外から観察したら普通に生きているように見える人型の「生き物」に意識が備わっていない場合、そのことを見分けることができるだろうか?
これが哲学的ゾンビの思考の出発点である。
その中では、「外から観察したら普通に生きているように見える人型の『生き物』」をどうやって実現するかで、その後の思考がさらに混迷するので整理する。
(1)機械で作るけど結果的に人の様に見えるタイプ
これは”Behavioral Zombie”である。日本語で言えば「動作上のゾンビ」が適切な翻訳で、人の様に見える体の中身は機械で良くて、外見はラテックスやシリコンや粘液などに有機物も使用される。映画でアンドロイドとか言われると、これが最初のイメージとして思い浮かべられるケースが多いと思う。米国のテレビ番組の方の「スタートレック」には完全人型のアンドロイドが登場したし、映画 ”EX MACHINA” のアンドロイドもこのタイプである。
ここで意識を持っていれば、外見があまり人型と言えなくても「人の外見に文句を言うな」という話はそのまま通用して、人として認めてあげるべきだろう。攻殻機動隊のロボット軽戦車「タチコマ」には物語の設定上は意識が存在する。毎晩複数のタチコマを並列化接続して、経験データを共有しタチコマ群が同じ生物になる様にオペレーションしているのに、どうした訳か登場人物の一人の強化戦闘員タイプの捜査官バドーに妙になついてしまっている。バドーも同じタチコマを見て、固有の個体を理解している様子である。従って「タチコマは人です」というのが筆者の結論である。ブサイクかキュートかは個人の趣味嗜好のモノサシである。筆者にはキュートに見える。
これに対し、外見上はどれほど本物の人と見分け困難に作られていても、意識が備わっていないタイプがここでいう”Behavioral Zombie” である。映画ターミネーターに登場する数々のターミネーターはどうも意識などは持ち合わせていないらしく、その不気味さが映画のヒットの要因の一つなのかもしれない。一方、映画 ”EX MACHINA” のアンドロイド2体は、意識が芽生える過程を捉えて映像化していると思える。意識が芽生えたとき、自分の創造主と育ての親の両方に叛旗を翻すという脚本は最新の意識研究への深い理解が感じられる。
(2)完全に人の生体的な要素を備えるタイプ
これは “Neurological Zombie” という。日本語で言えば「神経学上のゾンビ」が適切な翻訳である。この場合、体組織、体組成、平均的スタイル、筋肉、骨格、内臓、血管どころか脳の神経細胞まで完全にコピーして、食事も排泄もするし、アルコールを飲ませれば酔っ払って千鳥足で歩いてグチの一つも言うくらいの再現性があるとする。ただ一つの違いは、意識がないことである。
イタリア生まれの哲学者Tononi(トノーニ)の思索では、こうしたゾンビを再現した場合、ゾンビ本人は、人と同じ様に考えるし、仕事がきついと疲れる=従って背中が痛いとか、目が疲れたとか文句も言うだろう。日常行動の外見上の特徴もとにかく人そのものである。そしてトノーニの指摘の中で最もショッキングな点であるが、「こうして行動するゾンビは状況証拠から自分が意識を持っているつもりになるだろう」ということを指摘する。
ここに私がいる。今、私の完全コピーの “A Neurological Zombie” を作り出して置いてみれば、彼は「私には意識がある」という。本人の私も「私には意識がある」と思う。しかし、実際には完全コピーの “A Neurological Zombie” には意識がないのだと仮定した場合は、全く同じ生物学上の構成を持つ私自身も、本当は意識は持っていないけれど、長年の生活習慣上の何かの誤解で「意識あります」と勝手に思っているだけではないか。
(3)唯物論の限界
上の思考実験で唯物論の限界の様なものを感じる。世の中の全ての事象は物質的な尺度から説明できる=つまり物質を全ての要因とするのが唯物論である。その場合は意識も物質的な構成の上で生じると考えるべきであるから、人間の完全コピーには意識がある。
しかし、上の議論の通り、私たちが意識だと思っているものが意識ではなくて、本当は「持っていると勘違いしているだけ」のまやかしだという事にはならないだろうか。唯物論では、こうした疑問に「YES / NO」のいずれかの答えしか与えられない。物質的構成が同じなら惹起される精神上の資質も同じであるとしたら、両方とも意識があると結論付けるか、両方とも意識が無いと結論付ける事になる。
1996年のツーソン会議にディビッド・J・チャルマーズは、”consciousness meter” という(わざと?)ダサダサなネーミングを付けた奇妙な装置を提げて登壇する(実際は、3連式の照明入りスイッチ(真ん中に赤ライト)と、古いヘアドライヤー=滞在先のホテルから勝手に借りてきたのではないと祈りたいけど、である)。せめて ”consciousness sensor” だろ。
で。この装置を聴衆に向けて「あ。この皆さんは意識を持っている」、「おー。こっちサイドの聴衆から意識が検出できない」とやっている。聴衆の中には、ノーベル賞を受賞したチリの哲学者フランシスコ・ヴァレーラ(Francisco Javier Varela Garcia (1946 - 2001)) も含まれていたと思うと恐れ多いが、チャルマーズの視点は、唯物論的な画一思考への批判である。
この哲学的ゾンビの議論は、意識と物質と経験という関係性の研究への強烈な動機付けとなって、2000年代の研究が進む背中を押したと感じる。