱くなった。
金曜日は<晴れたら空に豆まいて>の「代官山 春のドキュメンタリー映画上映会」http://haremame.com/schedule/66254/
今回は『STANDARD』の他に、ラファエル・カルデーナス監督『ランドスケープス&ランド・ドゥウェラーズ』(2018年)、アキラ・ボック監督 『アワ・マン・イン・トーキョー ~ザ・バラッド・オブ・シン・ミヤタ』(2017年)も上映された。『ランドスケープス〜』はロサンゼルスの下町を撮影した10000枚のコマ撮り画像で構成される実験映画。『アワ・マン・イン・トーキョー〜』は、レコード会社勤務を経て、長年に渡りプロモーター、ディストリビューターとしてチカーノミュージックを日本に紹介し続ける宮田信(MUSIC CAMP, Inc. / BARRIO GOLD RECORDS)を描いている。それぞれ8分、16分と共に非常に短いドキュメンタリー作品なのだが、共通点として<全米最大のメキシコ系アメリカ人コミュニティ>イーストLAが舞台となり、映像からは一台のカメラを通して、そしてひとりの日本人を通して、コミュニティとカルチャーに対する情熱が溢れる。
隣人を攻撃することでしか自らのコミュニティを維持できないこの国では、クールとは「かっこよさ」を指すのではなく、つまらない保身のための冷笑でしかない。相変わらず大きくて陳腐な物語はもてはやされるが、人々のロマンチックな物語は顧みられない。
2019年のこの国で、たぶん、最も価値のあるものは人々の情熱である。ホットでないものに何の意味があろうか。
宮田信は彼の地で「スピリットとアティテュード」を受け取ったのだという。そしてチカーノミュージックを媒介に、この国にロマンチックな場所を作り、それを押し拡げるためにこの東京で活動を続けている。
スピリットとアティテュード、そしてロマンチック。
人々が生活する場所にはスピリットとアティテュードがあり、それぞれが出会う路上ではロマンチックな物語が育まれる(甘い、という意味ではなく)。それは今回、光栄にも同時上映させていただいた『STANDARD』にも通じているのだと思う。
制作スタッフのひとりとして、これまでの制作過程や上映会で何十回と観てきた『STANDARD』だが、今回の上映会で新しい意味合いを持って観ることができた。「路上を取り戻す」のは人々の情熱とカルチャーの力であることを改めて確認できたように思う。
人生においてロマンチックな場所がある人は幸いだ。それは音楽や映画、アートからスポーツまで、カルチャーの場であることが多い。単に体験するだけではなく、参加しなければ何も起こらないということである(今日のエコパスタジアムのゴール裏は、きっと最高にロマンチックな場所だっただろう)。
『STANDARD』もそんな映画であり、「場所」であって欲しいと思う。
参加者の皆さん、晴れたら空に豆まいてのスタッフの皆さん、DJ HOLIDAYさん、TRASMUNDO DJsさん、そして宮田信さん、ありがとうございました。
次は名古屋です。
次回上映情報
【名古屋】
TwitNoNukes presents 映画『STANDARD』上映会
5月18日(土)
会場: spazio_rita (名古屋市中区・矢場町駅)
開場:17:30 上映:18:30(予定)
※上映+トークショー+DJを予定。詳細は後日発表されます。
水曜日。平野太一君のZINE『SELL FEE』を購入するために下高井戸のTRASMUNDOへ行く。『SELL FEE』はすでに4店舗ほどに置かれているのだが、TRASMUNDOでは『TRASMUNDO RADIO VOL.26「SELL FEE」feat. 平野太一、ドンババ』のCDが付録として付いてくる。ショーケンが亡くなったことが報じられた深夜に収録されたということで、本当にできたてのCDなのだが、『SELL FEE』の内容そのものについてというよりも、3.11以降の社会運動、その周辺についてスタンスの有り様を語り合い、それにまつわる音楽を聴いていくという趣向である。
