閑話 ラティーファの軌跡 その四
つい先日から、精霊の民の里での私の生活が始まりました。
何やらお兄ちゃんはアースラというお婆ちゃんから精霊術について学ぶそうです。
その間に、私は、精霊の民として学ばなければいけないことを、サラお姉ちゃん達から教わることになりました。
お兄ちゃんと一緒にいられる時間は減るけど、それが私のためになるらしいです。
お兄ちゃんの言うことなら素直に従おうと思います。
今までお兄ちゃんの言う通りにして間違ったことはないもん。
けど、毎日のように朝から夕方まで続くお勉強に少し飽き飽きとしてきました。
ああ、もっとお兄ちゃんに会いたい。
「ねぇ、サラお姉ちゃん。お兄ちゃんに会いに行ってきてもいい?」
そんな私の想いが思わず口から漏れてしまいました。
「ダメです。ラティーファは今私達の言葉を学んでいるんですから」
その願いをサラお姉ちゃんがバッサリと切ります。
むぅ、いじわる。
サラお姉ちゃんは優しいけど厳しい人です。
スパルタの先生みたいに私を叱咤激励してくれます。
仕方ないので、この時はもう少しだけ頑張ってみることにしました。
夜になればお兄ちゃんと一緒に寝られるからね。
今の私はお兄ちゃんが泊まっている部屋で一緒に寝ています。
サラお姉ちゃん達は同年代の異性が一緒に寝るのは良くないって渋っていたけど、私が頑なに譲らなかったら折れてくれました。
この里でもかなり偉いアースラさんのお墨付きで許可ももらっています。
「そもそも精霊というのはですね――」
今はアルマお姉ちゃんの授業です。
アルマお姉ちゃんが精霊とは何なのかについて私に教えてくれました。
アルマお姉ちゃんの説明は筋道が立っていてすごくわかりやすいです。
難点を言うのならば話が小難しくなりやすいということでしょうか。
そういう話は聞いていて眠くなります。
寝るとサラお姉ちゃんに怒られるけど。
それはそうと、精霊の民というだけあって、精霊は特別な存在のようです。
精霊というのは自然を司る存在で、精霊の民達が信仰する神様みたいなものなんだとか。
だけど、地球の神様みたいな存在ではなくて、ちゃんと生きているみたいです。
普段は霊体化してあまり姿を現さない精霊が多いみたいだけど、中には実体化して人前に姿を現したり、力を貸してくれたりする精霊もいるみたいです。
特に個人と結びついて力を貸してくれる存在を契約精霊というみたいで、契約精霊を宿す人は精霊の民の中でもすごく少ないそうです。
なんでも精霊は人の心を読み取る力があるみたいで、本当に清い心と魂を持つ者とのみ契約するみたいです。
サラお姉ちゃん達は三人とも契約精霊を宿しているみたいです。
普段は霊体化してお姉ちゃん達の中で眠っているらしいけど、特別にその姿を見せてもらいました。
普通の動物の姿なんだけど、すごく幻想的で思わず見惚れてしまいました。
サラお姉ちゃんは狼、オーフィアお姉ちゃんは鷲、アルマお姉ちゃんはサイの姿をした精霊でした。
それぞれ中位精霊で、契約精霊としてはほぼ最高峰に位置する存在です。
精霊には下位精霊から高位精霊まで階級があるみたいだけど、今確認されている精霊は準高位精霊が最高位で、高位精霊はお留守番みたいです。
お姉ちゃん達の精霊は言葉を喋れないみたいですけど、準高位精霊以上にもなるとお話ができるんだとか。
でも、話はできなくても、私の心は全部お見通しなんだよね……。
つまり、私のお兄ちゃんに対する想いは、すべて精霊には知られているということです。
そう考えると私も精霊の凄さを実感しました。
うん、私も精霊の民に近づけたってことなのかな。
精霊を敬い、仲間を大切にし、欲に負けずに、己を律して生きる。
そういう人達の集まりが精霊の民みたいです。
特に、欲に駆られて自制心を見失うことは、精霊の民の中では最も恥ずべき行為であるそうです。
だから、私も精霊の民だから自制心を持って生きなさいと、サラお姉ちゃんから教えられました。
だけど、私はお兄ちゃんのことになると自制できる気はしません。
逆に人間族は自制心があまりない種族らしいけど、私がお兄ちゃんに関して自制できないのは元が人間だから?
