「娘呼び」の呪いについて
2010年の1月に「日経ビジネスオンライン」上での連載、「ア・ピース・オブ警句」のために書いた文章を再掲します。
残念なことに、古いテキストはリンク切れになっていますもので。
バンクーバー五輪について書いた文章で、全体として、ダラダラと雑感を書き並べているわりと焦点の定まらない原稿なのですが、後半部にある女性アスリートを「娘呼び」にする習慣についての考察には、見るべきものがあると思っています。
よろしくお願いします。
バンクーバー五輪は2月の12日に開幕するのだそうだ。
なんと、開幕まで二週間を切っている。
全然知らなかった。なんとなくオリンピックがあるらしいぞという感じは抱いていたのだが、まさかこんなに間近に来ていたとは。
この盛り上がりの無さは、いったいどうしたことなのであろうか。
あるいは醒めているのは私の周辺だけで、世間は五輪景気に沸いていたりするのだろうか。
バンクーバー特需、と?
どうもそういう感じはしない。土日の午前中は相変わらず駅伝だらけだし。液晶テレビが飛ぶように売れているという話も聞かない。むしろ、エコポイントの効果切れで、市場には禁断症状が出ている。売り場はエコエコポイントを待っている。わかっていたことだが。
とにかく、今回のオリンピックに関しては、日本中がなんとなく乗り切れずにいる。隣町の運動会。他人事。そんな感じだ。
なにしろ、恒例のメダル数え上げ報道が無い。
これまでのオリンピックでは、誰が何色のメダルで、どの競技でどんなメダルがいくつ期待できるのかといったような先走ったカウントアップ報道が、それこそ開幕一月前から繰り返されていたものなのだが、今回はそれが聞こえてこない。
なぜだろう。
メダルが期待できないからだろうか。
それとも、過去の経験から、メダル獲得を煽るテの報道が、選手団に無用のプレッシャーをかけるということが学習されて、それで、今回は、メディアもメダルの数をあらかじめ数えるみたいな伝え方を自粛している、と、そういうことなのであろうか。
いずれも考えられる。
確かに、今回は、鉄板の金メダル候補(←という言い方もなんだか安っぽくて変だが)が居ない。
議論のハードルを「メダル圏内」と、比較的低いところに設定してもなお、見たところ、確実な選手は見あたらない。
とすれば、開幕前からメダルを話題にするのは、かえってあとあとの興ざめの素になる。ここは一番、黙っておくに限る。その方が無難だ。
見ない夢は醒めない。
受けない学校は落ちない。
さよう。打たないシュートは外れず、振らないバットは空振りをしない。不滅の安全策。区役所の相談窓口担当者みたいなリスク回避哲学。リーマンショックによるギョーカイ人のサラリーマン化。かくして、鉄火場であったはずのテレビ現場さえもが萎縮している。淋しい展開だ。競技団体(あるいはJOC)がメディアに報道の自粛を示唆した可能性もある。
事実、オリンピックではないが、昨年の8月に行われた世界陸上では、陸連が放送を担当するTBSに対して「キャッチフレーズの自粛」を強く迫ったことがあった。
無理もない話だ。
「モザンビークの筋肉聖母」「追い込み白虎隊」「侍ハードラー」「エチオピアのゴッド姉ちゃん」「ツンドラのビッグママ」
こうしてあらためて並べてみると、彼らが案出したキャッチフレーズは、どれもこれも恥ずかしい。
一視聴者に過ぎない私が、思い出しただけでこんなにも恥ずかしいのだから、当事者であった選手は、どれほど屈辱を感じたことだろう。想像するにあまりある。
いや、キャッチフレーズの出来不出来について、センスが良いだとか悪いだとか、優れているとか劣っているとか、そういうことを言うつもりはない。
でも、さるマラソンの女子選手に対して「走るねずみ女」という言葉を使ったのは、いくらなんでもあんまりだったと思う。
