第37話 決意の日
翌日、村の中では昨晩の事件の話題でもちきりであった。
朝、目覚めて、外を出歩くと、村人達は広場で珍妙な光景を目にする。
広場にゴンとその連れ合いの男達が晒し者として拘束されていたのだ。
彼らは羞恥心で顔を真っ赤にしていた。
すぐ側にはハヤテの部下である男が見張っており、やって来た村人達に事の推移を説明する。
彼らがルリに対して強姦と覗きを企てたと聞くと、村人達は決まってゴン達に憤怒の視線を投げつけた。
だが、その後、リオとハヤテの活躍でルリの貞操が無事に守られたことを聞き、安堵する。
続けて、ゴンはリオに徹底的に痛めつけられ、他の者達と一緒に冬の近づいた秋の夜空の下に放置され、凍えそうな思いで夜を過ごしたということを聞き、溜飲を下げた。
正式な処罰は今後の話し合いで決めることになるが、いずれにしても主犯のゴンには決して軽くない罪が科されることになるだろう。
その日、村人達は、リオとすれ違うと、そろって良くやったと声をかけた。
ゴンが行ったのは夜這いだ。
それは、性交を目的として、男が夜中に寝ている女のもとを訪れて求婚する、という村社会にはよくある風習である。
お互いの信頼関係があることを前提に、夜這いされた女が性交を承諾すれば婚約関係が成立する。
だが、女性が断った場合は大人しく男は帰らなければならない。
今、リオがいるカラスキ王国は、シュトラール地方とは異なり、一夫一妻制度の国である。
例外は世継ぎを生まなければならない極一部の特権階級にしか認められていない。
だから、一度、男女間で既成事実を作ってしまうと、よほどの理由がない限りは、その相手と添い遂げなくてはならないという暗黙の慣習がある。
それだけに未婚の女性が処女であるという事実は重い。
それは生涯ただ一人の異性に捧げるべきものという社会的認識が共有されているのだ。
それゆえ、カラスキ王国において、強姦は殺人や放火と同列に語れる重大な犯罪であった。
ましてや、夜這いにおいて強姦を仕掛けるなど、許されざる悪行として忌避されるべき行為である。
今回、ゴンは脅迫を行い、夜這い制度を利用し、ルリに強姦の事実を秘して同意が存在したことを認めさせようとしていたのである。
彼の犯した罪が重いのは明白だ。
幸い今回の事件は未遂で済んだことから、ルリの貞操が奪われることはなかった。
だが、心に深い傷を負ってしまったことは絶対に許すことはできない。
今、広場に晒されているゴンに、自らの腕力に自惚れて道を踏み外したゴンに、同情の視線を向ける者などいない。
ゴンとその他の覗き魔達が仕出かしたことに対する処罰については、ゴンの村の村長を呼び出して話し合いの席を持つことが決められた。
現在、この村に滞在していた者達に、一度帰還して村長を呼びに戻らせている。
数日後には話し合いをしてゴン達の処罰を決めることになるだろう。
話し合いの末にどのような処罰を加えるかは決まっていないが、強姦をした者が和解や仲裁で慰謝料のみで済んだという話など聞いたこともない。
自分達の手で裁くにしろ、国に突き出して裁いてもらい犯罪奴隷にするにしろ、ゴンの未来は明るくないだろう。
それに、もし裁判を行うというのであればハヤテが証人になるということを確約してくれている。
ゴンの処罰はほぼ決まったようなものであった。
村の中に噂が広まっている頃、ユバの家では朝食を食べ始めるところであった。
「さぁ、みなさん、食べましょう。朝食ですよ」
努めて、明るく、リオが告げた。
まるで憑き物が落ちたように、昨日の激情が嘘であったかのように、リオは普段通りであった。
「う、うん……」
「う、うむ……」
「あ、ああ……」
暗闇の中とはいえ、昨晩のリオの様子を目の当たりにしていたことから、ルリ、ハヤテ、ユバの三人は、戸惑ったように返事をした。
自らの態度が彼女達を困惑させている。
そのことを、リオは、いつもの如く、機敏に察した。
思わず後ろめたさから顔を歪めてしまいそうになる。
だが、リオは何とか苦笑することで誤魔化した。
自分達が表面上だけでも元通りの関係になるには、今、ここが最大のチャンスだと思ったから。
「みなさん昨日は取り乱してしまい本当に申し訳ありませんでした」