ラティーファとしての私の気持ちと、涼音としての私の気持ちは別物なんだろうか。
姿は獣人でも、心は人間と獣人の混ざりもの。
それは私だけが知っている秘密です。
それを誰かに教えたことはいまだかつてありません。
そう、お兄ちゃんにも私が元々日本人であったことは教えていないんです。
そんなことを言ったら頭の変な子だと思われるんじゃないか。
お兄ちゃんには私のすべてを知ってほしいけど、そのことだけは言うのが怖いです。
それでも、いつか、いつかお兄ちゃんにはこのことを伝えたい。
この気持ちも自制しないといけないんだろうか。
私はよくわからなくなってしまいました。
だから、私は、オーフィアお姉ちゃんに、自制心とやらについて尋ねてみることにしました
「たしかに精霊の民は自制心を大事にするけど、それはまったくの無欲というわけじゃないんだよ」
自制心というのは何でもかんでも欲求を我慢することを意味するわけではなくて、他者との衝突を調整するために各人が備えていなければならない弁えなんだそうです。
お腹が減ったからご飯を食べる。
眠いから眠る。
生きているんだから、そういった欲求があるのは当たり前です。
だけど、そういった欲求から争いを生じさせてはならない。
それは結局お互いの利益を生むどころか害悪しかもたらさない。
それほど無益なことはないないんだそうです。
だから、自分の欲と向き合っていくうちに自制心を獲得しなければならない。
里の中でも、子供達が色々と欲求に従って行動するけど、大人達も最初のうちは好き勝手にやらせるそうです。
けど、そうすると、やがて必然的に他の子供との間で争いが発生することになります。
そうした時に自制心の意味について大人達が教えるんだとか。
いつまでたっても欲求に逆らえないで、他者と争いを繰り広げてばかりの人は、未熟者扱いされて里の中では重用されないようです。
自制心の意味を理解し、他者を尊重できるようになって、ようやく一人前の精霊の民になれるんだそうです。
そして、そういった自制心がないゆえに、過去に取り返しのつかない戦争を引き起こしてきたのが、人間族らしいです。
そのせいか、里の中では、欲に駆られて失敗したエピソードとして、人間族に関する逸話が多いです。
でも、どうなんだろう。
たしかに、人間族は自制心のない人がいると思う。
私を奴隷として扱っていたあの家の人間達はそういった自制心とは無縁だった。
でも、人間の中にも自制心のある人はいると思う。
だって、お兄ちゃんは自制心の塊みたいな人だもん。
お兄ちゃんが欲に負けて誰かと争う姿は私にはとても想像できない。
「もちろんすべての人間族がそうだと言うことはできないよ。私もリオ様はすごく素敵な人だと思うもん」
そう言うオーフィアお姉ちゃんを私はじっと見つめました。
もしかしてオーフィアお姉ちゃんもお兄ちゃんのことが好き?
いや、今のところそういった感じではなさそうです。
優れた自制心を持つ者を敬うのが精霊の民という人達です。
オーフィアお姉ちゃんはそれを地で行っているんでしょう。
なんていうかオーフィアお姉ちゃんは天然なようだけど、実はすごくしっかりしているんじゃないだろうか。
お母さんみたいな包容力のある優しさがあって、すべてを導いてくれる気がします。
もちろんサラお姉ちゃんやアルマお姉ちゃんがそうでないというわけじゃないけど、ほんわかとした普段のオーフィアお姉ちゃんの雰囲気とのギャップのせいでしょうか。
それはそうと、私がお兄ちゃんのことを好きっていうこの気持ちは自制心で我慢しなくてもいいってことだと、この時の私は単純に考えてしまいました。
そう、この時、私はまだまだお兄ちゃんの気持ちについて考えられるほどの余裕はありませんでした。
それを理解することができたのはもう少し先のお話で、それができたのもやっぱりお兄ちゃんのおかげだったんだけど、お兄ちゃんはお兄ちゃん、そのことだけに間違いはなかったことだけは確かです。
こうして私が色んなことをお姉ちゃん達から学んでいるうちに、あっという間に半年以上の時間が過ぎてしまいました。
お兄ちゃんはお兄ちゃんで最長老の方々から色々と教えてもらっているようで、日中に私と会う時間はありませんが、夜になればたくさん話すことができます。
今、私とお兄ちゃんはアースラさんの家で暮らしています。
アースラさんは娘さんの夫婦と一緒に暮らしていて、孫の女の子がいたけど既に亡くなってしまったそうです。
同じ狐獣人のおかげか、アースラさん達は私のことを特別に可愛がってくれます。