ヘタでも面白くなくてもダサくても、アスリートに対する敬意が感じられるのなら、別にかまわないのだ。多少ハズれていても。でも、「走るねずみ女」は、生身の女性に対して使って良い言葉ではない。私は彼女の親戚でも何でもないが、これを聞いた時には血の気が引いたよ。
で、とにかく、去年の中継は、たしかに控えめだった。オダさんも静かだったし、TBSのお家芸だった選手紹介キャッチも発動されなかった。おかげで、ここ数回の放送に比べて、電波の質は非常に上品なものになった。
が、一方で、盛り上がりに欠けていたのも事実だった。
淡々とした中継で深夜の陸上競技を見てみると、これがどうにも寒々しかったりする。
単純に言って、淋しいのだね。孤独感。
これは、わたくしども視聴者の側にも責任があるのだと思う。
つまり、われわれは、スポーツ中継がバラエティー化する以前のごく当たり前な視聴態度を、どうやら失ってしまったのだ。奇妙な方向であれ、下品なカタチであれ、一度アオり系の放送に慣れてしまうと、そこから脱却するのは、われわれ受け手の側にとっても容易なことではなかったということですね。
結局、やかましくて大仰で演出過剰な、縁日の口上みたいな放送は、いつしかわれわれの感覚をも鈍磨させていたわけだ。快楽中枢における限界効用逓減の法則。だから、TBSのうるさい実況を嫌っていた私のような視聴者でさえ、前回の中継には、物足りなさを感じずにはおれなかった。
「あれ? オダさん、もしかして情熱無くしてる?」
と、私は、挙動不審でないオダユージを見て、ハシゴを外された気分を味わった。
ニッポンの陸上界全体が突然にトシをとったみたいな感じ。
「そうだよな。いつまでもガキみたいにはしゃいでられないし」
と、一度そう思ってしまうと、真夜中に競技を見るためのテンションを維持するのは、困難な仕事になる。
「寝よ」
そうだよな。どうせ海の向こうでやってる他人の駆けっこなんだし。
かくして、放送現場におけるグレシャムの法則(←「悪貨は良貨を駆逐する」)は、いつしか良心的なスタッフを業界から閉め出してしまった。具体的に申し上げるなら、声のデカい芸人がゴールデンタイムを占拠し、声優あがりのナレーターがベテランのアナウンサーから職場を奪う事態が続くうちに、スタジオはいつしか、昼下がりの魚河岸みたいな荒んだ場所に変貌していたわけだ。売れ残りの魚を商う業者と、安物を買いに来る志の低い商売人。捨て値モノを扱うセリ市では、最も強力なダミ声を放つ買い手が価格をコントロールする。うむ。ありそうな話だ。
オリンピックが、愛国イベントになったのは、おそらくここ数回のことだ。
長野オリンピックあたりからだろうか? あるいはもっと以前のロス五輪ぐらいに遡って考えるべきなのかもしれないが。とにかく、私が若者だった頃、オリンピックは、「ニッポン応援イベント」ではなかった。むしろ「世界のスポーツの祭典」という位置づけで、それゆえ中継の華は、あくまでも、「その時点での世界最高のアスリート」だった。「ニッポンのメダル」は、注目要素ではあったものの、話題の中心ではなかった。僥倖。もしくは、一種の天佑。それぐらいの扱いだった。
冬季オリンピックの場合は、日本人選手の競技レベルが低かったせいもあって、特に外国人の一流選手に注目が集まる傾向が顕著だった。
トニー・ザイラー、ジャン・クロード・キリー、インゲマル・ステンマルク、アルベルト・トンバ……と、古手のスキーファンは、これぐらいの名前はソラで暗記している。そうだよ。外国人の名前をたくさん知っていることが自慢だった時代があったのだよ。
さすがにトニー・ザイラーの現役時代は覚えていないが、名前だけは知っていた。それこそ、中学生の頃から。
ザイラー氏は、「白い恋人たち」という映画に主演していた。私は、その映画のサウンドトラックのシングル盤のレコードを持っていた。45回転のドーナツ盤。フランシス・レイ。ああ、どうして私は毎度毎度思い出話ばかりを語っているのだろう。ここは特別養護老人ホームの昼食テーブルなのか?