昨晩の件について、何の謝罪もせずにうやむやにしてして終わらせることができるとは、リオも思ってはいない。
困惑、不信、心配、どのような感情を抱せてしまったにしろ、リオが彼女達に大きな迷惑をかけてしまったことに違いはないのだ。
特にルリに対してかけた迷惑の程は量り知れない。
ゴンに襲われて怯えていたところに、助けるどころか、追い打ちをかけるように場をかき乱して怯えさせてしまったのだから。
だから、今、このタイミングで、きっちりと彼女達に謝罪を行うつもりだった。
その謝罪の念に嘘はない。
できれば今後とも彼女達とはいつも通りの関係を構築したい。
心の中に僅かな疑惑や心配が残るかもしれないが、少なくとも表面上だけは日常を取り戻したかった。
迷惑をかけてしまったのは自分だから、自分からその関係を修繕するように積極的に動かなければならない。
リオはそう思った。
リオの謝罪はいきなりの不意打ちでしかなかったが、その勢いは大切だった。
下手に腫れ物に触れるような対応をしても、余計な心配をかけてしまうだけだろうから。
「はぁ……、ルリが大丈夫だというのなら今は私から言うこと何もないよ」
「そうだな。ルリ殿が許すというのなら拙者からも何も言うことはない。あの時、リオ殿が殴っていなかったら、拙者も自分の怒りを抑えられていたかはわからぬしな」
小さく溜息を吐くと、ユバがルリに視線を送りながら言った。
ハヤテもそれに続く。
「リオは……もう大丈夫なの?」
どこか心配するような、それでいて核心に触れるのを
「はい。自分のことよりもルリさんに迷惑をかけたことが問題です。昨日は怯えさせてしまい申し訳ありませんでした」
自分の件については語ることはなく、言って、床に頭が付いてしまうのではないかというくらいに深く、リオは頭を下げる。
「う、ううん。リオは私を助けてくれたんだし……。その、確かに少し怖かったけど、リオは私のためにあんなに怒ってくれたんだと思うし。だから、私は大丈夫だよ」
僅かに口ごもりながら、ルリが言った。
まだ、どこかぎこちなさは残っている。
完全に元通りというわけにはいかないのだろう。
当たり前だった。
彼女の心境がいかなるものなのかについて、リオは知りようがない。
だが、決して良い状態でないことはたしかである。
これも自分の行為がもたらした罪の一つだ。
その罪をリオは背負わなければならなかった。
リオは改めて自分の行った行動の責任の重さを感じ取る。
「本当に申し訳ありませんでした」
強い謝意を感じさせる声で、今一度、リオは謝罪の言葉を口にした。
あとは今後の行動で彼女達の信頼を取り戻すしかない。
それから、一同は食事を開始し、何とか平穏な朝の風景を
食事を食べた後は、ハヤテは午前中には次の村へと向かわなければならず、税となる作物を馬車に積み込む作業を指揮しに行った。
他方で、リオは村の仕事を手伝いに外へ出る。
そんな中、ユバの計らいにより、ルリは今日の仕事は休むこととなった。
ハヤテの出発の準備が整ったところで、村の中に連絡がいきわたり、リオやルリはその見送りにと村の広場に集まった。
別れの挨拶を交わすにあたって、ハヤテはリオへと声をかけてきた。
「その、リオ殿にはルリ殿のことを気にかけてやってほしいのだが、頼めないだろうか?」
と、どこかやるせない心残りを抱いているような表情で、ハヤテが言った。
ハヤテとしてはルリのことが心配で仕方がないが、国から課された大切な職務を放棄することもできない。
それゆえ、リオに頼むことしかできない無力さに、心を締め付けられているのだろう。
その言葉にはとても真摯な想いが込められていた。
「ええ、もちろんです」
そんなことは、頼まれるまでもなく、当たり前のことだ。
リオは即座に力強く返答した。
「彼女は何やら昨晩のリオ殿のことを気にかけていたようだ。まだ出会って間もない拙者が聞くことでも言うことではないのかもしれないが、あまり彼女に心配をかけないでやってくれ」
「はい……。心して気をつけます」
「うむ、かたじけない。リオ殿とはまた語らいたい。いずれ逢おうではないか」
ハヤテは安らかな笑みを浮かべた。
リオは深く頭を下げる。