最近ではお兄ちゃんじゃなくてアースラさん達と一緒に寝ることもあります。
なんか前世でお爺ちゃんやお婆ちゃんの家に泊まりに行った時のことを思い出して、少しだけワクワクしてしまったり。
ああ、私、この里に来られて良かったな。
本当にお兄ちゃんの言った通りでした。
ある日、お姉ちゃん達に用事があって勉強がお休みの日がありました。
「あ、ラティーファちゃんなのです!」
邪魔しちゃいけないけど、お兄ちゃんのいるところへ見学しに行こうと外を歩いていると、私と同い年の少女が話しかけてきました。
ベラちゃんという狼獣人の少女で、サラお姉ちゃんの妹です。
「おう、ラティーファも一緒に遊ぼうぜ」
すると、アルスラン君という獅子獣人の少年も私に話しかけてきました。
彼らはこの里の中でできた私の友達で、私と一緒にお勉強をしている子供です。
そう、里の中でお勉強をしている子供は私だけではありません。
里の中では子供達に勉強を教えるのは少し年上の賢い子供達と決まっています。
そうやって身近な年の近い子に教えることで、教えを浸透させていくんだとか。
お姉ちゃん達は里の重役の子供達であることもあり、すごく頭が良くて、多くの子供達に勉強を教えていたります。
今までは個別で勉強を習っていた私ですが、最近になってようやく一部の授業だけですが、集団講義の方に混じることができるようになりました。
そこで私はたくさんの友達を作ったのです。
アルスラン君はその中でもガキ大将といったポジションにいる子です。
ベラちゃんは、やや堅物のサラお姉ちゃんと違って、天真爛漫な性格をしている子です。
二人とも私に積極的に仲良くしてくれるすごく良い子達です。
「ごめんね。今からお兄ちゃんのところへ行かないといけないんだ」
みんなと一緒に遊ぶのは魅力的だけど、今日は久々に日中からお兄ちゃんと会えるチャンスです。
だから私はアルスラン君のお誘いを断ることにしました。
「えぇ、お兄ちゃんって人間族の男だろ……」
と、アルスラン君はどこか不満そうに言いました。
「そうだけど。それが何?」
そう言う私の口調は少しきつくなってしまったかもしれません。
欲望のままに人間族が繰り広げてきた争い、人間族が私達に対してしてきたこと、そういった過去の歴史もあって、精霊の民の人間族に対する不信感は強いです。
視野の広い長老クラスの人達でもそういった不信感は抱いているし、ましてや今は未熟な若い世代はなおさらそういう不信感が強いです。
サラお姉ちゃん達はお兄ちゃんに対してあまり偏見を抱いていないみたいだけど、そういう人はごく一部の例外です。
だから、お兄ちゃんが里の中で暮らしている情報は一般に知れ渡っているけど、接触は避けるように通達が行き渡っていたりします。
私自身が人間族に奴隷扱いされてきたこともあるし、人間族に対して過去の歴史も聞いたから、そういった不信感も理解できます。
でも、それを理由にお兄ちゃんに対して不信感を抱くのは止めて欲しいというのが私の気持ちです。
「いや、だったら俺らと遊ぼうぜって話。せっかく今日は休みなんだからさ」
と、どこか困ったようにアルスラン君が言います。
「う~ん。じゃあとりあえず先にお兄ちゃんのところに行ってくるね。邪魔しちゃいけないからすぐ帰って来るし、そしたら遊んでくれる?」
そこで私は折衷案を出すことにしました。
「うーん、わかった! そこの広場にみんなでいるから早く戻って来いよ!」
アルスラン君はその案を受け入れてくれたようです。
ベラちゃんと一緒に広場に向かって走っていきました。
今はこれでいいけど、いつかお兄ちゃんが精霊の民の人達に受け入れられるといいな。
みんな悪い人達じゃないからきっと触れ合えればわかると思うから。
そうすればお兄ちゃんもずっとこの里で暮らすことができます。
いつかお兄ちゃんはこの里から立ち去ってしまうんでしょうか。
それを考えると胸が締めつけられるように切なくなります。
お兄ちゃんがずっとこの里に住めるように、何かお兄ちゃんが精霊の民の人達に受け入れられる方法はないでしょうか。
……そうだ。
みんながお兄ちゃんの料理を食べれば考えも変わるんじゃないだろうか。
お兄ちゃんが作る料理はどれも美味しい。
里の料理も美味しいけど、お兄ちゃんが作る料理はどれもこの里にはないものばかりだ。
アースラさんの家に暮らすようになってからお兄ちゃんが作った料理はアースラさん達にもすごく好評だ。
その料理を皆に食べてもらえたら?
