第51話 精霊の民の里へ
時は少し遡り、神聖暦九九九年、晩秋。
村を出たリオは街道から外れて人気の少ない森の中へと足を踏み入れた。
「
呪文を唱えて時空の蔵を使用すると、傍らに小さな灰色の空間の渦ができ、リオは青く光り輝く石を掴みとった。
それは転移結晶と呼ばれる霊具で、現在リオがいる座標から転移結晶の帰還地点として設定した原点座標へと転移できるという眉唾物の効果を有している。
「
今度は転移結晶を使用するべく、その発動キーとなる呪文を唱える。
すると青い虚空の渦がリオの身体を包み込んだ。
渦はリオを中心に半径3メートルほどの広がりを持っている。
次の瞬間、渦が消えると、リオの姿も消えて、気がつけば転移結晶で設定されていた原点座標の上に立っていた。
使用したのが初めてだったため、瞬時に景色が入れ替わったことに、リオが僅かに目を見開く。
視界に広がったのはどこか懐かしさを覚える風景だった。
「どうやら無事に帰って来たみたいだな……」
言って、リオは小さくほころんだ。
穏やかな木漏れ日の差し込む森の中、新鮮な空気を鼻で吸い込み肺を満たす。
手に持っている転移結晶は、内包していたオドを大量に失い、青から黒に近い色へと変わっている。
これでもうカラスキ王国まで一瞬で戻ることはできない。
急に遠くに離れ、リオは僅かに寂しさを覚えた。
「…………」
そんな感傷に僅かに浸りながら、リオは周囲の景色をぼんやりと眺めた。
現在地は精霊の民の里からほど近い泉だ。
この場所は霊脈と呼ばれ、マナの濃度が高い場所として知られている。
転移結晶の原点座標を設定するには、こうしたマナの濃度が一定以上の場所を選ばないと、転移に要するオドの量が格段に増えてしまうのだ。
「とりあえず顔を出すか」
既にリオがこの場に現れたことは感知能力の高い精霊の民には判明しているだろう。
オドを視認でき、オドとマナの感知能力も高い精霊の民は、それらの乱れを感じ取り、何らかの魔術か精霊術が用いられていることを推察できる。
他方で、オドの感知しかできず、オドの視認とマナの感知ができない人間族は、たとえ魔術や精霊術が用いられても、すぐ傍でないとそれに気づきにくい。
また、精霊の民の里には広域の魔術結界が敷かれており、一定量のオドを持った未確認の侵入者が現れると反応するようになっている。
他にも鼻の利く種族がいるし、感知能力に長けた精霊を使役している者もいる。
一定範囲に侵入者が現れればかつてのリオとラティーファのように瞬時に捕捉されることになるのだ。
リオが向かう先は精霊の民の里の中心街が存在する方である。
もう少し歩けば森の中に切り開かれた広大な農園が見えてくるはずだった。
土と水の精霊術を自在に操る精霊の民に育てられない作物などない。
種さえあれば、どんなに育て方が難しい植物でも、大樹の精霊であるドリュアスにその知識を借りて、育てることができる。
周囲の景色を楽しみながらリオは歩を進めていく。
「……ちゃん!」
どこか遠くから懐かしい声が響いた気がした。
リオが周囲を見渡す。
すると、声の主が見つかって――。
「お兄ちゃん!」
今度はハッキリと聞こえる。
彼女の声だ。
リオの義妹として心の中にいる少女。
その人物は気配を包み隠さずにリオのもとへ近づいてきている。
自分のことをこうやって呼ぶ人物は一人しか覚えがない。
リオは思わず顔をほころばせた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
そこには想像した通りの少女がいて、リオに向かってかなりの速度で走ってきている。
少女は満面の笑みを咲かせていて、リオも少女に笑みを向けた。
そうして彼女の姿を観察する。
少女、ラティーファはリオと会わない間にずいぶんと成長したようだ。
彼女はもうすぐ十三歳だったはずだ。
「ラティーファ」
近づいてきたラティーファに、リオは優しい声音で、その名前を呼んだ。
「っと……」
駆け寄ったラティーファがそのままリオに強く抱き着く。
やっぱり成長しているようで、身長も伸び、その身体つきはだいぶ女性らしくなっていた。
少し押されかけたが、肉体と身体能力を瞬時に強化して受け止める。
「ただいま、ラティーファ」
少女の温かさに懐かしさを覚え、リオは耳元で小さく囁いた。