とにかく、当時、アルペン競技のトップ選手は、そのまま世界のスターだった、と、そのことを私は言おうとしている。そう思って聞いてほしい。
グルノーブル大会のスターだったジャン・クロード・キリーの名前もよく覚えている。
競技の映像をナマで見たわけではないと思う。でも、’70年代を通じて広告や映画やニュース映像の中で、「キング・キリー」の名前は常に鳴り響いていた。
キリーのような存在は、現在では、誰に相当するのだろうか。
クリスティアーノ・ロナウド?
ちょっと違う。もう少しコマーシャル寄りだ。一時期のデビッド・ベッカム、あるいはF1ドライバーの立ち位置に近いかもしれない。キリーは、そういうファッショナブルでおしゃれで輝かしい存在だった。私が最も熱心にスキーを見ていた時代の最大のスター選手は、インゲマル・ステンマルクだった。
この人の滑りは、いまでも覚えている。とにかく速かった。そして奇跡みたいになめらかで優雅だった。
滑っているだけでBGMが流れてきそうな、そんな感じだ。
だから、ステンマルクの時代、冬季オリンピックの中継スタッフは、ステンマルクの姿を追うことを、第一優先として、放送番組を制作していた。
視聴者も同様。
日本人選手の活躍もアタマの片隅で期待していないわけではなかったが、画面で見たいのは、なによりステンマルクだった。まあ、ミーハーだったと言ってしまえばそれまでだが。
であるから、その当時、日本人選手の試合結果は、ダイジェスト版のニュースに委ねられていた。
「なお、○○競技に出場した○○選手は○位と健闘しました」
ぐらいなアナウンスとともに競技映像が5秒ほど。
「おお、やるじゃん」
それで終わり。それで十分だった。ことほどさように、日本人選手の動向は、注目を引かなかったのだ。それが、ある時期を境に、「ガンバレニッポン」というキャンペーンが打たれるようになり、オリンピック中継の基調低音は、愛国応援モード一色の暑苦しい方向の何かにシフトしていた。
それゆえ、たとえば前回のトリノ・オリンピックでは、男子滑降競技の決勝の中継が途中で中断された。
今井メロ選手が出場しているスノーボードハーフパイプの生中継とカブったからだ。
男子滑降決勝の中継を見ていた私は、驚愕したものだった。
「えっ? ダウンヒルを途中で切るのか? もしかして、NHKは、冬季五輪の華の、そのクライマックスの男子滑降決勝の映像を中断するのか? マジで?」
落胆と虚脱、そして怒りと悲しみ。
そうか、ダウンヒルの決勝より、スノボの予選なのか、と、そう思うと、もはやテレビを見続けるのが苦痛になった。いったい何のための受信料なのだ、とまでは思わなかったですがね。20世紀までは、冬季オリンピック中継のクライマックスは、誰が何と言おうとアルペン競技の決勝だった。日本人選手が出場していようがいまいが、だ。
それが、放送されない。
で、代わりに、スノボの予選中継が届いてきている。なんということだろう。今井メロ選手が、ジャンプの着地に失敗して、そのまま斜面をズルズルと滑落して行く様子が、ナマでたっぷり30秒上映されている。私はおぼえている。アナウンサーは「ああ」と言ったきり中継を投げ出し、解説者は、鼻息をひとつ吐いた後、言葉を発しなくなった。で、深夜のテレビ画面には無音の滑落映像が延々と流れていた。
「放送事故か?」
まあ、事故と言えば事故だ。はっきりしていたのは、NHKが、アルペン競技の決勝よりも、日本人選手の出場するスノーボードの予選を中継することを選んだということで、その結果があの映像だった。文句をつけてばかりで、なんだか自分ながらイヤになるのだが、この際だから胸のうちにあるつかえを一通りはき出しておく。
私は、フィギュアスケートの浅田真央選手を応援している。
がんばってほしいと思っている。
が、そう考えている一方で、彼女に対して、「真央」ないしは「真央ちゃん」と、名前呼びで語りかけるカタチの放送に、いまだに慣れることができないでいる。
あれはアスリートに対する態度ではないと思う。
安藤美姫選手は「美姫」と表記される。あるいは「ミキティ」と呼ばれる。