そして、固い握手を結んだ。
「ハヤテ様」
と、二人の会話が終わったことを見計らい、ルリがハヤテのところへやって来た。
「これは、ルリ殿……。いかがなされたかな?」
「あの、これ……」
ルリに向けて晴れやかな微笑を浮かべるハヤテ。
すると、どこか気恥ずかしそうに、ルリは手に平に納まるほどの小さな袋を差し出した。
「これは?」
と、ハヤテが不思議そうな顔で袋を見て言った。
「えっと、お守りです。急いで作ったのでちょっとほつれちゃってますが。その、旅の安全を祈願しようと思いまして」
ルリが渡したのはこの国独特のお守りだった。
小さな袋の中に、名前を刻んで、自分の半身を現す木の板を入れておくのだ。
こうすることで持主に何か身の危険があった時に身代わりになってくれると伝えられている。
「っ、こ、これは! かたじけない!」
その慣習はハヤテも知ってはいるが、まさかこれがそうだとは露も思っておらず、慌てながらも嬉しそうな表情を浮かべた。
感激したように、僅かに震えた手で、そのお守りを受け取る。
「い、いえ。昨日は一晩中側にいてくださりましたから。そのお礼です。こんなことしかできませんけど……」
「そのようなことはない! 最高の餞別となった。これをルリ殿と思って生涯大事にしよう!」
今にも小躍りしかねないような勢いで、何やら告白と間違えられてもおかしくない言葉を、ハヤテが力強く述べた。
もっとも、本人は自分の言っている言葉の意味に気づいていないようであるが。
そんなハヤテの様子に、照れたように、ルリは口元に微笑を浮かべた。
「拙者からも何か贈り物ができればいいのだが……。すまない。次に来る時までに必ず何かを用意しておこう。その、決して心の傷は軽くないとは思うのだが、心を強く持って生きてくれ。拙者に出来ることであれば何でもしよう。何かあったら王都にある我が家を訪ねてきてくれ」
「はい。ありがとうございます。……それでは、お気をつけて」
言って、ルリはお守りを持つハヤテの手をそっと握りしめた。
思わずハヤテは顔を真っ赤にする。
そうして硬直してしまいそうになったところに――。
「さて、私からもよろしいですかな? ハヤテ殿、王都に戻ったらこの手紙をゴウキ殿に渡してくださりませんかな?」
と、言いながら、ユバがやって来た。
我に返ったように、ハヤテはビクリと身体を震わせ、ユバに向き合った。
その様子にユバは僅かに愉快そうな微笑を浮かべた。
軽く咳払いをして、ハヤテが差し出された手紙を受け取る。
口頭ではなく、貴重な紙を用いて手紙を書いたということは、それなりに重要な案件なのだろろう。
「父にですか? ええ、お届けいたしましょう」
「助かります。大事な手紙ですから、くれぐれも無くさぬよう気をつけてくだされ」
「承知した」
念を押すユバに、ハヤテは真面目な面持ちで手紙を受け取る。
「ご馳走も頂き、今回は誠に世話になりました。心より感謝します。それでは、また会いましょう。達者で!」
受け取った手紙を大切そうに懐に忍ばせると、ハヤテはその場にいた者達に別れの挨拶の言葉を告げた。
そのまま精悍な顔つきを浮かべたかと思うと、ハヤテは踵を返し、移動に用いる馬に乗った。
黒い体毛とその巨体から相当な迫力を放つ名馬だ。
走ればさぞ早いことだろう。
とはいえ、並走する馬車に速度を合わせるため、その歩みはゆっくりとしたものになる。
ハヤテが馬に乗ったのを確認すると、御者が馬車を走らせる。
カタカタ、と車輪が音を立てながら、ゆっくりと村の外へと向かっていった。
そんな馬に乗って去っていく彼の後姿をリオ達は微笑みながら眺めていた。
☆★☆★☆★
そして、それから二日後。
現在、村にはゴンの村の村長と交易隊の渉外役の男が呼び出されていた。
もちろん、用向きは今回の事件についての抗議とゴン達の処遇である。
村の中で犯罪を引き起こしたとはいえ、彼らは余所の村に所属する者達だ。
別にそれを無視して、こちらの裁量で私刑を科すなり、国に突き出して公刑を科してもらってもよい。
だが、それでは後々苦情を言ってくる可能性もあるため、一応、相手の村に配慮したというわけだ。
「今回の件、あんたらはどう落とし前をつけるつもりだい?」