「お帰りなさい!」
リオの顔を見上げ、ラティーファが満開の笑みを咲かせる。
「お兄ちゃんだ~!」
ラティーファがぐりぐりとリオの身体にその可愛らしい顔を埋める。
「お帰りなさい、お帰りなさい!」
「ああ、ただいま」
繰り返し告げる彼女の頭をそっと撫でてやると、リオはラティーファの背後に視線を向けた。
「サラさんもお元気そうで何よりです」
遅れてやって来た一人の少女にリオが挨拶を告げる。
背中まで伸びた綺麗な銀髪を風になびかせ、その透き通るような翠眼でリオを見つめていた。
彼女も少し成長したようで、ずいぶんと女性らしくなっている。
「あ、は、はい! お帰りなさい! リオさん」
リオに話しかけられ、まともに目が合うと、銀狼獣人の少女サラがどぎまぎとした様子で返事をする。
「どうかしましたか?」
そんな彼女の反応に、不思議そうな視線をやるリオ。
「あ、いえ、なんかリオさんの雰囲気がだいぶ変わったというか……」
以前から芯が強くてしっかりとしているように感じられたが、サラが見知っていたリオにはどこか儚い雰囲気があった。
今は一本筋が通ったような凄みが滲み出ていて、揺れのようなものが感じられない。
動きにも相変わらず隙がなくて、さらに強くなったんじゃないだろうか。
体つきもなんだか逞しくなっている。
じっとリオのことを眺めていると、再度、視線がぶつかり、サラはサッと目をそらした。
「そうですか? 身長はまぁ少し伸びたかもしれませんね。もうそろそろ打ち止めでしょうけど」
だらしなく破顔したラティーファを腕に引っ付けたまま、リオがサラに歩み寄る。
リオの身長は百八十センチを少し上回っているくらいで、近くからだとすらっとしているサラでも見上げる形になってしまう。
サラは至近距離からリオの顔を見上げた。
「身長も伸びたみたいですけど、なんていうかすごく大人っぽくなった気がします」
昔から落ち着いた雰囲気はあったが、当時はまだ外見にあどけなさがあった。
それに、旅をしている間に精神的にも成長したのかもしれない。
きっとそういうところが雰囲気に滲み出ているのだ。
サラはそう思った。
「他の皆さんは一緒じゃなかったんですか?」
「あはは、アースラ様の家にみんなで集まってお茶を飲もうとしている時に、転移魔術陣が敷かれている泉の方にオドとマナの揺らぎがあったのに気づいて、ラティーファが無我夢中に走り出しちゃったんですよ」
その時点ではオーフィアとアルマはまだやって来ていなかったため、サラだけがラティーファの後を追いかけてきたというわけである。
おそらくオーフィアやアルマもオドとマナの揺らぎを感じ取っていることだろう。
二人がリオを挟み込むように並ぶと、三人は自然と街へ向けて歩き出した。
「そうなんですか。お土産も買ってきましたから楽しみにしててください」
鈍い冬の日差しが照らす下、旅の話をしながら歩いていると、道すがら大勢の精霊の民達とすれ違うことになった。
サラとラティーファと一緒に歩くリオの姿を見て、多くの者達から好意的な声を投げかけられることになる。
「あ、リオ兄様なのです! 帰ってきたのですね。お帰りなさいなのです!」
「おー、リオの兄貴か。お帰り」
里に無数にある広場の一つを通りかかったところで、サラの妹であるベラと獅子獣人の少年であるアルスランが話しかけてきた。
「二人とも、ただいま」
人懐っこい笑みを浮かべるベラ。
アルスランは、ラティーファがリオにくっついている姿を見て、一瞬、僅かに複雑な表情を浮かべたが、リオの帰還を歓迎するように素直な笑みを浮かべた。
そんな二人にリオが微笑み返事をする。
ベラとアルスランも加わり歩を進めていると、自然にラティーファ達の友達が集まって来て、いつのまにかちょっとした集団が出来上がってしまった。
「お帰り!」
「あー、リオ兄だー!」
「帰ってきたの?」
「里のお外に行ってたんでしょ?」
「里の外ってどんな場所なの?」
「お土産はー?」
「リオお兄ちゃん背伸びた?」
外の世界に興味があるのか、少年少女達がこぞってリオに質問を投げかけていく。
「貴方達、一度にそんなに質問をしてもリオ様が答えきれないでしょ。少しは順番を考えて質問しなさい」