一年前のGalaxyでの初上映をはじめとして、これまでもTRASMUNDO DJsとして『STANDARD』の上映会にご協力いただいてきた店主の浜崎伸二さんにも改めてご挨拶し、少々話を伺う。
3.11の年、浜崎さんはデモには行かずに店を開き、迷っていたり、悩んでいるひとたちと語り合っていたのだという。もちろん、あの当時のように、居ても立っても居られずに路上に飛び出すような瞬発力や突破力は必要だが(浜崎さん自身も4年後にSEALDsが呼びかけた国会前抗議には参加している)、まずは誰かと話したいという人たちにとっての「場所」も、やはり必要だったのかもしれない。レコード屋であり、古本屋であり、Tシャツ屋でもあるTRASMUNDOは、あの当時から抗議の「場」とは違う、「場所」を支え続けてきたのだった。抗議の場は状況によって変化し続けるものだが、その一方で、下高井戸の変わらぬ場所が「新しい人たち」を生み、路上での行動をつなぎ続けてきたのだ。そういう意味で「カルチャーが支えてきた」と浜崎さんが誇らしく言うのも腑に落ちる。
そして、平野君の『SELL FEE』。映画『STANDARD』の制作過程などの一部分はすでにweb上で公開されているものだが、書き加えられた言葉と内容はかなり衝撃的だ。作為のなさが嘘のなさに通じるのかはわからないが、少なくとも彼の言葉には借り物の言葉がない。偽るための言葉もなければ、彩るためだけの言葉もない。剥き出しの言葉である。
彼の言葉の印象ははじめて路上で出会ったときから、エモーショナルで喚起力のある天才的なコーラーだったのだが、極私的な内容と表現からその印象が蘇ってくるようだった。
映画の撮影の過程で福島と沖縄を訪れる中で、あのとき、あの場所で置き去りのままになる自分、そしてそれでも生きていかなければならないと前へ進む自分を見つける。
映画『STANDARD』が8年前のことを描きながら、まだまったく古びずに、フレッシュさを保ち続けているのは、自分たちはあの日のままに置き去りとなり(3.11? 2011年6月? 2012年12月? 2013年9月? 2013年12月? 2015年9月? どれも最悪だ!)、それでも生きていかなければならない、引き裂かれた状況が続いているからなのだろう。
それが作品にとって幸福なことなのか、不幸なことなのはまだわからない。
今週は東京・代官山、来月は名古屋で上映会が開かれます。実は昨年末から公開されている新バージョン(おそらくこれにて完全版)はまだ観ていないのでオレも行く予定です。
■ZINE『SELL FEE』販売店舗
【下高井戸】TRASMUNDO
【吉祥寺】uplink吉祥寺
【新宿】ブックカフェ オカマルト
【目白】ポポタム
※在庫切れなどの可能性もあり。
■『STANDARD』上映情報
【東京】
代官山 春のドキュメンタリー映画上映会
4月12日(金)
会場:晴れたら空に豆まいて
開場: 18:00 上映: 19:45
予約: 1800円(+1D) 当日: 2000円(+1D)
DJ:DJ HOLIDAY、TRASMUNDO DJs、宮田信
予約03-5456-8880
※都市辺境、洋楽インディーズ、社会運動…『STANDARD』と併せて3つのドキュメンタリー映画が上映されます。
【名古屋】
TwitNoNukes presents 映画『STANDARD』上映会
5月18日(土)
会場: spazio_rita (名古屋市中区・矢場町駅)
開場:17:30 上映:18:30(予定)
※上映+トークショー+DJを予定。詳細は後日発表されます。
どうせ復刻されないだろうし、音源も埋もれるんだろうなあと思いつつ(VIBERHYMEも希少だし、高値だし、今更入手できないだろうなあとも思いつつ)ライムの書き起こしをコツコツとしていた。しかし、それでいいのだ。もう公開された音楽と言葉、それは、自分のものなのだから。
前回の投稿に関連するが、オレはJAGATARAの想いを、ある意味でビブラストーンに託していた。あの、日比谷野音で行われた江戸アケミ追悼コンサートで高田エージの『タンゴ』の最中に、悲痛なまでのある女性の叫び声がいまだにオレは忘れられない。2019年に復活したTokyo soy sauceで、その高田エージの『みちくさ』で踊りながら、あの日のビブラストーンを思い出していたのだ。野音の金網の外で、バブルの終わりにオレは『WABI SABI』を踊っていた。
