- ピースロード三重県実行委員会
鈴鹿市 ピースロード三重 白子港にてTV初取材を受ける
最終更新: 8月1日
2020年7月26日日曜日、ピースロード三重のメンバーが津市から鈴鹿市の白子港 大黒屋光太夫モニュメント前に到着したところを、(株)ケーブルネット鈴鹿に取材頂いた(『ケーブルNews7月29日(水)放送号』)。この日のライダーは、日本人、韓国人、日本人と韓国人のハーフ、自転車は3台しかなかったのだが予備のライダーとして伴走車にはアフリカの方も待機していた。雨天の中、賛同者の方々、以前の縦走で平和の折り鶴を追って下さった方々等、20数名の方々が待っていて下さった。飯田一美実行委員長のメッセージを頂いた後、鈴鹿市民を代表して市議会議員の市川哲夫先生がピースメッセージを受け取って下さった。
白子港のモニュメントの主人:大黒屋光太夫とは、江戸時代後期の伊勢商人で、当時の伊勢国奄芸郡白子港を拠点とした回船の船頭。天明2年、江戸へ向かう途中で嵐のため回船が漂流し、当時のロシアに漂着、ロシア帝国の女帝エカチェリーナ2世にも謁見し、漂流から約9年半後に根室港入りして帰国している。鈴鹿市には大黒屋光太夫の記念館もある。
三重は朝鮮通信使の陸路ルートではなかったものの、白子港に、海を通じて朝鮮通信使の文化(または人そのもの)が来ていた。
その文化を、江戸と行き来していた大黒屋光太夫のような伊勢商人たちが船で運んでいた。
その痕跡は、おそらくは江戸で500人にもわたる朝鮮通信使の行列を観たであろう人々によって、津市分部町の唐人踊りとなり(2018津市縦走と講演会)、鈴鹿市東玉垣町のブンヨムサンの唐人踊りとなり(2018鈴鹿市縦走と講演会)、今も地域の保存会の人々によって貴重な伝統文化として受け継がれている(2019取材)。東玉垣町 唐人踊り保存会の和田佐喜男顧問もその一人であり、一度途絶えた唐人踊りを復活させて50年以上経つ。今も韓国の辛基秀(シンギス)先生の弟子の方々や関係者から連絡や贈り物が絶えず(2019縦走)、それをとても大事にされている。津市の唐人おどりも、鈴鹿市の唐人踊りも、学校で伝統文化を学ぶ授業に取り入れられている(玉垣小学校、2019縦走)。
今回は新型コロナウイルス感染症へのお寺の方針から残念ながら訪問がかなわなかったが、青龍寺には朝鮮通信使直筆の書が今も大切に保管されている(2019縦走)。
現在は市の文化財となって見る事はかなわないが、勝速日神社の祭礼に使われていたとされる朝鮮通信使の帳幕も、とても巨大なものだった。
朝鮮通信使の文化を、今も津市や鈴鹿市の方々は大切にしている。
その背景には、両国の「誠信交隣」の精神、信を通じ合うという精神があったからこそ、両国の協力によって朝鮮通信使は「ユネスコ世界の記憶」(世界記憶遺産)にもなった。
この日、鈴鹿市の縦走を志願したライダーの一人は、日本の女性と結婚した韓国人。鈴鹿市内で韓国語を教えている。兄が朝鮮通信使の再現行列に参加していたそうで、現代の朝鮮通信使ともいえるピースロードが鈴鹿に来る事を知って、不思議な巡り合わせを感じ、参加された。
勝速日神社の山下久夫宮司が由来を説明される中で、唐人踊りが奉納される牛頭天王神社との関連も話して下さった。牛頭天王神社は訪問予定であったが、普段は宮司がおられず、分社であり、彌都加伎(みずがき)神社のほうに行くとよいとの事。
勝速日神社を出発した後、雨がさらに激しくなり、ライダーを2名に。彌都加伎(みずがき)神社では、遠藤龍夫宮司が歓迎して下さり、由来を説明して下さった。
みずがきは、瑞籬(みずがき)村とよばれた名前が由来で、本殿側を守る瑞籬・瑞垣が神社の名前に、外側の垣・玉垣がこのあたりの地名となり残っているとの事。水害が多く水と関連ある神社だと思われやすいが実際に祭られているのは土御前で、佐官や土木工事に恩恵がある。付近の六社くらいがこちらの分社で、唐人踊り奉納の牛頭天王社もここの分社であるとの事。牛頭天王神社の宮司でもあるので、遠藤宮司にサイン旗にもサインをして頂けた事は貴重だった。その後、東玉垣町 唐人踊り保存会の和田佐喜男顧問をお尋ねし、縦走三年目のご挨拶をした。和田顧問に「雨にも負けず」とサインを頂きながら、唐人踊りと日韓親善を大切にされる絶えない情熱を感じつつ、ご健勝をお祈りした。
この日、本来は鈴鹿市を通過して四日市市内まで縦走する予定であったが、雨天のほかに、雷鳴も鳴り響くようになり、中断。30日木曜日の四日市からの縦走前に、鈴鹿市内の続きから縦走する事となった。