話が盛り上がり、わーわーと騒ぐ少年少女達を、サラが呆れたように叱責する。
それでも少年少女達の楽しそうな声が止むことはなく、にぎやかに集団は移動していく。
微笑みながら少年少女達に答えるリオの横顔をサラがじーっと眺める。
それは無意識の行動で、サラ自身どうしてリオのことを見つめているのかには気づいていない。
その時、一陣の風が吹いて、サラの頬を撫でた。
「リオさん、お帰りなさい!」
透き通るような美しい声が響くと、ふわりと白いワンピースを身に着けた艶やかな金髪の少女が舞い降りた。
天使の如き可憐な仕草で、にこにこと笑みを浮かべ、ハイエルフの少女オーフィアはリオを出迎える言葉を投げかける。
その可憐さにはますます磨きがかかっていて、彼女も少し成長したようだ。
「はぁはぁ、リオさん、お帰りなさい。お久しぶりです」
オーフィアとは別の方向から、少し遅れて、薄い褐色肌の小柄な赤毛の少女もリオに声をかけてきた。
リオのもとまで走って来て、エルダードワーフの少女アルマは僅かに息を弾ませている。
ドワーフである彼女だけはまったく外見は変わっていなかった。
いや、ちょっとだけ顔つきが大人っぽくなった気がしないでもない。
「二人ともただいま戻りました」
視線が交差し、三人が薄く微笑む。
そのままオーフィアとアルマも合流して一行は長老達が勤める官庁施設へと向かう。
施設の近くまで移動すると、少年少女達と別れる。
建物の前まで行くと、長老陣がリオのことを待ち構えていた。
「久しいな、リオ殿。よくぞ帰ってきた」
相も変わらずの悠然とした口調で、最長老の一人であるシルドラがリオを出迎える言葉を投げかけた。
「……はい。ただいま戻りました。お久しぶりです、みなさん」
答えながらも、総出で出迎える彼らに、リオはきょとんとした顔を浮かべた。
「ん? どうしたかね?」
そんなリオの表情の変化に気づき、シルドラが尋ねる。
「いえ、まさかこうして皆さんが総出で出迎えてくれるとは思ってなくて。少し気恥ずかしく思いました」
どこか照れたように、リオが曖昧な笑みを浮かべる。
「ほほ、それもこれもリオ殿の人徳によるものじゃて」
愉快そうな笑みを浮かべてラティーファの曾祖母であるアースラが言った。
「ありがとうございます」
はにかんでリオは頭を下げる。
「ずいぶんと逞しくなったじゃねぇか! 顔つきも男らしくなったぜ!」
晴れやかな笑い声を響かせて、エルダードワーフの最長老ドミニクが言った。
近くへやって来てガシガシとリオの腕を叩いてくる。
「ふむ、まぁ積もる話もあるだろう。とりあえず腰を落ち着けることのできる場所へ移動しよう」
シルドラの提案を受け、それからリオ達は官庁施設であるツリーハウスの上部に設置されたオープンテラスに移動することになった。
そこでお茶会が行われることになる。
メンバーは最長老の三人に、ラティーファ、サラ、オーフィア、アルマだ。
テラスに置かれた大きな丸テーブルの上にはお茶請けのお菓子。
それぞれが椅子に座ったところを見計らって、オーフィアがお茶を運んできた。
ティーコージからティーカップを取り出し、ポットからお茶を注ぐ。
「さぁ、冷めないうちにどうぞ」
にっこり笑ってオーフィアがお茶を配っていく。
テラスに微かな微風が吹きこみ、湯気とともに香りが広がると、リオは思わず顔をほころばせた。
「それではお言葉に甘えて……」
言って、リオが紅茶を口に含む。
瞬間、口の中を力強い味が侵食した。
「相変わらず見事なお手前で」
しっかりと茶葉が開き、紅茶の濃度と味もムラなく均一に仕上がっている。
「えへへ、今度はリオさんの淹れたお茶が飲みたいです」
照れくさそうな笑みをオーフィアが浮かべた。
リオも笑って応える。
「このパン? ですか? 甘くて美味しいですね! 中身の具がなめらかなのにすごいしっとりしてます」
どこか独特な二人の世界が構築されたところで、脇からその様子を眺めていたアルマが少しムッとした表情でその存在感を主張するように口を挟んだ。
彼女の口にはリオがお土産として持ってきたヤグモ地方のお菓子が入っている。
「本当、チョコとはまた違った上品な味付けですね」
お菓子をお行儀よく口に入れ、その味を噛みしめると、サラも顔を輝かせて間髪を容れずに同意した。