<自分では、いつまでも古びない、そして他にはない独特の表現をここに残してきているつもりなのだが『VIBERHYME』>
と復刻版に近田さんは書いている。
残すも残さないも、そして古びるも古びないも、それを受け取った側の問題である。
そして『VIBERHYME』は復刻された。
今、つまらない大人の諸般の事情により電気グルーヴは配信されてないが、ビブラストーンはほぼ完璧に配信されている。
つまらない大人にならないようにハズレくじを選んでクソオヤジになってしまったが、それはそれほど問題はない。これは今聴くべきだし、今噛みしめるべき言葉たちである。
今聴かないとお前らいつか後悔するぞ、と思う次第である。
今や80年代は悪い時代だったと言われる。例えば「MANZAIブームのあとには日本人の(笑いの)感覚が変わる、荒野になる」と時勢を斬った萩本欽一や沢田隆治(この人も毀誉褒貶相半ばする人だし、彼ら自身が時代の変わり目に直面していたわけだが)の言葉のように、あの当時であっても警告していた人はいたし、その時代に10代から20代を過ごした自分にとっても思い当たるふしはある。時代は変わってしまった。あの頃、鋭い社会批評だったものの多くは、その後に訪れる超反動時代の萌芽であり、21世紀を迎えた頃には呑気な時代遅れで、今や幼稚でしかない<本音>に反転してしまった。
しかし80年代が最悪の時代だったからといって、すべてが最悪なわけではもちろんない。そしてもちろんこれは笑いの話ではない。
昨夜は渋谷のクラブクアトロでTOKYO SOY SAUCE 2019へ行った。彼らと彼らがいたステージは最良の80年代のひとつだった。
1986年の初回から30年以上の時間が経ち、ミュージシャン、スタッフ、オーガナイザーなど少なくない関係者が逝ってしまった。しかしs-ken、Oto、松竹谷清、そしてこだま和文というイベントの中心人物は健在であり、3.11以後、生活拠点を熊本の山中で移していたOtoをs-kenが訪ねたときから復活が話し合われていたのだという。
しかしオレ自身には<TOKYO SOY SAUCE>の記憶はそれほどない。初回(渋谷ライブイン)に行っていないのは確かだが、その後5回まで行われたイベントに行ったのか、行っていないのか記憶にない。確かなのはインクスティック芝浦ファクトリーという場所には頻繁に行っていて、彼らはその場所によく出演していた、それだけだ。若造だったオレには<信用できる場所>が必要で、例えばザ・スズナリと同じぐらい、その当時インクスティック芝浦ファクトリーは信用できる場所だったのだろうと思う。ちなみにJAGATARAの最後のライブなってしまった新宿のパワーステーションには行かなかった。たぶんパワーステーションだから行かなかったのだと思う。また観られるだろうと。油断した。往年の<TOKYO SOY SAUCE>のようすはJAGATARAのドキュメンタリーである『ナンノこっちゃい』で観られる。倒れるほど観た。あの『ビッグドア』は聴いたことがなかったので悔やんだ。しかしあれこそがオレが観ていたJAGATARAだった。
JAGATARAは今もなお強度のあるアケミのメッセージとビートでオレたちを踊らせ続ける。この夜のようなパンキッシュな『みちくさ』のコール&レスポンスは、ノスタルジーだけではなく今の時代だからこそできた呼応だったのだと思う。『都市生活者の夜』でノブが「甦れ!」と叫んだのもきっとそういうことなのだ。ノスタルジーだけではないのだ。いやノスタルジーではないのだ。少なくともオレにとっては(ノスタルジーといえばJAGATARA2020でベースを弾いていた黒猫チェルシーの宮田岳の佇まいがナベちゃんにそっくりで驚いた)。
彼らはポップで国境線のない、踊るオルタナティブで、新しい日本人を作っていた。