この呼び方も私は好きになれない。
安藤選手と、普通にそう呼んでほしい。スポーツメディアの中では、いつの頃からなのか、女子選手に対して、名字を省略することをもって「美人選手認定」とするみたいな、異様な風潮が定着している。
名前で呼ばれる選手は、それだけ国民に愛されていて、親しまれていて、娘のように扱われている、と、そういうことになるようなのだ。
で、私は、このマナーどうしても好きになれない。どうしてスポーツをパパ目線で見なけりゃならんのだ? ばかばかしい。女子選手が名前で呼ばれるようになった最初のきっかけは、現在は参議院議員になっている橋本聖子さんのケースだったと思う。
彼女の場合、「聖子」というその名前がそもそもキャッチーだった。
というのも、橋本聖子選手の現役時代は、松田聖子が国民的なアイドルであった時代とほぼぴったりとシンクロしているからだ。だから、「聖子」という名前は、それだけでちょっと特別な響きを帯びていたのだ。ひばり、小百合、百恵、聖子。テレビ視聴者の耳はこういう名前に弱い。国民的。記号的。あるいはお題目みたいなものなのかもしれない。橋本聖子選手の名前には、有名な謂われがあって、そのエピソードが広く知られていたことも、彼女が名前で呼ばれる理由のひとつになっていた。
その話とは、以下のようなものだ。
「橋本聖子は、東京オリンピックの直前に生まれ、《聖火》にちなんで、名付けられた。父親は、自分の娘をオリンピック選手に育てるべく、3歳の時からスケートをはじめさせ、以来スパルタ式の……」
どこまでが真実で、どこからが脚色なのか、ほんとうのところはわからない。が、とにかく、この良くできたエピソードはメディアによって全国に広められ、そんなこんなで、「五輪の申し子」と呼ばれた橋本聖子は、冬季、夏季合わせて7回のオリンピックに出場するという前人未踏の快挙を成し遂げたのである。以来、「聖子」という見出しが人目を引く(あるいは部数に直結する)ことを学習したからなのか、スポーツマスコミの内部では、注目度の高い女子選手に対して、名前のみの表記を採用する習慣が定着していったのである。
名前呼びのすべてが不自然だというわけではない。
たとえば、卓球の福原愛選手などは、小学校に上がる以前からメディアに登場していたキャラクターで、その意味で、どこからどう見ても「愛ちゃん」だった。
全国大会に登場した段階でも、まだ小学生だった。だから、彼女が「愛ちゃん」と呼ばれることは、別段不自然ではなかった。むしろ、小学生を「福原選手」と呼ぶことの方が、かえって白々しかったかもしれない。とにかく、以来、彼女は、「愛ちゃん」のままだ。成人式を過ぎても。
浅田真央選手が名前で呼ばれていることも、デビューが、中学生だったことを考えれば、それはそれで納得が行く話であるのかもしれない。私がなじめないでいるというだけで。男子選手でも、年齢が非常に若い場合は、名前で呼ばれるケースが無いわけではない。ゴルフの石川遼選手は「遼君」と呼ばれるのが普通だし、西武ライオンズのルーキー菊池雄星選手は、登録名からして「雄星」を名乗っている。つまり、アレだ。期待されている役割が「息子」のそれなのだね。全国民の息子。若いというのはそういうことだ。
でなくても、スター選手に理想の父親像を重ねる時代は、とっくの昔に終わっている。
さよう。たとえば、王長島の時代のスター選手は、少年誌の表紙に子供と一緒に写ることが多かった。なんといっても彼らは、子供たちの憧れの対象だったからだ。
が、石川遼君をはじめとする現代のアスリートは、むしろ大人の玩具になっている。だから遼君と一緒に写真におさまる面々は、財界人や政治家や有名司会者だったりする。彼のオーラは、おそらく、そういう人々にとって利用価値のあるものに見えるのだね。
とにかく、平成ニッポンのメディアとアスリートの間には、相手を子供扱いにすることを、すなわちサービスであると受け止めるみたいな気持ちの悪いなれ合いが介在している。それが私には気持ちが悪いのである。
オレらは、そんなに大人になりたくないのだろうか?