共通の認識を作り上げるために、最初に一通りの事の顛末について語ると、不機嫌さを露わにした声で、ユバが尋ねた。
「うむ、俺としてもあいつらには困り果てていた……。今回の件については申し訳ないとは思うが不幸な事故だった」
「へぇ、あんたはゴンの父親なわけだけど、その非を認めるということでいいんだね?」
妙に落ち着いたゴンの父親である村長の対応に、ユバは眉根を寄せて言った。
「それとこれとは別だろう。あいつの処遇に関してこちらから言うことは一切ない。だが、あいつももう成人した大人だ。そんなあいつの行動の責任を俺達にとれと言われても困るんだが……」
「なんだと?」
それは実に落ち着いた口調だった。
だが、言っていることは自分勝手極まりない。
そんな言葉にユバは怒気のこもった声を出した。
脇でその話を聞いていたリオはゴンの父親の言葉に内心で呆れている。
確かに、成人したら自分の責任を自分で取るのは当たり前で、彼が自分勝手な人格を形成して育ったのも、最終的には彼自身の責任であることは確かだ。
だが、そのきっかけを与えてしまったのは村の大人達にも一因はある。
村の中でも腫れ物扱いされて育ってきたゴン。
それを叱ることなく放置すれば、ああいった性格になるかもしれないということは容易に予想できたはずだ。
そう、ゴンをあんな風に育ててしまったのには、後継ぎの長男ばかりを優遇してきたゴンの父親の教育方針も少なからず関係しているのだ。
それを開き直って知らんぷりをするというのはなかなかに神経の図太い男であった。
まぁ、これくらいでないと村長を務めることはできないのだろうが。
「子供は村が育てるもんだろ。そこんとこにあんたらの監督責任があるんじゃないのかい?」
「そうは言われてもな。ああいう人格になったのはあいつ自身の責任だろう。それに、あいつのことはおそらく犯罪奴隷にでもするんだろう? そうすれば一般奴隷よりは格安となるが僅かな金も得られるはずだ。それを慰謝料代わりにするしかないだろ」
ユバの詰問する言葉にも、ゴンの父親はのらりくらりと言葉を返すだけだ。
ユバとしては大事な孫娘の一生を台無しにされかけたのだ。
僅かなはした金を受け取ったところで満足できるはずもなかった。
ゴンの父親がこれほどに腰が据わっていることからすると、最初からゴン達が問題を起こせば嬉々として切り離す心づもりで色々と考えていたのかもしれない。
そう勘ぐってしまわずにはいられなかった。
ゴンの父親の態度に呆れていると、ちらり、とユバがリオに視線を向けてきた。
その視線を受けとめると、リオは小さく頷く。
「あなた方は彼らを交易隊の人員に組み込むことで利益を得ていたはずです。ならば彼らが引き起こした損害についてはそこから補填するのが筋でしょう。利益だけもらっておいて、損害は引き受けないなんて自分勝手な話が通じると思っているんですか?」
「その通りだね」
淡々とした口調で告げるリオ。
それにユバが深く頷いて賛同する。
そう、問題児達を被使用者として用いていた以上、ゴンの父親は彼らが他者に損害を発生させないように監督すべき義務があったはずなのだ。
従業員の出した利益は受け取るが、従業員の出した損害は受け取らないということほど、都合の良い話はない。
現代社会では当たり前の話として通じる理屈だが、この世界で通じるかどうかは不明であった。
「む、だがな……」
どうやらリオの言葉で、ゴンの父親も流石に都合の悪さを感じたようだ。
だが、言葉に詰まりながらも、責任は取りたくないといった空気が伝わってくる。
この場を設けるにあたって、リオは事前にユバと協議し、相手の対応を予測したうえで、こちらが採るべき理屈と行動を決めていた。
ここで納得してもらえないというのなら、これ以上議論を進めても平行線になるだけだろう。
そうなれば強硬手段をチラつかせるしかない。
リオとユバはゴンの父親の言葉の続きを待った。
「こちらとしても村の若い働き手達を失い、今後の村の経営に支障が生じてしまうんだ。同じ被害者として、ここは痛み分けにするべきではないのか?」
ゴンの父親の採った選択肢はそれでも責任を採らないという道だった。
自分のことを被害者呼ばわりするとは片腹痛かった。