「これはこれは、儂はチョコよりもこっちの甘さの方が好きじゃな」
アースラもその味に顔をほころばせる。
「うむ、甘味は苦手だが、これなら食べられそうだ」
「酒には合わんが、なかなかいけるな」
シルドラとドミニクも饅頭を口に入れると、目を丸くして感想を述べる。
「それはヤグモ地方にある饅頭という高級菓子で、中身は小豆と呼ばれる植物の実を餡にしたものです。レシピを教わったので自作してみたんですが、お口に合ったようで何よりです」
彼らの反応の良さにリオが嬉しそうに笑みを浮かべる。
「色んな料理に応用できそうですね。特にパンとの相性が良さそうかな。紅茶にも合いますね」
言いつつ、饅頭に手を伸ばし、ぱくりと一口で頬張るオーフィア。
しっとりとした食感と甘みが咀嚼するごとに口の中に広がり、思わず顔がほころんだ。
「ええ、この小豆餡をパンの中に入れるだけでも美味しく食べられますよ。小豆の種も持ち帰ったのでこちらで栽培してみてください。あちらの茶葉とその植物の種もお土産として持ち帰ってきました」
「やった、頑張って育てますね! それに小豆餡の作り方も教えてください!」
にっこり笑って、オーフィアが返事をする。
「はい。近いうちにシュトラール地方に向かおうと思っているのですが、その前でよろしければ」
言って、少し冷め始めたお茶を再度、口にする。
「ええ!? お兄ちゃん、また里を出て行っちゃうの? それにシュトラール地方って……」
ラティーファがリオの言葉に食いつく。
行き先がシュトラール地方だと聞いて、不安そうにリオを見つめた。
「ああ、ちょっと人探しをしなきゃいけないんだ。昔の知人に用事があってな」
苦笑して、リオが答える。
「むぅ……」
「ふむ、となるとこの里にはどれくらい滞在するつもりなんじゃ?」
心配そうに唸るラティーファの横からアースラが尋ねてきた。
「そうですね。一か月程度で出ようかと思っています」
「となると年内にはこの里を出ることになるのかな?」
リオが新たに旅立つことについて異論はないようで、その詳しい理由を尋ねてくることもない。
里の内部情報を知っているリオを自由に行動させているのは、リオへの信頼の表れだろう。
「そのつもりです」
「そうなるとラティーファはその間に甘えておかないといかんの」
その頭を撫でてやりながら、困ったように笑って、アースラはラティーファに語りかけた。
「うん」
不承不承ながらも頷き、ラティーファはリオへ熱い視線を送った。
これはどうやって甘えようかとあれこれ考えている時に浮かべる表情だ。
この顔を見るのも久々だなと、リオは口元をほころばせた。
「じゃあ、そろそろ皆さんにお土産を配ろうかと思います。まずはシルドラさんから――」
努めて明るい声を出して、リオは話を持ち出した。
場の雰囲気を明るくするため、旅をしている間に購入したお土産を配っていくことにしたのだ。
どんな品なのかを説明しつつ、そこから土産話に花を咲かせ、リオ達は大いに語らいあった。
☆★☆★☆★☆
こうして里へと戻って来たリオであったが、精霊の民と過ごす日々はあっという間に過ぎていく。
約束通りオーフィアと一緒にお菓子を作ってお茶を飲んだり。
サラやウズマに混ざって里の戦士の戦闘訓練に参加したり。
ラティーファと一緒に里の子供達に混ざって遊んだり。
アルマやドミニクと一緒に酒を飲んだり。
期間限定で料理教室を再開したり。
里全体へのお土産として持ち帰った作物、果実、茶樹の種を配って、ドリュアスに里の気候風土に合った育て方を教えてもらったり。
「おーし、じゃあ! 次はそっちの岩を固定するぞ! そっちの露天風呂は後まわしだ!」
そして、里にいる一ヶ月の間にリオが精力的に取り組むことにしたのが自分の家造りである。
いつかどこかで定住する際に利用できることを視野に入れているのはもちろんであるが、その主目的は移動中の旅住まいとして利用することであった。
長距離の旅の間はリオの移動速度をもってしても野営せざるを得ないというのがこの世界の実情である。
野営となると食事を作るのは不便だし、風呂は入れないし、睡眠中も気が休まることはないし、ストレスが溜まることが多い。
しかし、そんな状況でもより快適な環境で過ごしたいと思うのが人間というものだろう。
だったら輸送可能な家を作ればいいんじゃないか。
