閑話 ラティーファの軌跡 その六
精霊祭の翌日。
この日は、ラティーファとしての私、遠藤涼音としての私、そのどちらにとっても大きな意味を持つ日になりました。
私はこれから先ずっとこの日を大切にし続けることでしょう。
今から順を追ってその理由を語ります。
まず、お兄ちゃんの旅立ちを見送ることを決意し、私はもうお兄ちゃんに依存しないことを決めました。
けど、妹として甘えるのは話が別です。
だって、お兄ちゃんは私を妹だって認めてくれたんですから。
それくらいは妹の特権のはずです。
というわけで、妹としての我儘権を行使し、私はお兄ちゃんの前世について尋ねてみました。
そうすればもっとお兄ちゃんを好きになれる。
そして、お兄ちゃんがいない間も、お兄ちゃんのことをすぐ傍に感じていられる。
そう思ったんです。
すると、お兄ちゃんは私に前世の話を教えてくれ、幼少期から大学生になるまでの色々な話を聞きました。
そんなお兄ちゃんの前世にはキーパーソンになる一人の人物がいます。
お兄ちゃんの幼馴染である少女です。
その人がお兄ちゃんにとってどれだけ大きい存在か、私は嫌というほどに実感させられました。
正直、私はその人のことが羨ましくて仕方がありません。
だって、間違いなく、今も、お兄ちゃんはその人のことを想っているんです。
前世と今世、両方合わせれば少なくとも二十年以上も、お兄ちゃんの心の中にはその人がずっと存在し続けているんです。
同じ人物のことを二十年以上も片想いし続ける。
お兄ちゃんはとても一途な人間だと思います。
その人との幼少期の思い出を大切にして――。
何年も、何十年も、ずっと会えなかったのに――。
もう会えるかどうかもわからないのに――。
それでも、ずっと、ずっと、今でも、その人のことを想い続けているんです。
そんなお兄ちゃんの気持ちを、恋とか、憧れとか、未練とか、そういった言葉で言い表すことはできないように思いました。
そのことを知って、私はお兄ちゃんを振り向かせることができるんでしょうか。
それでもお兄ちゃんを振り向かせようと、思えるんでしょうか。
少し、自分の気持ちと見つめ合ってみる必要があると、私は考えました。
まず、私の初恋は間違いなく前世にバスの中で私を助けてくれたお兄さんです。
でも、今の私にとっては、あのお兄さんよりも、お兄ちゃんの方が大事な存在です。
私はお兄ちゃんに自らの生涯を捧げると決めたんです。
それくらいにお兄ちゃんに対する私の想いは強いんです。
ところで、初恋のお兄さんに対する私の気持ちは憧れから来るものです。
その一方で、私にとって、お兄ちゃんは、憧れの対象なんかじゃなくて、そこに存在するだけで、たったそれだけで、安心感を与えてくれる人です。
そんな私の想いならば、お兄ちゃんを振り向かせる資格として十分でしょうか。
それとも諦めなければいけないのかな。
それで私は諦められるの?
……嫌だ。
そんなのは嫌です。
この想いが報われなくたっていいです。
お兄ちゃんが他の人のことを好きになっても、嫌だけどかまいません。
でも、それでも、できることならば――。
私はお兄ちゃんが許してくれる限り、ずっと傍にいたいです。
それで、きっと、いつか、私はお兄ちゃんを振り向かせてみせたい。
お兄ちゃんが旅をしている間は離ればなれになるけど、心は常にお兄ちゃんと一緒にあるんだって、今なら言えます。
だから、お兄ちゃんがいつでも帰って来られる場所であろうと、私は思うんです。
でも、この話にはまだ続きがあって――。
それを奇跡と言えばいいんでしょうか。
それとも、それを運命と言えばいいんでしょうか。
「その、お兄ちゃんはどうして死んじゃったの?」
きっかけは私が投げかけた、ちょっと聞きにくい、そんな質問でした。
「大学から家に帰る間に乗っていたバスに事故が起きたみたいだ。一瞬で意識を失って、気がついたらこの世界で孤児として生きていたよ」
すると、まるでそんな過去がとるに足らない出来事だったと言わんばかりに、お兄ちゃんは僅かに苦笑を浮かべて言いました。
他方で、私は少しだけ呆気にとられていました。
「えっと、私も乗っていたバスが交通事故を起こして死んじゃったみたいなんだ、よね」
そう、私もお兄ちゃんと同じで乗っていたバスが事故を起こして死んだのです。
それにお兄ちゃんは私と同じで前世は東京に住んでいました。
も、もしかして――。
その時、ドクン、と、私の鼓動が高鳴りました。