とはいえ、今回の件で関与していた若い衆はゴンを含めて五人。
その扱いがどうなるかはまだ不明だが、ゴン以外の者は仮に村に戻ったとしても碌な目に合わないだろう。
良くて村八分が確定した生活が待ち受けているはずだ。
そんな問題児達を抱えておく選択肢を採るくらいなら、ゴンの父親は追放の道を選ぶのだろう。
そうなると村の貴重な労働力が一気に失われることになる。
それは決して少なくない損失であった。
「そうかい。ああ、とりあえず、あんたらの交易隊の出荷品は既にこちらで差押えさせてもらったよ」
そんなゴンの父親に、ユバが今まで残しておいた切り札を切った。
「な、なんだと!? そんなの泥棒じゃないか! ふざけるな!」
その切れ味は抜群だったようで、ゴンの父親は血相を変えて立ち上がり怒鳴った。
「まぁ、待ちな。お互いにとって都合の良い話がある」
「……どんな条件だ?」
意味深なユバの言葉に、ゴンの父親は持ち上げた腰を再び下ろす。
とりあえず話を聞く気はあるようだ。
「まず、ゴンについては犯罪奴隷とさせてもらう。この件について異論はないね?」
「ああ」
その点についてはあらかじめ心の中で承知していたことだ。
問題児とはいえ自分の子ではあるが、犯罪奴隷になるほどの問題を起こした以上はもう見限るしかなかった。
「あんたはあの男達の責任はあいつら自身がとるべきだと思っている。そういうことでいいかい?」
「そうだ……」
「なら話は早い。残りの連中については一般奴隷として売り払えばいいのさ」
ユバの言葉に、ゴンの父親は戸惑ったような表情を浮かべた。
「だが、あいつらは犯罪奴隷になる程の罪を犯したわけでもないし、皆一定の年齢に達しているぞ? 借金以外の理由で成人を奴隷として売るには本人達の同意が必要だろう。いくら覗きをしたとはいえ、そう簡単に同意するとは思えんが……」
「借金ならルリにしてるだろ。慰謝料というね」
「いや、慰謝料じゃ借金奴隷にすることはできないだろう」
何をおかしなことを言っているんだと、ゴンの父親は不思議そうな表情を浮かべて言った。
ある者を借金奴隷とするためには、お金の貸し借りがあったことを証明する証文が必要となる。
だが、慰謝料というのは厳密にはお金の貸し借りではない。
もちろん、加害者の協力があれば慰謝料の支払いをお金の貸し借りだと偽装することはできるが、加害者が被害者のためにわざわざそんな協力をすることは通常ありえない。
そもそも、契約関係にもない者に損害を発生させたところで、慰謝料の支払いを踏み倒すような者がざらにいるのだ。
だから、誰かを傷つけて損害を発生させた場合、慰謝料自体は発生するが、それは絵に描いた餅であって、慰謝料の不支払いを理由に加害者を借金奴隷にすることはできない。
「ふむ、その慰謝料はあんたも負担してるもんだという前提で話を勧めさせてくれ」
「……ああ、前提でな」
「その慰謝料はあんたとあの男達が全員で負担しているもんだ。つまり、あんたが一人でその慰謝料を支払えば、あんたは自分の負担額を除いて全額をあの連中に対して請求することができるようになる」
「まぁ、そうなるな……」
だが、そんな請求をできたとしても、ルリに害を加えようとしたあの男達に支払能力がなければ何の意味もない。
村の次男以下である彼らに大した財産があるはずがなく、慰謝料を支払えと言っても踏み倒されるのが落ちだ。
だから、ゴンの父親は自分達の村が損をしないように必死にあの男達に責任をなすりつけているのだ。
ユバが最初からあの男達に慰謝料の請求せずに、まずは十分な支払能力のある村長であるゴンの父親に対して慰謝料の請求を行っているのもそういった理由があるからだ。
「なら、あんたは自分にも慰謝料を支払うべき義務があることを認めて、それを全額ルリに支払っちまえばいい」
「何を言っているんだ……」
呆れたような声をゴンの父親は出した。
それでは話が振出しに戻ってしまう。
あの男達から回収できる財産が存在しないから、自らの慰謝料の存在を否定しているというのに、その存在を認めるどころか全額支払えとユバは言っているのだ。
その真意がゴンの父親にはまったく理解できなかった。