堂々たるゴッドファーザー然としていたs-kenと松竹谷清、そしてこだま和文の完璧に「楽しい」ステージで踊っていて、そしてあえてこの夜に『Shangri-la』と『不滅の男』をプレイした高木完に改めてそのことを痛感した。オレたちは、否が応でもすでに<楽しむためには正面切って戦わざるを得ない国>に生きていて、そして彼らのライ「ヴ」を観て、スピリッツを受け継ぎ、踊りながら考えて、大人になったのだ。
s-kenの最後の挨拶のあと、南、Oto、EBBYの三人が名残惜しそうに去っていく姿は『ある平凡な男の一日』が聴こえてくるようで、まるで『ナンノこっちゃい』のワンシーンのように思えた(Otoはいつもあんな風にフロアを煽っていた印象がある)。みんなもうさすがにいい歳なのだが、またここから何かが始まるのだろうと思う。オレたちは生き残っている限り、そうでなくちゃいけない。
ステージで、そしてフロアで踊っていたみんなも。
東京が自分の町ならば。
20190316 TOKYO SOY SAUCE2019 大団円
それにしても2011年シーズンから2012年シーズンはさまざまなことが起こった。降格シーズンにも書いたことではあるけれども、やはり2012年にタイトルを獲る可能性はあった。それはゴトビを延命させることにはなっただろう。それがエスパルスにとっていいことだったのかどうか。あのフロント体制ではいずれにしても2010年に続く崩壊はやってきていたのだろう。それほどあの頃の体制には現場をサポートする上で問題があった。まるで覚悟がなかった。どう考えても当時の社長だった竹内さんはリーダーに相応しくなかった。
しかし2018年シーズンを通して、やっと「戻ってきた」と感じている。どんだけ傷心だったんだよと思うが。
久々にホーム開幕戦が楽しみになっている。
勿論エスパルスのことだけではないが、このブログも復活させようと思う。
わかったつもりでいない、わかったような顔をしない、わかったようなことを言わない、あの頃はそのルールをわかっていたような気もしますが、あまりにも時間が経ち、場所も離れてしまっていたのだと自分の甘さを痛感しています。
(町山智浩Twitter 2018年3月16日)
昨晩のことは改めて書くとして、町山智浩さんのツイートが話題になったので書いておく。
そもそも、それを<声なき声>と表現して良いものかどうかはとりあえず置いておく(果たして抗議の場で声なき声があり得るのかというのは、よくわからない)。
<声なき声が大事>と書くのと、<その「声なき声」こそが大事>と書くのでは大違いである。岸信介や安倍晋三が言う「声なき声」とは、どう考えたって「自分に都合の良い、声なき声」でしかない。では1960年の岸信介は何と言ったか。
「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りだ。私には声なき声が聞こえる」
である。何故町山智浩が<岸信介が>などという余計なことを書いたのかよくわからないが(好意的に捉えても意味が変わってしまう)、その声なき声は岸の脳内で都合良く解釈した幻聴でしかない。「私たちに問題は任せて国民は楽しんでくれ」というわけだ。安倍も間違いなくそう思っている。
現実には、かつて声なき声であったかもしれないものは、すでに官邸前や国会前ではっきりとした声であろうとしているのだ。
抗議も終盤に差し掛かった国会議事堂駅出入口の攻防のあと、じりじりと警官隊を後退させて官邸前に向かって茱萸坂を上って行った人々は、<声なき声>に甘んじることに耐えきれずに、あの言葉を言いたくて、または自分の声を伝えたくて官邸前にやって来たのだ。
この2018年に、声なき声などという権力者に利用されやすい甘い幻想をもう持つべきではないし、そんなものに加担すべきではないのだ。卑怯者たちと戦っているのに、何故そんなにナイーブでいられるのか。
とはいえ、抗議のあと、オレたちは嫌でも金曜日の夜の電車やバスで家路に着く。そこには岸信介が言うように「いつも通り」の光景が広がっている。つまり声なき声はそこにあるのだ。そして、それは声なき声ではなく、圧倒的無関心というのだ。
言葉は人の口から吐き出されて初めて声になる。その瞬間を目の当たりにしている人間には声なき声などという、使う人間に都合の良い言葉にリアリティーなど感じるわけがない。少なくとも「そこ」にいる人たちは、誰ひとりとして、決して声なき声などではないだろう。