「そうなのか? そういえばラティーファも東京に住んでいたと言っていたな……」
どうやらお兄ちゃんも不思議に思ったみたいです。
「……たぶん同じバスに乗っていたんだろうな。だとしたらあの子は……」
すると、私とお兄ちゃんが同じバスに乗っていて、同じ事故で死んだ可能性が非常に高いということがわかりました。
何やらブツブツとお兄ちゃんは呟いていますが、今の私はそんな言葉は耳に入ってきません。
だって、前世で、私達は同じバスに乗っていたということは――。
あの時、私が乗っていたバスに男の人は運転手さん以外に一人しかいなくて――。
でも、お兄ちゃんは大学生だから――。
それはつまり――。
ど、どうしたらいいんでしょうか。
それを理解した時、私の頭の中は真っ白になってしまいました。
さっき自分の中で考えをまとめて答えを導き出したばかりなのに、お兄ちゃんが私の初恋のお兄さんだったなんて、そんなことを知ってしまったら――。
急に胸がドキドキし始めました。
お兄ちゃんのことを想うと胸が安らぐのは間違いありません。
けど、同時に、お兄ちゃんのことを想うと、すごく恥ずかしくて、顔が真っ赤になってしまいそうです。
今はとてもお兄ちゃんの顔を正面から見ることなんてできそうにありません。
お兄ちゃんに私を一人の女として見てもらいたいという気持ちが、急速に強まっているのがわかります。
この気持ちの正体は何なんでしょうか。
お兄ちゃんがお兄さんだとわかるまでは、そんな承認欲求は抑えられたのに、この想いが報われなくても、お兄ちゃんに尽くそうと思っていたのに――。
今は、胸の鼓動を抑えきれなくて、お兄ちゃんのことを強く焦がれています。
先ほどまで私の中で占めていたお兄ちゃんに対する感情の大半が愛情だというのなら、今は恋愛感情という感情も同じくらいに強くなっています。
私は本当に単純で現金な人間です。
お兄ちゃんに対する想いとお兄さんに対する想い。
その二つが混ざり合って、私はそれまで以上にお兄ちゃんのことを好きになってしまったのです。
それはお兄さんが転生して生きていると知ってしまったから?
それともお兄ちゃんがあのお兄さんだったから?
仮にあのお兄さんがお兄ちゃん以外の人として転生していて、今後ほかの場所で、そのお兄さんが現れたとしたら、私はその人のことをどんな風に想うのでしょうか。
そんなことを考えたけど、すぐのそんな仮定の話は無意味だと気がつきました。
だって、そんなことを考えなくても、お兄さんはお兄ちゃんとして、私のことを助けてくれました。
深く考える必要なんてないんです。
結局、私を助けてくれたお兄ちゃんはあのお兄さんで、私が好きになったお兄ちゃんもあのお兄さんなのですから。
つまり、私は同じ人を二回も好きになったということです。
一人に対して二人分の気持ちを抱くことができる人なんてまずいません。
それは、とっても贅沢で、とっても幸せなことだって、思うんです。
姿形は違うけど、二人は同一の存在で――。
お互いに生まれ変わっても、お兄ちゃんの容姿が変わっていても、私はお兄ちゃんのことを好きになる運命だったのでしょう。
私がお兄ちゃんのことを好きになるのは必然だったんです。
だから、そこに野暮な仮定の話を入れるなんて無意味なことです。
「あのね、お兄ちゃん……」
私はお兄ちゃんに伝えることにしました。
私が前世でもお兄ちゃんに助けてもらったことがあることを。
そのことを伝えると、お兄ちゃんは優しく微笑んでくれて、私の頭を撫でてくれました。
ちなみに、私がお兄ちゃんのことを愛していることは、伝えるまでもなくわかっているだろうから、言いません。
そして、私がお兄ちゃんに恋をしていることも話しません。
今はまだまだ私なんかじゃお兄ちゃんに釣り合わないんです。
だから、お兄ちゃんが振り向いてくれるように、今は精いっぱい努力し続けなければいけない時です。
そうして、いつか、お兄ちゃんを振り向かせて見せよう。
そう、思いました。
そんなわけで、なにはともあれ、精霊祭の翌日、この日が私にとってどれだけ大切な日になったかは、これまでの話でわかっていただけたかと思います。
その後も、たくさんお話をして、お家に帰ると、アースラさんに何があったのかを軽く伝えました。
すると、アースラさんはすごく感謝したようで、お兄ちゃんを拝むように礼を告げました。
この時、その理由を私はいまいち把握しかねていました。
たしかにアースラさんは私を実の孫のように可愛がってくれます。