トシを取るということは、それほどまでに醜いことなのか?ゴルフの世界では、横峰さくら、上田桃子、宮里藍といったあたり面々が、それぞれ「さくら」「桃子」「藍」と、名前で呼ばれる常連になっている。
対照例をいくつか見比べるに、「若さ」と「美貌」と「実力」と「知名度」のすべてを兼ね備えていることが名前呼びにされる条件になっているみたいで、だから逆に名前で呼びかけることは、ある意味「一流認定」として機能しているみたいな、奇妙ななりゆきになっている。
たとえば、実力があって美貌でも、藍ちゃんや桃子ちゃんと比べてちょっとトシの行っている古閑美保選手は、本人のキャラクターが姉御肌であるせいもあってか、「美保」とは呼ばれない。「美保ちゃん」とも。「古閑選手」あるいは単に「コガミホ」と言われる。ひとかたまりの四文字名称として。
不動裕理選手の場合はさらにはっきりしている。メディアの人間は、ほとんど誰も「裕理ちゃん」とは呼びかけない。新聞も「不動」と書く。名前は書かない。むごいと思う。あんなに可憐なのに。結論を述べる。
要は安易な後追いがいけないのだ。
橋本聖子選手を最初に「聖子」と表記したどこかの記者は立派だった。良いところに目をつけたと思う。五輪における象徴的な選手に対していきなり名前で呼びかけるマナーは、唐突ではあったが、新鮮だったし、効果的だった。だからこそ、人目を引いたし、記事の印象度もアップしたのである。
福原愛選手を「愛ちゃん」と呼んだリポーターも、決して間違ってはいなかった。だって、6歳の愛ちゃんはどこをどう突っついても「愛ちゃん」としか呼びかけようのない存在だったから。
問題は、一種の禁じ手ないしは裏技であった名前呼びを、野放図に応用した後の世の追随者の安易な姿勢のうちにある。彼らは、滅多矢鱈と選手を名前で呼びはじめた。おかげで、メディアとアスリートの距離がデタラメになってしまった。さらに、視聴者とアスリートの距離感さえもがぐちゃぐちゃになった。で、一度崩壊した距離感は二度と元には戻らない。別れた夫婦は友だちには戻れない。友だちのふりをすることで一定の利得を得ることができる関係の人々は、そういう顔をしているが、無論のこと演技に過ぎない。スポーツメディアにおける名前呼びの蔓延は、芸能界の中に名字抜きで活動するタレントが増えたこととおそらく深いところで通底するものを持っている。「優香」「梨花」「小雪」「hitomi」「スザンヌ」。彼女たちは、画面に現れるなり、闇雲にこっちの娘(あるいは彼女?)であるかのようにふるまっている。
これらの芸能人について、私は、やはり名前で呼びかけるべきなのだろうか。
むずかしい。っていうか、無理だ。
「小雪が出てるCMでさ」
と、私は、自分の日常会話の中で、こういうしゃべり方をすることはできない。あまりにも気持ちが悪すぎて。
だから、まわりくどいようでも、私は
「ほら、《小雪》とか名乗ってる女優さんがいるだろ? その《コユキ》っていうタレントが出てるパナソニックのテレビのCM見てて思ったんだけどさ」
と、いちいち注釈をつけて語る。だって、面識もなければ肉体関係もない赤の他人に対して、やっぱりいきなりの名前呼びはできないからだ。私は、彼女の名前が出る度に《「こゆき」と名乗ってるあの般若みたいな笑い方のタレント》と、何度でもそういうふうに言い直す。私の側の責任ではない。自業自得だ。おそらく、名前呼びは、人と人との間にある緊張感をなし崩しにして行こうとする勢力と無縁でない。きっと、人間関係をだらしなくすることで利益を得る一派の人々がいて、彼らは、初対面の人間同士が無原則にタメ口をきくみたいな関係に商機を見出しているのだと思う。
でなくても、われわれは、全国民をあげて、子供であろうとしている。お互いを子供扱いにすることで、何かから逃れようとしている。そんな気がする。だから、いくつになっても自分たちを「女の子」と呼ぶ女性たちは、頑強に存在し続ける。
「あたしたち30代の女の子って」
というウソみたいな自称が特にとがめ立てされることもなく通用しているオフィスでわれわれは仕事をしている。
われわれはどうすれば良いのだ?