今時(というか今だからこそなのか)、低レベルな自己責任論がなぜか関西芸人から連発される。
しかし「世界中が憧れるこの日本」って凄いパワーワードである。ま、こんなものは「日本スゴイ」の言い換えでしかないのだが。
73年前の南米で起きた「勝ち組負け組」の抗争が21世紀に見られる日本は、悪い意味で確かに凄いと思う。
しかし単なる思考停止と、もはや態度を決めなければならない事柄についてまで他人事でしかいられない、日本人の「喧嘩両成敗」(どっちもどっち)のカルチャーは、やはり見直されるべきではないのか。
<「問題を起こしたら双方を処分」するのではなく、「問題を武力で解決(故戦防戦)しようとしたら双方を処分。」である。>(Wikipedia)
移民社会への抑圧や不満があったとはいえ、やはり勝ち組は明らかに間違っていたし、負け組は彼らの暴発を食い止めようとしていたのだ。73年経った今、海の向こうではなく、この国で起きている勝ち組と負け組の抗争について、喧嘩はともかく、やはり問題を見極め、態度を決められない姿勢は問われなければならない(だろう、きっと)。
もうすでにこの国のリーダーが勝ち組ではないか、という絶望は置いておいて、私たちの「抗争」が書店の本棚で起きている程度のうちに。
ツイートでも投稿しましたが、改めて超満員の中、視聴環境もしんどい中で長時間の作品をご覧になって頂いた方々に心より感謝いたします。また野間易通さんをはじめ、出展作家、Galaxy関係者の皆さんもご協力ありがとうございました。ドアを開けた瞬間に湯気が出るような熱い上映会となりました。
「ねえ、これ良いと思わない?」
制作が始まった頃、SNSの会話の中で、いつもの調子で張さん(Akira the Hustler)がリンクを貼り付けたのが、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「スタンダード」 でした。最初に書いた企画書の表紙には「STANDARD」の文字があります。映画のタイトルはこの2年間、ずっと変わらず「STANDARD」だったのです。ではその後、楽曲について詳しく話し合いが行われたのかといえば、そんな記憶はないのですが(ゴッチさんすいません)、間違いなくきっかけはこの会話でした。
確かに、言葉が示す意味があまりにも大きく、広く、どのようにも受け取れる言葉です。あまりにもポピュラーな言葉であるために、 #TNN_STANDARD のタグがなければスタッフが映画の感想を検索するだけでも大変です。
昨日、私は「昔の日本人にはあったはずのSTANDARDを取り戻す」てなことをグダグタと喋りましたが、その答えはその時々で変わるかもしれません。それは今も揺るぎなくあるものなのか、それは失われたものなのか、それを取り戻すのか、それを作るのか、それを真似るのか、そもそもSTANDARDとは何なのか。作品の中で監督は「STANDARD」について、彼自身の答えを出していますが、個人的には作品を観る人がタイトルをどのように解釈するのも構わないと思っています。とにかく、スタッフはリンクに貼られた「STANDARD」という言葉が指し示すものの中に、これから作る映画の核となるものがあるのではないかと思ったのでしょう。
川崎のN君が感想を書いてくれました。私にとってN君という人は同じ場所にいても、直接のやり取りはほとんどないのですが、実は13年か、15年の官邸前抗議の頃に一度だけ接触がありました。彼は覚えていないでしょうが、彼に向かって、私が「トラメガ のコールが混乱していて、これじゃ駄目だろ(このヤロー)!」などということを言ったところ、「うるせー先頭で調整してるよ(このヤロー)!」と返されて以来、悪印象があるのですが(笑)、今回とてもいい感想をツイートしてくれました。
<多くを語らなくても「いるべき場所」を少しでも多く共有したく思う欲求こそが社会運動だとずっと思っている。「あの抗議の場に行って良かった」「仕事で参加できなくて悔しい」「けれど心は現場に」そんな気持ちは震災後に芽生えた特異な感情のように思う。>