ですが、その時のアースラさんの様子は、それだけじゃ理由が説明できないくらいに、強く温かい感情を見せていたんです。
そして、それから何日かが経過して、私はその理由を知るに至りました。
なんと、アースラさんは私のお母さんのお婆ちゃんだったのです。
つまり、私にとっては曾お婆ちゃんということになります。
その話を聞いて、お母さん以外にもちゃんと肉親がいたんだと、私のことを心から心配してくれる人がいるんだと気づけて、私はとても嬉しくなって、思わず泣いてしまいました。
それから私はアースラさんのことをアースラお婆ちゃんと呼ぶことにしました。
お兄ちゃん、アースラお婆ちゃん、お姉ちゃん達、それに友達のみんな。
私の周りには私のことを想ってくれる人がたくさんいます。
そんな人達に囲まれて過ごす日々はとても楽しくて、あっという間に過ぎ去っていきました。
お兄ちゃん、お姉ちゃん達、それに私の友達みんなと一緒にピクニックに行ったり。
精霊の民の戦士のみんなと一緒にお兄ちゃんから武術を習ったり。
お兄ちゃんの料理教室に来る人達が増えすぎて授業の回数が増えたり。
何やらアルスラン君がお兄ちゃんにライバル宣言をしたり。
私とお兄ちゃんにとって二回目の精霊祭があったり。
その後の宴会で去年と同じように酔いつぶれたり。
その次の日には一日中お兄ちゃんに甘えたり。
本当にいろんなことがあって――。
そして、遂に、お兄ちゃんが里を出る日がやってきました。
私は寂しかったけど。
それでも、きちんと笑顔で見送ることができました。
行ってらっしゃい、って。
ちなみに、里を出るにあたって、お兄ちゃんは精霊の民の里の長老様達から色々と援助をしてもらっていたようです。
なにやら、すごい霊具をもらったり、すごい武具をもらったり、すごい量の薬や食料をもらったり、ずいぶんと盛りだくさんだったようで、お兄ちゃんはかなり恐縮していました。
里を出発する時も多くの精霊の民の人達がお兄ちゃんを見送りに来ました。
この里に来たばかりの頃は色々と誤解されていたけど、今ではお兄ちゃんもこの里の立派な一員なんだと、そう実感させてくれる光景でした。
だから、お兄ちゃん。
いつでもここに帰って来てください。
私は、ううん、私だけじゃなく、みんなが、ここでお兄ちゃんの帰りを待っていますから。
行ってらっしゃい。
「行っちゃった……」
飛び去っていくお兄ちゃんの姿が見えなくなると、私は呆然と呟きました。
心の覚悟はできていても、寂しくないというわけじゃありません。
お兄ちゃんはどれくらいしたら帰って来るんだろうか。
今からもうお兄ちゃんが帰って来たことを考えてしまって、思わず私の目から涙が出てしまいました。
「盟友としての援助とは別に、儂個人からリオ殿に贈り物を渡しておいた。リオ殿とラティーファのためにな」
そんな私に、隣にいたアースラお婆ちゃんが優しく語りかけてきました。
「お兄ちゃんと私のため?」
アースラお婆ちゃんを見上げて私が尋ねます。
いったい何でしょうか。
「転移結晶という霊具じゃ。それを使えば帰りはこの里に一瞬で戻ってくることができるというすごい品なんじゃぞ」
なんと、アースラお婆ちゃんは、お兄ちゃんに、一瞬で空間を繋げる霊具を渡していたようです。
すごい!
それなら毎日それを使ってここに帰って来れるんじゃないでしょうか。
そんなことを思って尋ねてみると、どうやらそんなに都合の良い道具ではないみたいでした。
それを使うにはまず帰還地点となる原点座標を決めなければなりません。
原点座標を決めた後は、転移結晶を使えば、所持者がいる現在座標から原点座標へと空間を繋げることができるんだとか。
ですが、その逆はできません。
一度原点座標に帰って来て、扉が閉まってしまったら、元の場所に戻るにはまた普通に移動して行かなければならないそうです。
それに、移動する距離によっては、転移結晶の中に内包されているオドが大量に消費されてしまうみたいです。
それでも、オドを補充すれば何度も使えるし、すごい道具であることに変わりはありません。
どうやらすごく貴重な霊具みたいで、そんなに大量に生産できる品ではないみたいです。
お兄ちゃんに渡した転移結晶の原点座標はこの里に設定してあるんだそうです。
これで帰り道分の時間だけお兄ちゃんと早く会えることになります。
ありがとう、アースラお婆ちゃん。
再び、私は再びお兄ちゃんが消えていった空を見上げました。
次に会える時までに成長した私を見てもらおう。
そう、決意して。