要するに、女性を大人として扱うことは失礼だ、と、そういうことなのか?
かといって、子供扱いも失礼。それはわかっている。
ということはつまり、オレらおっさんは、彼女たちが子供でいたい時と大人として遇されたい場合を犬みたいな嗅覚で嗅ぎ分けて、いちいち適切な対処をしないといけないわけなのか?
冗談ではない。
私はごめんだ。
こっちの立場を言っておく。オレは年老いた17歳だ。相手が誰であれそういうふうにふるまう。よろしくたのむ。昨年来流行している、「女子」「男子」という言い方にも、おそらく、こうしたピーターパンな気分があずかっている。
われわれは、永遠のクラスルームの中で生きている。あるいは、いつまでたっても放課後の気分から離れたくないのだ。それでもたとえば、「弁当男子」というネーミングは、それはそれでアリだ。よくできていると思う。
なにより、「弁当を持ってオフィスに来てしまう」という行動形態が、「男性」というより「男子」のそれを連想させるからだ。学生時代をそのまんまひきずっている生き方が、「男子」という言葉を呼び寄せた感じがして、その意味で、不自然に聞こえない。
つまり、「既存」の「カタにハマ」った、「マッチョ」で、「体育会乗り」の、「組織オリエンテッド」で、「ネクタイストラップト」な男性社員とは一線を画する、「自分標準」の、「個人主義的」で「合理的」で、「エコ」で、「ヘルシー志向」な、若い独身社員は、やはり、「男性」というよりは「男子」と呼ぶにふさわしいのである。良い意味でも悪い意味でも。その点、電通が最近言い出した「パパ男子」は、完全にスベっている。
http://www.dentsu.co.jp/news/release/2009/pdf/2009093-1222.pdf電通ともあろうものが、他人の作った流行に乗っかって、しかも見事に踏み外している。恥ずかしいことこの上ない。
「パパ男子」が、育児に積極的な父親を称揚せんと意図した言葉なのだとしたら、明らかに失敗している。
だって、揶揄している感じが漂っているから。
「男のくせに赤ん坊の相手なんかして」
「大の男がオムツ替えかよ(笑)」
という、どうにも前近代なオヤジの笑い声が鳴り響いてくる。
子育てに積極的な男性に対して、本当に賞賛する気持ちがあるのなら、もっと別の名前になったはずだ。
「パパ男子」という名称からは、商売に利用せんとする下心がうかがえるのみ。
ひどいセンスだ。テレビ局がセンスのないキャッチフレーズを付けるのは、これはある程度仕方のないことだ。彼らはテレビ視聴者と同じ目線で番組を作っている人々なわけで、してみると、あんまりハイセンスであってもかえって困ったことになるのだろうから。
でも、電通が野暮であってはいけない。
だって、電通は日本の頭脳が集まる会社なのだと、私などは、ある時期まで本気でそう考えていたのだから。
誤解だったのかもしれない。
でも、だとしても、私の知っている電通は「パパ男子」などというダサいキャッチフレーズを考えて、それをまた得意げにふりまわすテの会社ではなかった。
仮に何らかの流行を仕掛けるとか、トレンドを創造するとか、そういうことをたくらんだ場合でも、電通の皆さんは、自分が表に出てタクトを振り回す人々ではなかったはずだ。
裏方に徹して、もっとエレガントに、それでいて効果的なカタチで世論をリードしていたはずだ。
もしかして、電通をはじめとする、メディア企業は、ずいぶん前から、ダメな人たちの巣窟になっていて、オリンピックの中継がおかしくなってきているのは、そのせいなのかもしれない。
バンクーバーでは、メダルの数より、大人らしい放送に期待したいですね。ぜひ。
おそまつでした。ではでは。
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