時空の蔵に収納すれば大きな家でも簡単に持ち運ぶことはできるのだから。
そのことにリオが気づいたのはヤグモ地方を転々としている頃のことであった。
また、シュトラール地方で行動する際に都市以外に本拠地を構えられるのは悪くない。
今回、里に帰還したリオはその間に家を作ることを大きな目標の一つとして掲げていた。
里のドワーフ達の手を借りて作業は急ピッチに進められていく。
リオの発案した家は岩を素材としたもので、野営の際に自然環境に溶け込めて、外敵からの攻撃も防げることをコンセプトに置いている。
自ら造りたい家の概要を説明していくと、ドワーフ達も職人魂を刺激されたようで、遊び心を取り入れつつも全力で作業に取り組んでくれることになった。
彼らは土の精霊術を活用して恐ろしいスピードで岩を加工していく。
見た目は非常に無骨でただの岩にしか見えないのだが、中は素晴らしく快適な生活空間が出来上がっているところだ。
「このサイズの岩だと予定よりも室内の部屋数を増やせそうですね」
「ああ、どうせなら嫁がたくさん住めるような家を作るつもりだ!」
製作の指揮をしながら話し合っていると、ドミニクが豪快に笑って答えた。
「あはは……」
ドミニクは事あるごとにリオに一夫多妻を勧めてくる。
どういう意図があってそんな真似をしているのかは掴みかねているのだが、彼自身も四人の妻がいるのが関係しているのだろうか。
リオとしては現時点でそんな気はないので、毎度控えめに返事をするしかなかった。
(いや、まぁ、住みやすい家になる分にはかまわないから、好きにさせておけばいいか)
作業ペース的に家の完成は里を出発するまでの間には十分に間に合う。
リオは開き直ってドミニクの作りたいように作らせることにした。
すると、ドミニクだけでなく他のドワーフ達もずいぶんと熱が入っているようで、どんな家がいいのかあーだこーだと議論を重ねていく。
そのうちどんどん熱が入って行って、家自体に隠蔽用の結界魔術をかけたり、家具も特注で作ってもらったりと、なんだかもうリオが申し訳なってくるくらいで。
出来上がった家は一人で暮らすには広すぎるなんてレベルじゃないものになってしまった。
「は、はは……。ありがとうございます」
こうしてリオが里に滞在する日々は終わりへと向かっていく。
本当にあっという間の一か月だった。
☆★☆★☆★☆
里を出発する前日の夜、リオはアースラの家のバスルームにいた。
顔を洗い、身体を洗って、髪を洗うと、風呂に浸かる。
「はぁ……」
今日は里の子供達を連れてピクニックへ向かった。
子供達の相手は嫌いではないが、旅、鍛練、単純な肉体労働とは違った種類の疲れが溜まりやすい。
その疲れを吐き出すように大きく息を吐くと、リオはぼんやりと天井を見上げた。
明日にはこの里を出発することになる。
いつまでもこの里にいられたら幸せなのだろう。
だが、リオにはやるべきことがある。
この束の間の幸せに溺れているわけにはいかない。
気持ちを入れ替えなければ――。
「お兄ちゃん、入っていい?」
リオの顔から感情が消えかけ、そうやって考え事をしていると、脱衣所の方からそんな声が聞こえた。
「ああ……」
何も考えずに反射的にリオが答えかけると――。
「え?」
我に返り、リオは入り口に視線を送った。
スッとバスルームの扉が開く。
中に入ってきたのは――。
「えへへ」
恥ずかしそうにはにかむ狐獣人の少女ラティーファだった。
「な……な……」
開いた口が塞がらず、リオは目を丸くして慌てふためく。
薄橙色の長い髪を結んで演出された艶やかな白いうなじ、慎ましやかながらもタオル越しに感じさせる小さな膨らみ、スレンダーながらもバランスのとれたウエストとヒップ、さらには健康的で細く引き締まった白い素足。
ラティーファは十代前半の少女とはいえ、女性らしい魅力を放ち始めていた。
「ラ、ラティーファ! 何をやってるんだ!?」
泡を食ったようにリオが叫ぶ。
普段は決して見せることのないリオの動揺した姿に、ラティーファが思わず嬉しくなってしまった。
妹ではなく、異性として自分を見てもらうこともできるんだと、実感できたからだ。
だが、恥ずかしいことに違いはない。
そう、凄く恥ずかしい。