だから彼は超満員で、ドアを開けた瞬間に外のガラスドアが曇るほど、熱気が充満した中で、2時間もの間、立ち見のままでも、<いるべき場所>にいたのだと書きます。最高です。こんなに嬉しい反応は、なかなかないだろうと思いました。
この映画は決して行動のための映画ではありません。行動をしろ、という映画でもありません。そこで起きたことを当事者の目線で描いた作品です。そこにいたこと、そこにいたかったこと、そしてそこを作ること、そんな気持ちに溢れた映画です。この映画も観る人にとって、<そこにいたい><そこにいたかった>と思える作品であって欲しいと思います。
今もなお日本を揺るがし続ける「3.11以後」。全国的に拡大した反原発運動に始まり、反レイシズム、反安倍政権にコミットし、路上で行動し続けてきた「普通の人々」の姿を描く。 監督:平野太一/出演:野間易通、ECDほか/製作:TwitNoNukes Project /120分 #TNN_STANDARD
<我々がする仕事は、東京の片隅で起きていてもグローバルなコミュニケーションの中にある。>
これはすべてのインフォメーションがバイリンガルで行われていることについて話していただいたときの言葉なのですが、それ以前に自分の立ち位置を問われているような気がしてとても感銘を受けました。ほとんどの人々の間でネットが常に接続されている現在では当たり前のような感覚かもしれません。
この年に刊行された『世界の中心で、愛をさけぶ』なるメロドラマは数年後に大ブームを起こし、そして2016年から17年にかけて映画『この世界の片隅に』がロングランで上映されました。<世界>と<中心>と<片隅>はこの15年で大きく変化したのでしょうか。ひとまず<さけぶ>か否かは別としても、中心も、また片隅もなくなった世界で「見られている」感覚を忘れてはならないのだと思います(2011年頃はよく「メタ視点」という言葉をよく使っていました)。
「見られている/見せ(てい)る」というデモ参加者の感覚は、映画の中でも特徴的なテーマになっています。
そこから映画にも登場するようなSAYONARA ATOMの「かわいい」横断幕や、国内メディアだけではなく、世界中のメディアやワールドスタンダードを意識したプラカードやTシャツが生まれてきたのだろうと思います。
ウェブの世界では拡散されるためだけの画像が数多く出回っていますが、「言葉を声にする」作業と同じように、何かを訴えるためにシンプルに、ダイレクトにコピーライティングされ、翻訳され、デザインされた画像(プラカード)は行動する人々の手によって掲げられなければ意味がありません。あの頃は沿道からの飛び入り参加を呼び込んでいただけではなく、プラカードの見せ方さえ気にしていたものです。時に暴力的に見えるかもしれない行動でも、見られていることを意識しつつ「伝える」ということについてはとても真摯であり続けたのだと思います。
公開まで24時間。
それにしても、よくよく考えてみると、日本で一番<中心>でいながら<片隅>を感じさせるのはやはり永田町と霞ヶ関なのかもしれません。
映画「STANDARD 」
http://standard-movie.jp
STREET JUSTICE – ART, SOUND AND POWER
レイシストをしばき隊5周年 特別上映
日時 2018年2月20日(火)19:20(上映開始)
※上映開始予定時間が変更になりました。
出演:平野太一(舞台挨拶)ほか
料金:無料
会場 Galaxy 銀河系
(東京都渋谷区神宮前5-27-7-B1 ※JR、東京メトロ、東急「渋谷駅」徒歩8分 東京メトロ「明治神宮前駅」徒歩5分)
TEL 03-6427-2099
http://www.thegalaxy.jp
「大事なことはすべてTL上で話し合われている」。
野間さんが書いていたのか、bc君だったか、それとも別の誰かだったか、見つけ出せませんでしたが、このスタンスはTwitNoNukes以降の行動に通底しているテーマだと思ったのです。