「そうすればあいつらはあんたに借金ができるだろ? 村長のあんたならあいつらに恩に着せてその証文を作るのも難しくないはずだ。それを上手く使えば簡単にあいつらを借金奴隷にできるさ」
「っ!」
ようやく、ゴンの父親はユバが何を言っているのかを理解した。
今まで、ユバ、ゴンの父、ルリに害を加えようとした者達は三つ巴の関係にあったが、ユバはゴンの父親を交渉相手から協力者に引きずり込もうとしているのだ。
「あんたは交易品を私達に引き渡す。その代わりにあの男達を借金奴隷にしてその代金を回収できる。別に私らが交易品の代わりにその代金を受け取ってもいいけどね。その選択は選ばせてあげるよ。あの馬鹿者共は犠牲になるけど、双方の村に損はないはずだ」
そう、犠牲になるのはルリに害を加えようとした連中だけだ。
彼らのやったことは自業自得ではある。
だが、ゴンの父親は――。
「たかが覗きだぞ……? そこまで……」
と、自分達の村人であった問題児達に対して僅かに良心の呵責を覚えた。
「それは未婚の乙女の貞操を軽く見る発言として受け取っていいのかい?」
「い、いや……」
ユバの迫力に押されて、ゴンの父親の声が上ずる。
「それにあいつらはゴンを止めるどころか積極的に
「むぅ……」
「こっちは大事な孫娘に一生もんの傷を残されそうになったんだ。そう簡単に許すことはできそうにない。この条件を受け入れられないというのなら、交易品はこちらで強制的に引き受けさせてもらうよ。まぁ、そうなると必然的に村同士の抗争に発展しかねないけどね。その判断はあんたに任せるよ」
「それは……」
ゴンの父親は即座に損得を計算した。
王都で売却する出荷品によって得られる利益は翌年の村人全員の生活を支えるものとなる。
それは決して少なくない額の金銭になるだろう。
だが、働き盛りの男四人を一般奴隷として売った金と比較すると、甲乙をつけがたい。
子供ならまだしも、全員が働き盛りの年齢であることを考えれば、かなりの値段で売ることができるはずだ。
犯罪奴隷は終身刑なので奴隷の身分から解放されることは永遠にないが、一般奴隷なら本人の働き次第で奴隷身分から脱出できる可能性も十分にある。
このまま彼らを村から追いだしてもせいぜいが野盗に身を
ならば、彼らの仕出かしたことを考えれば自業自得であるし、むしろ慈悲なのかもしれないと、ゴンの父親は思ってしまった。
「わかった……。なら出荷品についてはそちらに譲渡しよう」
ゴンの父親はルリを害そうとした男達を自らの手で奴隷として売却することを決めた。
そんな彼のことをリオは黙って見つめていた。
そして、ユバ達は確実に慰謝料を回収するために話を進めていった。
☆★☆★☆★
その日の夕方、リオは父と母の墓がある小高い丘へとやって来た。
ここ数日は仕事を終えると毎日のようにここにやって来ている。
そこから眺めることのできる景色は秋の色に彩られていた。
リオは、両親の石柱の前に立って、夕陽が溶けて紅く染まった空を見つめている。
数日前に、リオは我を忘れて激情した。
一晩かけて冷静さを取り戻したものの、自分の中に言葉に言い表せぬ怒りが眠っていることを、その後もリオは強く自覚していた。
それから数日をかけて、リオは自らの心と向き合い続けた。
己の心というものは測り知ることのできないものだ。
リオとしての自分は母の
そして、天川春人としての自分も、リオの母を殺した男のことを許せないという思いを抱いている。
だが、復讐という言葉の意味が重すぎて、今までリオは、いや天川春人はもう一人の自分から逃げ出していた。
その道を選べば決して後戻りをすることができなくなるのではないかと、臆してしまっていた。
その復讐心がなるべく表面に出てこないように、天川春人としての自分はそれをずっと押さえつけてきたのだ。
だが、不謹慎な言い方になってしまうかもしれないが、先日の一件は良い機会だったのかもしれない。
この世界で生きていく決意を新たにするのに、あれ程に相応しい事件はなかったはずだ。
あの事件は母の死を思い出させ、リオの心の闇を深く切り開くものだった。
復讐なんて何も生まない。
復讐を遂げたとしても、その後に残るのは虚しさだけだ。