「えっとね、お兄ちゃんの背中を流したいなと思って……、ダメ?」
小首を傾げて、ほんのりと顔を火照らせたまま、ラティーファは尋ねた。
抱え込むように両手で身体を引き寄せ、もじもじと恥ずかしそうにリオを見つめている。
「ダメって、ダメだろ。今すぐ出て行かないと」
慌ててラティーファの身体から視線を外し、リオが答える。
若干混乱しているせいか、口調が早い。
「うぅ、私だって恥ずかしいけど、お兄ちゃん、明日には里を出て行っちゃうんだもん……」
声を震わせて、拗ねたような口調でラティーファは呟いた。
しゅんとした顔を浮かべて、窺うようにリオを見ている。
「いや、でもな……」
「今日だけ! お願いします!」
拒絶の言葉をかけようとしたところで、ラティーファが慌てたように被せてきた。
彼女としてもここまで来たら引くに引けないのだ。
「いや、けどさ……」
戸惑い顔でリオが拒絶の言葉を投げかけようとする。
「とにかくダメだよ」
上手い断り方が見つからず、そんな言葉しか出てこない。
「むぅ、じゃあこのまま帰らないでお話をし続けるよ!」
少し頬を膨らませて、ラティーファは徹底抗戦の意志を示した。
そう言って、近づいてきたラティーファの素肌が視界に映り――。
「わかった、わかったから! 背中を流すだけだぞ」
慌ててリオは承諾の返事をしてしまった。
観念したようにリオが溜息を吐く。
「えへへ、やった! じゃあこっちに来て!」
にこっと笑って、ラティーファがはしゃぐ。
背中を流すくらいでそんなに嬉しいものなのかと、リオは微笑ましげに彼女を眺めた。
「じゃあ、出るから」
「うん」
ラティーファに視線を外してもらって、リオが湯船から上がる。
そのまま腰にタオルを巻くと、リオはラティーファに背を向けて風呂椅子に座った。
「えっと、じゃあ、いきます」
タオルを泡立てると、ラティーファはおそるおそるリオの背中を洗い始めた。
先ほどはあんなに積極的に迫って来たというのに、緊張しているのか、擦る手つきはぎこちない。
痛いというわけではないが、少し力が入りすぎているかもしれない。
バスルームの中にしばしの沈黙が降りて――。
「……やっぱりお兄ちゃんの背中大きくなったね」
やがてラティーファが感慨深げに呟いた。
「そうかっ……」
返事をしようとすると、いきなり、柔らかな感触が背中に押しつけられた。
後ろから囲い込むようにリオに抱き着いてきたのだ。
リオの背中がびくっと跳ねる。
タオル越しにラティーファの体温を感じ取れた。
湯船につかっていないため、地肌の部分は冷たい。
頬がくっ付きそうなくらいの位置にラティーファの顔があった。
「ラ、ラティーファ?」
身体を硬直させたまま、リオがラティーファの名前を呼ぶ。
「……えへへ、気をつけてね。お兄ちゃん。あの国に戻るんでしょ……」
数瞬の間を置いて、ラティーファが答えた。
その声と身体は小さく震えている。
彼女にとって、シュトラール地方には、特にベルトラム王国には良い思い出がない。
あの地には凄惨な思い出しかないのだ。
リオがいったいあの地に戻って何をするというのか。
ラティーファは自分のことを心配しているのだろう。
リオはそう思った。
「……大丈夫だ。どれくらいかかるか、分からないけど、定期的にこっちには帰って来るつもりだから」
安心させるように優しく言うと、手を伸ばし、そっとラティーファの顔を撫でる。
その手に伝わる温もりに、リオがそっと顔をほころばせた。
「……行ってくるよ、ラティーファ」
言って、リオは気持ちを引き締めた。
人間族の世界で旅をしていればリオはこの手で人を殺すことになるかもしれない。
この里の中と違って、あそこは悪意で満ち溢れている。
少なくともルシウスを見つければこの手で殺すつもりだ。
けど、それがどうしたというのか。
もうとっくに覚悟は決めた。
そんな世界でも歩いていくと。
その時、何か失うものがあるとしてもそれは変わらない。
たとえこの手に伝わる温もりが離れて行っても……。
そんなことを考えていると――。
「あのね、私はどんなお兄ちゃんでも大好きだよ。だから、行ってらっしゃい」
なんて、リオの心を見透かしたように、聖母めいた笑みでラティーファが言ってきて――。
「……ありがとう」
リオはその手を強く握りしめた。