それはシングルイシューです。断固として、シングルイシューです。誰もがその一歩を踏み出すことができる「言葉」を見つけ出し、多くの人が共有できた瞬間、その行動は拡散します。しかし2015年以降、そんな「言葉」を私たちは見つけられずにいるのではないか。個人的にはそんな風に思っています。
でも2017年春から夏にかけて、一瞬だけ、そんな奇跡的な瞬間が訪れました。映画はその瞬間を実に熱く捉えています。
あれから7年が経とうとしていて、Twitterとの向き合い方は人それぞれ変わってしまって、離れしまった人も、使い方が変わってしまった人も、飽きた人も、またはネトウヨになってしまった人もいるかもしれないけれども、やはり、この想いは変わらないでいます。行動する個人が増え、活動の幅を拡げるグループが増えたとしても、それぞれのグループのやり方や仕掛け、演出が表で語られることがなくても問題ではありません。手法の違いなどどうでもいいことです。もっといいやり方を思いついたのならば、思いついた人間がやっちまえばいいのです。
そして、いまでもやはり本当に大事なことはすべてTL上で話し合われていると思うのです。
きっとそのことを思い出すことができる作品になっていると思います。
映画「STANDARD 」
http://standard-movie.jp
STREET JUSTICE – ART, SOUND AND POWER
レイシストをしばき隊5周年 特別上映
日時 2018年2月20日(火)19:20(上映開始)
※上映開始予定時間が変更になりました。
出演:平野太一(舞台挨拶)ほか
料金:無料
会場 Galaxy 銀河系
(東京都渋谷区神宮前5-27-7-B1 ※JR、東京メトロ、東急「渋谷駅」徒歩8分 東京メトロ「明治神宮前駅」徒歩5分)
TEL 03-6427-2099
http://www.thegalaxy.jp
いくら正しい言葉でも、そしてその正しい言葉が文字として残るとしても、今、私たちはそれを声にして現実化、肉体化しなければいけない。そう思います。私たちは「今」に生きているのですから。今、伝える、ということはそういうことです。
今、声を上げなければいつまで経っても、言葉は誰かが書き残したとしても、やはり手遅れです。
以前、特定秘密保護法での闘いのあと、「声が枯れている奴は信用できるぜ」てなことを書いて、少々反発もされたのですが、その気持ちは変わりません。
<3.11以降>というのは、行動する人々にとってはいわば路上で声を上げるトレーニングだったと思っています。
例えばこの作品に登場する建築家の山本匠一郎君が「僕は(この行動を)運動だとは思っていない」と発言する場面があります。それはおそらく登場する人たち全員が思っていることで、実は政治や社会の不正、不公平だけではなく、日常生活の中に蔓延る理不尽や不寛容、そして暴力に対して、そんな場面に遭遇した時にすぐに声を上げることができる、行動することができる反射神経を取り戻す行動でもあったのです。
それは、かつて日本にもあったはずの「スタンダード」を取り戻す闘いだったのだろうと思います。
TwitNoNukesは実に「うるさい」デモでした。ECDさんは初期は「それほどでもなかった」と言っていましたが、参加者一人ひとりが大声を上げるデモだったのです(私自身、ブログで鼓舞していたということもありますが)。それが反レイシズム、反安倍政権の罵声や怒声を含むデカい声の抗議に繋がっていくのは、まあ当然です。
それでもひとりで声を上げるのは心細いですよね。
でも、そんな人にも勇気を与えられる作品になっていると思います。是非観に来て下さい。
映画「STANDARD 」
http://standard-movie.jp
STREET JUSTICE – ART, SOUND AND POWER
レイシストをしばき隊5周年 特別上映
日時 2018年2月20日(火)19:00(上映開始予定)
出演:平野太一(舞台挨拶)ほか
料金:無料
会場 Galaxy 銀河系
(東京都渋谷区神宮前5-27-7-B1 ※JR、東京メトロ、東急「渋谷駅」徒歩8分 東京メトロ「明治神宮前駅」徒歩5分)
TEL 03-6427-2099
http://www.thegalaxy.jp