それはとても素敵なことじゃないだろうか。
名案とばかりに思いついた私は、まずは身近な人達から、お兄ちゃんの料理を食べてもらうことを計画したのでした。
そして、後日、アースラさんの了承と協力を得て、私はお姉ちゃん達をアースラさんの家に招待しました。
それとウズマさんも来ています。
ウズマさんはお兄ちゃんに対して苦手意識を持っていたようですが、先日、お兄ちゃんと模擬戦をしたことで何か感じるところがあったようで、急激にお兄ちゃんのことを尊敬するようになった節があります。
ウズマさんは、まだ若いのに、里の戦士団の一つで戦士長を務める凄腕の戦士さんです。
性格は少し不器用だけど真っ直ぐですごく優しい人です。
そんなウズマさんならお兄ちゃんの力強い味方になってくれると思うんです。
料理は私が我儘を言ってお兄ちゃんに作ってもらうようにお願いしました。
お姉ちゃん達が来るタイミングに合わせてお兄ちゃんが料理を作ります。
居間のソファーに座ってみんなで歓談していると、出来立ての御馳走の数々が机に運ばれてきました。
その料理を見てみんな目を丸くしています。
ふふふ、驚くのはまだ早いです。
お兄ちゃんの料理は見た目だけでなく味も最高なんですから。
案の定、お兄ちゃんの料理を食べると、みんなそれを大絶賛しました。
当たり前です。
お兄ちゃんは私のリクエストに応えて、前世で私が食べていた美味しい料理の数々を再現してくれるんですから。
地球で暮らす人間が長い歴史をかけて発展させてきた料理の味付けが美味しくないわけがありません。
しかもそれを作るのはお兄ちゃんです。
それから週一くらいのペースでみんなを呼んで、お兄ちゃんの料理に夢中になってもらい、ずるずると私の陣営に引きずり込みました。
そして、頃合いになると、私はお兄ちゃんに料理教室を開けばどうかと提案してみました。
里の重役にその娘達と、既に根回しは済んでいます。
後はお兄ちゃんがやると言ってくれれば、すぐにでも料理教室を開催することが出来るでしょう。
すると、お兄ちゃんは料理教室を開くことを承諾してくれました。
そして、素早くアースラさんが動いて、あれよあれよという間に、お兄ちゃんの料理教室が開催されることになりました。
第一回目は里の上層部に夫を持つ婦人とその娘達だけに向けて開催されることになりましたが、それでも参加人数は大勢います。
最初はオムライスを教えることにしたみたいです。
お兄ちゃんの作るオムライスは半熟玉子の洋食屋さんで食べるような本格的なものです。
あれならきっとみんなも気に入ってくれるでしょう。
教室が始まると、みんなお兄ちゃんの話を真剣に聞き始めました。
まずはその手慣れた手付きで女性達を感心させます。
そして未知のレシピとその芳しい香りで関心を引きます。
最後に出来あがったオムライスを食べればミッションコンプリートです。
食べられる量は一人一口だけでしたが、それが未練を呼び、かえって効果的なようです。
今度は私達が自力で作ることになりましたが、みんなが美味しく作ろうと積極的にお兄ちゃんに話しかけていきます。
その質問に一つ一つ丁寧に答えるお兄ちゃんの姿はすごく好印象に映ったようです。
「ラティーファちゃんのお兄様はすごいのです!」
私の隣にいるベラちゃんもお兄ちゃんのことをキラキラとした目で見ています。
オムライスを作った後、颯爽と帰ろうとしたお兄ちゃんを引き留めて、私達の場所に呼びます。
「えへへ、ベラちゃん、お兄ちゃんの料理は美味しいって言ったでしょ」
はしゃぎながらオムライスを食べるベラちゃんに私は言うと、ベラちゃんは満面の笑みで肯定してくれました。
周囲に視線を移すと、この場にいる女の子達はみんなお兄ちゃんに興味を持ってくれているようで、どうやらお兄ちゃんに契約精霊がいるのもずいぶんと大きいみたいです。
精霊と契約できるということは清い心を持っていることの証明みたいなものですからね。
サラお姉ちゃん達がお兄ちゃんにどんな印象を抱いているのかを、アーニャさんが語ってくれたのも興味深かったです。
「ラティーファの兄ちゃんに教えてもらった料理を母ちゃんが作ってくれたけどすっげー美味かったぜ! お前の兄ちゃんすごいな!」
後日、アルスラン君がそんなことを言ってくれました。
今、私は、最高に、幸せです。