母を殺されたからといって、復讐を正当化するなんて、悪人を裁く特別な存在にでもなったつもりか。
それじゃあの男達と同じ存在になってしまう。
そんなエゴイストになるのは嫌だ。
それらは今まで春人が並び立ててきた綺麗事だ。
そうやって、臭い物に蓋をするように、春人は自らの復讐心が爆発するのを抑えていた。
もう一人の自分と向き合うこともせず、リオとしての自分を否定してきたのだ。
それをしてしまったら――。
自分の醜さに気づかざるをえないから。
自分の傲慢さを自覚せざるを得ないから。
癒えない傷口を
だから、春人は自分と向き合うことが怖くて仕方がなかった。
そんなことをせずに傷口を舐めたままでいたかった。
それはとても楽で心地良かったから。
怒りのままに、開き直って、自分勝手な人間になることなんてできなかった。
そんなことをすれば母の死を冒涜してしまうような気がした。
リオを産んですぐに夫を亡くして、苦しい生活の中でも自分に愛情を注いでくれた母なら、きっとそんなことはしない。
そんな理由を自分の中で作って、リオは自分から逃げてきたのだ。
ああ、自分は理性的な人間であろう。
決して自制心を失ってしまってはならない。
本能と欲求のままに行動してはいけない。
良い人である必要はないけれど、人に迷惑をかけない人になろう。
みんながそうすれば、きっと世界は上手くいくから。
それはすごく素敵なことだ。
けど、自分一人がそんなことを心がけたって、世界が上手くいくはずもない。
嫌でもそれを実感せざるを得ないくらいに、この世界は残酷だ。
善人に見える人でもシビアな価値観を持っている。
命が軽くて、悪意が満ち溢れている。
本能と欲望のまま、簡単に他人に悪意を向けてくる人間がいる。
他者に悪意をまき散らす者達と対面した時、人間はどこまでも人間とならざるを得ない。
本能と欲求のままに行動せざるを得ないのだ。
それは避けることができない運命だ。
リオも今までにそういった場面に何度か遭遇してきた。
その度にリオは本能と欲求のままに反撃を行い自分の身を守ってきた。
その度にどこか釈然としない後味の悪さを覚えてきた。
きっと、それは、自分も所詮は人間でしかないことに、心のどこかで気づいていたからだ。
突き詰めて言えば復讐心だって本能や欲望の塊である。
それは否定できない事実だが、リオはそれと向き合いたくなかったのだ。
復讐心に対してどこか忌避感を覚えていたのも、自分の醜さから目を背けていただけである。
本能と欲望のままに生きる人間を恨む自分が、本能と欲望のままに生きているなんて――。
ありえないことだった。
それはあってはならないことだった。
だが、あの日の激情の末に、リオはそんな自分の矛盾に嫌でも気づかざるをえなかった。
自分も欲望と本能のままに生きる人間なのだ、と。
それを理解した時、何かうすら寒くて、同時に、憑き物が落ちたような気がした。
今でも理性的な人間であろうと、自制心を強く持とうと、そういった人間であり続けたいとは思う。
しかし、自分もどうしようもなく人間なんだということに気づいた今は――。
己の醜さと向き合わないで、傷を舐めて、偽善者ぶって、そんな生き方をするのは、もう嫌だった。
この世界は残酷で、自分にとって心地良いものだけを選びとって生きていけるほどに、優しい世界ではないのだから。
だから、今後、地獄のような場面に出くわしたって、逃げ出してはいけない。
自分はどこまで行っても人間だから、その時に採るべき行動は必然と決まってくる。
その時、自分の手が汚れるのを
必要なら下手な手加減もしない。
己の醜さから逃げない。
それが独り善がりのエゴだと言われても、そうしよう。
どんな罪も、どんな地獄だって、背負ってみせる。
もう逃げない。
もう正当化なんてしない。
とりあえずここでの用事が済んだらシュトラール地方に戻ってみようと思った。
あの男が死んでいたら死んでいたでかまわない。
だが、もし生きているというのなら、罪を償わせる。
いい加減、前に進もう。
これは決別だ。
弱かったかつての自分との。
それが自分で決めた心からの望みだと、今なら胸を張って言える。
そう思い定めて、かつての無力さを、かつての悔しさを、この日、リオは決意へと変えた。